転校生とブラックジャックを読んだんだけど。

永井均の転校生とブラックジャックって本を読んだんだけどなんつーかこの人って俺の哲学に対する考え方に似てるなと思って。まぁシンプルなことなんだけどね、「普通のことができないから」みたいな。ただ哲学とかある一点っていう場所には揺らぎないものっていうか妥協を許さない強さってのがあってさ、ただそれ一本だからむしろ生活なんて適当になっていくっていう、なんか似たような人がいるもんだなぁーって関心しちゃったね。この人の場合、この本からも分かるように知識量が半端じゃないのと、エンタメ的に楽しみながら哲学を読めるみたいなライティングの技術も凄くてさ、なんかある意味での完成系だなって気がしたね。この人のはニーチェのしか読んだ事なかったけど、この本もそうなんだけどさ、本人は哲学研究じゃなくて哲学そのものを書くのに学術論文というのは適してないと思っていて、だからこの本みたいな形で出力したりさ、で、それが自分で前に書いた学術論文とかよりもレベルが高いものになってるとか、なんかまぁ分からんけどね、この本を読む限り凄く理想的な人だなと思ったね。


学者にしても哲学者にしてもそうだけど、こういうリアルタイムっていうか今の人って意味での哲学者ってまぁ少ないけどさ、まぁそれはともかくそういう今の人が言う哲学感って大抵が違和感を覚えるものばかりなんだよね。「そうだよなぁー!」って共感できるようなのははっきり言ってなかったと思うけど、永井均はこの本で言っていることを真に受けるならなんつーか凄く共感ができる哲学感を持ってるっていうかなんていうかさ、内容のほうはまぁ最高だからとりあえず読んでみて。俺が前から書いてるさ、哲学の仰々しさの破壊とかね、もっとエンタメとして出していいとかさ、ようはくだらんアカデミアとかから本来すげー自由な思索活動である哲学ってのを解放したい!なんて夢を語ったことがあったけど、まぁこの本は一つの雛形だと思ったね。これなんですよねぇーっていう。それでもまぁ漫画レベルの入門書ぐらいしか読めない人達には読破が難しいかもしれないけどね。


なんかもうすげーなんつーか羨ましいんだよなぁー。この人みたいな感じで書けたら最高なのになぁーとかって思っちゃったよね。そういう意味だと野矢さんなんかも上手いよね。エンタメと哲学の橋渡しをしつつ高度な議論を展開している人達というのを俺は凄く尊敬するね。まさしく俺が思う象牙の塔からの哲学の解放ってのをやってる人達っつーかまぁ俺から見ると解放に見えるような著書を発表してるって意味でさ、凄いな!って思うわけ。本の楽しみってこういうところもあるよね。仮に内容が既知のものであってもさ、展開が面白いとか切り口が面白いとかさ、作品として良いみたいなのってあるじゃん?ようは内容は哲学だったり数学だったりしても学ぶというよりかはそういうモチーフの作品を読むって感じだよね。そういう意味でまぁ趣味の読書も兼ねてる感じだよね。ガチの読書っつーとやっぱアカデミックな本になるんだけどでもこういうのばっか読んでても飽きるからね。


で、今日書きたいことはさ、そんなに長くならないんだけど、まぁ俺って何?ってことだよね。この本の中で色々展開されてることなんだけど引用とかやってると時間かかるからササーッっと書きますとね、SF的な思考実験でさ、俺と全く同じ記憶とか経験ってのを持った別の俺ってのが仮に作れたとしてさ、んじゃあそんな中で俺の一意性ってどうなるの?って話じゃん?俺が俺であり続ける理由って何なの?みたいな。まぁ本の内容と若干違うかもしれないけどさ、結局なんつーかこれって攻殻機動隊の話だよね。俺がオリジナルで、完全再現の複製を作ったらそこにゴーストは宿るのか?みたいなさ、仮にそれがゴーストを持ったらそれって俺なの?っていうさ、俺はね、それはあれなんだよね、俺を俺足らしめているものは経験とか記憶だと思ってたわけ。つまりは俺がニューヨークに居たとか、こういう家族の中で育って来ましたとか、登校拒否になってこんな音楽聞いてました・・・とかっていう事柄の延長上に位置するものが俺だよね。そういうのを経験してきている主体が今もその主体の中で俺を経験しているということがつまりは俺が俺であるみたいなさ、まぁちょっとデカルトに似てるかもね。


デカルトは思うってことだけど、俺の場合はなんつーか俺っていう形成されてきた人格のままで今を同じように経験しているということが俺を規定しているみたいなもんなんだけどさ、でも人間って常に変わるじゃん?それこそ人が変わったように・・・みたいな言い方もあるぐらいでさ、まぁそれでも俺は俺なんだけど、んでも記憶喪失とかさ、あとは脳障害とかで人格とか変わっちゃったらそれってまぁ生物上っつーか戸籍上俺ってことなだけでかつての俺はいないわけだからもうそれは新しい俺だよね。


つまりはそこで経験なり記憶という連続しているものの断絶が起こったらそれはもう俺じゃなくなるってことだよね。まぁ身体は俺だけど。でもまぁなんつーか精神にさ、成長過程でのまぁ影響ってあるじゃん?育ってきた環境によって作られる人格とか精神構造ってあるでしょ?それは残ってたらまぁ辛うじて俺って言えるかもしれないけどさ、まぁ俺が言いたいのは万世一系みたいな感じだよね。記憶と経験が絶えることなく続いているということで今もそれは俺だって言えることになるんだけど、んでもそれだとまぁさ、完全コピー作っちゃったらそれも俺だよね。だって記憶とか経験とか全部俺と同じのを持ってるわけでしょ?そうなるともう定義できないよね。それこそ音楽ファイルとかと同じ感じになるよね。録音物にオリジナルなんて無いじゃん?まぁオリジナルテープっつーかマスターテープが俺ってことになるよね。でも内容的に大量生産されるCDとかmp3とかと変わらないわけでさ、マスターテープとCDの差ってまぁ内容で言えば無いわけじゃん?マスターテープに入ってる音源もCDの音源も同じなんだから、そもそもどっちがオリジナル?みたいな話って成立しなくなるよね。


恐らく括弧付きの「私」っていうパラダイムは複製とかタイムマシンとかがありえないっていう場合にしか定義できないものだと思うね。思考実験的に今の所ありえない状況を作っていくと結局「私」なんてのは無いかさ、もしくはまぁ大量の別だけど同じ私が大量生産されるみたいなさ、でも俺がさっき書いてた経験とか記憶とか人格って意味では全く一緒なんだからさ、どいつもこいつも俺だよね。まぁんで結局だからまぁ今の世界で私が私って言えるのはさ、やっぱさっき書いたような連続性だと思うんだよね。こういう記憶とか視覚とか脳とか経験とか感覚ってのを持った俺が俺を通して何かをまた経験したり見たりしているという連続的なことによって毎回毎回自己性みたいなのが担保されると思うんだよね。前に思考の連続性ってのを書いたけど、まぁパラダイム的にはそれと同じやね。


買いたいものがあるから本当のお気に入り以外のジャズのレコードとかもういいかなっつって売っちゃうとかさ、過去にあれだけオブセッシヴになって買っていたレコードを手放すなんて考えられないことだけど、でも今の俺はやるんだよね。認識が変わったとかさ、考え方が変わったとかまぁ色々理由はあるけど、でもそれもジャズに限らずレコードを買いまくっていたっていう自分の記憶とか経験とかまぁ実際にそういうようなことをやってきていたっていう先にあるレコードを売るっていう行為じゃん?だからそこには連続性があってさ、まぁつまりは俺ってのが常に俺を通して俺を経験している中で更新されていくものってのがあるわけだよ。それをまぁ俺は成長だと思ってるんだけどね。


趣味が変わったってことはあんまり無いよね。基本やっぱ映画と音楽と読書ってのは変わらないけどさ、でも接し方とか捉え方が変わるんだよね。そういう変化も全て今までのことありきで起こっているということでまぁそういう色々なものとの関係性によって俺は俺であるって言える気がするんだよね。だからまぁ過去の記憶一気に無くしちゃったとかだとそれはもうかつての俺ではないよね。でも家族とかは俺だと思って接してくれるだろうけどさ、でもまぁ別人になったわけだから別人となった俺との新たな関係を築くことになると思うんだけど、まぁなんつーか人が変わってるんだもんね。


フロイト的な意味ではない自我ってのに俺はやっぱね「私」の根拠があると思うな。で、俺の完全コピーのものが他に作られてもさ、俺は俺の生き方をするじゃん?他の俺も俺っぽい生き方をすると思うけど、でも寝る場所とか生活する場所とか一緒じゃないよね。まず実家じゃないよね。どっか別に文明がある惑星とかだったらまぁそこから展開する「私」だよね。でも俺の「私」と言える感じってその場合揺らぎないよね。火星に別の俺が居たとしてもこのベッドの上で本を読んだりなんか書いたりする俺ってのは俺しかいないわけでさ、それがまぁ単一性ってことだよね。火星の別の俺もまぁ俺だよね。


で、完全コピーだから俺がオリジナルだとか言ったところでそれはあんまり関係無いじゃん?でもこの俺の身体で経験している俺は俺でしょ?そういう意味で「私」ってのは観念的なものだと思うわけね。まぁようは私っていう心だよね。これはつまりはゴーストってことだと思うんだけどね。まぁ火星の俺にも心はあるだろうけどさ、でもこの場所にいる俺の心とは火星にいるって時点で違うわけだから別の俺だよね。なんかさ、あとはまぁやっぱ仏教みたいになっちゃうけど「私」ってのを規定してるのはやっぱ関係性も大きいよね。うちの母親とかはコピーである俺にどう反応するか分からないけど、でもまぁオリジナルの俺がやっぱ息子だって認識すると思うんだよね。


それは人によって違うけどさ、でもやっぱ俺らしさって心とか今経験しているということ以外にもやっぱ場所とか生活とか人間とかも含めた色々な関係性で出来上がってるものだからさ、別に俺が作れたとしても、俺の他との関係性って別な俺には作れないじゃん?ってそんなことないか。記憶とか経験とか全部一緒になるんだもんな。そうなったらもうどっちが実家にいるのか?みたいな場所の奪い合いになるよね。その奪い合いをしている俺たちは揺るぎない俺たちだなぁー。


はい。もう分かりません。つまりは完全コピーできたらもう「私」って概念は無くなるよね。それはそういう世界がありえないかまだ無いっていう時代にしか通用しないものだと思うね。ようは完全コピーが出来るという状況が人間の定義を変えてしまうんだよね。よりロボットに近いものになるよねっつーか人間機械論的な観点が強くなると思う。人間は機械じゃない!って言えるのは今だけであってさ、この先は分からないよね。自我だのさ、「私」とは?なんてのが語れなくなるっつーか、語り方が状況の変化によってめちゃめちゃ変わるだろうね。結局だからまぁ今俺が「私」って言える俺な感じはあくまで今のものだよね。普遍的に「私」って言えるものはやっぱり無いんじゃないかな?って思うな。なんつーかもっと感覚的なものだよね。私ってのを感じられることで私が得られるんだけど、他にもいっぱいいたらそれが揺らぐっつーか壊されちゃうから私っていう概念の崩壊が起こるじゃん?まぁ必ず崩壊するとは限らないけどさ、でも「私」って感じるものだと思うね。そういう意味で感覚的なものってことが言いたいわけね。まぁ連続的な感覚だね。それが私でしょう。いつ断絶するかは分からない危ういもんだよね。思ったより強固なもんじゃないってことは確かな気がする。