分かるということについて。その2。

昨日のエントリーに対してのコメントを書いてたら長くなったので1エントリーにするです。


横浜白昼夢会員横浜白昼夢会員 2010/12/17 19:51


かるということはできるということだ、とゲーテが言っていて、これがいちばん好きだな


この意味でものが「わかる」のがいちばん楽しい


ブラックボックス化は技術の高度化に伴う「わかる」と「できる」の乖離だね
思考技術の高度化による引用の濫用もしかり


引用まみれの論文風散文なんかまさにわらなくてもできる(書ける)、できても(書けても)わからない、の代表格でしょ


なんにせよたくさんのブラックボックスではたして何ができているのかはまったくわからないけど、そういうわからないままできたことの堆積が社会的なキャリアとして猛威をふるうんだよね


誰もわからないだけに誰にも反駁を許さない


で、俺の返信。



できるというのはつまりはまぁ俺はテクネーだと思うんだよね。学問的に言えばそれは退廃なわけで、例えば数学で言えば計算ってことなんだけど、別に計算はアルゴリズムなんでそこで何が行われているか?ということを理解しなくても数値的な答えは出せる。まぁ数学における計算を退廃だとは言わないけど、仮に数学教育のウェイトが計算ばかりに傾いてたらまぁそれはもう算術なわけで数学ではないよねっていう。


なのでまぁその思考技術を思考のテクネーだと考えるとまぁそれが引用の濫用になるのもよく分かるっつーのはまぁそれは言葉とか概念のテクネーだからね。


「なんにせよたくさんのブラックボックスではたして何ができているのかはまったくわからないけど、そういうわからないままできたことの堆積が社会的なキャリアとして猛威をふるうんだよね」っつーのはまさしくそうで、俺が伝統というよりかは「そうやってきた」的な惰性みたいなものに驚異を感じるのがその猛威なんだよね。何の根拠も無いかもしくは明らかに時代遅れなものだとしても、その堆積という実績ならぬ実積のおかげでそれが文句無しに正しいものだとなぜかされてしまったりして、それが社会を圧迫したり個人を圧迫したりするようになるわけだけど、仮に本当に日本人に島国根性というのがあるとすればまぁ間違いなくそれは社会的な実積だなっていう。


まぁ俺が本文で言いたかったことはここで言うところの堆積とやらが人々によってどんどんと自動生成されているみたいなことかな。その実積がイデオロギーなんだけど、それは漸次的なんだよね。「これだ!」みたいな分かりやすい定義がなくて、なんとなくの「空気」みたいなのでそれが常に更新されていて、それを常に読み取る力を要求されるっていうか強要されるっていうか、まぁつまりはイデオロギーの押しつけをみんなでやり合ってるみたいなもんだね。


その時代精神みたいなものを読みつつ自分も誰かにその空気を読むように強要するということでイデオロギーがどんどん広がって行くんだよね。で、それがいつのまにかコモンセンスみたいになっちゃうわけ。まぁ基本的にファシズム的なドクトリンとあんまり変わらない気がする。なんでそんなものを享受するのかが客観的にさっぱり分からんのだけど、本人達は享受しているという感覚すら無い自然なことであるのでそこに批判性もへったくれもないわけだね。


で、それは海外とか他の文化から見ると異様に映るんだよね。でも本人達は全然それが異様なことだとは思っていない。まぁ日本という主観に埋没し過ぎて狂ってるってことだね。そんなに生き辛いなら風潮を変えていけばいいのにそういうパワーも無いし。まぁパンクムーヴメントとかを求めるとはアレだけど、なんつーか反逆性みたいなのが無いのが本当に怖いなって思うんだよね。


そこでまぁ前に書いたようなこんな社会でも生きることを肯定するみたいな不気味な歌が売れるみたいな倒錯というかさ、まぁ主観に埋没しているからこそのまぁ一種の病みだと思うんだよね。なのでイライラしたんだったらライブハウスとかで叫んでるほうが実は健全っていう。


もっと音楽ってそれでやっていくとか音楽っつー世界として考えるんじゃなくて音を媒体とした自己表現みたいな捉え方をすればいいと思うんだよね。それがまぁ音の解放ってことだと思うんだけど、日本の場合凄く極端だよね。なんか一気にアングラハーシュノイズになっちゃうんだよね。中間が無いっていうか。もっとポップなものにもノイズがあっていいと思うんだよね。それはサウンド的なノイズに関わらず毒みたいなノイズでもいいし、ポップの中にある異様さみたいなものでもいいと思うんだけど。


っつーか話を戻すと俺がやりたいことをできるのは俺の個人的な事情とかは置いておいて、とりあえず俺がやりたいことを分かっているからできるんだよね。ギターにしても出したい音がわかってるんでだからできる。最近は高柳昌行とかが激しく好きになったりしたけど、それはまぁ俺が純粋経験的に出したい音とか好きな音を分かっているからそれに近いものとかを聞くと反応してそれを好きになるんだよね。で、技術的な問題とかはあるけども、まぁんでもとりあえず出したい音を出すってことでまぁだんだんそれができるようになっていったり、知行合一的により出したい音と身体性の融合みたいなのが生まれてきてそれが洗練されていくみたいな。ニーチェが言ってたような「欲することは解放する」みたいな感覚だよね。それイコール創造という行為に繋がるみたいな。だからまぁやりたいことをやるって重要なんだよね。それでしか恐らく人間は生というものを肯定できないと思うわけで。


で、その創造という行為は必ずしも社会性と合致しないこともあるけど、だからこそその創造というベクトルから社会性を生み出すみたいなアプローチもできるよね。新規ビジネスとかまぁフロンティア・スピリットってこういうことなんじゃないかな。それが新しい時代精神とか考え方ってのを作っていくと思うんだけど、社会的な堆積のおかげでそれが潰されるんだよね。まぁ別にこれは日本に限ったことじゃないと思うけど。そういえばビートルズとかも最初はノイズとかって言われたらしいね。


長くなったからこの辺でやめるね。