Motoさんと@さんへの返信。

Mr.MotoMr.Moto 2014/03/15 20:36


ヒマネタ2題。


その1。
フランスの日本文化紹介イベントで、日本の能を紹介することになった。その舞台のリハーサルで、日本から用意してきた音源(当時はオープンリールのテープレコーダー)のリールを、うっかり逆にセットして再生してしまった。それを訊いたフランス側の音楽監督が叫んだ。「おお、シュトックハウゼン!!」


その2。
富田 勲さんの息子さんは、「富田法」というアルゴリズムで有名な方。電算関係の知人が、その方から聞いたという話。シンセサイザーを個人で買って作品を作っていたときに、低周波のビブラート(って言うのか?)をかけようと思ったが思ったようにゆかない。そこで、梁にロープを架けてウーファー(スピーカー)をぶら下げ、ぐるぐる巻いてから音を出して近くにセットしたマイクで拾う、という方法で録音した。それを見た息子さんが、「親父は気が違った」と思ったそうな。


生楽器には生楽器の、シンセサイザーにはシンセサイザーにはシンセサイザーの弱点があって、なかなか“出したい音”というのが(音高に限ってすら)出せない。けっきょく人間の声というのがいちばん融通が利くという話にもなりかねず、その昔、「電子音楽模倣協会」というボイス・パフォーマンス集団を作って「人間の声で(ウェンディ(ウォルター)・カーロスや冨田勲シンセサイザーで試みたような)現代音楽を創作する」ということをやっていた。現在では相当に便利になってはいるのだが、それでも(テルミンとかいった手段はあるにせよ)声でやったほうが手っ取り早そうな気がする。


時代って意外に変わんないんだね。


示唆的なエピソードばかりですね。結局、いかにテクノロジーが発達しようとも生音の豊かさは普遍ということですよね。結局、僕が色んな音楽を聴いていても昔のミュージックコンクレートが好きなのってこれなんですよね。色んな具体音ってそれ自体がそもそも凄く豊かな音なんであって、んでそれを逆再生したりピッチを上げ下げしてみたりっていう、でもそういうのってデジタル的なプロセスが入らないほうがいいんですよね。なので近年のデジタル臭いコンクレート系の作品って嫌いで、やっぱり古典的なテープ音楽が一番いいなって思いますね。


いや、僕ってまぁそんなにあえて強調することじゃないんですけど膨大な音源を聴いてきてるわけですよ。で、今になってアコースティックな楽器の音の豊かさとか人間の声の表現力だとかに凄く感心するようになったってなんかすげー面白いなぁー!って思うんですよね。結局、そこなのか!的な意味で。そうそう。ボイスパフォーマンス系の音源とかもだいぶ聴くようになりましたね。これは結構前からなんですけど巻上公一のKuchinohaってアルバムとかDemetrio Stratosの諸作品とか、昔は「生音ってダサい!」って思ってたんですけど180度認識が変わりましたね。いや、コンクレート系の生音は大好きだったんですが、弦楽器とか声とかってダサいって思ってたんですよね。なんかまた興味あるものが増えて聴きたいものが膨大に増えてテンション上がりまくってますね。


まぁ今はテンションが上がりまくっているからなのかもしれませんが、90年代後半ぐらいから流行ったデジタルプロセス系の音とかってのが今は凄く陳腐に感じますね。なんというかフランジャーとかわざとらしいディレイみたいに感じますね。っつーかそう思うとそもそもアコースティックに敵うもんないんじゃない?って思えてくるんですよね。なんでもパソコンで音が出せるのか?って結局は生楽器や生声が最上!ってことになるんですよねっていうか自分の中ではそうなりました。

@@ 2014/03/15 23:57


ネットでは誰が作っただとか人格とかすっ飛ばして良いものはおのずと注目されやすいって佐村河内なんかとは真逆な感じですよね。良質ならばほっといても勝手に注目されそうなものなのに、わざわざ宣伝ばかりしてスパムみたいになってる営業マン的アカウントなどのゴミにも邪魔されてる感じもあるんですが。良質なレーベルや個人ベースで活動してる人が埋もれてく感じがありますね。ネットがなくても注目されることばっかり意識してる人って昔から活発だったと思うんですけど、それ以外のタイプの人が今の時代にとりあえずクラウド化してくれることで昔だったらなかなか知りえないようなささやかに活動してる人やレーベルが可視化できるっていうか実際に聴けるんでいいんですけどね。


いろんな音楽系のウェブサービスありますけど、ゴミばかりあふれる中で良質なものを探すのも一苦労というか、もっと個人の趣味嗜好が反映されるフィルターみたいなものができて欲しいなーと思っているんですけどね。まぁ自分が勝手にゴミと思ってるだけで、良質だと思っている人がそれなりにいるのかもしれないけど。だから余計に自分の主観的にゴミと良質なものの区別が都合よくできるフィルターができてくれればとも思うんですよね。タダが当たり前の時代のネットでの自分にとっての良質なコンテンツの探し方って難しいなぁと。


例えばサウンドクラウドみたいなSNSのように気に入ったらフォローして、自分のストリームに流れてくるものを片っ端からつまんでみるとか、そういうツイッター的な仕組み自体もあれなのかなーというか、最初は自分から探してきたはずのに、だんだんと消費するだけのようになっていく感じとか。フォローする数が増えるとそうなっちゃいますね。


ちょっと昔なら、演奏はド下手糞だけど売れてるパンクバンドがいるから自分にもできるに違いないみたいな勢いとかノリが今だったらパソコン一台あればそれなりのものが自分にも作れるに違いないという幻想に取って代ったのかなぁと。たしかに創ることの敷居が下がって”それなり”のものが作れる人が増えても、面白いものとか良質なものってそんなに増えないですよね。まぁでも大好きなレーベルにカタログされたら嬉しいみたいなのはある気がするんですけど


そうなんですよね。「盲目の」とか「聾者」とか「片腕しかない」とかそういう音楽以外の余計な部分ってネットでは関係ないですからねっていうか物語的な意味での剰余価値が発生しないですからね。いや、本当に@さんのおっしゃる通りで普通にCD屋とかレコード屋に行ってるだけじゃ知りようがないぐらいマイナーな作家の作品とかが聴けるようになってるって凄いことですよね。それでそのささやかに活動している人が注目されるということではなくて、聴きたい!と思う人が聴けるようになっているっていう状況が素晴らしいな!って思うんですよね。


クラウド化の弊害については書かなかったんですが、書きながら思ってたんですよね。みんなクラウド化!って良い面もあるけどゴミが余計に増えるということはあって探すのが大変になるってのは絶対にあるんですけど、でもそこはある意味、僕らが中身が分からないCDとかレコードを買ってた時代と同じだと思ってるんですよ。昔はゴミだらけの中から色々と引っ張り出して買ってみて大失敗しまくってたわけですよね。んでもお宝にめぐり合いたいので色々とディグってたり直感を信じて買ってみたりしていたわけで、今の場合は探すのにレコード屋に行くみたいな物理的な時間のコストとかってないし、すぐ聴けてすぐ判断できるので昔に比べたら便利だなとは思いますよね。ゴミから探す作業というのはそれ自体が面白いことだったりもするのでゴミが増えていって良いとは思いますね。そもそもゴミだらけってレコードとかCD時代から同じだったわけでネット時代になってゴミが増えたってことは無いと思うんですよね。ゴミが可視化されるようになっただけで大半の創作物はゴミだと思うので。小飼弾松岡正剛の対談でも「実際に凄く良い本なんて少ない」みたいなこと言ってましたからね。全体に比べて良いのが2割ぐらいあれば相当いいぐらいな感じでした。膨大な書籍を読んでるからこそ言えることですよね。これって。結局まぁこれって対象物がなんであれおそらく大体まぁ大体においてそんなもんなんじゃないかって思うんですよね。


といってまぁやはり@さんのおっしゃるように結局はあらゆるものが消費っぽくなってしまうという点は否めないですよね。何もかもが流れていることで自分の中からも流れていくみたいなことにはなりがちですよね。そこは凄く難しくて、まぁ僕も実際に昔より音楽に対するコストが低くなっているので膨大に聴けるようになったおかげで一つのものをじっくり聴くってことはあんまり無くなったんですよね。昔は内容が良かろうが悪かろうがそもそもCD自体が高かったりしたので大事に聴いてたんですが、今みたいな何でも聴けるという状況だとなんでも消費になっちゃいますよね。でもまぁそんな中で永遠と自分の中に残り続けるようなものってのはあって、まぁ結局、それは消費だけじゃ終わらない自分の中で残るものって結局はその作品次第というかなんというか、それこそ何でも流れているというような流れに逆らうかのような自分の中に残り続けるものって確実にあるので、そこは構造が変わろうが不変だなとは思いますけどね。でもやっぱり元々は消費で終わるようなものじゃないものを今のスピードで聴くと消費になってしまっているっていう音楽を聴くことの雑さってのは凄くあってそこは意識的に気をつけないといけないなって思いますね。書籍に関してはまさにそうなのでkindleで楽に安く手に入っちゃったら絶対に読むのが雑になるので高くて取り寄せに時間がかかっても本はやっぱり本で買いますよね。その流れるフローな感じが凄く怖いので。


「自分でもやれる!」っていう幻想を与えてくれる便利なパソコンというのがある中で面白いものや良質なものが意外と増えないという現実があって、結局それってまぁどれだけ何もかもが便利になろうが結局は作り手のアイデアなどの面白さ次第ってことなんですよね。「俺でもやれる!」的なのは「誰でもやれる」ことなので別にそれで面白いものが出来るわけじゃないっていう自明なことなんですよね。よく考えれば。論理的に見ればただのトートロジーですよね。だからまぁ今ネットにある面白いものの特長は誰でもやれるような、それこそデフォのパソコンについてくるようなアプリでめちゃめちゃ面白いものを作り出すっていうことですよね。ようは機材だなんだっていう話じゃないってところですよね。そこで誰もが持っている機材ではないみたいな一昔前の機材が豊富な人たちの特権性ってもうなくて、まぁあと別に機材が充実していようがつまらない人はつまらないものを作るっていうことが以前にも増して自明になったという感じですよね。


なんかこれって多分全部同じだなって思ってて、例えばヴァーチャル俳優とかを使って誰でも映画を作れるようになっても面白いものって大して増えないですよね。まぁこれの良さは映画を作りたくても現実的に無理!って人が映画を作れるようになるということですよね。でもそれと面白い映画が増えるということは別に直に繋がるわけではないという。まぁ僕はこういうところに幻想を持っていたんですが今は現実的になりましたね。あ、ようは誰でも作れるようになる=面白いものが増えるという幻想は無くなったってことですね。ようはそんなに面白いものを作れる人なんてほんのわずかでテクノロジーの進歩や便利なインフラは世に出す敷居をめちゃめちゃ下げたってことですよね。構造的なそういう部分の敷居が下がっただけで潜在的な面白い人間がインフラの変化で増えるわけがないんですよね。そういう人間が出やすくなったってだけで。まぁそういう意味だとネットって資本主義も通用しないような究極の実力主義の世界ですよね。