naoさんへの返信。

nao (116.91.154.59)


生物のたとえみたいのはちょっとダメでした。それにしても二極化、怖いです。


不安についてですが、まあネガティブなものとの比較みたいになってちょっとまあそれも怖いですが、まあその不安バッファみたいのって確かに必要だなって思います。不安ってのはまあブラックホールみたいなもんで不安を抱き始めるともうヤバくなりますよね。で、その不安が不安を抱くことでどうにもならないようなものが大半でしょうから、不安を抱くことって大抵どのみち無駄ってことになりますよね。そんなのにフォーカスするくらいだったら・・・って話なんで。


そえでゾンビの話ですけど、まあ僕は確かにゾンビではないにしても悪魔みたいな面というかそういう性格というか悪魔さみたいなものは持っているということを自白しなければなりません。日常なんかでも凄く利己的ですし、たとえばこないだも従兄弟が来たんですが、凄く悪魔みたいな接し方をしてトラウマ抱かせてしまって僕を恐れてしまっています。まあたまたまそうなったならまだしも、ちょっと僕のほうにもいろいろ問題があったというか調子に乗り過ぎましたね。まあ怖がらせようとして度が過ぎすぎたって感じです。いや、悪意もあったとしかいいようがありません。反省してます。他にも悪魔みたいな部分はありますが、まあそれは残念ながら気をつけていても消えません。


あとウォール伝に出会うまではゾンビみたいな性格でした。まあウォール伝読んだりなんだりでそこは考え方が変わったんですが、一般的な意味でのダメ人間というだけでいじめてました。妹は確かにダメ人間と言われかねないような部分もありますし、ですが、快を増大させているのでむしろ妹を評価すべきと思います。あまり気軽に味方だなんて言いたくないんですが、そのつもりですが、まあ当然相手にされてません。まあどう思われようが関係ないですが、周りからはダメな部分だけは強調されてますが、あまり気にすることないと言ってるんですが伝わりません。当然。偽善者だと思われてるでしょう。でもまあ偽善者かもしれませんが。人のことで行動するって自然にできればいいですけど100%自然じゃない場合偽善的な部分が混ざってるかもしれないわけで、それって本人も分からないと思うので。


なんで人間性がクズというのはそういうのひっくるめてのことで、怠惰とかそういうレベルじゃありません。まあでもそもそも真性ゾンビならそんなことを考えすらもしないのでしょうか?そうだとすれば僕は完全にゾンビではないでしょうが。まあそれでも悪魔な面があることに変わりないですが。それから市場価値だとか表層的なものとか気にしてないつもりです。それを気にするとというか気にし過ぎるとゾンビにだんだんなっていくのでしょう。


というか社会で一般に言われることを鵜呑みにしていくともともと善い人でもゾンビに近づきますよね?僕もそうなるところでした。去年のウォール伝との出会いはでかいですね。まあ自分はウォール伝を過大評価し過ぎていて自分の中でウォール伝がカリスマ化しているので注意しなければなりませんが。でもあれですよね、ゾンビは普段は自分がゾンビだとあてはめることも滅多にないんじゃないでしょうか。にもかかわらずウォール伝ではそうなるとすればウォール伝のパワーはヤバイですね。まあもしかしたらカリスマ化も度が過ぎないようにするとか宗教化し過ぎないという注意の上でならある程度はいいのかもしれません。それが人々を変えるというか。まあでも歴史はそれを散々やってきたわけで結局失敗の繰り返しだったわけで意味ないというかそもそも人々が度が過ぎない程度にカリスマ化するみたいなことが無理でしょうが。


まあ僕もゾンビになることだけは避けたいです。ですが、僕は弱い人間ですので死なんて怖くないとはやっぱり思えない部分があります。頭で死が怖くないと思ってましたがいざとなっていろいろ考えてみますが怖いです。最近そのことに気づきました。まあだからこそゾンビに感染されないように注意しないといけませんよね。いや、注意しててもそれこそどうにもならないんですが。だからまあゾンビが大量にいるような場に行ってはいけませんよね。


ブラック企業とかまああえて出すまでもない例なんでしょうが、そんな場なんてでもそれこそ死以上に怖いですよね。少なくとも軟禁でしょって思う。給料もロクに貰えなかったりすればそこのたとえば社長とかはもはや強盗犯みたいなもんだろ。って思います。


で、僕はまあみんな苦しめだの俺の苦労をお前も味わえなどといった考えは持ってないので、ゾンビじゃないのでしょうが、今は、それこそ前はそういうのを妹とか弟に押し付けてましたね。本当反省してます。


まあテロのことはあまり詳しく分からないので申し訳ないんですが、しかし、悪を成敗するためのテロを肯定するというのは分かります。いや、まああんま詳しくないんで気軽にいろいろ言うことはやめておきます。


まあそういうわけで哲学をいろいろやっていきますが、哲学はドイツ観念論?みたいなやつが面白いのかなってとりあえず思います。まあ凄く面白いものを見つけたなって思うんですが、まあ数学に近い感じもしますが、あと数学にしてもまあそうですが、これっていわゆる負け組的な要素があったりするからって部分もあるんだろうなーって思う部分は正直あります。たとえばこの世が平和だとしたらリア充だとしたら哲学との出会いとかはないでしょう。リア充みたいのを否定するつもりはないですが。でもまあ本当豪邸だの高級なんちゃらだのうまそうな飯などテレビなんかでもよくみますが幸せには思えません。食欲はヤバイですがうまいもん食うなんて幸せじゃないと思うし高級マンションとか然りですが、まあルサンチマン的なものなんじゃないかと言われそうで、でも自信持って違うと言えますが。最近テレビ見まくっててそういうの何度も見るが一回もいいとは思わず。一時的過ぎる。まあ幸福は読書もどれも一時的なもんでしょうがでもリア充的なのは違うかなあと。幸福のあとにはむなしさがついてくるのでいっときの誤魔化しでしょう。ましてやリア充的なというか表面的・・幸福は。リア充というより表面的なのほうが表現がいいかもしれないです。読書とかでさえむなしさがついてきます。例えが変だがでも一種のアキレスと亀みたいな感じがします。


でもまああくまで負け組的な要素というのはきっかけで今はそれは関係ないんですけど、いや、負け組だと思ったことは正直ないんですが、世の中への不満とか疑問みたいのはまあ昔からあったわけで、そういうまあ負け組というより負の経験みたいのですかね?逆にそれがなければ哲学だのとの出会いはないだろうと思うとそういう意味で負の経験は重要ですし、理不尽な世の中もある意味必要なのかもしれないとか思ったり。むなしさがついてくるにせよやっぱ学問面白いし好きですし。


ですが、今はちょっと二極化が進み過ぎていてさすがにそうも言ってられなくなってきましたよね。でもこの二極化問題もどうしようもないですし・・・。まあ僕はそれこそ今は自分がやれることをやっていくつもりですけど、それをやりたくてもできない人がいるとかなんか理不尽ですよね。まあでもだからどうこうといってどうしようもできないし、ゾンビになる前に死ななきゃいけない人もいるから自分も死ななきゃいけないってそれこそ自分で自分の足引っ張ってる感じですし、それはそもそも何にもならないでしょうし、結局快を増大できる人はそれを実行していくってのが一番いいってことなんですかね?


まあ快を増大させていて、なおかつ、そのための妥協をしないという意味では僕は強い善人だと思うので、まあ経済的なことや社会的なことによって揺らぐことのないようにしていきます。本当ウォール伝からはパワーをもらます。それを無駄にするわけにはいかないんでね。


naoさんの書き込みをいただいてちょっとまた凄く考える感じになっちゃいました。というのも自分で「良い人である」というような個人レベルで善くあるということと「ドリームキラー側にならない」みたいなゾンビにならないということの区別がつかなくなっちゃったんですよね。いや、実際に人格者でも夢を持ってる人に「現実的になれよ」みたいな横槍を入れるようなやつだったらそいつは良い人かもしれないけど極めてゾンビ的な人ってことになるんですよね。でもそもそも夢を持ってる人に横槍を入れるようなやつが良い人なのか?って話になりますよね。色々と考えると個人レベルでの振る舞いと社会レベルでの振る舞いが関係ないとは言い切れないなって気がしてきたんですよね。


嫌なやつよりかは良いやつのほうが良いに決まってるんですが、みんな良いやつになれ!っていうのは敷居高いじゃないですか?自分も別に良いやつではないですし。でも実際はゾンビ性みたいのと個人レベルでの個人的なクズさ加減は関係あるのかもしれませんね。でもまぁあれなんですよね、ウィトゲンシュタインとか人間的に相当クズだったと思うんですけど偉大ですよね。でも彼が哲学をやってなかったらただのクズで終わってたわけで、そう思うとゾンビ性みたいなのを規定しているものが実は思想とか哲学といった人間の基盤になるようなものなんじゃないか?って思ったんですよね。ようは普段から内省してて色々と考える人は多分、安易に他人の夢をぶち壊そうとしたりしないですよね。でもそれはその人が思慮深いからなんであって良い人だからドリームキラーではないってことではないんじゃないかってことなんですよねって相当分かりにくくなってますが(笑)


快を増大させてたようなバリバリだった人が時化た環境に長くいることでだんだん腐ってきちゃうみたいなことはあるわけですし、まぁそれがnaoさんがおっしゃっているような善人でもゾンビになる可能性はありますよねってことなんだと思うんですけど、でもそこでやはりゾンビになるのを食い止められる力というのはやはりマインドセットなんですよね。で、それを強固に支えるのが何らかの思想であったり哲学だったりすると思うんです。こうなるとゾンビ性というのは思慮深さの有無みたいな感じにもなりますよね。まぁそんなに簡単な話ではないんですが。


naoさんが話に出しているような刹那的な快楽とかってまぁそういうもので簡単に満足できる人ってまぁざっくり言っちゃえば思慮深くないっていうか浅い人ですよね。極論ですが、リア充に浅いやつが多いのもそういうことなのかな?って気がするんですよね。そういう意味であえてnaoさんが「負け組」という言葉を出すのも分かるんですよね。物質的な快楽とかで満足できる人は多分、内省的な意味での挫折とかって味わわないだろうし、まぁそういうのとは無縁ですよね。多分幸せなんでしょうけどね。それもまぁ快の増大と言えばそうなんですが、根本に実存的な悩みを抱えない表面的な快楽というのは如何なものか?っていう気はしますよね。結局、僕が言う快の増大って負の経験ありきですからね。それは落ちこぼれるみたいな意味ではなくて「幸福になれそうにないな」っていう絶望感から出発して得られる認識っていうんでしょうかね?より高次の幸福というかなんというか、でもまぁそれは西洋問わず哲学者や仏教者などが色々と模索してきた高い認識っていう話ですよね。


基本的に世の中のブラック化ってつまりは認識の次元が下がっているっていう話でもあると思うんですよ。世の中の認識の次元が下がるので認識が高い人はそういうものと関わらないようにしたり、あとは高い人だけが集まるような場所に固まることになりますよね。あと認識のレベルが下がるっていうのは人々のレベルが低くなるというよりかはみんな諦めちゃうというような意味での認識の低下なんですよね。自分は高次でありたいけど低次元な人が多すぎてゲンナリする・・・みたいな絶望も低次元化を引き起こすわけですよね。だから結局はなんていうか世の中ネガティブなものがどんだけ溢れようともいかにそれに抗いながら認識の高次化を目指すか?って話になるんですよね。で、それって結局は善い世の中にするということに直結するわけですよね。瞑想してればいいっていうような話ではないので。だから基本的に人々の認識のあり方自体が社会のあり方にも影響するって話なんで、だから個人個人のマインドセットのあり方ってのが凄く重要になるってことなんですよね。


だから快の増大といってもその内容が重要になってくるわけですよね。豪邸に住んでクルーザーを所有してればいいのか?ってそういう話ではないんですよね。でもまぁ豪邸に住んだりなんていうかその物質的なもので満足している人の価値観を否定するわけにはいきませんよね。それも一つの快楽のあり方なので。なんかでも書いてて思ったんですけどやっぱり理想的過ぎるんですかね。話を「良い人であるというのは良いことである」みたいな単純な話にすると分かりやすいんですけど、良い人ってのは他人に危害を加えたりしないし、他人に不快な思いをさせることは無いわけですよね。完全に無いかはともかくとして嫌なやつに比べたらそりゃ少ないに決まってるわけですよね。だったら功利的に考えてみんなが良い人になれば平和な世の中になるじゃないかって話になるんですよね。でもまぁそんなのは無理ですよね。ようは高い認識であるということが結果的に社会的な善になるんだという言い方をしてしまうと低次元な認識のあり方を自ずと否定することになってしまいますよね。物質的な快楽で満足していて何が悪い?って話なわけですから。


だからまぁ正直この辺の話に関しては微妙なんですよね。話を認識ってことにすればみんな認識を高めよう!って話になるんですけど、それを社会的なレベルで見るってことになるとようは低次元から絶対変わらない人が大勢いるわけですよね。その数に敵わないって話なんですよ。で、その低次元の認識の人ってのはゾンビも含むわけです。で、これってまぁ現実なんですよね。だからそれに対してどうしていこうもなにもないじゃん?って話になっちゃうんですよね。帰結としては俺は絶対に高い次元を維持するし目指す!みたいなことになるんですけど、それで何が変わるのか?っていうと実際の世の中は変わらないですからね。だからこの絶望とどう向き合っていくのか?みたいな話になるんですよね。結局、社会のあり方が自分の実存のあり方に繋がってくるわけですよね。


で、世界が適当すぎてブラック過ぎるってことになるともうどうしようもないって話になっちゃうんですよね。で、このどうしようもなさを感じるっていうことが諦めとかネガティブな思考というのを生み出して認識を低次元化させていく原因になる・・・っていう負のスパイラルになっちゃうわけなんですよね。だからもうどうしようもないっていう部分には目を向けないでやれそうなことをやっていくしかないってことになるんですよね。そういう認識があれば別にそう思った人が社会的行動を起こさなくてもその認識のあり方そのものが社会的行動になりうるっていうことになるんですよね。まぁ蓋然性とか潜在性みたいな話なんですが。こういう意識のあり方とクラウド化というかネット化していく社会って何気に相性が良いんですよね。それはやっぱりネットが直に個人のマインドに繋がりやすいからだと思うんですよ。だからゾンビだらけの世の中でも抗ってる人は結構いるんだってことが可視化されるだけでも全然違うわけですよね。


なんかこういうレベルで社会的なインフラに繋がらないのかな?っていつも思うんですよね。そういうマインドの構成力っていうんですかね。別に徒党を組むみたいな話ではないんですけどね。でもまぁやっぱりその経済的な事情に左右されないパワーというのはネットで形成しやすいとは思いますよね。でもまぁこれだけだと凄まじく脆弱ですよね。ちょっとなんかあればすぐ壊れちゃいますから。そこをなんかもっと強固なものにできないものかな?って思うんですよね。誰かが凄まじい強い基盤を与えるって感じではなくて強い基盤が勝手に形成されるみたいなイメージですね。そういうなんというか精神的なインフラっていうんですかね。ウォール伝がカリスマ的な感じなんだとしたらそれってウォール伝がカリスマ的なんじゃなくて僕が言うような精神的な地盤とかインフラってのを求めてる人が多いってことですよね。結局これって集合知なんですよね。僕が書いたから読んだから学んだからどうだって話ではないですからね。


とにかくやっぱりあれですよね、違うものには「いや、それは違うでしょ」って明確に言える場とか言ってる人とかって絶対必要なんですよね。こういうのがあることで「みんなが言ってることだから・・・」みたいなグダグダな感じの同調圧力みたいなのが分散されますからね。で、色んな分野でそれって顕著ですよね。それまででは現実の社会が同調圧力を作り出していたんだけど、今はネットっていう考えようによっては意識のインフラみたいなものがあるおかげで同調圧力ってのがただの相対的なものだっていう風に認識できるようになりますからね。「みんなこうだと言っている」みたいなのが実はその場でしか言われていない凄く狭い世界観の話なんだなってことがすぐに分かりますからね。そういうなんていうかマジでダメなものに対するカウンターですよね。それが個々のマインドセットと意識のインフラにあるってことで、だからこそ個々の認識のあり方が社会的な意味合いを帯びてくるって話になるんだと思います。


相変わらず長くなってしまいましたがこの辺で失礼します。