ひそかな徳の実行。

哲学者の道徳的使命は認識であり、哲学者が真の哲学者・理念にふさわしい哲学者であるのはただ理論的欲求が彼の実体的欲求そのものであるばあいだけなのである。いったい、理解と認識との作用はそれ自体においてすでに道徳的な作用なのではないか?ただ冷静な精神・敬虔な精神・純化されている精神・無私な精神・激情をもたない精神・自由な精神だけが、思惟と認識とに与ることができるのではないか?人々は諦念なしに・犠牲なしに思惟することができようか?精神の喜悦は自然的な人間の苦悩ではないか?


すでに孤独が思想家の最も不可欠な女伴侶であり、享受欲と社交欲とをもっている自然的な人間の女敵であるのではないか?自然的な人間のばあいには思惟の目的が欲我にとってきわめて感じやすい仕方で非恣意的に彼の外的生活全体を規定し且つ制限しているのではないか?したがって思惟は行動ではないか?したがって、認識を自分の原理および目的としてもっている人は、そのことによって同時に徳を自分の原理および目的にし、且つひそかに徳を実行するのではないか?


昨日言ってたことはまさにこれなのよ!早速届いたフォイエルバッハ全集第一巻の「スピノザとヘルバルト」からの引用なんだけどまさにこれだよねっていうか言葉はこんなにかっこよくないけどロジックとしては同じだからね。ホントにこれに尽きるんだよね。徳を磨いてひそかに実行するっていう、で、それを原理とするからどんな逆境があれど原理を貫き通すってことだよね。そういうことが倫理になったりまぁあと色々と書いたアソシエーションってことだったりとかまぁこの辺はネグリとかが近いなって思ったから久々に再読しようと思ったけど家に戻るのが面倒なのと和訳で読んでみたい!ってのがあって色々と買ってしまったね。英語のやつは大体持ってて読んでるんだけど今の流れみたいなのが来てるじゃないですか?いつものアレですよね。思想的に調子が良いときのアレね。それが完全に来てるわ。


いや、ネグリもさ、帝国がどうのとかって話はおいておいて、とりあえず古典的なヒューマニズムマルキシズムスピノザ的倫理っていうさ、野生のアノマリーとかそんな感じだし、エチエンヌ・バリバールのスピノザとかもそういうフレーバーあるよね。でもそこで俺的にすげー来てるな!って思ったのが今の俺の実存的な深い闇とニヒリズムね。下手すると死ぬぐらいの暗闇に覆われてる。そんな中での主意主義とは?っていうのが結局はネグリ的な闘争的左翼ってことになるんだよね。いや、革命的主体であり続けることって書いたのはまさにそれなんだよね。でも左翼っつっても当然sealdsとかああいうんじゃなくて本質的なヒューマニズムと長いものに巻かれないというDIY精神ね。そういう意味で思想的に筋金入りのパンクってことにもなるんだよね。でも別にパンク=国家が悪ってことではなくて、ヒューマニズム的に世にはびこる相対主義とか明らかな悪とか悪意のあるものとかに抗い続けるっていうことだよね。そういう意味での闘争なわけで、それはようはモラルの闘争だよね。


そこを神学に頼ることなく善を半ばアプリオリに規定してそこを立脚点にするって意味だとやっぱスピノザとかマルクスってことになるんだけどそれは政治的というよりかはヒューマニズム的って意味ね。アルチュセールから始まるようなヒューマニズムへのディスってのは当然的を得ているんだけど、それを自覚したうえで善を定立するということだよね。そこが本当にポストモダンのプレモダン感覚っていうまぁまさにレオ・シュトラウス師匠の影響ですけどね、そういうことになるんですよね。シュトラウス自然権とかをなんで今?って感じであんなに強調したのもそういう深遠な意味合いがあるんだよね。そこには本当に根底に流れる絶望とニヒリズムがあるんだよね。


なんかでもまぁフォイエルバッハの「すでに孤独が思想家の最も不可欠な女伴侶であり、享受欲と社交欲とをもっている自然的な人間の女敵であるのではないか?」ってのには本当にハッとさせられるよね。本来の自分に戻れ!って言われてるような気がして(笑)I'm fucking back BITCHES!って感じですよね。心に火が付いた感じよ。マジで。ある種の覚醒だね。物凄い暗黒を経由しての覚醒だよね。いやーマーシャルアーツありーのフォイエルバッハドストエフスキーネグリありーの今後はなかなかの充実っぷりだよね。毎日それをやっているだけで一瞬で時間が過ぎてしまうっていうさ、でもやっぱり今までとはattitudeが違うよね。「とりあえず読む」ではなく思想的に今の自分にビンビンに来ているものだから全身全霊を持って眼光紙背に徹するっていうね、マーシャルアーツも同じなんだけど、本当に凄まじいぐらい魂でそれらを行うっていう感じだよね。やっぱりそこは絶望とか死ぬんじゃないか?ってぐらいの奈落の底に突き落とされるぐらいのエクストリームなことが無いとなかなかこういう感じにはならないんだろうね。なんかまぁそういう意味で凄くコミットメントが定まってきた感じだね。


いや、ようはさ、いや、もう政治哲学とかいいや・・・ってなったじゃん?で、個人的に色々とあって人がどうあるべきか?というところからそれが政治に繋がったっていうさ、まぁ前もそうだったとは思うんだけど、前はフォーカスが民衆だったりしたんだけど、まぁそりゃいろんな人がいるからしょーがねーべってところでじゃあ限られた人でもいいから徳の実行をするべきじゃね?っていうね、それがクソみたいな現実への抵抗でありアクションなんだっていうことになったってことだよねってもう帰結が出ちゃってる感じだけど(笑)まぁでもフォイエルバッハは読んだことなかったし、ドストエフスキーに至っては文学自体疎いからドストエフスキー論みたいなのは読んだことあるけど読んだことなかったしね、あとまぁマルクスヒューマニズムの面をエンハンスするって意味でそういう観点でネグリとかも再読してみるってことだよね。あとまぁ過去の思想が便利なのはさ、俺が「こう思うんだよね」っつってもなんの説得力も無かったりするけど、それが権威がある過去の哲人の言ってることと同じだったりすると「だれだれもこう言っている」ってところで権威づけできるっつーのかな?皮肉ですけどね(笑)


結局まぁディスコースってそういう様相を帯びてるよね。だから何々論とか誰々曰く・・・ってことになるんだよな。「俺が思うに」だと「お前だれ?」って話になるからね(笑)まぁでもそんなの関係ないけどね。ただまぁすんげー真面目に思索してた人の結晶っつーかさ、そういうのってやっぱ価値があるし、いや、さっきの権威云々は忘れてくれたまえ。まぁようは認識が色々変わって昔よりかはレベルアップした俺が読めばまたさらに理解が深まるかな?ってのはあるよね。あとまぁマルクス云々は共産主義が良いとか資本主義が悪とかじゃなくてさ、まぁそういうのって時代遅れっつーかまぁさんざん言い尽くされてると思うけど資本主義があったおかげでイノベーションが生まれたしそれこそ戦後の日本とかもまぁそれがあったから復興したわけじゃん?あとまぁテクノロジーにせよ結果的に音楽とかいろんなもんが共産っつーよりかは共有されるようになったってのもまぁ資本主義の産物ですよねってことで気になる本があって「限界費用ゼロ社会―<モノのインターネット>と共有型経済の台頭」っつー本なんだけど、ようは共産主義っつーよりかはテクノロジーとか資本主義の一つの帰結であるところの共有型経済ってことだよね。でもこれは原理的には資本主義じゃん?共産主義の時代到来!ではないんだよね。


いや、まぁ共有型経済ってのを共産主義と結びつけるかはともかくとしてただ結果的にマルクスが悪の根源とした資本主義ってのがポジティブな意味で衰退するってことだよねっつーかもうとっくに衰退してるんだけどさ、でもそれって資本主義を極めないと来ない流れだからね。共産主義からイノベーションは生まれないとは言わないけど結局はまぁ利便性とかね、ユーティリティってのを極めつくすっつー言わば功利性を極めるってのは経済的なイニシアチブが多分にあるわけだよね。結局そういうのを極めた結果、共産主義的なイデオロギーとは関係ないフリーソサエティってのが生まれるってことだよね。結果だけ見ればやっぱりシェアするってのがいいんじゃん!ってことになってやっぱ共産主義でいいんじゃん!って見方もできるかもしれないけどそれとは全然違うよね。本当にストイックなまでのキャピタリズムのリゴリズムが無いとそういう風にはならないわけでさ、結局は利便性の追求ってこと自体が共産主義からは生まれないからね。利便性の追求の結果のフリーソサエティってことだから。


あ、だからまぁ何が言いたいのか?っていうとまぁ別にマルクスとかネグリとか言いだしてるってことで別にまた共産主義に戻ったとかそういうことじゃないってことね(笑)ようは個の在り方だよね。実存的であったり倫理であったり徳って意味でのヒューマニズムって意味で古臭いんだけどなんつーか実感として未来型社会みたいなのになればなるほどそういう古臭い人文系の価値ってのが大事になると思うんだよね。まぁそれは便利になり過ぎてなんでもウィキペディアとかまとめで大体理解するみたいなそれこそ利便性の追求で知識というよりかはinformationが人々を支配するようになるって意味でもinformationはknowledgeではないでしょ?そういう意味でのknowledgeなんだよね。なんでもスマホで・・・みたいな近未来っぽい感じってのと逆行するかのように古臭い本を書斎で読むみたいなことってのがすげーレアなことにもなりかねないからこそ、そういうknowledgeのディグり方ってこと自体がレアになっちゃったりしたらより世界は浅くなるよね。まぁーでもこの辺のことは19世紀ぐらいから言われ続けてるからなぁー。でもなんで今ヒューマニズムなのか?とかってのはまさにそういうことなんだよね。まぁそういう意味だとオワコンシリーズからの流れのコンセプトそのままなんだけどね。


あ、あと「限界費用ゼロ社会」だけど早速注文したけどこの人のレクチャー見る限りまぁ予想通り「こうなるだろう」っていうユートピア的な感じは否めないよね。仮にそうなったところでじゃあこれはどうなるの?とか例えばみんなが簡単にモノを作れるようになるっつっても音楽においてそんなことが言われてたけど作る事のコストが下がるとか専門的な技術なんかもテクノロジーとか情報でカバーできるなんつってもじゃあみんな音楽作ってそれで食っていってるのか?ってそんなことないじゃん?とかさ、あ、でもまぁEDMとかはクソの数ほどあるのか。まぁでも本にするからにはビジョン示さないといけないから「こうなるであろう」って言いきらないとダメだからね、ただまぁリアリストから見るとそううまくはいかないだろうって思うところもあるわけだけどただでも大枠でまさにそれっていうかまぁレッシグ的なコモンズの概念とか社会的インフラってのが文化的なもの以外にも生活インフラのレベルにまでそれがいってるっていうことだよね。


あ、別にこの「限界費用ゼロ社会」の内容ってことじゃなくてね、それはまだ読んでないからなんとも言えないけど、もうお分かりかと思うけどもさ、そこでやっぱ俺が言いたいのがこのコモンズっていう概念をそのまま徳に置き換えるってことなんだよね。シェアされる徳っつーと変だけど(笑)まぁでも攻殻機動隊とかでの革命思想の伝達ってまさにこういう感じだったじゃん?これなんだよね。ようは。そういう意味でまぁホント、俺は言うこと変わってねーなっていう(笑)


冒頭のフォイエルバッハの引用じゃないけど「ひそかな徳の実行」ってのが情報化社会では楽観的に見れば実行するということが微々たるものでも伝達に繋がる場合もあるってことだよね。もちろんネットとか無い時代でもフォイエルバッハが言うように徳をシリスに考えている思想家においては思惟ということ自体ですでにアクションになっているっていうことなんだけど、そこで横のつながりっていうのを考えるとスピノザ的なマルチチュードってことになるよね。善がベースのマルチチュードね。でも左翼的な意味だとまぁこれって左翼のシュプレヒコールみたいなもんだから形骸化してるけど本質的には徳とか古臭い古代ギリシャ的な善っていう理性がベースになっている連帯とかまぁようはアソシエーションってことなんだよね。でも別にそれは可視化してなくていいし徒党を組まなくてもいいしどっかで仲間同士でコミューンとか作らなくてもいいのよ。ネットがある限り思想は制限されないからね。ようは地理的な制限を受けないってことだ。周りがクズばっかでもひそかな徳の実行をし続けることができるし実行し続けている人がいるんだということを実感できるわけでしょ?でもそこでなんつーのかな?SNS的に徒党を組むんじゃなくてあくまでアノニマスな感じっつーのかな?ある意味アンダーグラウンドっつーかアサシンっぽいっつーかさ(笑)


そんぐらい善とか価値とかってのが形骸化してると今あえてそんなことを言うなんて逆にエクストリーム過ぎてアンダーグラウンドにもなりかねないよね。でもそこの反骨精神なんだよな。やっぱ。その辺はやっぱりチョムスキーとかが近いよね。チョムスキーの国家観は完全にアナーキズムなんで今は全く同意できないけど個々の権力とか同調圧力とか空気みたいなのに仮に抗うのが一人でも抗い続けるっていうね、やっぱそこが思想ってことなんだよね。三島由紀夫も言ってたでしょ。敵が戦車とか軍隊とか引き連れて大勢で来ても自分は日本刀で立ち向かうみたいなね、まぁ三島の場合、ヒロイズムと散華の美学みたいなのがあってナルシシスティックだけどまぁでもそんぐらいのiron willみたいなのが無いとダメだよね。そういうところはやっぱり武士道とかに学べるところは多いよね。武士道の場合、主君に仕えるみたいな部分もあるけどそうじゃなくてそこをようは自分が律している原理である徳というところに忠実に生きるんだよね。で、それに死ぬと。


だからまぁ俺が文武両道とか言ってるのも笑えるかもしれないけど俺はまぁ極めて真面目なんですよね。で、武術にしろ剣術にしろ修練を目的としたような形骸化された型練習をやるのではなくあくまで武術としてやるってことだよね。つまりは宮本武蔵が言ってたような結局はなんだかんだで殺人術なんだよっていうところだよね。でもそれは殺し方の研究というよりかは本質的に形骸化されていない武術をやるということだよね。


シェアされる徳なんて書いたけど人文系の理念ってようはこれだもんね。だから膨大な過去のアーカイヴから学びなさいっていう学ぶっていうことが推奨されるんだけどでもそれが多すぎてなんのこっちゃ分からんし、それこそリベラルになり過ぎると多様な価値観に対して寛容であるみたいなことにもなりかねなくて、だからこそ何が善なのか?ってのが分からなくなっちゃうんだよね。もしくは明らかな悪とか良くないことに関してもそれは一つの見方でしかないっていうような相対主義に陥るとかだよね。でもまぁそこでの古典の読み直しっつーかさ、レオ・シュトラウスなんかは明らかにポストモダンニヒリズムからの古典の復活ってのを実行してたけど俺が言いたいのはそれってようは近未来化っつーかさ、いや、それこそ聞きたい音楽が検索すれば出てくるとかどんだけ近未来なんだよ!って話じゃん?


そういうfastな感じってインスタントってことでもあるからね、だからこそヴィンテージな古臭い徳っていう概念が輝くんだよね。こればかりはググってわかることでもないし色々と学んで実感して実行してある程度実践してまた磨き続けなきゃいけないっていうもんだからね、まぁクンフーってそういう意味なんだけどね。日々の鍛錬って意味だから。中国拳法然りなんだよね。本読めばいいとか動画見て真似すればいいってことじゃなくてすんげー深い理解と実践と鍛錬が必要なんだよね。まぁ徳にしても拳法にしても実践ってのが難しいわけだけどまぁそれはともかく、informationってのが飽和しているからこそのknowledgeなんだよね。百科事典的なググれば分かる即物的なinformationなんではなく本質的なknowledgeね。それがまさに徳の涵養ということに尽きるっていうことなのよね。


まぁそんな感じなんだけどすげー色々と読み漁ってるからまたなんか書くかもしれないんで気長にお付き合いください。んじゃまたね。