Motoさんへの返信。その2。

>たとえば人間の脳細胞を、同じ機能・性能を持つ電子的な素子で入換えていったら、そこに連続性は成り立ちうるのか?みたいな問いもあるし、仮に同一人物であったとして、それを“同一”と判断する主体自体が変化しちゃってるわけだからその問いに意味があるのか?みたいな話があるわけです。


それなんですよ!主体自体の変化にとって無意味になる問いって凄く多くて、もちろんそれは「無意味だ」と言い切れるものではなくて考える余地はあると思うんですが、少なくとも僕の中では色んなことが無意味になっちゃってますね。いや、そのニヒリズム的な意味ではなく、知的活動としての思索とか哲学ってスポーツみたいに健全な面があると思うんですけど、それらの大半が自分にとっては無意味になっちゃったんですよね。考えること自体が哲学ならまぁそれは哲学と言えるんですが、哲学というコンテキストや文献においては同じ哲学でも関連性が乏しくなっちゃうんですよね。だからまぁ読みたい本がなくなっちゃうとか、本から刺激を受けるということができなくなっていて、まぁ「認識のレベルが上がったから」って解釈すればいいんですが、まぁ正直凄くつまらないですよね。色々と楽しめていたときが懐かしいというかなんというか・・・。意味のある問いに向かいたいじゃないですか?でも大半のものを問うことに意味がなくなってしまうというのは結構辛いものがありますね。もちろんそこに意味づけをしていくのが真の知的活動なんだと思うし哲学の実践だとは思うんですが、なんというか広大な砂漠に佇んでいるような感じがあって呆然としてしまいますよね。


>佛教思想だと「『空(相互作用)』と『色(存在)』というのは双対(そうつい)をなしているから、“どっちが本質なのか?”みたいな問いは無意味だ」で決着しちゃうんですが、そうすると「わたし」「われわれ」は空間の性質とか宇宙の性質とかに還元されちゃうというハナシにもなりかねず、われわれのように炭素ベースで実装され核酸によってコーディングされた遺伝情報を利用する以外の形態を持つ別種の生物が宇宙のどこかに存在し、それもやはり本源的に「わたし」だったり「われわれ」だったりするのかどうか、といった議論にもなります。


それですね。「どっちが本質なのか?みたいな問いは無意味だ」で決着しても、その後どうすればいいの?っていう人間の実存の部分が残っちゃうんですよね。いや、それで仏教とかだとまぁ宇宙と一体化みたいな話になってそれが悟りの一種だとされたりもするんですが、「で?」っていう感じなんですよね。自分の実感としては理屈では分かるけど人間的な実存が否定されているような気がしてならないんですね。否定ではないのは分かっているんですが、では人間としてどう生きていけばいいのか?っていう問題は残り続けますよね。実存的な問いの帰結として宇宙との一体感とか何が本質なのかを問うことの無意味さを認識するということがあっても、それを認識したとして、その後の実存の問題ってのがあるんですよね。


で、僕の場合、自分の人間的な部分をめちゃめちゃ肯定しよう!ってことになって、まぁ色々と個人的な話になってしまうのでディティールは端折りますが、端的に言えば今は快楽主義みたいになってるんですよね。俺が俺だ!と言えるベースみたいなものは人間くさい自分が合理的であれ非合理的であれ例えば「好きだ!」と思ったことに没頭するとか、その「好きだ!」と感じること自体を肯定して、それ自体を存在の意味合いとかベースとして捉えるってことですね。仏教の無我とは逆のベクトルの無我って言うんでしょうかね。色々と認識の見方の角度が段階的に変わっていって最終的に360度回って元の人間に戻ってくるっていう感じですね。だからまぁ今の自分は「ゲーム最高!」って心から言えるようになってるんですよ(笑)


>密教とか修験道とかだと、まず肉体的なレベルで変容すると意識もそれにつれて変容するという体験があるわけだし、それは共有可能なものでもあるんですが、それが優越感とか超越妄想とかと結びついちゃうとけっこう危険ではあって、あくまでトータルな自己のバリエーションでしかなくて、せいぜい闘病体験や戦争体験ていどのものではないかと思うようにしています。たまに超越妄想に入りこんじゃう奴もいて、こういうのを昔は「天狗になる」と言ったものなのですが。


我の変容と言っても優越感とか超越妄想はマズいですね。そこは自分の理性が許さない部分なので大丈夫なんですが、でも意識の変容ということを考えれば起こりかねないことですよね。ニーチェの超人思想は超越妄想との区別が難しいですね。ニーチェは学術的に認められている存在なので思想に価値があるとされていますが、例えばニートみたいなやつがニーチェと同じ考えを持ってても「妄想」として片付けられますよね(笑)あ、ちなみにニーチェナチスを結びつける気はありませんが、ヒトラーニーチェを読んでいたかはともかくとしてヒトラーはまさしく超越妄想をこじらせた人ですね。意識が変容するとあそこまで危険な人物になれるっていう恐ろしい例だと思います。


>ただ、そうした“霊感”のようなものに関する、いくらかでも説得性のありそうな説明というものに行き当っていません。


そこはもう天性のものなのか、ようは所謂、才能ってやつなのか?って話に僕の場合はなっちゃってますね。あるかどうかは別として心霊現象などを見ることができる人は霊感を持っていると言いますが、これって訓練して得られるものではないですよね。まぁ修験者とかの修行とかもあるのかもしれませんが、なんかおかしなものを見てしまうって人は別に訓練でそうなったわけではなくて、元々見えるように生まれてきたっていうだけなんですよね。


>数学教育に口出しするヒトの多くは、そうした“数感”あるいは“数勘”を身につけていないヒトであるらしく、“数学的な美”とかいったことをわりと軽々しく口にするようです


これはなかなか人のことを言えないところはあって(笑)つい最近までまぁ僕もそういう輩の一人であったので偉そうなことは言えないんですが、数学の暴力性って凄く分かりますね。抽象的な概念なのに無理やりこっちの頭をハックしようとしているような能動性というか、クリチャーな感じってありますよね。でもこれも結局、感性の問題になっちゃうのかな?っていう気はしています。数学の暴力性は数学自体がハッキングできるやつってのを選別していて、ハッキングできそうなやつに暴力性をむき出しにしてハッキングしてきますよね。でもおそらくハッキングできそうだなって数学が思える人間というのは恐ろしく少ないんだと思いますね。一般書とかであるような表面的な数学の美というのは啓蒙とか教育とかである程度は情操教育的なものでなんとかなるとは思いますが、それは凄くレベルの低い美の話なんであって、崇高な本当の美のレベルっていうのはやはりそれを感じる主体の感性に依存していると思いますね。それを才能というかは別としてまぁでも感性であることには間違いないと思ってますね。


>やっぱり、「所詮は信号(シグナル)」というふうに言っちゃっていいのか?みたいなところで悩んじゃうんだよな。「脳は約1リットルの量子プール」だと考えるヒトもいて、モデルとしては魅力的なんだがそう断じちゃっていいのか?という躊躇もある。受容器とシグナルの反応に還元するのか、シグナルに還元するのか、シグナルを処理するプロセスの側に還元するのか、といったあたりの判断が悩ましい。


「還元する」という判断自体が何かをモデルに落ち着かせるっていうことなので、個人的な嗜好によってモデルは選ばれてしまいますよね。例えば超ひも理論なんかはモロに「モデルとしては魅力的」って言う嗜好によってモデル化しようとしているっていう活動なんだと思いますね。別にまぁそれも物理のバージョンとして存在していいとは思うので否定はしないんですが、僕はその「何に還元していいのか分からない」っていう悩ましさのところで留まって悩み続けたいっていうのがありますね。これもまた一つのモデルの選択なのかもしれませんが、還元という行為はある種の判断停止を行うものなので、僕がやりたいのはその判断停止をせずに緻密にディティールを考え続けるということですね。


>日本でも成果主義が喧伝されて久しいが、やっぱり数学者(実験科学のように、外部的に何かができるというものでもない研究者)はヒマでないとイカンと思うし、日本にはヒマな数学者が棲息できる環境が少しはあるらしい(絶滅危惧だが)。


そんな環境を常に夢見てますね(笑)個人で孤立してやるよりも暇人が集まってあーだこーだ議論しているようなサロンって古代ギリシャ的に言えば学問の伝統じゃないですか?それって絶対必要なんですよね。それにそもそも暇じゃなきゃ大局的な研究なんてできるわけないんですよ。欧米的な成果主義では「食える研究」に偏りすぎちゃって、それこそ「それをやって何になるの?」とか「それって形而上学とどう違うの」って揶揄されてしまうような研究はもはや研究とはされないですよね。趣味だったら他でやってくれ的な。でも研究って成果主義とか資本主義的なベースに乗ってしまったら肝心の「知」の部分が大いに削がれちゃうと思うんですよね。結局は良い研究は研究者の「これがやりたい!」っていう内発性ベースによって生まれるものだと思うんですよ。


それと世の中の仕組みが合致していればベストですけどね。でもどのフィールドでも研究者がやりたいと思う研究と「やるべきだ」って社会制度的に薦められるようなものとのギャップというのは大きいんですよね。だからいかに研究者の情熱というのを活かせる環境作りをするか?というのが重要だと思うんですが、まぁMotoさんがおっしゃるように絶滅危惧なんですよね。凄く残念な感じがしますね。


>最近の量子力学の実験的な成果というのは、“共役性”みたいなものを現象として保証してくれるのでホッとする部分がある。もちろん「だから量子力学」みたいなのは逃げであって、そうした現象をどう捉えるか、それがどういう意味を持ちうるか、みたいなコトを考えないとイカンと思っているのだが、当然のように手に負えない。


「「だから量子力学」みたいなのは逃げ」に大いに同意します!というのも僕も逃げようとしていた時期があったっていうかつい最近までそうだったので(笑)といってもまぁ研究は続けますが逃げ場のためにやるのではないって自分に言い聞かせてますね。あんなのはただのモデルなんだと。でも共役性はなんであんなに人間にとって安心感をもたらすものなのか不思議ですよね。やっぱり分からないものを分かりたいとか、ファジーなものをモデルに落ち着けて観察したいみたいな、自然の流れをコントロールしたいみたいな人間の欲求の表れなんだと思いますけどね。僕はその「手に負えない」ものに関して考え続けたいなというか混乱し続けたいなって思いますね。これが自分のフィールドだと。ということは自分の仕事は混乱することってことになるんですよね(笑)まぁそれならそれでいいかっていう。永遠と気持ち悪さとか分からなさとの闘いになりますけどね。とは言っても最近ではラングランズ・プログラムに凄く興味を持っていて、やはりなんというかground theory的なものには憧れを感じるし、手が負えないようなことに関して混乱し続けるという必要性を感じる反面、真逆のベクトルでground theoryに憧れを感じますね。まぁどっちもあっていいと思うんですけどね。それこそこれってただの時間の問題なんで両方やれれば両方やればいいんですよね。