Motoさんへの返信。

>ガーゴイル的に分かりやすく悪魔的であることを心がけていたほうが、ホラー属性を持っているやつ奴が寄ってこないぶん、総合的には安全なように思う。


いや、ほんとにその通りですよね。防衛としての悪魔の部分って必要で、そういう意味では僕もめちゃめちゃダークですから、そこはもう全然普通に悪魔を実践してますよね。結果的に面白いもんで怖いものがなくなるんですよね。ダーク属性なのでちょっと悪ぶってるやつみたいな「にわかダーク」とかがすぐ分かるようになるんですよね。悪魔の面も持っていたほうが視点が広がるし身を守れるってことですね。あとまぁ表面的に怖いということが怖くならないってまぁ本当に強みですよね。こういうところはニューヨークで生活していたのが結構長かったというのもあって身についたタフネスなのかもしれませんが。


ところで情報と知識なんですが、Motoさんが書いている定義で僕も一応は納得しているんです。でもその外延性と内面的な部分や感覚的な部分との差が微妙になってるんですよね。色々と根本的に考えた結果、より厳密に物事を考えるようになった結果、あやふやな部分がクリアになりすぎてしまったという感じですね。一応自分で実践しているヴァーチャル思想とあとはやっぱり数学の影響が大きいとは思うんですが、これって突き詰めるとやっぱりデータと知識の分別ができなくなってしまうんですよねぇ。


判断や感覚もまたある種の計算として考えるとデータの蓄積によるアルゴリズム的な算出の所産とも考えられますよねって言っても全てが計算とデータだなんていうつもりはないんですが、極めて計算っぽい部分と凄く感覚的な部分とそういうのが混在してますよね。人間の頭って。だからまぁ意識とは計算なのか?とか機械と人間の違いは?とかって二元論的なんですよね。そんなに話は簡単じゃないんだよなぁーってのを凄く感じてるんです。


僕が実践しているのはそういう部分でのメタ感覚で実際には不可能なんですが、所与の概念により「現実」とかって言われているものをとりあえずはそんなものはただのイデオロギーだと切り捨ててしまって、何が現実で何が非現実なのか?みたいな判断を停止するんですよね。かといっても現象論的なものではなくてかなり狂気のベクトルに近い分裂病的な判断ですね。でも根本に理性があるので完全に狂うことは無いなって思ってるんで危険なこともできるっていう感じですかね。


こういう世界だと客観性の規定なんて本当にできないんですよ。だからかなり頭が混乱してるんだと思うんですね。でもまぁあれですね、判断の関係として外部化するっていう意味だと幻肢痛的なフィードバックみたいなもので外部化することと内面とのマッピングの合致よってリアリティって形成されますよね。ヴァーチャルにもリアルを感じるというのはまさしく幻肢痛的なファントムとしてのリアリティだと思うんですが、それを言い出すとそもそもマッピングとは何なんだ?ってことになるんですよね。脳が勝手に錯覚するならそもそも「判断」自体が凄く曖昧で恣意的なものになるじゃないかってことになっちゃうんですよね。そんな適当な脳が客観性とかを定義できるとは思えない!っていう感じですね。


知識にしても知識とされているけど実際はただのデータの成り立ちであったりデータの成り立ちで客観性がある記号的なものだと思われていても実際は凄く人間的な感覚に依存してるものとかってありますよねっていうか数学がまさにそうなんですよね。記号なんだけど凄まじく概念的で外部化されていても概念が外部化されているわけではなく共通の記号としてのコミュニケーションの手段として記号化されているだけで記号を理解すれば誰にでも理解可能だって思われがちだけど実際は数学者同士でしか伝わらない感覚的なものだったりするんですよね。近年では数学者同士でも分野が違うと全然話が伝わらなかったりするみたいですけどね。


人同士で成り立つ一般性が客観性なのか?っていうとそうともいえるけどまぁこれは主観に基づいた便宜的な客観の定義ですよね。でも感覚によって成り立っているものでは人によるってことになるので客観性は無いように見えても実際はそっちのほうが論理的に定義されるような客観性より客観的なんじゃないかな?って思うんですよね。それがまぁ抽象的な概念全般ってことなんですけどね。「曖昧すぎるので定義せよ」って言ってる時点で「ある程度劣化させて一般化せよ」ってことになるわけで実際のヴィヴィッドな客観性が記号化によって失われている場合も多々あると思うんですよねっていうか数学はそんなことを永遠と繰り返してるって思うんですよね。実際は生で考えられている概念そのものが数学なんであって記号はただの外部化なんですよね。


外部化されたもののアルゴリズムによるプロセスは計算でも可能だけど数学という営みは人間にしか可能ではないというのも結局はこういう話でようはすべて感覚に依存しているからっていうところに尽きますよね。かといっても概念が感覚に依存しているわけではなくて感覚に依存しないと客観性や抽象性が得られないという逆説的なことになるんですよね。こういうのがようはなんか本当に現実もヴァーチャルもクソも無いじゃん!ってより自分で納得してしまう概念的な根拠だったりするんですが。そもそも分別することによって混乱が生まれてるのではないか?って今は思えますね。そんな本人が一番混乱しているわけですが(笑)