シェケナベイベー。久しぶり。

シェケナベイベー。久しぶり。


最近全然書いてないけどさ、なんというか思考がどん底にある感じだねっつっても強烈な鬱とかではなく、例のあの何もかもがわからなくなる感じね。数学にしてもそれをやるっていう直接性についての確証が得られないまま悶々と読み続けているだけで、実は何も理解してないんじゃないか?とかね、で、急にニーチェが読みたくなって読み始めてさ、んでまぁニーチェっつってもまぁ知ってることばっかだよね。あとかなりどうでもいい部分が多くてエッセンスを抜き出すとそんなに残るものはないよねっていうかまぁ哲学書って大体そうなんだけど。


でもさ、このどうでもいいところが多いよなぁーとかさ、これもまぁ知識じゃない?ニーチェに関する知識がフィルタリングをしていて、実際はどこが重要か?なんてわからないはずなのに、でも色々と本を読みすぎて思想教育されててそこでニーチェ観的なものが形成されてたりなんかして。でもそうなるとさ、知識っていったいなんなのよ?って話になってくるんだよね。それがここ一か月ぐらい続いててなんかあまりにどうしようもなくなるときは酒飲んでたりするわ。物理的エポケーが必要になるぐらいどうしようもなくなることがある。


相対主義でもないんだよね。それは何を今更!でしょう。ヴィーガン的な今頃やっと気が付いたんですか?ぐらい鈍感な感じですわな。いや、そうじゃなくてさ、まぁ形としては相対主義に似てるんだけどね、あ、あのさ、迷走する物理学とか読んでたんで余計にそれに影響されたのかもしれない。あれがナンセンスだったらあれをめぐる理論展開とかさ、あとはもうひも理論研究のために学部からそういう方向性でやってきた人とかどうなるの?っていうさ、まぁ転身してる人とかはいるみたいだし、まぁ頭を使うわけだから意味がないことを考えてるってわけじゃないんだけど、ただ俺が凄く気になるのがさ、意味って語弊があるけど真実みたいなのに合致した時に生まれると思うんだよね。別にそれは独我論的にでもある程度の帰結とか流れの終わりみたいなのが見えたりわかったりするとある程度の真実とか事実と考えてきたこととの対応関係が生まれてその考えてきたことってのが正当化されるっつーとアレだけど、意味を成してくるんだよね。


もちろんその考えることの良さはとりあえず考えないよりかは脳にはよっぽどいいってことで、当初予定していたことの真実はわからなかったけどその過程で発見したものがあるとかなんとかさ、まぁそれって人生の経験と一緒じゃん?何々になりたい!と思ってて無理だったけどその向かう過程で得たものがあったとか出会いがあったとかなんとかさ、まぁ結局これも主観的な意味論に結実するわけじゃないですか?でもさ、あまりにもその考えてることってのがアブストラクト過ぎるともう自分で意味が分からなくなるんだよね。何を考えてるのかすらも分からなくなったりするんだよね。これもようは原理的だからなんだよね。


根源的なことを考えすぎるので何も残らなかったり具体性が残らずに抽象性だけが残ったり。まぁ別にそれはそれでいいと思うんだけど、具体的に何かに取り組んでいる的な実感がわかなくてさ、まぁそれって自然に取り組んでいるからともいえるんだけど満足感がないじゃん?それこそある特定の分野のリサーチですよとかさ、なんかそういうのがないじゃん?で、とりあえず直感的に知りたいってことを知ろうとしてるんだけどさ、でも特に数学なんかはそう思って始めても結局専門書なんでさ、頭からケツまで読んでるとえらい時間がかかるんだよね。まぁ時間はいいにせよ具体的に何が知りたいのか?ってのがあるわけじゃないから気になったのをなんとなく読んでいるだけだから読むのが膨大になっちゃうんだよね。だったらそれを読めばいいじゃん!ってことになるんだけど、あまりにも進まなくて全然実感がわかないのね。


これって今書いてて思ったけど高次のスランプなのかもなぁーとは思ったね。高次元で抽象的なことばかりやっているんでたとえば微積分だとかああいうやつみたいな具体性がないんで何を扱っているのか分からなかったりしてさ、まぁ強いて言えば構造なんだろうけど、具体性がないからこそやっている実感もわかないんだよね。おそらく。でも「あーなるほどねぇー」ってなることはあるから実感がないということではないんだろうけどさ、でも何についてなるほど!って思ってるのかがズバリわからんのよね。なるほどねぇーこれは加速度がこうで・・・的な具体性がないんでたとえばこれは日常で例えればこうだなみたいに言えるのが凄く少ないんだよね。別にそれが多い必要はないんだけど、ただでもさ、卑近なもので例えたりできないからこそなんかやっぱフワフワしてる感じがあるじゃん?で、そこで自分は何を理解してるのかが分からなくなるっていう。でもまぁ慣れるから難しい!って思ってたものも読めるようになるんだけど、それは単に慣れなのか惰性なのかさ、そういうところも分からなくなるんだよね。まぁこれは独学でやると必ずぶつかる問題かもしれないね。学校とかだったら絶対誰かと比べたり先生の話を聞いたりするじゃん?それの正当性ってわからないにせよさ、でも言われることでわかることってあるけど、自分の場合、やっていることは誰にも突っ込まれないし、突っ込む余地もないじゃん?だからわからなくなるんだよね。


でもまぁ数学の場合、わかってたってことがほかの部分に出てきてあー例のあれねぇーって感じになるからさ、わかっていることをベースにまた先に進めるっていう実感はあるし、そりゃまぁ俺なりの理解の仕方ってのはあるしそれはある程度客観的に妥当ではあるってのはあるよ。そういう話ではなくてね、いったいこれはなんなのだ?ってことなんだよね。ようはさ、哲学とかで言われるような掛け値なしに価値があるものとしての知識ってあるじゃん?数学の知識も俺にとってはそういう面もあったんだけど、今はそれが崩れてきてるのね。哲学で言う知識って前提無しに知識は良いものとかね、愛するべきものとされてるじゃん?で、まぁそうだよなぁーって思ってたんだけど、知識ってなんなの?って思うとさ、それこそなんか哲学イデオロギーっつーのかな?あとはとりあえず本ってだけでなんでも正当化されるみたいなさ、哲学ってそういう究極の武器としての知識とかモノとしての書物ってのがあるじゃん?


いやさ、スカイリム最近やり直してるっつーかバンパイアのやつやりだしたら止まらなくなっちゃってやりこみプレイみたいなのをやってたんだけどさ、それはともかく、あのグレイビアードっているじゃん?あいつら何してんねん?ってことなわけよ。でもあれの場合さっつーかスカイリムの場合、「知識」ってことがそれこそあのぐらいの頃の時代の知識っていう感じっつーかイメージに近くてさ、シャウトに関する知識とかが凄く重要なものだしさ、選ばれたものにしか伝達されないみたいなさ、まぁようは知識に実態があるよね。だからまぁいいんだけどさ、リアルで言うと哲学なんてさ、例えばドラゴンワードのスゥームとかなんとかそんなんでもいいんだけどさ、これは何を意味する言葉でこういう理解の仕方があって・・・って言われたところで、「そうなんだ。で?」ってことになるじゃん?シャウトみたいに使えるようになったりする実態ってないじゃん?まぁ実際は使えるようになってたりして実感がないだけなんだろうけどさ、でもそもそも哲学してるなーとか数学してるなーっつー実感なんてわかないもんでしょ。いや、数学はシュトレーバー的なやつらが必死に計算してる中で実感を得たりしているのかもしれないけど、何回も言うようにあれはただの記号操作でさ、ショーペンハウエルが言ってたようにあれは思考ってのをただのオペレーションに変えるものだからね。ようはただの流れ作業ってことでコンビニのレジ打ちとかとなんら変わりないわけだ。


俺が言うとアレだけど、Yuri Maninっつー数学者がエッセイで書いてたんで間違いないよっつーかまぁ計算じゃないんですよって言ってる数学者は多いじゃん?まぁ数学者じゃないにしてもまぁ誰もが認める知の巨人である小室直樹とか、小室直樹が計算じゃないんだなって確信したのも京大の先生がそう言ってたんで確信したらしいけどさ、まぁそれはいいのよ。別にそれは俺が前から思ってることでさ、で、まぁ巨人たちの意見とも合ってるしっつってもまぁあくまで文系的な意味での権威づけにしかならんけどもさ、まぁそんな話はいいのよ。数学観はいいとして問題はやってる感だ。で、それを感じられるのっていわゆるシュトレーバー的な感覚っていうかさ、「あーこんなに勉強したー!」みたいな、数学でも計算だけして満足してるようなやつとか、こういうレベルのってバカ以外無理だよね。でもさ、なんたらの問題集を解いただとかさ、何々を読破しただとかさ、そんなんで満足するって低レベルだけどでもそういうのに支えられてきたってのはあるよね。俺もそういう低レベルの時期があったし、今は何で低レベルではないのか?っていうとそりゃ当然レベルが上がったからでしょう。んでもだからこそ生じる悩みってのがたとえば今日俺が書いてるようなことだと思うんだけどさ、んでも知識って事自体に
疑問を抱いたのは割と始めてかもなぁーとは思ったよね。


知識っつってんじゃー使える知識ならいいのか?とかそういう話になるじゃん?まぁそういう話ではないんだけど。ただphilosopher's stone的なさ、それを探すのがフィロソフィーなのだ!とかさ、知が内面で凝縮されるのがphilosopher's stoneなんだとかさ、まぁ色々な話はあるけどさ、やっぱりここですげーアプリオリにある価値観ってのが知識への盲信なんだよね。でさ、迷走する物理学の最後のほうにファイアアーベントの話が出てくるんだけどさ、ようは知識なんつったって占星術の知識も物理学の知識も同じじゃね?的なさ、実際に過去ではケプラー占星術の理論の構成に凄く貢献したとかね、ニュートンがメインに研究してたのは錬金術だったとかさ、まぁこれも知ってたっつーかファイアアーベントの本はかなり前に読んでたから彼の主張とかは凄くわかってたつもりだったんだけど、なんかこのタイミングでやけに腑に落ちたっつーかすげー実感しちゃったんだよね。今の俺のこの知への懐疑ってようは意味論的なことではなくそれ自体がつまりはどうなの?ってことじゃん?あとから見れば騒ぐほどのことでもないようなことを現代数学の流れでその価値を信じ切っちゃってやってるだけなんでは?っていうさ、現代数学の最先端と言われてるからなんとなく知りたくなるっていう動機はあるじゃん?


でもそれ自体の価値っつーかさ、まぁそんなの誰も決められないけど、将来も含めた人類レベルで考えればただの占星術みたいなもんかもしれないじゃん?うん。だからこそ俺は原理を求めてるんだよな。専門的になりすぎてて凄く条件とかが厳しく定められている中での理論とかそういうんじゃなくて数学の原理的な部分を掘り返すとかもっと深める的なさ、これって時代関係ないじゃん?何しろ原理だからね。いわば今の俺はそれにしか興味がなくなっちゃったとも言えなくもないんだよね。時代とか100年後どうなってるのか?とかそんなことまでを気にしてやる必要はない気はするけどさ、やっぱり自分の事にしてもプリンシパルを求めてるんだよね。とりあえず色々となんだろう?って思い浮かんじゃうことについて暫定的ながらも自分なりの定義ってのが与えられてて、これだから帰結は必然的にこうなる的なさ、それってまぁ原理じゃん?全部原理に求めるということではなくて、思考の経済化だよね。あーこれは中学生ぐらいが浮かぶような実存系の話ねぇーとか、これは超越系の話かーとかこれは独我論的なやつねーとかさ、いや、自分なりに色々と考えてきたから大体まぁ自分がどう考えるか?ってのは自分が一番わかってるわけで、だからまぁ知識とか認識ってのはある程度原理化してるとは思うよね。もちろん主義になっちゃったらダメだけどね。いつでも変われる柔軟さはないと。固くなるということではないからね。ただ思考の原理みたいなのが出来上がってくる。まぁそれを一般的な通俗的な意味での哲学とも言えるよね。ようは経営哲学とかって言われるような類の哲学ね。ああいうのも経験と認識がベースになってる思考の原理じゃん?


まぁなんつーか別にゆるぎない知識=数学っていうつもりはないんだけど、でもなぜか凄く俺がそういう方向性になっちゃってるんだよね。まぁマインドがそういう感じになってきていて、んで数学みたいなものに原理的な知を求めるようになったっつーのはまぁたまたま数学に足を突っ込んでたからっつー成り行きではあると思うけどさ、まぁそれで言えば俺が前から言ってたポストモダンだからこそプレモダンな真実があるっていう立場にポストモダンを超えてあえて立つっていうようなさ、そういうのとも似てるとは思うけどね。これはまぁレオシュトラウスからの影響だけども。でも哲学とか社会思想とか道徳とか倫理とかやっぱ無理じゃん?喧々諤々やる価値は大いにあるけど俺が独断でこれが原理だ!なんて言えるわけがない。まぁ喧々諤々やるための材料として持っておくのはいいんだけど、そもそも価値観ってのはもうかなり社会的なものじゃない?それを抜きにしたらただの独我論的な独断だからね。まぁ社会を含めたうえで社会に蔓延するような価値観が糞過ぎるから自分が価値を作るんだ!的なのは大いにあるよ。まぁようはそれってニーチェの実践じゃないですか?それはあるにせよ、ただまぁ原理は求められないし求めづらいというのが最初からわかってるから、だからこそ結構冷める部分ってのもあるよね。あとは原理としか言いようがないものでも社会的に受け入れられなかったら全然意味ないっていう。そこでまぁいつもの啓蒙の不可能性の話につながっていくんだけどねぇー。


凄く激烈で熱い人間なのに、いや、そうだからこそ形式的ニヒリズムに陥っちゃうんだよね。熱いからこそニヒリズムのフォーマットに落とし込められちゃう。ようは今の俺ってそこから脱却できてないってことだよね。そこでイデア的なものに真実や美を求めてるっていう一種の現実逃避型のプラトニストになってるんだよね。そこを俺は肯定できないんだよね。やっぱり現実逃避じゃないか!って思っちゃうから。でも論理的な帰結としてのニヒリズムってさ、すげー強いよね。本人がどれだけやる気があってもフォーマットはそこにならざるを得ないんだもん。でもそこでなんかもうそれはしょうがないと思って、んでも知的刺激を満たしたいからっつって数学やるとかさ、それってどうなの?って思うんだよね。でもまぁ俺も生活があるからやっぱり楽しめることってのはすげー必要で数学なかったら実存的なものが崩壊するよね。かなり地盤を支えてもらってるわけで。でもそんぐらい脆いんだよね。地盤が。たぶんみんな地盤は脆いんだろうけど、自分を見つめる時間が長すぎてその地盤の脆弱さも極端にその弱さが見えちゃうんだろうなと。そんなの日々生きていくだけで見なくても済むしむしろ見ないってことが地盤を強くすることにもなるんだけど、でもそれってまぁバカの強さだよね。バカが鬱にならない構造と一緒なんだよな。ポジティブな意味で考えないってのはいいけど見ないってのは思考停止だからなぁー。あと俺はもうもともと見ないということができない人間なわけだよ。だからこんなことで悩み続けるしこうやって書き続けてるわけで。


あとあれね、俗流の理解にせよちゃんとした理解にせよ不完全性定理的なこととは関係ない話ね。そういうフォーマルな話ではなくて、結局はやっぱり意味論なわけで。まぁでも形式的に言えば本来意味がないものに意味を求めているっていう虚しいことになるんだけどさ、なんかそういうことでもないんだよね。知の確かさっていうまぁそういうことでもないよねっつっても数学基礎論とかでそういう確かさみたいなのを検証してるやつとかは嫌いじゃないけど専門的になりすぎるとただの精密な論理学に成り果てるからね。そういうのには全く興味がないわけで。


なんか結局なんの結論もないんだけど、今日はまぁそんな感じですね。また気が向いたらなんか書くと思うので。