これまたハイパーリアルみたいな話。

mimisemi2010-10-20

こないだのハイパーリアルみたいな話の続きというよりかはまぁ延長なのかもしれんけど、つまりは主観ってのは乗り物なんだよね。自分という意識というかつまりは視覚ってのがガンダムとかエヴァみたいな乗り物に映るモニターなわけだよね。で、操縦席に座っているのが自分という主観というか意識。もちろん見えているものが全てではないから「モニターに映ったもの=主観」というわけではなくて、そういった映ったものとか感じたものとか人との関わり合いっつーかコミュニケーションでも聴覚的なことでもいいんだけど、つまりはそうやって入ってきた情報を解釈なり感じているのが意識だよね。それはつまりは本当にパイロット的なもんだと思うんだよね。


エヴァで言うと特に分かりやすいんだけど外部の肉体という乗り物に関しても神経ってのが通ってて意識とリンクしてるんで例えば触った感じとか痛みとか意識が感じるわけだよね。それはシンクロ率が高ければ高いほど感じやすくなるんだろうな。そうなんだよねぇ。つまりは肉体とか精神っつーか意識っつーか脳とのリンクとかシンクロ率ってのはあるよね。それがつまりはなんつーか一日の調子を良くさせるためにやる朝の運動っつーか体操とかシャワーなのかもしれないしさ、脳と意識の繋がりを明確にするために飲むコーヒーとかのカフェイン類だったりするわけでさ、それは物質的な脳とか身体ってのと意識をリンクさせるためのものなんだよね。


体が思うように動かないみたいなのもつまりはシンクロ率が低いからだよね。スポーツ選手みたいなのは普段から訓練をして身体的にも精神的にも肉体とのシンクロ率を高めるトレーニングとかしているわけで。結局まぁパフォーマンスってのはそういうことなんだよな。地頭とか元々の身体的能力という要素も強いけど、それこそ「体の調整をする」みたいな感覚だともっとなんつーかトレーニングしていったりっつー磨いていくものって気がするよね。実際、体なんて鍛えれば誰でも強くなるわけで。もちろん向き不向きはあるにしてもんでもトレーニングとか栄養の取り方とか日々の生活の送り方でいくらでも強くできるじゃん?最強にはなれないにしてもさ、まぁ誰でもムキムキにはなれるよね。程度の差はあれまぁつまりはトレーニングすれば強くなるわけだ。


恐らく脳もそうなんだろうって思いたいよね。生まれつきの能力で全てが規定されてるって考え方が絶望的なのはまぁいつも書く飛躍的に頭が良い人とかの差じゃん?ああいうのには絶対勝てないから最初から勝負しないみたいなやり方ね。まぁ勝ち負けではないとは思うんだけどさ、んでもなんつーかそれ言い出すと何もできなくなるからまぁとりあえずやるんだよね。やろうと思ったら。


で、やろうと思ったのに凄まじく頭が良い人に勝てないみたいなことを言うならまぁそれは言い訳に過ぎないみたいなさ、もしくはのめり込みが足りないという意味でもそれに対する熱意とかある種のオブセッションが足りないという意味でまぁあんま向いてないんだろうっていうことはあるよね。つまりは地頭というよりかはawarenessのレベルの差であったり好きさ加減の差であったりね、そういうことなんだと思うよね。まぁなんでも好きだから極められるというわけではないけど、んでもまぁ極める上で好きであるということは凄く重要だよね。脳って好きなことにはすげーオープンになるっていうか学ぼうとしたりするパフォーマンスが高くなるからね。


それをまぁ乗り物を通して操縦者である意志が認識しているのか?ってことだよね。俺が言いたい操縦者的な意志ってかなりアプリオリに近いものなんだよね。つまりは認識とかがそこまで介在しない純粋な意識っていうかなんていうか。まぁ無意識的とも言えるのかな。んでももちろん意志の認識ってのはアプリオリではない二次的な間接的なことでしか認識できないからさ、最初から認識があるとは言えなくて、認識があると認識するから認識があるみたいなことなんだけどさ、んでもそれをアプリオリに近い感覚で認識しているか?ってことだよね。


つまりは意識にそれはもうセットされているか?みたいなことだよね。恐らくまぁ本質的な意味でのこないだ書いた理解ってことにしてもまぁこういう無意識的というか意志みたいなものに内在されているコードみたいなものになっているか?ってことだよね。で、数学の話をちょっとするとさ、なぜかそういう能力が先天的に備わってる人達ってのが一部いるんだよね。まぁもしくはそういう能力が凄い強いとか優れているみたいな人達ね。どうそれが意識に介在して理解というか能力がコード化されているのか?ってのが面白いところなんだけど、なんつーかまぁそういう人達っているよねぇーっていう。


んでも何かっていうさ、それはパターンにしても認識にしてもさ、やっぱそれを理解するって難しいことだよねっていうかつまりは「わかる」ってそういうことだよね。ここ一年ぐらい「わかる」ってことが何なのか分からなくなって自問自答していたけど、最近ちょっとこういうなんつーかハイパーリアルみたいな勝手な自分の概念を通してわかってきた気がするな。こないだっつーか先月ぐらいのゲーデルの引用だけどさ、

感覚からかけはなれているのに、公理はそれ自身が真であると強制している。この事実からもわかるように、私たちは集合論の対象物に対する認識のような何かをもっている。なぜ私たちは、感覚認識よりも、この種の認識、つまり数学的直感に対する自信を失わなければいけないのか私にはわからない。この数学的直感は、物理理論を築き上げ、未来の感覚認識はこの数学的直感と一致するだろうということを期待させる。さらに、この数学的直感は、現在では決定可能ではない問題が将来意味をもつようになり、決定されるかもしれないということを信じさせる。数学における集合論パラドックスは、物理におけるだまされるという感覚に比べ、そう難しいものではない。


なんつーかつまりは感覚ということと事象の事実ということに乖離があるってことだよね。その乖離というのがつまりは乗り物を通してでしか意識で認識するしかない操縦者という自分がいるからなんだよね。当然、物理法則などを見ただけで感じることはできないし、まぁたまに天才でできる人がいるけど、俺が言いたいそのさっきの謎のコード化ってのがまぁこういうことなんだけどね、つまりはまぁ知識とか認識とかもしかしたら感覚でさえもまぁ陳腐な言い方をすれば教養みたいなのを通してでしか理解できないんだよね。


それこそ純粋経験では物理法則の真実は理解できない。それこそ物理学とか数学みたいな体系のシステムの構造が主観に必要でそれを通さない限り理解できないからだからつまりは物理現象の経験など実際にはありえないわけだ。まぁこういう考えって科学万能主義みたいな考えに行き着いちゃうけど、でも理解ということを考えるとやはり主観というフィルターを磨き通すしかないね。で、その知識みたいなのをさっき書いたようにアプリオリに近い形ぐらいの本質的なものにしてしまって、つまりはさっきの引用したゲーデルが言ってたような感覚認識と数学直感を一致させるということになるぐらいのレベルに高められればハイパーリアル的な知覚って可能になると思うんだよね。


この要素ってまぁ俺が言いたいハイパーリアルの概念にすげー不可欠なのよね。直感が実際は感覚との乖離があるような複雑な事象を理解するようになったときに恐らく閃きとかって生まれると思うんだよね。それはむしろ現象する何かから与えられる答えっていうのを直感が理解してそれを客観的に記述するって感じだよね。なんかまぁ曖昧だけど主観と客観の合間ぐらいの感じかもしれない。


主観的過ぎても客観性が失われるし、かといって客観的過ぎると人間味が無さ過ぎて無味乾燥になるっていうさ、必ずしも究極的な客観性が真理みたいなのを担保するわけではないってことだよね。それは自分が人間であるから人間という概念からでしか真理とか真実みたいなのは規定できない。で、そういう人間なりの有限的な概念から真理か真理に近いものを導きだすというのがつまりは主観と客観の間の認識というか、つまりは客観性を与えてくれるようなものを直感レベルで意識に書き込むというさ、そのぐらいになった主観が主観以前に感じるような直感で感じたものに真理って宿るんだと思うんだよね。まぁそれは実質的に人間では無理で独我論みたいになるんだけど、でもまぁ俺が言いたい神の認識ってつまりはそれなんだよね。


人間には無理だけど目指したい到達したい認識みたいな。まぁある種の覚りだよね。でもすげー西洋的で形而上学で数理的な感じの覚りだよね。哲学が目指したいのってつまりはそういうことだよね。その真理への憧れがつまりはエロスであり、まぁつまりは哲学ってことなんだろう。だからまぁPh.D.っつー称号がDoctor of Philosophyなのもそういうことだよね。んでも神の認識を持つ人なんていないだろうからまぁDoctor of Philosophyなんてあくまで人間的な尺度で見た知識量でしかないっていうまぁ哀しきfinitenessみたいなことだよね。人間がどう足掻いたところで無限には近づけないんだから有限的なアプローチしかないよね。


そんな中でのquest for wisdomだよね。人間はいつかは死ぬんで無限のものには近づけないけどんでもその道を歩むみたいなね、でもアプローチによってはすんげー近づくこともできるわけでさ、それがまぁ有限なりの面白さなんじゃないかなって思うけどね。あ、んでウェーバーが言うvalue-free judgmentってのは俺が言う神の認識みたいなのを持ってないと不可能だからだからまぁ実質的に不可能なんだよね。ルソーが言う民主主義もつまりはそういうことだよね。ここが神の認識でも持っていれば民主主義は成り立つであろうけど、そんなことは不可能なんで民主主義はあくまで理想にしか過ぎないみたいな。まぁルソーが民主主義は理想にしか過ぎないって言ったかどうかは別として、基本的にまぁ神みたいな、俺が言いたい神の認識を持ったような立法者が必要なわけでさ、でもそんなことは無理なんだよね。でも無理なりに社会を善いものにしていこうという努力が政治だよね。まぁ実際の政治は違うけどもまぁ理念的にってことね。


まぁそんな感じですね。基本的に言いたいことは変わってないんだけどまぁそれ言い出すと書くことが無くなるから書いてるんだけど。ってことでんじゃまた。