インプロヴィゼーションについて。

即興演奏についてなんだけどさ、ベイリーのインプロヴィゼーションってのを最近読んだんだけど、なんつーかまぁインプロって一言に言っても色々あるよねっていう。そもそも概念が曖昧で抽象的じゃん?例えばフリージャズが全然フリーじゃないってケージだかが言ってたと思うんだけど、それって音の解放とかって言っておきながら全てを音で埋め尽くそうとしてるとかさ、結局はジャズっていうイディオムから抜け出せてないとかさ、まぁ色々批判はあるよね。ジャズ系のインプロは確かにまぁ胡散臭いのが多いよね。


インプロの世界を開拓してきた人は違うけどさ、結局まぁなんつーかインプロっぽい演奏方法ってのがもうイディオム化するじゃん?サックスならアイラーっぽいフラジオ音を出すとかなんとか。まぁそんなんでなんつーかフリーインプロヴィゼーションみたいなのも形式化するんだよね。お決まりの技法があってさ、んでお決まりの盛り上がりがあって終わり方があるっていう。もうそれってジャンルなんだよね。フリーインプロヴィゼーションっていう。


カルちゃんとかさ、まぁ本名を書くとZbigniew Karkowskiだけどね、カルちゃんとかもインプロなんて不可能だって言ってたりアートリンゼイも言ってた気がするけどさ、でもまぁ俺がなんとなく思ったのは即興ってプレイヤーの即興というやりかたというよりかは能的な一回性の場だと思うんだよね。能って伝統芸能の能ね。ウィキから引用しておくか。

即興芸術としての能
また玄人による能は、入念なリハーサルを行わない上に一度きりの公演であるという点も独特である。通常の演劇では事前にリハーサルを重ね、場合によってはゲネプロと いう形で全て本番と同じ舞台・衣装を用いるが、能では事前に出演者が勢揃いする「申し合わせ」は原則一回であり、しかも面や装束は使用しない。これについ て前出の八世観世銕之丞は、能は本来、全て即興で演じられるものであり、出演者同士がお互いのことを解りすぎていることは、能においてはデメリットになる と論じている


つまりはこの八世観世銕之丞って人の能の定義だよね。それこそがまさしくなんつーかインプロってことなんじゃないか?って思ったわけ。能については他にも幽玄だとかさ、現世とあの世の境目みたいななんつーかシュルレアリスティックな感じとかがあって前から興味持ってたんだけど本読んでないんだよね。いや、能を見ること自体には興味なくて、コンセプトとか思想に興味があるのね。


で、まぁ俺が定義したい即興演奏とはね、まずは一回性というものを担保する場というのが必要で、つまりは数人とのジャムセッションが必要になるわけだ。でもプレイヤーはお互いのことはさっぱり知らなくて、どんな畑の人かどうかも分からない。ジャズ系で集まればそりゃージャズ系のインプロになるけど、それってのはもう定型のインプロだよね。でも本当のインプロというのがあるとすれば、それはプレイヤーの演奏というよりかはお互いを知らないプレイヤー同士が初顔合わせでその場の一回性の音楽をジャムで紡いでいくってことだと思うね。俺が思う即興ってやっぱこれだな。


知らない他者ってのがいないと成立しないのが即興だと思う。顔の知れた人達が即興演奏のジャムやってもやっぱそれって知ってるもの同士の定型な即興演奏になると思うんだよね。だからまぁ相手がとりあえずなんか演奏をするらしいっていうこと以外は何も分からない人と初顔合わせでジャムするってのが即興だと思うね。カルちゃんとかリンゼイがそんなの無いって言ってる即興はそういう定型の即興なんだよね。結局はジャズっぽくなったりロックっぽくなったりファンクっぽくなったりするじゃん?っていうような意味でのさ、イディオムから抜けきれるわけがないって意味での不可能性っていうかなんていうか。


でも知らないもの同士ってさ、仮に俺がギターだったとしてセッション相手は雅楽かもしれないわけだよね。で、リズムパートはタブラでドローンはシタールが作るみたいな。そんな中で俺がどうギターを弾いていけばいいのか?って考えながら弾いていくのが即興だよね。ジャズ同士で集まってもジャズにしかならないじゃん?結局。でもわけわからない色んな人たち同士が集まったらどういう音が出るか分からないしさ、何やっていいかも分からないじゃん?そんな中でジャム演奏を成立させるということが即興演奏ってことだね。まぁまだディティールは必要だけど、とりあえず今回俺が言いたいことは即興演奏を規定する要素の大きなウェイトを占めるのは場だってことが言いたいってことで今日はもう終わるわ。