Quality of Lifeの真の追求。

今年を振り返るとかってあんまやらないけどまぁあえてやるならまぁ凄い変化があった一年だよね。そりゃー間違いない。6月末に帰ってきたわけだから結局もう半年ぐらい日本にいるわけだ。ちょうどまぁ半分半分って感じか。もうすでに今年の始めとかまだあっちで授業受けてたとかさ、そういう感覚が無いよね。もう遠い昔のような感じで。それにしてもまぁ帰る事が決まる前も学校は本当に最後のほうはクソだったな。例のスピーチのクラスね。政治学の白熱授業の頃がピークだったなぁー。ああいう感じがずーっと続いてれば今なんて凄まじく後悔してたに違いないね。


「まぁいっか」って思えちゃうようなのって結構寂しくもあるよね。そんな終わり方でいいの?みたいな感じじゃん?まぁアレだけどね、例の香港のダレルも俺と同じ理由で香港に帰ってさ、んでまぁ手紙とか来たけど、なんつーかまぁお互い同じだったってのは前にも書いたよね。居る理由が無くなったっつー話。でもこれって結局なんつーかもうあれだよね、最初からまぁ居る理由なんてないよね。結局まぁ特に俺の場合なのかもしれないけどさ、結局場ということも実存的なことの延長上みたいなところはあるよね。自分が存在する場所っつーかつまりは生活してる場所というのがある程度生活圏化するとそれも実存の一部となるっていうかさ、そうなったときに「ここに居る理由って?」ってのを考えると恐らくどの場にいても理由なんてないんだよね。


それは俺の存在理由が究極的に言っちゃえば無いのと一緒でさ、それは別にペシミズムというわけではなくて客観的な事実としてそうじゃん?恐らく存在理由なんてのはさ、主観的に自分で見いだすか、あとはどっかで自分を昨日させてindispensableな存在にするっていうさ、まぁ家族を支えるでもコミュニティを支えるでもなんでもいいんだけどさ、まぁ外的なことってことだよね。なかなか内面だけで自分の実存を肯定はできないよなぁー。


最近なぜか数学から遠ざかっててさ、また哲学に戻ってきた感じなんだけど、まぁ結構インプットが激しい感じですね。だからまぁまた実存とか言い出してるのかもしれんけどなんか自分で書いてて数学とかに染まる前のウォール伝っぽいなとかって思ったりしたね。思えば数学の波はここ一年ぐらい凄かったな。やっと落ち着いてきた感じだけど、このまま落ち着き過ぎても困るんだけどね。でもやっぱ放っておいても哲学がまた来るってなんつーかやっぱそれこそindispensableなものなんだろうなぁー。好き嫌いというよりかはもう音楽とかと一緒で当たり前に俺の中にあるものっていうかなんていうか、そういう意味で数学ってまだ全然そんなレベルじゃないんだよね。


何を書こうとしてたんだが忘れたけどさ、いや、まぁその実存ということで続ければまぁそういうことですよね。だから俺がパリに行こうがイタリアに行こうが実存的な問題が場によって解決するということはないんだよね。場というか物理的な環境だけで変わるということはない。あるとすればそれは場というよりかは関係という意味での場が無いと解決できないって気がするよね。で、結局まぁ社会に戻ってくるわけだ。社会は嫌いだけどでもやっぱ社会抜きではそもそも人間が語れないんだよね。いや、かといって濫用されてる社会人とか社会性みたいなこととは別なんだけどさ、なんかさー、イデオロギーの本を読んでる時に思いついたことがあって書こうと思ってたんだけど忘れちゃったね。


テリー・イーグルトンっつー人の本なんだけどまぁ後でアフィっておくけどさ、んまぁでもなんかあれですよね、アルチュセールとかがまさにそうなんだけど俺が前に書いてた人々が自己生成的にイデオロギーを作り上げるっていう大衆のイデオロギーってのを書いたけどさ、んでアルチュセールも似たようなことを言ってるんだよね。つまりはそれを担うのは大衆であるみたいな感じで、つまりは個々がイデオロギーのエージェントになるってことだけど、んでもまぁそれは別に普通に考えていったらそうなるよね。必然的な帰結っつーかさ、別にこれはアルチュセールに特化した分析でもないよね。


なんだろうねぇー俺が言いたいイデオロギーってのはさ、支配的というよりかはすげー細かいことなんだよね。ご飯の時にゲームやらないみたいなさ、でもテレビ見てるじゃん?っていうさ、でもご飯に集中しなきゃいけないっていうけど別にテレビ見てればそれって一緒じゃん!っていうさ、だったらパソコンで動画見ながら食事することがいけないのか?っていうさ、まぁそんなの個々のさじ加減だけど、俺が言いたいのは吟味されることなく習慣的に慣習的に正しいとかやらなきゃいけないとかそういうものだっていう風にされてきてそれが相変わらず吟味される事無く習慣なり慣習として受け入れられて人々の行動原理なり価値観なり考え方に影響を及ぼすっていうかその要素の一つになるっていうさ、これってレゴのブロックとかで言えばさ、昔と同じようなブロックを使ってるってことでつまりは人々の考えが似たり寄ったりになるのもブロックの同型な感じってことなんだよね。


だからbehaviorな感じの意味での人々ってのが昔からなんだか似てるのはつまりは文化とか場所とか時代の差はあれイデオロギーが似ているってことだよね。ようはway of thinkingが似ているということね。で、そのwayを規定している要素としてのイデオロギーだよね。それがつまりは大衆心理ってことだ。個々で見ればそりゃ違うけど大衆というもので表れた時に不気味な一致を表すんだよね。


書いたっけな?いや、書いてなさそうだから書いとくけどさ、意見とかってまぁようは総意として表される時には全然表されないよねっていう。卑近な例で言えば自民党が良いといってもさ、ポピュリズム的な理由で良いと言った人もさ、つまりは衆愚的な感じで良いと言った人もね、ちゃんとした意見があって良いと言った人もさ、ディティールは省かれてとりあえず自民党ってことで自民党支持っていう総意になるんだよね。そこにディティールは無いからさ、単純な理由で自民党を支持している人であれ政治的に細かい理由で支持している人であれ「支持」ということで一致することでまぁ同じになっちゃうんだよね。なので総意なんてそもそも表されないっていうかさ、その支持にもdivisionが絶対あるんだけどでもそれは可視化されないっつーか不可知じゃん?民主党支持の人ですらある程度は納得できる自民党支持の理由と全く納得ができない理由ってあるわけでさ、でもまぁそんなディティールなんて途中でなくなっちゃうっつーか端折られますよねってことだよね。


この端折り感もまた不気味な形でのイデオロギー形成に一役買ってる気がするんだよね。イデオロギーってまぁ大雑把なんだよね。すげー大枠のことでさ、それこそ本で言えば2ページぐらいの内容でそこだけ言えばまぁ納得できるからっていう理由で支持されるみたいなさ、ディティールが無いものじゃん?まぁ支持されるイデオロギーってそうだよね。凄まじく単純なわけだ。すげー緻密になればそれは政治思想なり哲学になったりするけどイデオロギーがなんか陳腐なイメージがあるのってこと大雑把感だよね。もちろんまぁポジティブな意味でのイデオロギーもあるんだけどね、まぁそれは道徳とかだけどね、まぁ道徳とかも吟味があったほうがいいけど、とりあえず人を殺しちゃいけないっていうのはさ、TPOはあるにせよ基本的に当たり前だよねって言う考えもまぁイデオロギーだけど、んでもこれはいいよね。別に。


あえて吟味することもなくさ、まぁそんなの当たり前じゃん程度でいいっつーかなんつーかさ、まぁそんな中で「なんで?」って言うやつもたまにいるのかもしれないけどまぁそうなった場合に道徳っつーある種の哲学が発生するよね。なんでだろうね?っていう。まぁそんな中で納得すれば道徳のアプリオリな感じっていうかさ、まぁ別に証明とか定理とかいらないでしょっつーのが分かるよね。そもそも道徳に関して一個一個演繹するなんて怖いよね。そこを演繹しないのがまぁヒューマニズムだと思うんだよね。んでも行き過ぎると向こう見ずな平和思想とかになるんでそれはまた危険なんだけど。だからまぁイデオロギーってそれ自体で勝手に暴走するからだからまぁ歯止めっていうか吟味が必要なんだけどね。


一殺多生なんてまぁその最たるもんでさ、人を殺してはいけないという命題を守り過ぎるが故に思考停止になっちゃうっていうかさ、それを守り過ぎるが故に守ったが故により多くの人が死ぬならこの場においてはその命題を破ってもいいっていうフレキシブルな感じってあるよね。それが明らかにより多くの人を殺すことになればそりゃー一人で済むなら殺すしか無い。でも平和思想はそれを考えない気がするんだよね。無血とか平和みたいな観念的なことを追求するが故に大枠のことを考えられなくなってるっていうかさ、道徳ってそもそも人を殺すことを許さないということではないからね。人をなるべく殺さないというのが道徳だと思うわけ。だから怖いけどたまには多くの人を助けるために殺さなきゃいけない場合も出てくるってことだね。


んでもまぁ恐らく違和感があるんだろうね。こういう考え方には。それはさ、俺がなんで飯の時にテレビ見てもいいのに本読んじゃいけないの?とかさ、社会性とか社会人とか社会的責任って一体なんなの?って言うとかさ、まぁテレビの件はいいか。まぁつまりはね、いやーまぁよく考えてみればそうですよねってところを考えないでそういう風にされているからって思考停止に陥ることを促しているのがイデオロギーなんだよね。つまりは概念に対して吟味の余地を与えなくするものがイデオロギーだよね。そんな中でさ、例えばこんなことを言う俺にさ、諭すようなさ、それこそ論理的に完璧でpersuadeされちゃうような理由で社会性の定義なりまぁ社会的責任とかさ、なんでもいいんだけどね、よく考えれば謎だけどそうしなさいとされているものがなんでそうしなさいとされるかっていう理由を教えてくれれば納得できるんだけど納得できるような理由がないじゃん?


なんかさ、あそこには魔物が住んでいるから絶対近づいちゃいけないとかって言われてる場所にさ、「いや、実際教われた人いないでしょ」とかって思うやつが実際言ってみたら何にも無かった的なさ、でもその場を恐れるということがイデオロギーとしてその村に行き渡っていることで成り立つ流れとかってのがあったとすればそれがつまりはその流れを確保するための恐れなんだよね。それを促すのがその場を恐れよというイデオロギーだよね。「なんで?」とかって基本的に言っちゃいけないわけ。罰が当たるとかなんとか色々な理由があるんだけどまぁそんなもんは全くないんだけどね、まぁ物語だよね。仏教の道徳とかもそうじゃん?地獄の概念とかも恐らくそんな感じだよね。別に人を殺しちゃいけないという究極的な理由はないじゃないか!的なズボズボな相対主義を許さないために地獄とかカルマっていう理論を持ってきて人殺しをさせないっていう道徳を作るんだよね。まぁ人殺しは基本的によくないからまぁこれは良いイデオロギーでさ、それがまぁさっき俺がまぁ別に吟味はいらないですよねっていうイデオロギーなんだけどさ、でも意味分からないものもあるわけじゃない?


で、俺が前から言ってるのはさ、社会人とか社会性とか社会的責任とかさ、社会って言葉が関わってくる概念って大抵がイデオロギーなんだよね。つまりはシュトレーバー的な奴隷として社会を担わせるためのイデオロギーになっちゃってるっていうさ、それは元々は権力者が流布した支配するためのイデオロギーだったのかもしれないけどさ、いや、そんなことはないか。ウェーバーの言う勤勉さの根源がプロテスタンティズムに発見できる的なまぁ根源論はいいとして、まぁでもそれを担ってるのは人々だよね。


小室直樹がこのマゾキスティックなまでも労働へのオブセッションというかさ、それを良いものとするって感じは日本教っていう宗教だみたいなことを言ってたけどまぁ本当にそうだよね。アレントの人間の条件に書いてあったけどマルクスはさ、人間は必要性によって労働をする労働をする動物である的な人間の定義をしつつ、革命とはつまりは人間が必要性という名の労働から解放されることを意味するみたいな矛盾を孕んでいたみたいなことなんだけどさ、マルクス教で言えば前者だけを見ればそれこそソ連とか昔の中国みたいなまぁ所謂労働を賛美する共産主義になるよね。でもそもそも革命っつーか解放ということを考えれば目指すべきは自由なわけじゃん?自由と言ってもノージック的な自由ではなくて人々が必要性から解放されるという自由だよね。そのまぁようはemancipationを達成するための共産主義なら分かるけど、そもそも労働が自己目的化するっていうかさ、目的論で言えば手ロスは人間の解放なわけだよね。


そのためのイデオロギーとして共産主義というのがあったとしてもさ、それをまぁ権力者の都合のいい感じで利用されればそれは人々を奴隷にしたままにするような部分だけを切り取ってきてさ、んでそれを目的化させるとまぁ統治は楽だよねっていうさ、だからまぁ結局何のための労働なのか?ってことだよね。


それは労働でもいいし社会でもいいんだけどさ、なんのための社会性なり目的とされるような社会人とかっつーのが肯定されるのか?ってことじゃん?で、そこに特に理由は無さげだよね。当たり前のこととされつつもその当たり前の事が人々を束縛して人間らしい活動ができないまま労働に縛り付けられてるっていうさ、その縛り付けるものがイデオロギーだよねってことになるんだよねぇー結局は。自由のための社会なんだ!とかさ、人間らしい活動をするために社会人になる必要がある!とかさ、なんかの目的があってそれの必要条件としての属性としての社会人みたいなさ、そういうのがあれば話は分かりやすいんだけど、なんか意味分からない人として一人前みたいなさ、「は?」って感じじゃん?一人前って何なの?っていう。


まぁ俺は食っていかなきゃいけないから労働というよりかは金をどうにかして得られる道を探すということはするけどさ、それが必ずしも社会人みたいな概念に直結するわけではないよね。吉本隆明の本に書いてあったけどさ、吉本さんが若い時に先生に職業の事について相談しにいった時に「食うためなら泥棒をしたっていい」みたいなことを言われたみたいなことなんだけど、これはもちろん泥棒をするということを推奨するということではなくて食えるようになればなんでもいいんだよってことだよね。労働しなきゃ食えないというのは凄まじい誤謬だよね。社会人然り。もちろんその中でさ、泥棒をしちゃいけないっつー道徳的判断は介在するわけだけどさ、んでもまぁ資本主義なんて基本的にまぁ泥棒っぽいことしないと儲からないようにできてるからね。合法的な泥棒チックな事を人は「上手いやり方だ」って言うわけじゃん?だからまぁ合法的な泥棒なり搾取をすれば食っていけるってことだよねっつーかまぁ莫大な利益なんてこのどちらかじゃないと得られないだろうな。まぁ石油とかソフトとかハードウェアとかインフラなら別だけど、んでもまぁシステム的なことを言えば極めて泥棒に近いことが多いよね。


そんな泥棒の片棒を担ぐようなことをしていても「就職」ができていて「会社」の中で「社会人」として働けていればそれは一人前っておかしいじゃん?派遣の会社で働いてますとかってそんなのヤクザな商売をしてる会社の中で搾取に加担してるだけでさ、それのそれだけ見れなむしろ何もやらないほうがまだマシって職業多いよね。広告なんて最たるもんでしょ。そういうも全部ひっくるめて労働なりさ、社会人なり出社なりっていう形式だけ見て一人前として肯定できるようなものにするのっておかしいよね。全然鳥瞰できてないじゃん?むしろ全部形式だけにして形式を満たしていれば肯定できる存在として扱われるみたいな風潮とかってヤヴァイよね。それこそどんどんヒューマニズムから乖離していくじゃん?


就職してないと人として看做されないとかさ、実際どうなのか分からんけどさ、場合によっては新卒じゃないと人として看做されないとかってのもあるらしいけどさ、仮にそんなことがあったとしたらまずその価値判断は絶対おかしいよね。そんな風にして人としてみないという価値観は絶対おかしいよね。でも社会はそうなってるっつー風潮があったとしてそれにアダプトしちゃえば結局はその恐ろしいイデオロギーに加担することになるわけでさ、それに抗いたかったらそんな恐ろしい価値観を持ってない場を見つけるとかあまりにも無かったら親に説明して実家暮らしするとかバイトするとかさ、そんなんしかないじゃん?


そもそもそんな人の定義をしている組織に入ってやっていけるわけないと思うんだよね。その中でも安心感が欲しいからっつって思考停止に陥ってそこに適応するようなやつらが仮に多かったらまぁそれはnatural born slaveだよね。人間ってのは生まれつき奴隷気質みたいなやつの割合ってのが絶対的にあってさ、それは自然の摂理のために存在する奴隷かもしれないんだよね。つまりはそういう奴隷も必要だからっつーのでそういう気質の連中が常に居続けるっていうさ、それはもう自然の流れとして捉えちゃえばしょうがないし、実際そういうやつらが多いわけだからしょうがないとは思うけど、でもそうじゃない人達までもがそこに付き合う必要は無いと思うのね。


それだったらむしろそうじゃないって思えるとか「なんかおかしいぞ?」って思えることをむしろ誇りに思ってさ、その奴隷ではない人間らしさっていう自分の心を尊重して生きていったほうが健康だと思うんだよね。俺が嘆くっつーかさ「それでいいわけ?お前らは」ってここでいつも言ってる感じはそんなに多くはないだろうけど元々は奴隷気質ではないさ、奴隷として生まれてきたわけではないような人達まで大量奴隷時代ということだけでそっちにマジョリティの流れで力学的に流れていっちゃうっていうことに対して「そりゃおかしいぜ」って言ってるわけね。なにしろそれはもう絶対本人達が「おかしい」って思えてるわけだからそれがあってるわけよ。それはあんたが奴隷じゃないんだって証拠なんだからさ、それを尊重しないとお前の心までもが蝕まれて奴隷に成り果てちゃうよ?ってことになるんだよね。


元々の奴隷気質の奴らが奴隷であるということに誇りを持ったり、他のやつらも奴隷じゃなきゃいけないみたいに思ったりするけどさ、そういうことに関して気持ちの悪さっつーか居心地の悪さを感じるってのがもうすでに奴隷との差なんだよね。nobleってことだよ。奴隷よりはね。それって心っつーか精神の気高さなんだからさ、絶対それって肯定しなきゃいけないと思うんだよね。俺が主に大衆として批判してるのってつまりはまぁその精神的な気高さが無いような奴隷達のことを言ってるんだよね。ああいうやつらもなぜか民主制の中では有権者になるからヤヴァイってことなんだけどさ、でもなんつーか例えば日本の全体を表す時に「一億」って言葉は使われるけどさ、一億総白痴化みたいな言葉もあるけどさ、その批判って全体を批判しているというよりかはね、いつの時代もこういう批判ってそもそも元々が奴隷っぽくない人達まで馬鹿になっているということへの批判だと思うんだよね。


元々の馬鹿は死んでも治らないわけだからもうそもそも治すのが無理なんだから啓蒙とかの対象にもならないじゃん?そんなのもう射程外なんだよね。批判される大衆ってのはさ、衆愚性という意味では大抵の場合奴隷達のことだと思うんだけど、馬鹿になってきているとかさ、所謂なんつーかコラプトしてしまった的な批判をされる大衆ってのは何回も書くように元々が奴隷というほど奴隷でもない人達のことだと思うんだよね。そういうまぁ中間層みたいな人達も下流に流れるっていうかさ、水は安きに流れるってことに対する批判だよね。ちなみに低きに流れるっつーのは良い意味らしいんだわ。久世が使っててさ、衆愚観を表す時に低きに流れるって俺も使ってた気がするけど言葉のソースである老子の本来の意味を見ると全然違うんだよね。だからまぁこの場合安きに流れるが正しいっつーかまぁそれはいいか。


「みんなそうしているから」ということに流れるということの愚かさだよね。まぁんで俺が言ってるのは流れてしまう人達は多いんだけどその流れの安っぽさとか低さを感じているのにも関わらずその流れしかないと判断してそこに流れるという態度のことだよね。それをまぁ批判してるわけだ。話の総括みたいになるけどさ、その流れを作り出しているのはイデオロギーだよね。それこそまさしく流れの源泉でしょう。まぁこればかりは鶏が先か卵が先かみたいな話になっちゃうけどね。


抵抗するって大変なことだけどんでもその抵抗するものに対する感覚ってあるじゃない?それが天の邪鬼的にさ、俺は高貴だから大衆の流れには抗うんだみたいなそんなのはただの天の邪鬼っつーか馬鹿でしょ?そうじゃなくて自分もその流れに流されそうになるけどその流れに対する違和感は凄まじく感じているというさ、で、その流れに抗うってすげー人としてdecentな感覚だと思うのね。高尚だから抗えるということではなくて自分は奴隷ではなくて人間だから抗えるっていうさ、そういう人間らしさだよね。そういう意味でのさっき俺が書いたnobleというのは奴隷との差を表す人間らしさという意味でのnobleなのね。つまりは奴隷と違って思考力があるわけじゃない?それってもう奴隷と違うんだからさ、奴隷と違う道を歩みなさいってことだよね。


まぁ大半の流れが奴隷の流れってのはいつの時代もそうなんだけど昨今はその流れが著しいからさ、抗うのが大変だけど、んでもその違和感は絶対正しいですよって言いたいんだよね。流れに抗ったところでどうなるの?って言われるとまぁどうやって流れに抗って生きていけるのか?っていうのはまた別問題だけどさ、んでもまぁまず思考のレベルで「おかしいぜ。これ」って思えるのってまずはいい線いってますよってことだよね。人間らしい思考力を持ってますよってことだよね。で、その違和感からスタートしましょうだよね。スタートポイントはまず間違ってないわけだからさ、その違和感を肯定しましょうってことだよね。


これって人生を分ける境目だと思うんだよね。安きに流れるか人間らしさを肯定して生きていくのかさ、まぁ安きに流れる中で気づいてもいいんだけどね、んでも最近読んだ高柳昌行の「汎音楽論集」って本の中の「ジャズ・ノート、批判と断想」に書いてあったことなんだけどさ、すげー示唆的だから引用するとさ、

商品として需要と供給の兼合いを無視したところ、質価値に位置するものを発表し続けるとなれば、自立の為の、自分なりの生活を確立させなくてはなるまい。出来るなら、現場の実態を知る為にも、ある時期その延長線上に何らかの係り有る「仕事」を持つ方法が望ましいが、余程怜悧な判断力と、確たる価値観を持っていぬ限り、ほぼ九十五%以上がその渦に巻き込まれ、押し流されて目的から離脱して行く。並の体力、神経しか持たぬ者は、生活の為の方便に追われ、周囲に目を向ける事も、テクニックを磨く事も出来ず、とりもなおさず安逸な「仕事」に身心共に馴れてしまい、ついにどっぷりとその濁った澱みの中にひたって終わるのである。そして過去に目指した目的等、その痕跡すら残さず忘れ果てるばかりか、無意識の中に抱く本能的なコンプレックスから、相変わらず地味な活動を続けている人種に敵対する。


又、考えた挙句、全く音楽とは無縁の所に収入源を得た場合も類似した結果を見る例が多い。この場合の原因も前者と同様であるが、それに仕事中は楽器にも触れられぬというハンデがプラスされ、次第に遅れが目立って来るとなると、本人も時間の不足を理由に、細部への注意を怠る様になる。その上に、適当なところで誤摩化す手を身につけると、楽器は重荷になり、音楽は遠のいてしまう。いずれにせよ、不安定な生活の中で、音楽活動を持続して行くには、何よりも果敢に自己に立ち向かい、総ての面で鍛え上げることが必要である。と同時に対外的に、或いは自身の周囲から、予想もつかぬ問題に行き当たった場合も、的確なアドバイスを与えてくれる真の理解者を見出す必要性は前述したが、日常生活の中でも、音楽を通してお互いに切磋琢磨して行ける友人を多く持つべきだ。


長い引用だけどさ、これって音楽に限らず生き方そのものに通ずることなんだよね。勝手に概念を敷衍してしまえばさ、社会との兼合いを無視して自分が信じる道を行くとなるとまぁそれは大変だし、自立していく自分の生活を確立させなきゃいけないんだけどさ、いや、つまりはその確立でいいんじゃないか?って思うわけ。いや、自分を労働力として社会に身売りすることだけが兼合いじゃないんだしさ、兼合いを無視するというのはちょっと言い過ぎたかもしれないけど、んでも自分の身売りをするということしかないように見えるという場合にも、自分のやりたいこととか道は分からないけど、でもまずこの身売りに違和感を感じるし、違和感を感じないで身売りに必死になっている周りにも違和感を感じるということなのであれば、その違和感に忠実であれってことなんだよね。


それがさっき書いたその違和感を肯定するところからスタートするってことなんだよね。で、俺から言わせればそれはまず人間的に絶対あってる感覚だからまず間違いないってことなわけ。でもどうやって食っていくの?ってのが問題になるんだけど、そこでなんとか食っていくという生活を確立させるということに目標をシフトしてもいいわけじゃん?その中で必要な分のさ、渦に巻き込まれないぐらいの仕事があればそれを選んでもいいんだよね。それがメインになると高柳も書いてるように大体はまぁ押し流されるってことでさ、つまりは労働が人間的な活動を妨害するということになるわけだよね。


もしくはその妨害された生活に慣れきってさ、んでその生活を肯定するようになったりさ、「これが社会人だ」とかって言い出したりね、あとは高柳が言っているような「無意識の中に抱く本能的なコンプレックス」からさ、そうじゃない人間らしい生活を送ろうとしようとしているものに対して「ナイーヴ過ぎるよ」とかさ、「大人になれよ」とかって言ってみたりするようになるんだよね。腐った人間の確立だよね。そんなんでいいんですか?貴方は?ってことだよね。俺が言いたいのは。


高柳ほどのストイックな切磋琢磨するさ、自己と向き合うような人生を送れって言ってるわけじゃなくてさ、そこまでいかなくてもね、人間性を保ったまま安きに流れない生き方というのを自分なりに確立するという選択があってもいいじゃんってことなんだよね。人間性を捨ててまで奴隷としての安定を求めるんですか?ってことだよね。大体はそういうのはつまらない人間になっていくしさ、成功する人なんて最初から奴隷の道は選んでないわけ。そういう意味でシュトレーバー的な奴隷っぽい努力なんて一切してないといっても過言ではない。ただひたすら成功への道を突き進んできた結果成功したって感じだよね。


もちろん最初の入り口としては例えば中小企業に就職とかってのもあるかもしれないけど、奴隷としてのスタートではないと思うんだよね。もしくは奴隷としての自分に違和感を感じ続けて途中で道を変えたとかさ、あとは元々その就職先に自分のやりたいことが重なっていてさ、そこでスキルを積んで自立とかさ、そういうのはつまりは消極的な就職じゃないよね。生活苦に陥るのが怖いから就職とかじゃなくてさ、やりたいことのための就職とか目標に向かうための就職だもんね。


その目標なり道なくしてさ、ただ「仕事」をするためだけに社会に出るとかって本末転倒だと思うんだよね。あと社会との関わりって別に労働を通してでしかできないってことじゃないわけだしさ、そんなのやり方なんて模索していけばいいと思うんだよね。もっとも俺から言わせてもらえば一個の職場なりなんなりっていう狭い場所に通い続けるのが社会性とかってことじゃないと思うんだよね。そんなのめっちゃ狭い世界観なわけで逆に社会性なんて無いんじゃないか?って思うわけ。ただの蛸壺性でしょ。そんなの。いや、もちろんね、模索には時間がかかるんだよね。大学3年から就職活動みたいな流れからはまぁ大体は得られないもっとちゃんとした時間が必要なんだよね。


大枠の流れから逸れるのは怖いかもしれないけどさ、んでもその大枠って何なの?っていうかさ、大枠でやってる人達ってどうなのよ?ってのをもっと考えたほうがいいよね。それって大枠とかマジョリティってことだけでなんとなく肯定されてない?っていう。彼らは幸せなの?っていうさ、みんな幸せそうにやってればまぁそりゃーいいけどとてもそうは思えないからねぇ。安定ばっか求めるやつらはもう奴隷だからしょうがないよね。そういうやつらを説得しようとは思わない。でも安定した先の人生とかが見えているんだったらさ、それに対してもっと考える時間を持ったほうがいいんだよね。


いや、社畜みたいになってさ、んで仮に家族とか持ったとしても子供の養育費とか教育費とかさ、家のローンとかさ、そんなのに一生振り回されていつでも生存権が脅かされるという恐怖に苛まれるみたいな人生でいいわけ?ってことだよね。過去には一旦会社に入れば終身雇用は約束されてたからまぁ安定はあったかもしれないけど今は無いわけだしさ、家族とか家持ちたいとかも分かるけどまずは自分の人生を持てって話だよね。で、そこが上手く行けばさ、他なんていくらでもついてくると思うんだよね。もしくはついてこなくてもついてくるような方向にまずは自分の人生を確立してから模索していけるじゃん?


そんな人生の確立も無しにただ会社に入って安定を求めるなんてまぁ人間じゃないよね。本当に家畜とかと同じレベルだと思うわけ。安定が欲しいって言うなんてさ、生きたいって言ってるようなもんだからね。いや、それは当たり前だけどさ、人生を通して何をやりたいのか?とかさ、何を達成したいのか?とかさ、それを目指して行くのが人生だと思うんだよね。食う為だけに生きるなんて家畜だよね。マジで。よくもまぁ安定したいなんて言えるよなぁーって思うわけね。安定だけを求める人生に安定なんて絶対訪れないよね。安定ってのは結果なんだよ。それこそ心の恒常性とかさ、物理的な生活のバランスとかさ、自分の欲求とかね、そういう色んなもののバランスが保てて始めて安定って生まれるわけよ。物理的な安定だけ求めたって真の安定なんて生まれないよね。まぁ惰性で生まれる場合もあるかもしれないけどそれはただの慣性だよね。「濁った澱みの中にひたって終わる」ってことだよね。茹で蛙状態だともうその淀みすらも分からなくなるわけ。


Quality of Lifeって言葉があるけど、このQualityってのは何も生活水準だけを表すものじゃないからね。むしろ精神的な充足なわけよ。俺的にはウェイトはそっちのほうが多いと思うんだよね。別に広い家住まなくたってやりたいことやって生きていければそれって最高じゃん?広い家に住む為にやりたくないことばっかやるとかって本末転倒だよね。まぁ最高なのはリッチになりながらやりたいこともやるってことだよね。金はそりゃーあったほうがいいしそっちのほうがやりたいことの幅とかってどんどん増やせるじゃん?物理的な制約が無くなっていくからまぁそれだけ自由度が高くなるってことだけど、んでも金があるということに対して自由が奪われるんじゃそんな金いらないよね。金稼ぎにすげービジーになるぐらいならそんなのいらないよね。


それこそ自分の為に金が使える余裕すらないような生活なんて嫌じゃん?まぁそういうバランスは個人個人によって違うよね。だからまぁ俺は何も清貧とかを推奨してるわけじゃないんだよね。別に貧乏である必要はないんだしさ、むしろ一生奴隷は嫌だからこそさ、貧乏は嫌だからこそ自分の道を歩むぐらいのモチベーションがあってもいいよね。やりたいことをやるってことの中に金持ちになるってことも入ってると自ずとそのやりたいこととお金が結びつくっていうかさ、やりたいことの社会性っつーか社会とのconnectivityみたいなのが生まれやすくなると思うんだよね。まぁそれは俺の思考の経験から言うことだけどね。やりたいことだけだと独りよがりになりがちにもなるからやりたいことの質は絶対的に担保しつつも金稼ぎも考えるみたいな思考のスペースはあったほうがいいよね。


そのほうがやりたいことがもっと楽しくなると思うんだよね。金稼ぎとやりたいことが重なったらまぁもう最強だよね。成功者なんて大抵それが重なってる人達なわけで。そういう意味でやりたいことだけをやるって重要なんだよね。それはちょっとの金じゃない大金を得るために必要不可欠な必要条件だと思うわけね。結果的にそれを極めれば安定なんて嫌でもついてくるぐらいのものだと思うわけね。お金とか社会ってのを考えた時にさ、やりたいことだけをやるっつってゲームばっかとかオナニーばっかとかってありえなくなるじゃん?むしろ社会とかお金ってのを考えたらオナニーはともかくゲームなんて無駄だからやらなくなるよね。


お金にも極めれば結びつきそうなことばっかをやるってことだよね。そこがなんつーかまぁさ、そのやりたいことの中に社会とかお金を入れることの重要さなんだよね。結果的に生活の心配もする必要がなくなるしさ、お金はあるから色々やりたいことができるしさ、まぁ絵に書いたような幸せが得られるわけじゃん?まず奴隷じゃ無理な生活だよね。いや、リスクはあってもそっちのほうがよっぽどいいと思うんだよね。一生奴隷よりかは。俺的に言えばもう奴隷なんてそもそも人生の終わりだからさ、選択肢に無いよね。仮に達成が無理だとしても俺は自分のやりたいことをなんとしてでも極めるね。こればかりは譲れないね。何しろこれが俺の人生だから。これはマジであっちに居る時からずーっとコンセプトは変わってないね。場所とか状況が変わっても不変なことだよね。むしろ自分の中で普遍的なことだからこそ場所とか状況に左右されないんだよね。それだけ揺るぎないっていう不変な芯があるわけで。


なんか結果的に一年の締めくくりにふさわしい良いのが書けた気がするね。俺的にもこれが来年の抱負にもなるし。久々に放出しただけあって長いのがドバーっっと出た感じですな。


ってことで今日はこのへんで。