2014年はヴァーチャル元年!。

ヴァーチャル漬けじゃないですか?時間が経つのが早いですよね。いや、Far Cry 3とかやってるんだけどさ、新しいパソコンでやるともう別物なんだよねっていうか前のパソコンでやってたようなやつを新しいパソコンでスーパークオリティとかでやると別物なんですよね。なんかね、Oculus Riftとかあるじゃん?いや、ああいうのでどんくらいヴァーチャルが現実に浸食してくるのか?っていうのがね、いや、俺の中では浸食してるしオントロジー的にも現実のとの根本的な差はないってことなんだけど、凄く知りたいのはヴァーチャルリアリティ系のインフラが整ってきてから社会がどう変わるのか?ってことなんだよね。あとは人々の生活ね。あんま海外旅行とか興味無くなるんじゃないかな?と思って。Oculus的なやつでクルージングからジェットコースターから海外旅行までさっていうか、世界の車窓みたいなやつをOculusで見たら凄いわけじゃん?


そのうちまぁあれだよね、ディズニーランドのスターウォーズみたいな重力もシミュレートできる椅子とか出来るじゃん?いや、ディズニーランドのスターウォーズが家で出来る!ってことになったらどうなるのか?ってことなんですよね。そういうなんつーか視覚的だったり身体的経験ってのがヴァーチャルで出来るようになったらっていうかあれだよね、あとはもうこだわりじゃん?いや、前にも書いたけどうちの妹とかヴァーチャル大嫌いなんだよね。ようは現前性の問題を重視するのね。そこにイタリアの町並みがあるのとそれを間接的に映像で見ているのとでは現前性が違うっていうけどさ、でもそもそも視覚を通して見てるわけで「見る」ということに直接性ってないじゃん?結局は解像度とかそんな話になると思うんだよね。あとはまぁアウラか。


いや、そんなまぁぶっきらぼうなことを言うつもりはないですよ。海外旅行シミュレーターが出来たら海外行かなくても家にいるだけで世界旅行が出来る!っつってもまぁ本質的な代替にはならんだろうってのはそりゃ思ってるよ。でも俺みたいにレイジーなやつってまぁそりゃ海外旅行とか行ければいいけど行くまでが面倒とかさ、飛行機が退屈で死にそうで嫌だとかね、時差が嫌だとか色々あるわけじゃん?成田まで行くの面倒とかさ、それだったらまぁ手軽に家でヴァーチャル旅行だ!なんつってまぁ360度イタリアとかになっちゃったらまぁそりゃ満足度があるでしょう。まぁそのね、行くまでのワクワク感とかさ、それも含めて楽しいっていう人が大半なのは分かるけどね、いや、問題はその現前性なんだよね。どう違うのか?ってことなんだよね。


いつも書くように視覚ってそもそもヴァーチャルじゃん?海外のものを受けることで視覚情報がインプットされてそれが認識されるってまぁ機械的に言えばスキャンじゃん?まぁこれってようは頭の中に映ってるってことなんだよね。プロジェクター的な意味で。だったら対象の現前性が強ければ強いほどヴァーチャルかリアルか?なんてことは問題にならなくなっちゃうと思うんだよねぇ。今の俺の場合はまぁすげー過激なヴァーチャル思想で「んなわきゃないだろ」って大抵の人が思うと思うんだけど、思考実験的にそのヴァーチャルによる「経験」ってのが凄まじくリアルに近づいてきたらその時人はどう思うのか?ってことになるんだよね。


ディズニーランドのアトラクションなんて大抵がヴァーチャルでシミュレーション可能じゃないですか?まぁあれって恋人とか友達と行ってワイワイするのが楽しいわけでまぁそりゃヴァーチャルに置き換えってことにはならんけどさ、ボードリヤールの本でディズニーランドってヴァーチャルの世界だって言われてたじゃん?そういう意味でディズニーランドもまぁアナログなヴァーチャルの世界じゃないですか?そのヴァーチャルの夢の世界をヴァーチャルに体感するってメタ的ヴァーチャルですよね。いや、ホントにメガテンのギメルの話になるんだけど。いや、これって俺の中ですげー重要なことだよね。ずいぶんと前から考えていて、で、まぁ自分の中でその話がすげー重要になってきていると同時にテクノロジーが明らかにそういうものに対応しつつあるってことなんだよね。そうなるときに現実とヴァーチャルの関係性はどうなるのか?ってことがすげー気になるのよ。


ベルクソンだったかはdifferenceってのがlifeとの関係性だっつったけどさ、ヴァーチャルってこの差異ってのがひと際際立つものだと思うんだよね。凄く差異が重要になるっていうか。それだからこそ現実のアウラの重要性がより明確になって価値が高まるのか、音楽とか映画がアウラとか関係無しにデータとしてコピーされまくって配布されまくるのかさ、まぁ音楽とか映画は元々がデータだからね、そりゃまぁデータでしょうってことなんだけどさ、でもまぁあれなのよ、俺が言いたい音楽とか映画のアウラってまぁレコードで音楽を聴くとかさ、CDでもいいし映画の場合、映画館で見るとかDVDで見るとかね、でもネットのストリーミングとかって凄く強烈じゃない?合法だろうが非合法だろうがとにかくアクセシビリティってのが半端じゃなくてさ、一昔前ならDVDの取り寄せとかしないと手に入らなかったものがネットを調べれば一瞬で見れるっていうさ、まぁ英語が出来れば大抵のものにアクセスできるじゃないですか?


昔だったらとりあえず外に出ないとやれなかったことが家でやれるようになったので引き蘢りが増えたってのは絶対あるよねっていうか引き蘢りって別にニートだけを指すわけじゃなくて仕事をしてるけどそれ以外はずーっと自分の部屋で過ごしてるって人もまぁようは引き蘢りなんだよね。引き蘢りってネガティブな言葉だけど実際はめちゃめちゃ活動してたりするわけじゃん?引きこもってパソコンばっかやってるっつってもそのパソコンでニュースからテレビから映画からゲームまで出来るようになっちゃってるわけだからパソコンばっかやってるってことが必ずしもネガティブだとは限らないよねっていうか引き蘢りってタームの悪い意味合いだけが残ってる感じがするよね。実際はめちゃめちゃインタラクティブなインターフェースにおいて色んな刺激を受けてたり欲求を満たしてたりするわけじゃん?あとまぁソーシャルネットワークとかもあるわけで孤独なんてのもあえて選ばないと孤独になれないでしょう。


あとね、俺的にリマーカブルなのがさ、例えばOculus的なインターフェースですげーハイファイな世界が体感できるっていうソフトがあったとしてさ、まぁようはsimsのfirst person版だよね。で、例えばアステカ文明パックが発売されたから一緒に探検しませんか?なんつってまぁようはアステカ文明を歩くっていうことがコミュニケーションになりうるんだよね。いやさ、デートとかしてもほとんど喋らないカップルとかいるわけじゃん?まぁそりゃそうだよね。話すことなんてないもんね。いや、んでなんで動物園っつーかまぁ色んなところに行くのか?っつーと話すことが無いからじゃん?で、動物園だの遊園地だのっていう媒介を通してコミュニケーションを計ろうとするんだよね。「うわー象でけぇ!」みたいなどうでもいいことが会話になりうる。普通にその辺を歩いてても話題が無くても外界の情報や刺激が増えればそれに対するリアクションということから会話が生まれたりするわけじゃん?まぁ「とりあえず飲もうや」ってのも同じことだよね。アルコールによって会話を促すわけだ。アルコールってのもまぁようはドラッグだからそれで意識を変えるなり自制心をちょっと鈍らせることで普段喋らないようなことも喋れるようになったりするっていうさ、まぁそういうことじゃん?


で、まぁその例のアステカパックも同じなんだよね。普通にスカイプで喋るよりかはアステカ文明を歩きながら色々と喋った方が楽しいっていうさ、喋らないときもアステカ文明を観察したりっていうまぁようは飽きないじゃないですか?で、別にこれはヴァーチャルデートである必要な無くてリアルなパートナーとヴァーチャルの世界でデートするってことなんだよね。これってようはディズニーランドでデートと同じなんだよね。それがパソコンの前で出来るようになるっていう。いや、デートの神髄はデート後のセックスでしょうって人は別としてもさ、なんかあれなんだよね、モンハンとかが流行るのもあれって絶妙にこのヴァーチャルなものを介しての他者とのコミュニケーションが成立してるからなんだよね。ゲームだけの要素だけじゃなくて普通に会ったら絶対に話さないような人ともモンハンとかのゲームを通じてまぁあくまで話はゲーム上のことにしても他者とのコミュニケーションが図れるんだよね。


コミュニケーションって求めてなくてもやっぱり無さ過ぎるとダメなんだよね。でもリアルの生活に影響してくるようなレベルのコミュニケーションはうざいんでやりたくないって人とか多いわけじゃん?あとはソーシャルネットワークとかでのガッツリしたやつも嫌だって人もまぁアノニマスな人とゲームを通じてコミュニケーションするって人間の本能的なコミュニケーション欲を手軽に満たしてくれるものなんだよね。だってそもそもゲーム自体だったら何にも新しいことはないわけじゃん?でもあれなんだよね、最近ゲームばっかやってるからすげー思うんだけどマルチプレイヤーってもうシングルプレイヤーの座を奪った感じがするよね。シングルがあってマルチもあるってのがマルチがあって一応シナリオモードのシングルもあるみたいになってる感じがあるじゃん?これって何気に凄いことだよな。これって明らかにヴァーチャルに移行してるってことなんだよな。


別にゲーム自体だったらシングルで出来るものをなぜあえてマルチでやるのか?ってやっぱり他者の存在なんだよね。かといっても誰かと知り合いになりたいってことじゃなくて誰かとチームを組んでミッションをこなしたいだとかなんだとかcoopゲームっつーのもずいぶん増えたじゃん?やっぱりこういうコミュニケーションって人間の根源的な欲求なんだよな。で、これって外に出て一人でぶらついてるよりもよっぽど人と接してるよね。見た目は自分の部屋にこもりっきりなんだけどそれこそボイチャとかする人だったらまぁすげー他者とコミュニケーションしてるわけだよね。


でもまぁ不特定多数とのコミュニケーションなんてまずありえないじゃん?でもゲームならゲームという媒体を通してそれが可能になってるんだよね。でも別に身の上話をするわけでもなく、話の内容というよりかは他者とインタラクトするっていうそこだよね。その欲求が満たされるってことがまぁようは快楽ってことなんじゃないかな?って思うよね。俺は相変わらず一人でやるのが好きだけどね。性的な意味でも。いやさ、Far Cry 3とか強烈なのよ。前のパソコンだったらそんなに感じなかったんだけど今のゲーミングノートでやったらまぁその臨場感が凄いんだよね。だから一日やってても飽きない。ミッション云々ってよりかは色々と動き回るだけで単純に景色が綺麗だったり思わぬところで思わぬところを見つけたりとか、まぁようはこれも人間のプリミティブな欲求だと思うんだよね。これは俺が勝手に思ってることだけど俺って明らかにハンターっつーか戦士系の遺伝子が無駄に残ってるタイプなんだよね。だから冒険ってことに余念がないわけ。とにかくウキウキするようなことに飢えてて、んでもいつも書くように現実だと色々とやり尽くした感じがあってとにかくつまらないんだよね。


で、ゲームの世界だと自分のみを危険に晒すことなくジャングルを探検してるような感覚を覚えられるとかさ、まぁそれは実際のジャングルとは違うんでジャングルのヴァーチャルリアリティ化とは言えないんだけどようは楽しい冒険の部分の楽しさだけを手軽に抽出してきてる感じっつーのかな?まぁあれですよね、アバターと同じ話ですけどね。あとマトリックスとかね。いや、あれなんだよな、前から同じようなことを書いてるから別にアバターとかマトリックスとかの話を出してこなくてもいいだろうって思うんだけどこれだけ読んだ人って「アバターってご存知ですか?」とかってマジで思うらしいんだよね。こないだも「押井守という人の映画を見てみたらどうですか?」なんて書き込みがあってなかなか閉口しましたね(笑)


何を踏まえてるか?って根源的な話をしてると見えてこないのかもね。そんぐらいプリミティブでラディカルな話をしてるってことなわけで。なんかまぁようは散々色々と読んできてるわけだし見てきてるわけなんだけどそこでそういう色々と読んできているっていうことのディティールの話をするんじゃなくて、その上でシンプルなことを考えるっていうのかな?考え直しなんだよね。だから。何を今更って感じがあっても自分が色々と考えたり読んできた上での何を今更的な話って前提が違うから俺にとっては全然違う話なんだよね。ただいちいち毎回哲学的に自我がどうのって話をしてたらきりがないんで要点だけ書いてるとまぁすげーシンプルな話になるっていう。まぁそれでいいんだよね。


やっぱ現実ってつまらないよね。環境なんてのもまぁ普通は変わらないからそりゃ日々の生活に飽きるわな。だからこそ仮想空間でジャングルを体感!とかアステカ文明デートとかってことになるわけじゃん?こうなるとどんどん現実のほうが時代遅れに見えてくるんだよね。動物園とか遊園地ってのがめちゃめちゃアナログに見える。ああいうのよりよっぽど刺激的な体験がヴァーチャル世界で経験できるのに古い現実世界の名残で遊園地とかがまだ残ってるっていう。だからまぁどんどんエンターテイメントが個人化していくってことだよね。でもドメスティックなわけじゃなくて世界のユーザーとのコミュニケーションが出来るっていう。これだともう引き蘢りじゃないだろっていうさ(笑)同じ職場の同じ同僚ぐらいしか人と接する機会が無い人とオンラインゲームで色んな国の連中と喋ってる人とでは世界が違うでしょう。


異文化交流とまではいかないけどアノニマスで他愛も無いゲーム上についての話だけにしても世界の不特定多数の人とコミュニケーションしてるほうが世界は広いよね。それに比べて現実は狭過ぎるんだよね。それこそフリーターとかだったら家族と数人の友達とバイト先の連中ぐらいしか人がいないわけじゃん?でもまぁ規模の差はあれ大体そんなもんだよね。でもまぁヴァーチャルの世界ってセカンダリーグループが増えるんだよね。そういう媒体が無ければコミュニケーションは成立しないしそれが無くなったら自然消滅するような関係性でもそのゲームとかそのヴァーチャルの場ってのが続く限りそのセカンダリーグループは維持されるわけで重要性はともかく交流は続くんだよね。


まぁようはクラスメートとの他愛も無い会話と一緒なんだよね。別にそれって本質的じゃないじゃん?でも家に籠ってるよりかはクラスメートとだべってるほうが人間的に健全なわけでしょ?その根拠はともかくとして。んだとすればそのセカンダリーグループにおける他愛も無い会話ってバーチャルの世界だったら無数にあるわけだよね。っつってもアノニマスだからこそルール無用で自分勝手なやつが多いのも事実なんだけど、ようはオンラインのコミュニケーションって内弁慶のまま外に出る感じだよね。アノニマスで顔が晒されないから内弁慶のまま外に出れるっていう。いや、それが良いかどうかは別ですよ。


で、まぁ色んな話を端折って言うとんだからネット上には馬鹿とか無法者が蔓延るのもすげー納得がいくって話なんだよね。こういう内弁慶のまま外に出てるやつらがうじゃうじゃいるって話なわけだ。で、別にそいつら一人一人が引き蘢りなのか?っていうとそうじゃなくて実際は職場で外地蔵的に振る舞いつつネットでは内弁慶で振る舞うっていうさ、だからネットの住民ってのはアグレッシブな馬鹿が多いって結果になるんだよね。いや、それは構造的にそういうのが増えて当然なんだなって凄く納得したわけですよね。ネット弁慶とでも言うべきか。でもまぁようは使い方次第じゃないですか?ネトゲーにしたってネトゲー内でメンバー制にしてオンラインプレイとかやってる人もいるわけだし、こうなるとまぁ安全ですよね。ちゃんとした人同士でやれるわけだから。codなんかだとメンバー組んで固定でTDMとかやってるやつらが多くて固定メンバーにはなかなか勝てないっていうね(笑)んでもまぁそれって凄いことだと思うんだよなー。多分、素だとなんの会話も発生しないような人とチームを組んで敵と戦うってだけでチームワークになるわけじゃん?で、その人とのコミュニケーションも発生するっていう。でも多分、ゲーム上の便宜であくまでゲーム上ぐらいのコミュニケーションにとどめておいたほうがいいんだよねっつーかそこから身の上話とかをし合うような仲に発展するほうがレアだろうって思うんだけど。


でもその関係性が発生する場ってそれがリアルだろうがネットだろうが関係ないですよね。本当に。ブログ経由で知り合って結婚した人なんかも結構いるみたいでまぁそれってすげー良い事なんじゃないかと思うよね。俺もウォール伝経由で知り合った人がすげーいるし、まぁようは媒体がウォール伝なんでちゃんとした人たちばっかと知り合えるんだよね。これはリアルではほぼ不可能でしょう。なんかだからまぁ面白いんだよね。リアルではほとんど人と話さないけど、んでも知り合いは大勢いるっていう。で、表面的な話をするような人達ではなくてまぁそもそも媒体がウォール伝なんでディープな話しかしないわけじゃん?そういう人と常に知り合える機会が与えられてるってすげーインフラだと思うんだよね。最近はウォール伝は書くっつーよりも色んな人と知り合いになれるっていう部分の重要性を感じてるよね。まぁだからようは俺が言いたいのは「場」の話なんだよね。


で、人間が介在している限りそれが現実の場かネットの場かヴァーチャルの場か?なんてのは大して大事ではないだろうってことなんだよね。むしろネットやヴァーチャルの世界によって現実には無い場を無数に作れるしアクセスできるわけでそれってまぁようはハブじゃないですか?ハブは多ければ多いほどいいよね。こういう発想ってビジネス的な実益を伴う世界ではとっくの昔に言われてたことなんだけど実際は娯楽や個人の世界観のレベルの話でもすげー重要なんだよね。むしろ実益云々とは関係ない次元でのハブがあるということで広まる世界ってのがあるわけで。


ただまぁ実際は違う所もあるからね。論理的に進めていけばそうだろうって思えることも実際にサービス化したり製品化したりするとあんまり人が飛びつかないとか全然需要が無かったとかなんとかさ、でもそれもまたフィードバックじゃん?あーそれは違うんだなってことが分かるじゃん?だからまぁ俺はセカンドライフ的なものには全然期待しないよねっていうかセカンドライフってすげー期待されてて思ったより流行らなかったじゃん?あれはまぁ思ったより需要が無いっていう現実からのフィードバックの典型だと思うんだけど、でも「セカンドライフ的なもの」ってのは特定のソフトなりサービスを指すセカンドライフとは違った意味で遍在してるよね。


それがようは俺が今回書いたような色んな「場」の話なわけ。だからそういうのって特定のサービスとかソフトに集中するようなものじゃなくてセカンドライフってのは要素の問題でその要素が色んなところで遍在しているってことなんだよね。特定のサービスによるセカンドライフっていうのは昔から思われていたヴァーチャルの世界の想像図的なものなんだよね。全ての人がなんたらネットに接続してそこでのアバターを操作して様々なことをやっているっていう。でもまぁそんなに現実は単純じゃないんだよね。だから特定のサービスにおけるセカンドライフは流行らないし今後も流行らないんだよなっつーかこれは流行るもんじゃなくて要素として遍在し続けてそのうち現実の一部になってその大きさがどんどん増していくってことになるって話なんだと思うわけよ。そうなると文字通り何が現実で何がヴァーチャルなのか?なんてのはどうでもよくなるでしょう。あくまでそれは好みの問題ってことになるよね。ヴァーチャルってそういう意味でただの機能なんだよね。


アサシンクリードをやったときに「いやーさすがだなぁー」って思ったわけですよ。いや、実際のああいう時代のアサシンの話なんだろうなって思ってたらメタナラティブ的なヴァーチャルっていう要素が入ってて言うなればプレイヤーから見れば夢の中の話をその夢の中の話の人物が夢の中に入るマシーンを使って夢の中に入って色々と経験したものをプレイヤーから見た夢の中に戻ってきてそれをフィードバックさせるっていうのをプレイヤーが疑似体験するっていうことじゃん?めちゃめちゃ深いですよ。これ。っつーか海外のゲーム会社ってこのヴァーチャル感覚にすげー敏感だよね。他のゲームにしてもこういう要素をすげー効果的に使ってる。Saint Row4なんかもそうだよね。あとは映画で言うとインセプションとかね。


で、それは近未来の話なのか?と思いきや実際にそれはありうるし現実もそうなっているということで完全なフィクションってわけじゃないっていうところにコアがあるよね。ドラえもんの道具レベルになると架空の話だけどアサシンクリードとかセイントロウ4ぐらいの話になるとそんなに遠くない未来に普通にそうなってるだろうなっていう現実感があるんだよね。だからこそゲーム内のキャラクターが仮想空間に入っていくっていうことを成立させてるんだと思うんだよね。昔のやつだとセイントロウ4のバーチャル空間に直に行く感じじゃないですか?で、ゲーム内のキャラがスーパーマン的で空を飛んだりスーパージャンブが出来たりするっていう。でもセイントロウ4の場合、セイントロウ4内でのキャラはあくまで人間なんだよね。だからスーパージャンプとかスーパーダッシュとかは出来ない。でも仮想空間内ではパワーが得られでそれが可能になるってことだよねってまぁマトリックスそのものなんですがね。


この二重性がすげー重要なんだよね。プレイヤーにとっては仮想世界のゲーム内でさらにそのゲーム内での仮想空間が存在するっていうね、で、そのゲーム内での仮想空間でのみ仮想空間で可能になりそうなスーパーパワーが発揮できるっていうこの面白いリアリズムね。フィクションにおけるリアリズムっつーのかな?ホント、だからリアルとバーチャルの関係性なんだよね。ホントに。


なんか色々と書いてたらまた仮想空間に入りたくなってきたんでそろそろやめるけど、VRヘッドギアとかって医療でもすげー有用になると思うんだよね。それこそ体が動かせなくて目に入るものといったらテレビか病院の天井ぐらいの人がVRヘッドギアをつけることで色んな場所に行けるっていう。これは相当精神的なケアになるよね。そもそも五体満足の人達ですらヴァーチャルの世界に安らぎを感じているわけで。で、これって逃げじゃないですよね。あくまで機能の一つだよね。それを利用するっていうだけの話だよね。だからそれが機能である限りヴァーチャルと現実の区別がつかなくなるなんてことは起こらないと思うんだけどね。


デーヴ・グロスマンって人が実際に人を殺すときに躊躇ってしまうということを克服するためのトレーニングは仮想トレーニングで銃を撃って人を殺すという練習をすることだっつっててさ、んだからまぁ今の若者が毎日やってるようなテレビゲームはすげー危険だっつーんだけどさ、いや、デーヴ・グロスマン自体のリサーチとかはちゃんとしてて説得力があるんだけどゲーム云々は別だよね。いや、確かにFPSばっかやってる人は全くやってない人に比べたら現実で銃を撃って人を殺すことにあくまで相対的に躊躇しないかもしれないけど、そもそもFPSをやってる人間が銃を撃つ機会って無いし、問題なのは銃を撃つことに躊躇いが無くなることじゃなくて銃を撃って人を殺すようなことになってしまうこと自体に問題があるわけじゃん?これってホントにロジカルエラーだよね。空手の訓練をしてる人は危険だって言うようなのと同じだよね。空手の黒帯が空手の技を全力で使って一般市民を殺傷するなんてことがあったとしたらその行動自体に問題があるわけで空手の技自体に問題があるわけじゃないじゃん?


空手の訓練をしてるから普通の人でそれを試したいっつって人を襲うことになるのか?って普通はならないでしょ。なったとすればそいつの精神が問題なわけだ。それで言えば俺だって相当な危険人物でしょう(笑)社会学でもトリガー理論だったかなんだったか、ようは元々人を襲ったり殺そうとするようなメンタリティを持ってる人が暴力的なものを見たりすることでその暴力性がトリガーされて暴力を振るうに至るということがあるんだけど、それはそもそも潜在的な暴力性ってのが無いとトリガーされないわけで、例えば俺みたいなやつがどんだけ暗殺術を学んだ所で普通の人でそれを試そうなんて思わないわけだ。危険なのは襲う可能性があるっていうそいつ自体のメンタルの問題じゃん?でもそれは潜在的に存在するだけで顕在化=犯罪の発生なわけだからその一部の人間の潜在性のトリガーを抑制するために全面的な暴力描写のあるゲームや映画の規制をするべきだってそりゃ無いでしょって話だよね。


ゲームとか映画なんてのもただのきっかけで別にそれが無くなったって日常で暴力を見ることはあるでしょ?猫の喧嘩とか犬の喧嘩でもなんでもいいんだけど。あと統計で見れば分かるように暴力描写があるようなゲームや映画を日常的にやっていたり見ていたりするような人間がその影響で犯罪に走る確率っつったらめちゃめちゃ少ないわけでしょ?だってそれはようはそのさっき書いた潜在性の問題だからじゃん?だからそれはそもそも「暴力描写があるようなゲームや映画に日常的に接している人間の中で」っていう条件付けがおかしいんだよね。潜在性で言えばそれに接していようが接していまいが世界の人口の中でそういった潜在性を持っている人間がどのくらいいるのか?っていう話なわけじゃん?なんでそれをゲームや映画に結びつける必要があるの?って話じゃん?


AVなんかでもそうだよね。痴漢ものとかレイプものを規制すればいいのか?ってそもそもマジで痴漢をやったりレイプをする人間なんて潜在性の問題じゃないですか?痴漢ものとかレイプものがあるからそういった性犯罪が増えるんだって全く違う話ですよね。それだから例の児童ポルノの話とかもおかしいんだよね。ホンモノの児童ポルノならともかく漫画とかアニメのものまで規制するってのはそういう意味でおかしいよね。こういう話って全部一緒だよね。暴力的なゲームや映画があるからそういう犯罪が発生するっていうおかしな論理ね。ロリコンものの漫画があるから未成年への性犯罪が増加するっていう論理じゃないですか?まぁ俺はいつも思うのはそういうのがあるからこそプリミティブな暴力性とかをそういうところでガス抜きできるっていう意味で精神的に健全だってことなんだよね。


そもそも精神医学なんかでは必ず言われるのはどんなに温厚な人間でもaggressionっては必ず持ってるってことなんだよね。いや、誰でも持ってたら何かを規制した所でどうにもならないでしょうっていう。むしろそれを健全なやり方でリリースできるような場所があった方がいいわけじゃん?ロリコンものにしたって創作物でそういうのがあるから実際に手を出さなくて済んでいるって人のほうが明らかに多いでしょう。規制なんてのはさ、規制されればされるほどそれってようはプリミティブなものへの抑圧ってことだからバックラッシュが強烈になるわけよ。だからそういったものは言論の自由的な感じでで社会との兼ね合いがオッケーなレベルで存在してなきゃダメなわけよ。抑圧ほど危ないものはないからね。油に火を注ぐようなもんだからね。それって。


まぁそんな感じでそろそろいいかなっつーか最近全然書いてないのね。今年に入ってから特に全然更新してねぇーなーってことに気がついたんだけどまぁそんだけ俺が仮想空間に没入してるってことなんですよ(笑)で、たまに戻ってきて長文を書いてまた戻るっていう感じになってるよね。まぁそれでいいと思うんだけどね。


ってことでんじゃまた。



いつも書くように「うわーすげー!」っていうような「楽しい!」とか「死ぬほどワクワクする!」っていう体験を個々がmaximazeさせていくことが全体の幸福に繋がるわけね。まぁ功利的な考えではあるけども。