惰性の不幸。

スカイリムはやりつくしたなぁー。最近さ、耳蝉のネット離れが凄いんだよね。良い意味でのオフラインだわっつってもエロサイトとか芸能ニュースは見るけどオンラインモードのときは凄いからね。四六時中ネット三昧でしょっちゅうウォール伝をチェックしたりつべのページチェックしたり。なんかでもこういうのもある意味飽きたんだろうな。もう経験が多すぎて何も面白いことがないもんね。で、やることないからスカイリムのどうでもいいやりこみとかやっちゃうのね。デイドラ装備とかDLCの家を建てるやつとか。


多分ゲーマーってそうだと思うんだけどさ、リアルではすげー怠惰なんだよね。それこそトイレに行くのも面倒なぐらい。俺で言えば食事すらも面倒なわけだ。なのにゲームの世界だと面倒なことをむしろ楽しんでやったり、それこそ家を3つも建てちゃったり(笑)カンカン家を建てながら思ったんだけどリアルじゃ絶対こんなことやらないよなぁーっていう、むしろ正反対だからこそバーチャルな世界で違う自分を演じるというか、楽しむんだろうね。リアルではひ弱なやつがゲームではチンピラみたいに暴力的になったりだとか。そういう意味でもいつも思うのはさ、ゲームと暴力の関係って絶対ないよね。俺で言えばゲームの影響で家を建てたり養子を迎えたり結婚したりしなきゃいけないのに絶対やらないからね。ゲームの世界の行動が現実の行動に影響を及ぼすならゲーマーのほとんどは正義の味方でなおかつ強くて頼りがいがなきゃいけない。んでもまぁそんなことないじゃん?


アラサーの人たちの嘆きでは本当にこういうのが多いよね。ようはゲームにも音楽にも飽きたってやつ。でもこれってまぁavailabilityの過度な発達によるものだよね。それこそ俺の世代なんかだと子供の頃はゲームなんて年に何本やれるか否かぐらいでさ、だから誕生日とかお年玉とかクリスマスとか大イベントだったわけじゃん?お金の使い道っつったら大きいお金はゲームに決まってるわけで。まぁ高かったからね。んだからまぁとりあえず買ったからやり尽くすってのはデフォだったじゃん?


やり尽くすぐらいハマれるゲームが無くなったのか、何でも買えるぐらいゲームも安くなったし何もかも一瞬で買えるからこそありがたみがなくなったのかは分からんけどさ、でも最近見たまとめサイトでさ、音楽が売れなくなった理由はネットの発達によって多様性が広まったんで偏りがなくなったからだって意見があったんだけど「なるほど!」って思ったよね。まとめサイトって下手な評論とか文章よりよっぽど言い得てるしなるほど!って思うことが多いんだよね。それこそ普通の人の意見ってそうだよねっつってもまぁ管理人が厳選して並べてるわけだけど。


いや、んでまぁこの偏りってのはさ、昔はドラマのタイアップだとかCMだとかでマーケティングされまくっててみんながマニピュレートされて同じようなものを買ってたんだけど、今はこっちが求めるものをネットで調べてんで聞けたり買えたりするようになったんで、逆に不気味なぐらい横並びでみんな同じようなのを買うってのが無くなったってのは本当に正論だと思うよね。それこそ売り上げとしてオーバーグラウンドでカウントされないようなものを買ってる人とかっているだろうし、あとかマケプレとかでの過去のテクノの名盤とかさ、あとは当時買えなかったものを安価で買うとかさ、そういう意味だと別に消費が減ったわけじゃないよね。まぁ減ったとは思うけどさ、まぁ一時期がバブル過ぎたんだわ。で、今は所謂売り上げとしてカウントされないようなものってのの消費が多いっつーかそれこそブックオフで売られてる中古CDとかそうじゃん?ようは売り上げって新品が売れてないってことでしょ?それってまぁ妥当な数に収束したってだけだよね。むしろ今の方が普通って気がするよね。


俺で言えば前にも書いたかもしれないけどクラシックっつーかまぁバッハとかドビュッシーとか決まったものしか聞いてないんだけどねっつーかクラシックが好き!って言えるほどクラシック好きじゃないんだよね。それこそすげーコンポーザーが限られてるわけで、クラシックというよりかはバッハとかドビュッシーとかラヴェルが強いて言えば好きで聞いてるかなってぐらい。で、まぁこういうのって俺の場合、父のCDなわけよ。まぁ当然売り上げにカウントされないわな。でもまぁ俺としては新しい趣味なわけよ。まぁ聞くのが無くなり過ぎたって結果なんだけど。あとあれでしょ?クラシックの輸入盤なんてのもカウントされないんでしょ?売れてないって騒いでるカスラックとか大手邦楽のレコード会社とか身内のしかカウントしてなさそうだもんね。それで「音楽の売り上げ」って言うなよ!っていう。いや、ブルースのCDとかの輸入版とか買ってる人とかいるわけじゃん?そんなに多くはないだろうけど。


で、なんの話だったのか。ああ。退屈だって話だ。こないだ書いたように知識そのものへの価値の懐疑というのが出てきてしまったので、かなり俺の土台が崩れてきているってことなんだけどね、でもまぁ一応認識的には進歩ですよね。知識を妄信するわけではなく疑ってるわけだからっつってもそれはイデオロギーとしての知識への愛とか価値観ね。毒されてたとは言わないけど、でもそれがなんで?っていうことは全然考えなかったね。それ自体がもう良いことなんだっていうよく考えれば意味の分からないアプリオリな感じがあったわけだ。まぁあの前に貼った「迷走する物理学」って本がよりその懐疑を強くしたってのはあるんだけどね。あ、んで貼ってなかったと思う。


いやさ、知識だなんだっつってそりゃんじゃあひも理論的な知識はどうか?っていうよりかはファイアアーベントはまぁ全部ようはひも理論みたいなもんじゃん!って言ってたってことだよね。そういう意味で物理学なんつっても占星術と同じじゃん!ってまぁ大げさな言い方として極端にそう言ってたんだけどさ、いや、でもあれだよね、一応あれじゃんね、数学からちょっと科学みたいなのもさ、科学史みたいなのも読むようになってきたんで、そういう意味での懐疑なんだろうね。いや、文系理系で分けるとこういう場合分かりやすいから困ったもんだ(笑)知への愛ってやっぱ文系的な感覚なんだよね。


で、懐疑は理系というか、分析的なんで冷静というか、まぁ良いってわけじゃないんだけどまぁドライじゃない?で、別に俺はドライになったわけじゃないんだけど、ただ前々からさ、結構な量がある本棚を見ては「俺は何を分かってるんだろう?」っていう強烈な虚しさに襲われるっていうさ、本棚の本が増えていってうれしがるのはバカだけだよね。むしろこんなに虚しくなるなんて!っていうさ、あとはやっぱり自分の知性に対する懐疑でもあると思うんだよね。俺が一番嫌いな馬鹿の考え休むににたりになってないかな?っていうさ、まぁ自己満足ならいいんだけど、そこはやっぱり社会的なコミットメントって前提としてるわけで、そうなるとやっぱり自己満足じゃダメだし、それだと余計冷めるんだよね。ゲームとどう違うの?ってところで。あとモチベーションが中途半端になって素人数学好きサラリーマンみたいになりそうだっていうさ、ああいう嗜む感じが好きじゃなくて。


で、やっぱりいつも書くようにやっぱりまぁやる側に回りたいわけじゃん?でも特にあれなんだよね、特に特出した数学者の仕事って何なの?って感じがするわけよ。特にヴェイユとかドリーニュとか、まぁグロタンティークもそうだけど、この辺の人たちってもう語弊が無い天才だよね。人によって評価が分かれるとかじゃないあまりにも頭が良過ぎて、でもそれだけならまだしも数学的感覚が信じられないぐらいあるんだよね。ここに凄い絶望を感じるんだよね。頭が良さ過ぎる人たちにはセンスを養えば余裕で勝てるようになるっつーかまぁ勝てるって言い方はアレだけどさ、まぁそれはなんとかなるのよ。困ったことに最近気がついたことではあるんだけどさ、大抵の卓越した数学者ってとんでもない地頭+とんでもない数学的感性があるんだよね。この両方あるっていったいなんなの?っていうさ、俺が「やる側になる」とか言ってるのが間抜けになるぐらいレベルが高過ぎて話にならないんだよね。


まぁ音楽でもそうなんだけどね。すげー音楽とかバンドとかでもいいんだけどさ、比べる必要は無いけどまぁでもあれを超える!とかまぁそこまでいかなくてもそんぐらいのレベルになる!とかさ、まぁ若いうちならそういう野望を持てるけどだんだん現実的になってくるとそれが無理だって分かってくるんだよね。少なくとも俺の場合はそうだよね。音楽に関しては本当にダメだわな。まぁでも昔のFPMとかUFOみたいに優秀なエンジニアとかがいて「こうしたい」って言えば実現してくれるってインフラがあれば作れるとは思うけどさ、まぁそれってようはセンスだけじゃないですか?技術も必要なんだけどそこは面倒なのか、あとはもう自分で見限ってるんだろうね。そんなに追求するほどの価値が自分に無いってのが痛いほど良く分かるわけで、それってまぁすげー!って思う音楽を聴いてれば明らかなんだよね。こんなのを1から作れるのか?って無理なわけで。


まぁ音楽も数学も1からじゃないんだけどね。色んな蓄積とかがあってそういうのがベースで生まれてくるものではあるんだけど、ただまぁなんつーんだろうな、この圧倒的な差ね。努力とか無駄だよねって本当に思うよね。しつこいようだけど地頭の部分は努力すればなんとかなる。天才が1時間で出来ることを1ヶ月かけるとかまぁそんぐらいの情熱があれば大丈夫だけどさ、でも絶望的なのは天才はそこだけじゃなくてさ、凄まじい処理能力っつー物理的なインフラがあってしかもその上にすげーセンスを持つアーティストみたいなのがいるっていう言わば凄まじいマシンなわけだ。話が前後するようだけどひも理論系はひたすら物理的な処理能力ばっかが目立つよね。


で、センスを発揮してるのはウィッティンみたいな一部の限られた人たちだけで、結局、そういう一部の人たちがカリスマみたいになって、それでむしろシーンが成り立ってるみたいなところがあるわけじゃん?フォロワーはひたすら計算ばっかしてなんのインスピレーションも無いっていう。そんなフォロワー嫌だよね。まぁ俺は計算嫌いだからまずありえないけど、でもこのグルの下にフォロワーって構造は恐らく大抵の学問でそうだと思うんだよね。そこでやっぱり努力が実りやすいのが実験系っていうか、あれって偶然とかもあるし、これでやってみよう!っていう直感とかギャンブルみたいなところがあるじゃん?っつってもまぁ山中さんとIPS芸人森口って猿と人間ぐらいの差があるからさ、何も実験系が知性を必要としないってことではなくてね、まぁ割と努力が実るかもしれない場合もあるっていうことがあるんだけど、完全に理論系の場合、バカがやってもくだらないレンマとかトリビアルな証明とかさ、せいぜいそんなのじゃん?あってもなくてもいいようなどうでもいいようなやつね。


そんなのを量産するのに何の価値があるのか?ってことだもんね。かといっても凄いことをやりたい!っつってんじゃあリーマン予想だ!ってことにはならなくてさ、別にああいうのって有名なだけで実際に重要か?なんてのは分からないからねっつってもリーマン予想はすげー重要だし、なんとなくだけど望月先生のABC予想の論文は相当素数系の研究を進めるものに違いないと思うんだけど残念ながら今の俺じゃ理解できないからさ、だからまぁとりあえず理解できるぐらいにはなっておきたいってことなんだけどさ、でもやっぱその先なんだよねぇ。


なんか俺が持ってるものってまぁ良いセンスだったり感性だったりするとは思うけどどれも中途半端っつーかなんか冴えないんだよね。光るものが無いっつーかなんつーか。まぁ本当に無い人から見ればあるんだろうけどまぁそういうレベルの話ではないんだけどさ、でもまぁちょっと持ってても中途半端じゃ持ってない人とほとんど変わらないっていうことが俺は言いたいわけでさ、そんなの何の価値があるんだ?って思っちゃうわけね。卓越した頭脳があるわけでもないしそれは感性然りだし、でも人一倍感受性は強いからストレスに弱いし、すぐ鬱になったりするし、マイナスの部分の感度はやたら強いんだよね。何も利点をもたらさないところは超一流なんだよねっつってもまぁ重度のさ、電気ショックとか必要なレベルではないにせよ、これは前から書いてるようにこういう精神性を持ってるのにギフトが何も無いんじゃただの役立たずじゃん!っていうことなんだよね。


んだったらせいぜい最初から普通にしてくれよっていうさ、無駄にエキセントリックで感受性が強くて、でも良い部分ではそこまで卓越したものが無いって最悪だよなぁー。こんな中途半端なもん掴まされて何をしていけばいいんだ?って感じで。そこを鈍い人たちはごまかしながらやっていけるんだろうけど俺はそこは残念ながら持ち前の感性でそういう生き方が出来ない人なわけじゃん?あとやたらプライドが高いからね。こういうのって下手すると最悪のタイプの人間にもなりかねないからね。もちろん日常単位で「俺は何かを成し遂げるんだ!」なんて思ってないんだよ。毎日虚しいなぁーとか思いつつ色々やってるんだけど、この虚しいながらも色々やるところに必要とされるものってのが頑張ればなんとかなるものなのか?っていうさ、そこなんだよね。バカの考え休むににたり状態なんではないか?というのが凄く恐ろしくなるわけ。下手の考え休むににたりだよね。そもそも才能もセンスもないんだし、ましてや卓越した頭脳があるわけでもないやつが何か考えたりしたところで無からは何も生まれないよっていうさ、その自分への凄まじい懐疑だよね。


頑張れば何とかなる!的な考え方ってごまかしだし下手すると宗教的なポジティブ思考にもなりかねないからそこはハッピーにはなれないけどやっぱり客観性が必要だと思っていて、だからやっぱそういう冷めた目で自分を見つめ続けるっていうさ、そんな中でも「俺やるじゃん!」みたいなことがいくつかあればやり続ければいいけどあまりに無いんじゃもう無駄だよって言いたくもなるんだよね。まぁ俺はこの先5年ぐらいのことを言ってるんだけどね。だからまぁせいぜい我武者らにやれる時期って限られてるし自ずと限界が見えちゃう時期はいつか来るだろうなってことなんだよね。そこで限界が見えるのが怖いって思ってても杞憂でさ、それって歳を取るのが怖いっていうぐらいのナンセンスなんだけどさ、でも加齢に抗うのがナンセンスなようにさ、限界に抗うのもナンセンスだよね。


もちろんモチベーションとしては元々俺はそこまで凄い人間じゃないから限界を常に超えていくぐらいの気迫が無いとただのその辺のポンコツと同じになっちゃうぞ!っていうような考えはあるんだよ。だからまぁこんだけ続けられるわけだけどさ、でもその辺の人と違うなんてある意味当たり前のことだよね。そんなもんなんつーかウィザードリーとかの何かの職業になるのに必要なステータスのパラメーターぐらいあって当たり前のことなんだよね。そういうレベルの話ではなくて。仮にあってもそれをやる価値があるぐらい伸びそうなのか?とか何か生まれてきそうなのか?ってことなんだよね。


で、哲学の場合、俺は自分が馬鹿だろうがなんだろうが色々と考えてしまうタチなのでそこはもうやるやらないっていうよりかは気質なんで生きてる限り考えちゃうだろうっていうそこはもうオッケーなんだけど、ただ夢は無いよね。これで何かを成し遂げよう!なんてことじゃないわけじゃん?そういう意味で数学は嫌らしい意味である種の結果って分かりやすい形で出るからさ、なんかそういう価値のあるリサーチ結果だとか、あとは既存のものを別の角度から独自に理解するとかね、ようは誰でも出来るようなことをやってもしょうがないし、それは俺の一番やりたくないことなんで、だから下手に数学を続けるってのが実は自分の一番やりたくないことをやってしまうということにならないか?ってことなんだよね。


そうなってしまうと本末転倒もいいところなんだよ。中途半端さやアマチュア加減を一番嫌う俺が一番アマチュア臭い中途半端なことをしてるっていう。まぁ学習段階ならしょうがないですよ。今はそういう時だからね。でも大して伸びなかったらこんな感じで5年後も同じように本を読んでるんだろうなってそれじゃあもうダメだね。そんときは真面目に考えなきゃいけない。まぁ今は我武者らにやればいいんだろうけどさ、でもやっぱなんつーのかな?自分への不信感って半端じゃないよね。あとは卓越した数学者達の卓越した感じの半端じゃない感じとか。ああいう人だけやってればいいんだよ!って持論があるわけじゃん?なのに自分が続けるということでその持論と矛盾するようなことをやっていては凄く滑稽だし自己嫌悪が半端じゃないじゃん?まぁ明らかに1年前とかに抱いてたような数学の才能があるのか?みたいなところはクリアしたよね。


そりゃそこそこあったからこんだけ独学で色々と読めるようになったわけで。で、そこまでは良くて、んで今は次のステップを見たときにまた不安になるんだよね。そこそこ才能があるやつなんてその辺の数学科にゴロゴロいるわけで、そんなの大半が崩れになるわけで、今は言わばある程度の数学のレールには乗ったけど崩れになるかもしれない!っていうさ、ちょっと前から見れば凄い進歩だけど、やっぱり目標の設定がデカ過ぎてさっぱり自己肯定感が生まれないんだよねっつってもまぁその辺の学部のやつより自分の方が理解してるなんて満足感を感じるぐらいのやつはそもそも才能無いからそういう低いレベルにいるわけじゃないなってのは自分でも分かるけど、でも中間がないんですよね。底辺じゃないことは分かったけど、んじゃあそっからどうするの?っていうとんー?どうなんだろうか?って思っちゃうって話なんだよね。


それで例の中途半端さってのが際立ってくるっていうか、もう最悪のパターンだよね。碩学というよりかはただの博学っていうさ、いや、ようはただの物知り博士ってレベルだったらもう最悪だよね。一番嫌だもんね。物知り博士って。それが嫌だから余計に知識そのものへの懐疑が余計に強くなったのかもね。で、本当の知とか価値とか知識そのものとかさ、とりあえず今まで本とかで読んできた知への価値観とかを一切なくす必要があるなと思ってさ、ようは色々と捨てるってことだよね。まぁようはナイーヴではなくなるってことだね。そこでもう徹底的に価値の在庫処分みたいなのを行って、んで残ったものが恐らく本当に価値があるかは分からないにせよ、とりあえず残ったものとして現状では認めていいものってことになるんだよね。別に本を大量に捨てるとか前みたいに売るとかってことではなくてそれは精神的な話なんだけどね。


で、そうなるとやっぱりもう無駄知識とかさ、ジャンクな情報とか完全にいらなくなるんだよね。まぁ逆に完全なエンタメとしてジャンクな情報をむさぼるってのはむしろ普段からネットでやってるからいいんだけど、割と真面目にやることに関してはもうジャンクは無理だなってことなんだよね。それこそ今までは価値があったと思われるものもジャンク品として処理していかなきゃいけない感じになるっつーかそれはやらなきゃ!と思ってやってるんじゃなくて自分が自然を価値を認めなくなったり疑問を抱いたりしちゃうんだよね。で、それはまぁ方向性としては凄く合ってるというか理にかなってることなんだよね。


だからまぁいいんだけどね。バカみたいに何も考えずに過ごすとか何も考えずに本だけ読むとかそういう思考停止な日々は送ってないからさ、そこはいいんだよね。凄く自己批判的だし。でもまぁそりゃ楽しくないよね。否定するわけだから。そんな感じだからいきなりゲームとかやりたくなっちゃうんだよね。自分がやること自体が結構な精神の負荷を必要とするもので意外とかなり疲れるってことなんだよね。そこはまぁ知識の価値もさることながら自分の価値だよね。いや、自分の価値というと語弊があるけど、何かを考えるに足るような頭脳を持ってるのか?ってことなんだよね。


まともな頭脳が無ければオリエンテーションとして見えているものすらもバカの考えなので多いに間違っているという可能性があるわけで。まぁでもこれは五里霧中とは違うんだよね。見る力というか基準が厳しくなったんでリストラされる要因がすげー増えたってことだよね。ようは自分が自分自身にリストラされる可能性が出てきたってことなわけだ。で、そこはやっぱり肯定ばっかしてたらまともな人材が育たないよね。何か良い部分がありきで肯定するならいいけどはなからダメなやつを無駄に褒めて何かをやり続けさせても何のメリットもないじゃん?だったらまぁやっぱりクビにしたほうがいいと思うんだよね。そういうまぁそのクビにするか否か?っていう見方はすげー厳しくないと一瞬で堕落するっていうか自分に甘いただの物知り博士になっちゃうからね。なんかもうそれは考えただけで哀れですわ。本人は楽しそうにしてるってのが余計に哀れだから不幸になってもいいからリストラするならリストラしちゃったほうがいいと思ってるんだよね。


じゃあリストラ後に何をしようか?っていうとそこが無いから困ったもんだってことになるわけよ。普通に仕事が見つからないリストラサラリーマンみたいになっちゃうわけで。まぁなんか俺が嫌いなタイプの競争主義と実力主義そのまんまの思想を自分に課してるよね。皮肉なことに。でもそれは社会でやり過ぎると生きづらい世の中になるけど個人ではまぁ個人の裁量じゃん?で、やっぱ俺は中途半端なのが嫌いなんでそこははっきりしておきたいってことなんだよね。生きづらそうにしてるっつってもそれはもうそういう気質なんだからしょうがないよね。


そういうプロセスの中にしか生き甲斐や自分への価値を見いだせないわけよ。それをしていても幸せになれないのは分かりきってるけど、それをやらないのはもうそれだけで不幸なんで、まだ最悪よりかはマシなほうを選んでるっていうそういうことだよね。あとそれは別に無理矢理やってるわけじゃなくてそれを選んでやってるわけだから。そこは普段から書いてるようなwant toベースでhave toベースではないんだよね。まぁようは逆説的なのはこのwant toをやらないと他が全部惰性のhave toになってしまうってことなんだよね。だからwant toなことがあるんだったら大変でもそれをやってないと結局はもう日々の虚しさとかに耐えられなくなるし生きていけなくなると思うんだよね。


まぁ今日はそんな感じでいいかな。結構ヘビーに悩んでるでしょ?いやーヘビーですよ。マジで。安泰なんてことはないんだろうね。日々葛藤だわな。