分かるということについて。

ギター&ギターリサーチばっかやってるんだけどさ、いや、前から書こうと思って書いてなかったんだけどね、いや、例の「分かる」ってことって何なの?ってことなんだけど、ゲーデルの未刊哲学論稿なんかを読んでて思ったのがさ、いや、つまりはこれなんだよねぇ。本からの引用とか面倒だからやめるけど、つまりはなんつーかある概念があって、それを規定する周りの概念があって、その板挟みとか諸概念に囲まれることでそれが理解できるってことだよね。


いや、俺がいつも個人的にムカついてるし嫌な言葉の一つとして社会性とか社会人って言葉があるけどさ、これって乱用じゃん?いや、これ自体の定義ってすんげー曖昧なんだよね。しかもかなり抽象的なんだけど、でも社会とか仕事みたいな言葉を出してくるともう何にでもワークするみたいなマジックワードでしょ?んじゃあ社会性って何なのよ?ってことでさ、前に郵便局と家の往復しかしない田舎の郵便局員の社会性とは?みたいな話を出して色々書いたけどさ、それはもう繰り返さないけどね、社会的責任って言葉もそうなんだけど、社会って言葉自体が曖昧なんだよなぁー。


なんとなく日本で言われているのはさ、社会人になると一人前っていうさ、経済的に自立できて、んでまぁどっかに所属してて組織の中で労働をするということで対価を得ているという状態がなんつーかまぁ社会人とされるものじゃん?で、まぁ俺が散々言ってきたこととしてはさ、別にそれ自体に意味が無くてさ、仕事しなくてもつまりはインカムがあればいいんじゃん!っていうかさ、それこそ土地持ってる人とかのまぁ不労収入だよね。まぁあと昔のヒット曲とかで食べていけるような人とかさ、まぁ別にそういう人達はいいわけだよね。


いや、色々あるんだよね。組織の犬になって丁稚奉公みたいな感じで働いて疲れて帰ってくるっていうルーティンが社会人とか社会性なのかさ、まぁそれって色々あるけど、んでもなんとなく通念としてあるような暗黙知というほどではないにしても、なんつーかみんなが納得してるところってあるじゃない?それってのがまぁその外延的な定義ってことなんだよね。それ自体に「こういうことです」みたいな明確な定義を与えられているわけではないんだけど、んでもなんとなく色んな人が言っていることとかメディアがニートを責める言説みたいなのとかなんとかまぁそういうコンテキストとかっていう外延的な定義によってそれがなんとなく定まるって感じなんだよね。


つまりはまぁウェブなんだよね。それを定義する何かってのが蜘蛛の素みたいに錯綜している感じで色々と張り巡らされていて、その蜘蛛の糸という周りの色々な定義とか規定みたいなのでさ、それが分かってくるっていうようなまぁブラックボックスなんだよね。函数とはまた違うんだけどさ、んでもまぁ明確な定義が無いが故に人によって定義が違うようなものってまぁ函数的だよね。いや、このウェブ感分かった?公理系だよね。つまりは。一般に通用するような道理によって張り巡らされたものが定義するものってことだよね。だからそれ自体では明確な定義はなくて、ただ通念っていう道理という名の公理があって成り立ってるように見える定義だよね。それが社会人とか社会性とかっていう俺にとってはわけのわからないことなんだよね。


偉そうなこと言ってるくせに利己的な経済活動しかしてないやつらばっかだと思うんだけど、ただの生活のための労働やってるだけで社会人とか社会性があるとか何なの?って感じだよね。だから俺みたいなやつはまぁそういうドクサという名の通念が嫌いだから「それって何なの?」っていちいち文句つけるんだよね。それが明確じゃないという理由もさることながら、どうも納得がいかないってことが多いんでさ、んじゃあその通念を規定しているものは何なのか?っつって蜘蛛の素自体の調査を始めるんだよね。


そうするとまぁ大抵は根拠が無いようなさ、すげーくだらない理由によって定義されている公理群によって規定されている何かであったりさ、あとはもうただのイデオロギーだったりね、まぁそこは小室直樹も言ってたようにこれだけ労働を目的論的に崇拝するのってもう宗教なんだけどさ、まぁこれで言えば労働賛美ってつまりは宗教ドグマってことじゃん?つまりはイデオロギーだよね。で、そのイデオロギーというものが一つの何かとか定義なのではなくて、それこそ蜘蛛の素みたいに色々なものが錯綜して作られている蜘蛛の巣状の公理群なんだよね。


で、俺はそこに常に排除があったりするのが嫌だったりさ、マイノリティのことを考慮しなかったりね、その蜘蛛の巣状の公理群が否定するものって多いわけじゃん?日本の生き辛さとかってこの公理群の密度の高さだと思うんだよね。アメリカとかは日本よりかはマシでフレキシブルなんだよね。あとはそもそもの公理群の密度が低いんで動きやすいっていうか雁字搦めにならないんだよね。あと日本の空気の支配とかも暗黙の公理群の支配とも言えると思うんだよね。それは空気というよりかは蜘蛛の巣なんだよね。



で、こういうことを言うと弱者の理論になるでしょ?みたいに言ってそれが説得力を持ってしまうっつーか、「あーあんたの言っていることは弱者の理論だよねぇ」って言うことで型にハメて、なぜかそれではダメだという方向で話を潰すみたいなのも、弱者の理論っぽく聞こえるものはダメだみたいな暗黙知っつーか暗黙の了解という名の公理群だよね。社会でやっていけるのがまともなやつで、そこでやっていけないのは弱者とかさ、そういう乱暴極まりない言い方とか考え方もあるじゃん?


で、俺はまぁ精神障害とかあったりして余計に弱者感が出ちゃうのか分からんけどさ、そういう俺は社会に対して何を言っても全部弱者の理論になるっつーか全部じゃないにしても、俺が多様性とか言うと弱者の理論になるみたいなオートマチックな思考の展開ってあるじゃない?こういうのがまぁ蜘蛛の巣なんだよね。そういうのってこういう通念で当てはめるとこういうことになっちゃいますよね的な思考停止ね。だからそんなの無くさなきゃいけないんだよ。通念とかどうでもいいじゃん?その人がどう考えるか?が問題なんであってさ、そこを通念とかで覆い尽くしちゃダメだよね。人間から思考を奪ったら人間の長所なんて何にも無いじゃんね?それこそ動物以下じゃん?それこそ一旦無くなったほうが良い動物の種類だよね。


なんかこのね、思考停止から来る自動感ってのがすげー嫌なのね。考えているというよりかは通念とか既存の概念とかに寄り添って、それで言説なりなんなりを定義するっていうさ、それってまぁ機械的な作業だよね。でも俺に言わせればまず公理系を疑え!ってことなんだよね。で、別にそんな鋭さを持ってなくてもそれこそ常識的に考えてちょっと立ち止まってみればおかしいなぁ?ってこといっぱいあるんだよね。でもそれはそうですよってことが暗黙知で社会が回ってるならそこに疑いはかけてはいけないみたいなさ、これこそが思考の監獄社会だよね。編み目通りの考え方をみんなしてくださいよっていうまぁ人類ロボット化計画みたいなもんだよね。日本ってそういう思考のロボット化が顕著だと思うね。


ただですら物理レベルで社畜とかワープアとかが増えててさ、奴隷みたいになってる人が多い中で、思考すらも奪われたらもう終わりだよね。そういう層みたいなのが出てきたらマズいんだよ。いや、まださ、奴隷みたいな生活してるから時間が無くて考えている暇とか無いっていうならまだ望みはあるんだけどさ、別に物理的な束縛とか無いのにも関わらず通念とかをそのまま受け入れてそれだけで考えているフリをしているだとかさ、そういう輩が増えたらそれってマズいよねってことなんだよね。だからまぁ考えろ!ってことなんだよね。


網目状のドクサに考えが支配されたら終わりなんだよね。だから一個一個疑うなり自分なりの考えをしてから定義をして何かを理解することが大事なんだよね。通念ってのはなぜかまぁいつの時代もドクサなのよね。それは大衆が作り出すものだからっていうとまたなんか嫌なやつって思われるかもしれないけどさ、大衆を批判するとかだってまぁタブーとされていることなのかもしれないけど、明らかに大衆ってのがそれこそ社会にとって良いものをもたらしていなくてさ、大衆が生み出すものが大衆そのものを苦しめるようなことになってたらそれって大衆批判しなきゃいけないじゃん?


大衆が日本を支えてるとかさ、サラリーマンが日本を支えてるみたいな言い方あるけど本当に気違いじみた話だと思うね。まぁ別に俺は大衆批判とかサラリーマン批判をしたいわけじゃないんだけど、でも考えない層みたいなのがもたらしている害悪って凄く大きいんだよってことだよね。それこそ今までそうやってきたから的な習慣とかさ、そんなのばっかで動いている人間が多過ぎたら新しいものなんて生まれないじゃん?あとは発想が奇抜なやつが排除されるとかね、俺が言いたいのはこの蜘蛛の巣状のドクサってのは大抵の場合凄く排他的なものであるってことなんだよね。


で、まぁ最初の話に戻るけども、そんな曖昧な網目状のドクサによって定義された社会性とか社会人とかさ、そんなのってすげー胡散臭いじゃん?いや、俺が言いたいのはね、理解するってことがさっきも書いたように外延的な様々なことの定義や公理によってもたらされる必然的な論理的帰結ってことが頭の中で行われた時に「そっか!」って分かる気がするってことだと思うんだけどね、いや、それにも色々あってまぁ直感的とか霊感的とかさ、まぁそれだけじゃないんだけど、でもまぁ泥臭い感じの理解ってことでいうとまぁやっぱ外延的なものによって規定されるってことだと思うのね。


なんか久々に本業に戻ってきた感じでギターばっかやり過ぎてたからイマイチ調子が出ないんだけどまぁそんな感じですね。いや、まだギターリサーチずーっとやってるんだけど、これはもう前から書きたかったことだったんで書いたわ。


「みんなそう言ってるからパワー」って強いんだよね。これが通念という名の波というかさ、これがドクサの蜘蛛の巣を生み出して社会を支配するようになるわけ。怖くない?通念もまた自動生成的な大衆によるイデオロギーなんだよね。でもそれに支配されるのも大衆っていうまぁ内部フィードバック状態が永遠と続く感じだよね。だから考え方の多様性とかライフスタイルの多様性とかが必要なわけ。みんな同じ通念で動くとかって怖いじゃん?まぁそれでいいっていう人もいるのかもしれないけど、まぁ俺はそういう考え方に対しては一切認められないね。「思考を放棄した人間は動物以下だ」って良いスローガンになるかもね。ちょっと自分で書いて気に入った一節かもしれん。


あ、んであと追加だけど網目状のドクサってアルチュセールの国家イデオロギー装置の大衆バージョンって感じかもしれない。まぁもちろん国家イデオロギー装置的なものでディストリビュートされている通念とか概念もあるんだけど、それが大衆の中でミックスアップされて暗黙の了解みたいなのが生まれてそこから人々を縛りだす通念とか悪い意味での常識みたいなのが生まれるんだよね。で、それは装置がイデオロギーなりなんなりをディストリビュートするというよりかは、個々の人々が蜘蛛になって編み目を作り出していくっていうような個々のイデオロギー作りなんだよね。


それが全体を見て凄くデカイ網目状になった時に人々を縛り付けるような、雁字搦めにするようなものになるんだけど、それは自己生成的にリアルタイムに色々なところで形成されているものなんだよね。それが世論だったりもするんだろうけど、まぁ基本的にロクでもないよね。だったらその常識とやらをもっと健全なものにすればいいっつーかそれこそが常識なんじゃないの?って俺は言いたいわけで。それこそそれがまぁずーっとここで書いてきたことだよね。多様性を認めるとかさ、みんなと違うからっつって排除しないとかさ、まぁ俺的に言えば市民社会の必要条件ってだけで、別に俺は当たり前のことしか言ってないと思うんだけどね。でもどうもその網目状のドクサとやらが健全な市民社会形成に対して凄く負の働きをしているように思えてしかたがないんで、だからまずその蜘蛛を退治しちゃイカンから、巣っていうかその絡み付いている糸をほぐすことから始めようぜってなことだよね。



誤訳があったり翻訳が酷くてポストモダン哲学みたいな雰囲気を醸し出してしまっているっていうことがあったりなんかして、まぁ凄く翻訳の評判が悪い本なんだけど、原書が高いハードカバーしかないから、まぁ我慢してこれを読むしかないなってことで読んだんだけど、確かにまぁもっと原書はシンプルというか分かりやすいんだろうなぁーとは思ったね。でもまぁドゥルーズとかデリダ読んだことがある人ならああいうのに比べたら全然マシっつーか全然読めると思う。