ゲーデルの神の証明について。

ゲーデルの神の証明ってあるでしょ?

P(φ) φは肯定的(またはφ∈P).
公理1.P(φ).P(ψ)⊃P(φψ). 任意の数の連言
公理2.P(φ)∨P(〜ψ). 排反的選言
定義1.G(x)≡(φ)[P(φ)⊃φ(x)](神)
定義2.φEss.x≡(ψ)[ψ(x)⊃N(y)[φ(y)⊃ψ(y)]]. (xの本質) xの任意の二つの本質は必然的に同値である。
p⊃nq=N(p⊃q).必然性
公理3.P(φ)⊃NP(φ)
〜P(φ)⊃N〜P(φ)性質の本性より導かれる。

定理.G(x)⊃GEss.x.
定義.E(x)≡(φ)[φEss x⊃N(∃x)φ(x)].(必然的存在)
公理4.P(E).
定理.G(x)⊃N(∃y)G(y),
  ゆえに(∃x)G(x)⊃N(∃y)G(y);
  ゆえにM(∃x)G(x)⊃MN(∃y)G(y).(Mの可能性)
M(∃x)G(x)⊃N(∃y)G(y).
M(∃x)G(x)は、肯定的な性質すべてを含む体系が両立可能であることを意味する。なぜなら、
公理5.P(φ).ψ⊃nψ:⊃P(ψ),よって
x=xは肯定的
x≠xは否定的。


肯定的性質ってのを俺は勝手に「存在」と思ってるんだけど、結局これってアイデア的にスピノザの汎神論と一緒だよね。あとはブラフマンとかの梵我一如だよね。ゲーデルの神の証明自体は別に学術的に成功したわけじゃなくて、むしろゲーデルの歴史を考えれば失敗作だったらしいけど、でもまぁ言いたいことは分かるよねっていうかつまりはその汎神論的な世界観を論理式で表して証明しようとしたわけだよね。スピノザで言えば神ってのは実体っつーよりかは相互依存的な幾何学の体系そのものとかさ、その繋がりとかさ、まぁこれを縁起って言っていいか分からないけど、つまりは縁起の総体を神とでも呼んでおこうってことなんだよね。スピノザはそんなに詳しく読んでないから語れる筋合いは無いんだけどさ、でもなんつーかそもそもの最初の肯定的な性質っていうさ、存在と言えるものがあれば他の存在もまたその存在の延長上っていうか縁起によって生まれるものなんだけど、恐らくなんつーかスピノザが神と読んでいたのはビッグバン的なさ、その最初の肯定的性質とは何なの?ってことでそんなのはなかなか無い話だからまぁ神みたいなもんだろうってことで便宜的に神って読んでる気がするんだよね。


これは例のチャイティンのランダム性の証明で「全知全能」のライプニッツ的な神はいないってことが証明されたというのと両立性があるよね。そもそもゲーデルにせよブラフマンにせよスピノザの神にせよ、彼らの言う神は全知全能の神ではなくて、つまりは存在の必然性そのものが神であるってことを言ってるわけじゃん?だから偶発的に出てきた何かというのも神がお作りになったというよりかはその原因となる自己原因としてのオリジンって意味でのさ、onenessみたいなのを神格化した梵みたいなもんだったりさ、そこからの存在なり存在の必然性の無限連鎖が神なんだよね。だからまぁ全部が神の派生というかさ、実体と言えるもののオリジンが神ってことだよね。


でもそれは何かをお作りになられるようなもんじゃなくて唯一性という性質によってその神性が規定されるみたいなことだよね。さっき無限連鎖が神って書いたけど、別にそれは神の所産ってことではないからね。全部知ってる神様がいるってことじゃなくて、存在の必然性によって常に存在するものから神らしきものに行き着くという意味での連鎖ってことね。まぁでもオリジンの点としての神という感じよりかはスピノザ的に言えば全ての属性を含むものが神ってことなわけでさ、それはつまりは実体というよりかは存在の体系そのものなんだよね。で、人間には想像がつかないわけだよね。それは。だって宇宙とかでも分かってないこととか多いわけじゃん?でも神はそんなのも全て包括してるんだよね。


だからそれってもう具体的な像とか絵って浮かばないよね。それが神なんだな。人間には基本的に認識不可能だよね。仮にそれを認識できるやつがいたとすればそいつが神だろうっていう。まぁそれは分からんけど。なんかかっこいいよねぇー。スピノザとかさ、あと物理学者とか数学者に支持者が多い仏教とかインド哲学とかさ、数理的なチャイティンとかゲーデルとかみたいなのの中で、スピノザ的な神というのは存在しているとかしていないとかって言えないような形而上学として置かれつつも反証が不可能っていうかさ、まぁその呼び名次第だよねっていうか、まぁそれは全知全能の神みたいな考え方をするとそんなもんはいないって証明されたわけだけど、スピノザ的な神ならいるよねっていうか、そんな意味でアインシュタインも一般的な宗教における神は信じてないけどスピノザ的な神なら信じるけどねぇーみたいなことを言ってたのもつまりは科学とコンパチブルだからだよね。


エルデシュとかもスピノザ読んでたらしいんだけど、俺の中でさ、スピノザっつー哲学の分野とか仏教とかインド哲学とか数学とか物理学の世界観が繋がるのってすげーエキサイティングなことなんだよね。繋がるというよりかはそれは人間が理解可能な範囲での真理を共有しているからなんだよね。つまりは細かい違いはあるかもしれないけどどれもこれもオントロジカルなことでは類似性があるっていう。素敵過ぎるよね。これ。


まぁでも全部が一緒ではないよ。仏教はまぁ宗派によっては輪廻転生があるって言ってるところもあるしさ、あとは実体的な神がいるとかって言ってるところもあるからまぁ一概に一緒とは言えないんだけど、俺が言ってるオントロジーとしての仏教はやっぱ中観だよね。スピリチュアリズムは俺は苦手だからさ、まぁオカルトとしては好きだけど、真面目に語るものではないよね。何しろあんなもん科学じゃないからさ、問題外だけどね、かといって別に排除もしないんだよね。何しろ科学は万能ではないからさ、そんなのありえない!なんて不完全な科学の観点からなんて言えないじゃん?だって万能じゃないんだから。その辺のね、なんかさ、プラトニズムっつーかイデア論とかもそうだけどさ、厳密さとか科学的かどうかを考えると問題外なものにもさ、それを分かってても研究したいっつーか、イデア論から学べることって俺的には多かったりするし、それこそフッサールとかがイデア論の定義とかしてたりするじゃない?だから形而上学って面白いんだよね。


なんつーか形而上学が科学である必要はなくてさ、仏教にせよなんにせよ真理への形而上学的な示唆みたいなのがあればそれはもう評価に値するってことだよね。それが哲学の強みっていうかさ、科学的な厳密さというのは当然のこととしても、自明で語れないことに関しても何かを紡ぎだすみたいな感じっつーか、「語りえないことについては沈黙せざるをえない」じゃないのよね。そんなんで形而上学は克服できない。形而上学ってのは語り得ないことを語り得ると思い込むことではなくて「語ってみる」ってことだと思うんだよね。そういう意味でそもそも形而上学は克服するものでもなんでもないわけね。言語化はできないしする必要はないけど概念上存在しているものっつーか理解してるものってあるわけでしょ?つまりは言語の限界=哲学の限界ではないんだよね。概念が全て言語で記述可能ではないじゃん?密教みたいな話になっちゃうけどさ、チャイティンとかも書いてたけど数学に意味はないじゃん?論理記号のゲームとかルールの体系みたいなもんなんだけど、でも人間がそこに深遠な意味を見出したりすることはあるでしょ?美しさとかもそうだけど。だからまぁそれは客観的真理ではなくて主観的なものなんだけど、でもその主観的なものを語るということが哲学だと思うんだよね。


スピノザ幾何学的な構造でエチカを書いたのもさ、主観的な哲学に客観性を持たせようとしてのことだったと思うんだよね。幾何学的な構造の中で言説の矛盾が出てこなければそれは体系であるみたいなことでしょ。ようは。だからスピノザは恐らく最初から全ての幾何学的構造が頭の中にあったわけじゃなくて、頭の中にある概念を幾何学構造に落とすことによって、証明がまた別の証明を生み出すみたいな自己生成的なものを期待してたんじゃないかと思うのね。オートマトンだよね。自分が述べたい哲学とか知りたいということも幾何学的構造に自分の哲学を部分的に落とすことでオートマトン的に得られることがあったりするわけだね。ユークリッド幾何学体系を作ったのだってあれはプロセスの結果なんであってさ、ユークリッドが最初から全部知ってたものを幾何学的記述によって表したというものではないじゃん?で、なんつーかスピノザは哲学的なものを題材にそういう演算体系を導入したかったってことだと思うんだよね。


かといってもそれはテーマが「神」とかだったりすると最初から形而上学だから科学にはならんのだけどさ、だからといってそれが意味無いってことにはならないじゃん?ようは内容が形而上学だからといって沈黙しなくたっていいってことだよね。


まぁ今日はそんなところでいいかな。



伝記かと思ったら小説仕立てになってて面白いなって感じです。長いからまだ読み終わってないけど。