「私の世界」と「アタシの世界」の違い。

mimisemi2009-08-30

あ、んでね、うんことかさ、しっことかパンティとかパンストとかなんでもいいんだけど、持ち主なりさ、出力主が美人だったら興奮するなって完全にイデアルだよね。まぁ当たり前なんだが、分泌物とかに差はないじゃん?しっこはしっこでさ、別にまぁ実質、美人のしっこもぶさいくのしっこも同じなんだけど、美人のしっこのほうが興奮するのはそれがイデアルに交流しているからだよね。美人のしっこが濃かったらとか臭かったらとか、別にまぁ美人とかって関係ないからね。違いは顔の形で内容は尿だから美人の尿もブサイクの尿も同じだわな。焼死体とかを見れば分かるけど形なんて脆いもんだよね。一瞬でなくなっちゃうっつーかさ、美人の腐乱死体って意味ないじゃん?ブロンドが緑色になって腐ってるのを見た事あるっつーかまぁ写真だけどさ、まぁ別に元が美人だろうがなんだろうが変わらないよね。死体は死体だよねってことでなんつーか死がまぁ人間にとっての平等なものの究極系だと言うけど、まぁそれで言うと、まぁしっことかうんことかのまぁ人間の諸機能とかさ、体臭とかにしたってそうだけど、まぁ基本的に平等だよね。まぁ俺の経験で言うと豚みたいな性格の悪い女って臭かったりするから内面とかが諸機能をもコントロールしてるのか?とかって思ったりするけどさ、まぁ人相はあるよね。


美人で人相が良くて性格が良くて頭が良くてスポーツ万能の女性のパンティに興奮するっつーのはまぁイデアルだよね。ブサイクにしてもブサ専とかになるとブサイクのそういうのに興奮するわけじゃん?ってことはあれだね、人間はやっぱり脳が知覚したものにしか反応しないってことだね。カントとかもそうだし、ヴィトケンシュタインがデカルト的な自我論で「世界は私の世界である」って言ったのもそういうことだね。「私の理解する唯一の言語の限界が私の限界を規定する」っつーのもようは「私」が使う言語だよね。俺が考える「言語」という言葉っつーかワードのイメージとか雰囲気ってのは俺しか知らないわけだし、逆を言えば、俺が考える言語のイメージってのは他人には分からないよね。その俺と言語との関係性がつまりは世界を規定するというわけで、世界とのあり方とか繋がり方とか他者にしてもそうだけど、基本的に言語を介するので、その「言語」が「私の世界」を規定するのはまぁ必然的でさ、ヴィトケンシュタインが言っていたことってかなり自明なことなんだけど、またデカルトみたいな感じでさ「それにしてもよく思いついたよな」ってことだよね。


なんで俺が特定のフェチを持っているのか?って同じフェティストにしか理解できないのかもしれないけど、でもフェティスト同士でも完全なフェティシスティックな感覚の共有は無理だろう。そうなるとまぁ電脳っことになるんだよね。いつもの話になっちゃうけど。なんでそいつがブサイクのパンツで興奮するのか?ってそいつにしか分からないけど、でもまぁそういう変なやつらもいるってことで類型には分けられるにしても、やはりそいつが感じている性のツボというのはそいつにしか分からないし、他のやつでブサイクのパンティに興奮してるやつがいても微妙にツボとか興奮どころは違うかもしれないよね。これこそがまさしくヴィトケンシュタイン的なパラダイムだね。自分がフェティストであるということは自らを示すことでしかフェシスト足り得ない。語られずに示すのみ。オナニーとか興奮とかっていうことによって示されることで顕在するフェティストの姿だよね。これこそがまぁ独我論の極みだね。


話を引っ張るようであれなんだけど、まぁもう誰とは言わないけど、まぁ相手の立場に考えてものを考えられない人は困ったもんだって書いたけど、ようはこれのコアの部分もさ、フェティストで言えばまぁなかなか理解しづらいものもあるにせよ「こいつはこれで興奮するんだな」っていうのがまぁ理解じゃない?アクセプトはまた違うけどさ、そこで「お前は変態だ!」って言うのはさ、自分の性の基準で照らし合わせているから変態だ!って言えるのであってさ、性には多様性があるわけだから、そいつの基準だけで全てにジャッジを下すことなんて出来ないわけよ。


生き方然り。「普通はこうする」だの「あーする」だのミニにタコだけどさ、それはそいつが考える「普通」であったり、まぁドクトリンとして学校とか家庭とかメディアによって植え付けられたただのイメージじゃん?普通というイメージ。これが基準だなんて誰が言えるの?って話でしょ?俺は俺、あなたはあなたで人生やってくださいって話でしょ?なんで他人から「こうじゃなきゃいけない」って言われなきゃいけないのかさっぱり分からんよね。いや、前の話を引きずってるんじゃなくて、まぁああいう人はいくらでもいるしさ、あれが最初じゃないからね、まぁ一般的な話を今はしてるんだけどさ、こういう「普通」っつー感覚で全てをノーマライズするって全体主義だよね。不思議なことにさ、人間が長い歴史的な闘争の末に得た自由っつーのをさ、自ら手放してると同時に自由に生きる人を批判するってどうなの?って話だよね。


そっちはそっちで勝手にやってくれって話でさ、こっちが干渉される話じゃないじゃん?こういうことを言う人の特徴はね、ヴィトケンシュタイン的な洗練された独我論ではなくて、ダメな意味での自分が世界の中心っつー独我論なのね。自分の感覚が普通だと思っているっつーかさ、自分の考えとか感覚でしか物事を考えられないから、それ自体がその人の限界を規定しているのは言わずもがなだけど、こういう人の場合、無自覚的で自己中って意味での独我論だから最悪なんだよね。「世界が私の世界」というヴィトケンシュタインのテーゼと似ているようで大きく異なるのはさ、言葉で言えば「世界はアタシの世界」みたいな感じだよね。エゴイスティックにその人間の感覚でしか物事を捉えられない。いや、実際はみんなその人の感覚で捉えることしか出来ないんだけど、そこで他人には他人の世界があるっていう自明のことを認識しているかしていないか?ってことで全然違うわけよ。


「世界はアタシの世界」は全てがアタシ基準で、「世界が私の世界」は私の中に広がる世界というものは自分の知覚というものによって脳内で作り出されているものであるから、つまりは自分が知覚する世界というのは「私の世界だ」ということになるよね。前者はただのバカの自己中で、後者は真理を示唆する独我論だよね。補足をするとね、アタシ基準はアタシ以外の基準があると思ってないか、あると思う事にバカバカしいぐらい愚鈍ということなんだよね。で、後者の真理基準は個々が個々の世界を感じていてそれらを知覚しながら生きているということを分かっているので、だから人の数だけ世界があるというのが分かっているはずなので、他人の価値観などに関しては多様なはずなんだよね。


頭が悪いとこういうことを考えられずに知らないうちに人に嫌な思いをさせていたりするわけで、まぁ全てをソクラテス的生き方に還元するつもりはないけど、やっぱりまぁ魂への配慮は必要だね。吟味の無い人生がなんで価値が無いか?って恐らく無知な大衆ってのが基本的に害悪だからだっていうようなさ、大衆への軽蔑があると思うんだよね。それはソクラテスでもプラトンでもさ、吟味の無い人生を送ってる人達を見て「愚かな連中だ」って思ってたからこそ、そういう人間を増やさないために教育の重要性を語っていたりしてたと思うんだよね。無知なままだとロクな人間にならないから、だからある意味で切実に教育の重要さってのを考えてたと思うんだよね。まぁ当たり前だけどね。国家を担う主権者たる市民がロクな人間じゃなかったら社会なんて腐るからね。


無知でも人畜無害ならいいんだけど、大抵は人に迷惑をかけたり、よからぬことをしたり、暴言を吐いたりっていうことを平気でするようなやつらが多いからこそ、無知と吟味の無い人生ってのは罪深いわけだよね。無知でも良い人ならいいんだけど、無知が故に知らないうちにとんでもないことをしている可能性があるわけでさ、そこがやっぱモブをモブのままのさばらせることってのは社会にとって危険なことなんだよね。そういう意味で危険人物ってのはヤヴァイ人もそうだけど、無知な人々なんだよね。最低限の配慮すらも出来ない人間は危険人物だね。


その人はその人の人生があるんだからいいんじゃないっつーのは最低限の魂への配慮とか吟味とか教育がなされている上で言えることだよね。基礎ができてない人間が「これはアタシが思うことだから」とか言いつつ都合の良い時に出してくる言論の自由の名の下に無知を正当化するってのはもう犯罪クラスのことだよね。ソクラテスはこういうところにすげー敏感で、なおかつ無知な人間の愚かさなんかを凄く感じていたからこそ、これは由々しき事態だと思ったりしてたと思うんだよね。


要約すると、傲慢でアホな人間が生得的に持っているようなエゴイスティックな「アタシの世界」というようなパラダイムでの「世界」と、「自分にとっての世界は私にしか知覚できない」ということに自覚的であるが故の認識的な「私の世界」は似ているようで全然違うってことね。後者はそれを分析的に理解しているが故に恐らくまぁ進んで自発的に他人に嫌なことなんて出来ないだろうってことなんだよね。何しろ自分がやられたときの自分しか感じられない表しようが無い苦痛に似たものを他人が感じるかもしれないわけで、こんなことを自発的にやるやつなんてただのサディストかバカだよね。


ってことでした。