現実はオワコンという認識からはじめませう。その11。

なんかその・・・見る角度が違って「は?」ってなるのがすげー分かる。恐らく誰が見てももっともそれらしいように見えるものなんてたいしたものじゃないんだよなぁー。まぁ「は?」ってならないようにするために「ニーチェによれば」とかって権威付けをしておけばいいってことになるんだけど「お前が言うな」問題はしょうがないよな。「僕はこう思うんですが・・・ちなみにこれはニーチェが言っていたこととほぼ同じです」みたいな言い方の効力とっつーか効力があるか分からんけどさ、それとあれなんだよな、「僕はこう思うんですけど僕の年収は一億です」っつーのとさ、「ニーチェ」と「一億」を置き換えれば一緒なんだよね。実際は内容と全く関係が無いっていう。どうしようもない感じの社長とか会長とかの変な説得力ってここだよね。すげー変なこと言ってるのに年商が凄いからもっともらしく見えるっていう。逆に無職のやつが言ってたら笑いものになるようなものでも年商何億の社長が言えばその社会的立場と財力ってのが印籠みたいな効果を発揮するんだよね。俺の場合、これが真逆なんだろうなぁーっていつも思う。理由とかではなく雰囲気が全てを支配する日本の独特の風潮だよね。まぁこういうところも含めてオワコンで別に批判してもしょうがないんだけどね。ただいくらオワコン側の意見といっても実際にそういうのを見ると「はぁー・・・」ってなるんだよねぇー。だから修行が足りないってことになるわけだ。


まぁそんな感じで続きです。


で、今の俺の場合、生活が保障されてるわけでもないしクリアしなければいけない問題が山積みの中で今回のこの考え方を実践していくわけだからさ、ようは実験になるんだよね。自分の先が分からない人生って中での実験になる。で、それを日々実践するってことが結局は生きるってことでそれが修行ってことにもなるしまぁ禅的な修行ってそういうことでしょ?必要な不安はあるけど無駄な不安からは何も生まれないって当たり前のことなんだけどそれに飲み込まれてたのは自分だからね。そういう世界観に生きないってことだ。ましてや今は疫病のようにそういう世界観が蔓延してるから俺はそういう世界とは縁を切って完全に独立して生きていきます!っていう宣言をするわけだよね。


で、まぁ身近な効果としてはリアルがごちゃごちゃになっている今の家族の中でポジティブなことを言えるのが俺しかいなくなっているということだわ。まぁ俺もリアルに飲まれて絶望的なことしか言えなくなってたんだけど最近はポジティブなことが言えるようになってきてそうなるとそういう言葉ってやっぱり超絶ネガティブな場ではパワーになるよね。みんなが忘れかけてたパワーみたいな。まぁでも俺は楽観的になったわけじゃなくて無駄などうしようもない不安のことばかり語っていてもしょうがないじゃないか!っていうそういうことだよね。だから意図的にそういうことを認識から遠ざけるっていうさ、まぁ瞑想ってそういうことじゃん?現実から逃れるとは全然意味合いが違うんだよね。なんでジョブズとかが瞑想してたか?ってようはそういうことでしょ。なんかそれでまぁアメリカで瞑想が流行ってるらしいけど。まぁアメリカで言えば自己啓発っぽく未来を見るための瞑想なんだろうな。


でも個人個人の実存のレベルで言えば見たい世界を見るようにするための瞑想だったとして、んでそれで見たい世界が見えるようになってきたら結果的にそれが未来をリアルタイムに作り上げているってことになるよね。結局、自己の問題を解決するってことが未来への道を作るっていうことに繋がるわけだ。だからね、すげー俺は合点がいってるわけ。一番合理的で前向きで建設的な話じゃないか!っていうね、それを文字に起こそうとしてるんだけどなかなか追いつかないってのが今の現状で。まぁ色々考えてたからまぁこんだけ一気に色々出てきたんだよね。


まぁんで話を仮想世界にするとさ、ようは自己を置く場所のリスクヘッジみたいなもんなのよ。そこにアイデンティティとか何もかもを置いちゃうとそこが駄目になったときに全部失うじゃん?だから自分が生きる場所ってのを分散させるんだよね。それが電脳の中にもあれば芸術家としての自分ってのもあったりさ、何もかもを現実に起きすぎたらそりゃ絶望して先が見えなくなるよね。で、作り出すなんていわれたって未来に向かって着実に繋がりそうな道なんて早々見つかるもんじゃない。だからできることは意味の無い抽象的でスケールが大きすぎるそもそも人間として生まれてきたからには当然誰にでもあるような問題みたいなことばかりに目を向けて不安になってばかりいるんじゃなくて、もっと日々の強度とか自分自身をなんとかしろ!っていうそういう話だよね。


不安で生きてても何にもならないわけで、だったら先は分からないけど好きなことをして生きてたほうがよっぽどいいよね。まぁ強度とか人間らしさってのを引き換えに安定を求める道を選ぶんだったらそれはいいけど、そもそもそういう安定がなくなってきてるからこそのサバイブ術なんだよね。そういう安定が無いんだったら結局は自分の不安はみんなの不安じゃん?逆にみんなそうなんだったら気が楽になると思うんだけどね。そういうのを開き直りっていうけどニートってそういうのを天性で実践しちゃってたりするんだよね。で、あいつらが何もせずに好きなことだけやってて幸せなんだったら誰も文句を言えないわけだ。だからこそ歯がゆいから文句を言いたくなるんだよね。それはみんな羨ましいからなんだよね。でも彼らを批判できるロジックなんて根本的に無いんだよね。個々の生き方の自由への批判なんてないわけだから。


まぁ別に俺はみんなニートになれ!って言ってるわけじゃないけど個々の世界観も文化として認めろ!っていう話でもあるから自ずとニートっつー世界観も一つの世界として認めないといけなくなるんだよね。それがまぁなかなか辛いところではあるんだろうけどさ、でもあれなんだよね、自分が幸せだったら他人の人生なんてどうでもいいわけだよね。だから必死になって批判するやつらがいるとすれば結局はそいつは全然充実して無いってことなんだよね。なんかこれって個人個人の幸せのあり方みたいな妥当な点に落ちるよね。なんでそんな妥当な点に落ちるのか?っつーとロジックがしっかりしてるからなんだよね。そりゃまぁシリアスに考えている賜物でしょう。


だからこそユーズフルで建設的な思考法が生まれるわけだ。まぁ分からない人は永遠とそれは現実逃避だって言い続けるだろうけどまぁそういう人の波動にチャンネルを合わせないってことだよね。それにまた引きずり込まれるからとにかく無駄な争いごとは避けるってことだわな。で、自分のチャンネルで生きるってことだ。自分の波動というか自分が合ってるなって思えるバイブレーションにチャンネルを合わせて生きるってことだよね。負のバイブレーションに合わせると本当に戻ってこれなくなるんだよね。本当に俺にとっては危ういものだったなって思うね。まさかでもゲームってのがこんな形で繋がるとはねぇ・・・。面白いよね。本当に。


まぁある意味自殺の実践なんじゃないのかな?まぁリアルの全てを否定!ではないんだけどリアルでやっていけなくなってもそもそも自殺してるわけでそんなの関係ないことだって割り切ることからできる実践ってあるんじゃないの?ってことだよね。自殺しよう!って思ってるならこれをやってからリアルで本当に立ち行かなくなってから本当に死ねばいいんだよね。まぁでもこれは自殺の勧めでもなく自殺防止でもなくただの生き方の提案だよね。


で、別に似たような考えは仏教とか禅でいくらでもあるわけで取り立てて新しいことでも難しいものでもないっていう。ただでもあれなのはさ、仏教とかって他人に施すとかさ、覚者としてあるべき姿みたいな壮大なビジョンがあるけどさ、そんなのはどうでもいいんだよね。そういう意味で仏教も禅もどうでもいいわけだ。勝手に悟って勝手に生きるっていうこれだわ。できる人は世界を変えようとしたり他人のために生きたりすればいいけどそんな壮大なことなんてできない人が大半でしょ?だから悟りって敷居が高いんだよな。覚者としての人間のあり方のハードルが高すぎるんだよね。だからそういう意味で悟りのプロセスは似ているかもしれないけど仏教的な悟りとは関係ないってことなんだよね。生きる作法としての悟りなわけで。


流れに逆らわずに生きるってある意味これなんじゃないの?って思うよね。でもそれは現実を受け入れるってことじゃなくて相対化するってことなんだから反逆以上の反逆だと思うんだけどね。そんなのある意味一番反社会的だろう。苦労して疲弊している状況を受け入れるってことがようは現実を受け入れるってことだもんね。認めちゃうから勝ち負けとかそういう価値観が生まれてくるわけだ。でもそういうゲームから離れて別の自分のゲームをやるとかさ、とにかく「関係ないです」っていうさ、無視って一番攻撃として効果がある場合があるじゃん?まぁ無視できる現実と無視できないものがあるけど虚構が原因になってる嫌なものなんてそもそもイリュージョンなわけだよね。


勝手に作られたルールの中からなぜか苦労を強いられているわけだから、一番いいのはそのゲームに参加しないってことでしょ。やるの?やらないの?って言われたらどっちでもありませんっていうさ、排中律を認めないってことだよね。はいかいいえっていう選択を迫られるから勝手に価値観とか植えつけられるわけでさ、詐欺とかもそうなんだよね。はい、いいえっていうそういうところの誘導だから。で、俺みたいな騙されやすい人間はすぐそういうのに引っかかる。いや、そうじゃなくて参加しないんだよね。選択しないわけよ。選択しないし分からないのになんとなく生きていけたらそれは流れに逆らわずに生きるってことになるんじゃないの?別にそこに偉大な覚者としての素質なんていらないわけよ。まぁ合気道みたいなもんだよね。


受け流すことで防御をするっていうさ、そこに諦めも何も無いっていうそもそもの攻撃っていうのが無いってことじゃん?あとは受け流すことが攻撃になる場合もあるわけだよね。攻撃してきた側が転んじゃうみたいな。勝ち負けにこだわってたりするからこそ実際は何にも集中できないわけだよね。大きすぎる不安ってようはそういうことだよね。それこそなるようにしかならないぐらいどうにもならないということがあってそれが起こるか起こらないかは分からないけど不安になったところで何が変わるわけでもないっていうさ、こういうのを杞憂っていうじゃん?多分大半の不安って杞憂なんだよね。逆にどうにかなるぐらいのレベルだったら自力でなんとかしてるだろうから。


っつーまぁそんな感じでこれの続きはもう無いんで、次はオワコンシリーズの6ぐらいからの続きを貼るです。で、それを貼った後にまだ貼ってない新作を貼るのでまだ相当続くのでシニカルな目でもなんでもいいんでとりあえず読んで書き込みでもなんでもいいんでまぁお付き合いください。