ネグリとニヒリズム。

ママンにね、もうあんたの部屋大変なことになってるわよ。もう床が抜けるわよって言われたね(笑)「もうそんなに本を買うことはないだろう」って本が増えるたびに言うけどまた今も同じことを言っているわね、と。まぁそこで答えたのがこういうことなんですよね。ようは人って外部からの影響で色々と変わるし、特に劇的な影響とかに関しては影響を受ける前の自分には全く想像もつかないようなことなわけでさ、だからまぁそれで色々とまた考えるようになった結果なんだよなんて説明したけど本当に面白い会話だなーと思って(笑)良い歳した息子が本ばかり読んでいて家の床が抜けそうなレベルにまで蔵書の量がヤバい領域に達しているというのを心配している母親に対してその回答でありつつも回答としては的を得ていないことを言っている息子っていうさ、コメディですよね。でも息子が取り組んでいるらしいことはすげーシリアスなんだけど会話としてはコメディになるっていう(笑)


でも金にならないこととか実学的じゃないことを永遠にマジでやり続けるって一種のこういう滑稽さってのは常にあるよね。そこは俺はすげー現実へのアイロニーだと思っててすげー好きなんだけどね。金にならないことばっか好きになると言えば数学に続いて次はマーシャルアーツだもんなー。でも趣味じゃなくてガチですからね。ガチだからこそ余計に滑稽なんだよね。でもそこがかっこよかったらダメなんだと思うわ。すげーダサさと紙一重っていうかさ、なんつーかそういう生活の泥臭いところと密接に関係してるんだよね。本ばっか読んでて妹がベッドシーツ替えてくれるから「ちょっとどいて」とかって言われつつ本を読んでるとかね(笑)読んでる本の内容とか考えていることは壮大なのに物理空間で起こっていることは凄く間抜けというかね、なんかそこが面白いよなって思うよね。いや、開き直りって意味じゃなくてね、まぁそういう意味だったわけじゃないんだけどdeiziさんに「殺人術とか何言ってんすか?超ダサいっすよ」って言われてそう言えばすげーダサいよなって思ったんだよね(笑)かっこいい!なんて当然思ってないわけだけど、それ言い出すと他も全部ダサいよなーって思うんだよね。でもなんかそういうところも含めた「あるがまま」なんだよね。そういう意味で飾らずに素でいるっていうことの良い意味でのナイーヴさだよね。自分のナイーヴさに嫌悪感を感じるといっても悪いことばかりではないからね。そういう意味で俺は洗練したくないし粗いままダサいままでいたいなーって思うわー。


まぁそんなんでね、フォイエルバッハやらネグリやらドストエフスキーとかが俺の思想にビンビン来てる!っつーよりかは俺が達した思考がそういうのに対応するよね!ってこないだ書いたけどさ、それでまぁまさにフォイエルバッハとかが同じようなこと言ってて「ほらね!」とかって書いたけど、そこでまぁ相変わらずビンビンなままっつー躁状態が続いててお次はネグリなんだけどまぁここ最近でもう50冊ぐらい本買っちゃったけどそりゃ全部読めるわけなくてさ、でも届いたらちょっとだけ読むんだよね。で、まぁ色々と読み終えてないのを読んでから読もうかなとかって思ってるんだけどでもまぁつまみ食いしている中で「ほらね!」を発見したんでまた引用するねっつーかコンテキスト依存なんでそこだけ引用するっつーのが難しいんだけどまぁいいや。

実質的包摂についての分析はー社会のたんに経済的または文化的な次元を取り囲むものとしてのみならず、社会的「生(ビオス)」それ自体をも取り囲むものとして、そのような包摂が理解されたときに、さらには、規律性そして/あるいは管理の諸様相にその分析の注意が向けられたときにー、資本主義的発展の単線的かつ全体主義的な形象をかき乱すことができる。市民社会は国家に吸収されてしまったが、しかしその結果もたらされたのは、かつて市民社会のなかで調整され媒介されていた諸要素が炸裂するという事態である。抵抗はもはや周縁的なものではなく、ネットワーク状に広がった社会の中心で活動するものとなる。


言いかえるなら、個々の点が千のプラトーにおいて特異化されたのである。したがって、フーコーが暗黙のうちに構築したこと(そしてドゥルーズガタリが明確化したこと)は、次のような権力のパラドクスにほかならない。すなわち、権力は自己の内部に社会的生のあらゆる要素を統合および併合しようとする(またそれに伴い、多様な社会的諸力を実効的なかたちで媒介する能力を喪失することになる)のだが、しかし、まさにその瞬間に権力は新たな文脈、つまり最大限の多元性と抑制不可能な特異化からなる新たな環境ー出来事の環境ーを公然と表面化させてしまうのだ。


「帝国」からの引用ですけどね、「抵抗はもはや周縁的なものではなく、ネットワーク状に広がった社会の中心で活動するものとなる」ってもはやウォール伝のテーゼみたいなもんじゃないですか?でね、そこから前に書いた革命的主体で居続けるっていうことなんだけど

独立した主体としての労働者階級の中心的な闘争は、労働の拒否を通じて資本主義的コントロールを打破することにある。この拒否の論理は敵対的な分離の論理であり、その実現は資本の弁証法を掘り崩し攻撃する。この破壊によって獲得された空間のなかで、革命的な階級はみずからの独立したプロジェクト、それ自身の自己価値創造のプロジェクトを立ち上げる。そのとき革命は、資本を転覆し、新たな社会の構成、コミュニズムとなる。労働の拒否は新たな多次元的な社会を生み出す新たな様式の構成の土台としての計画された労働の廃棄となる。


いや、これは「マルクスを超えるマルクス」のハリー・クリーヴァーによる英語版のイントロダクションなんだけどね、まぁ他にも引用しようと思ったんだけど面倒だからいいやーって思ったわけなんだけどっていうか労働の拒否を通じて資本に取り込まれないような生き方をするってマルクスを出さなくても今の世の中だとだいぶ実践されていることですよね。まぁそれはニートも含めてだけど、絶対働かなきゃいけない!みたいな価値観ってもう古いじゃないですか?あとまぁそういう古臭い価値観で洗脳するのがブラック企業とか、普通の人に蜂起されたら困る人たちが言い続ける論理ですよね。


働いたら負けかなと思ってる」ってこと自体はただのニートの自己正当化なんだけどいつも書いているように皮肉なのが今のクソみたいな社会の中で特に酷いブラック企業みたいなところで働き続けるか、あとはまぁブラックぐらいしか就職先が無いみたいな状況の中で凄まじくスポイルされる人たちってのが多くいる中で逆にその「働いたら負けかなと思ってる」ってのがそこまで思想的な深みのある言葉じゃないにしても劣悪な労働環境が更生されずにそのまま放置されてる環境とか、モラハラとかパワハラみたいなのも含む職場のカオスなんかも含めた社会的状況ってのがその言葉に説得力を与えちゃってるよねってのはもうだいぶ前から言い続けてきたと思うんだけど、そこで俺的に感動だったのが、そういう社会的状況以外にも別に労働がどうの?ってことを考えなくても人生って基本クソゲーだよねっていうさ、超クソゲーのfirst personを永遠とやり続けるようなもんだっていうところからの抗うとか超越するべきものというよりかは厳然としてそこにある現象としてのニヒリズムってのがあるわけじゃん?


そんな中でむしろそれが当たり前なんだっつーかそうだよねってことを認証して世界はオワコンっていう認識から始めましょうってことで自己価値創造のプロジェクトを立ち上げましょうってことになってたでしょ?これって別にネグリパクってたわけじゃないんだよねっていうかだからこそ今たまたまこういう流れになっていてネグリでもまだ読んでなかった「帝国」と「マルクスを超えるマルクス」をチラっと読んでみてそんな一説見つけちゃったもんだから歓喜してるわけですよねっていうことなのよねー。


まぁでも俺は主にニヒリズムとか絶望っつー実存的なところから自己価値創造のプロジェクトを立ち上げる!って意味で自分の世界を作ってそれを有機的に色々なものにつなげていくのだ!ってことになってたんだけど、ネグリ的なコンテキストで言えばまぁどう食っていくか?はともかくとしてとりあえずブラック企業とかどうしようもないところに就職して人間性捨てるぐらいなら無職とかフリーターになったほうがいい!ってことでまぁそれが結果的に意識的じゃないにしても資本への抵抗になっているっていうことなんだよね。労働せざるを得ないというところに関して闘争をするっていうさ、でもどうやって食っていくの?ってのはともかくしてまぁ別に働くってことは悪いことじゃないし良い仕事に就けてたらそりゃ問題ないっすよ。だからそういう意味で一概に労働の否定なんてのはできない。ただ明らかに労働力をスポイルして利益を生むような形態になっているものに関してはいくら食っていかなきゃいけないとは言えそんなもんに加担してはいけない!ってことなんだよね。良い職場とか良い仕事ってのはもう掛け値なしに良いですよ。ただ俺が言いたいのはクソみたいな職場に関してね、そういうもんに関してはそういうところに就職しないっていう選択をすることで抵抗しなきゃいけないってことなんだよね。


で、こないだ書いたような「限界費用ゼロ社会―<モノのインターネット>と共有型経済の台頭」とかだとまぁなんだろうな、いや、まだ届いてないし読んでないから色々というのはあれなんだけど、限界費用ゼロってのはようはみんなが生産者になれるってことだよね。あとはまぁテクノロジーの恩恵によって資本による生産手段の独占ってのが成り立たなくなってるってことだよねっつってもまぁそれは楽観的過ぎるにしても、でもまぁそうしたほうがよくね?っていう風潮にしていけばいいだけの話だよね。でもそれは前にも書いたように限界費用ゼロっつーよりかはもっと単純に誰もが何かしらの過去には資本に依存していないと生産できなかったようなものとか生産手段そのものをほぼコスト無しに手に入れることができて生産できるようになるってことにしたとして、でもまぁそこで例えばあれだわ、ブロードキャストにしても誰もがユーチューバーになれるわけじゃないぢゃん?(笑)ブロードキャストなんて過去には凄まじい費用がかかってたしテレビ局が独占してた手段だったわけだけどまぁそういうのを誰もができるようになったってところで別に人気があるブロードキャストができるかどうか?ってのは別だからね。


でもまぁあれなんだよね、こういう直接的な生産手段じゃないにしてもテクノロジーっつーか例えばネットなんかによって過去には膨大な広告費用を払わなきゃいけなかったもんが簡単に個人で広告を出せるようになったとかさ、ブログが広告代わりになるとかなんとかまぁそういう恩恵なんてのは身の回りを見ればそれ自体が富を生み出していなくても過去では何らかの形で費用を払わなきゃいけなかったもんがフリーになってたり共有されてたりしてアクセスしやすくなってるってことだよね。そういう意味でいろんなもののコストが下がってるとは言えないかもしれないけどまぁ過去に金がかかってたようなもんに関して金がかからなくなってるってことだよねっつってもまぁそんだけ金がかからなくなってるってことは単純にそれだけ仕事が減ってるってことでもあるよね。音楽産業にしたってすんげーバブルみたいにCDが売れてた時期ってのは音楽ってことだけにしてもそれに付随したいろんな産業が潤ってたわけじゃん?そういうのが無くなるってことなんだけどでもそれって結果的に便利になってるからいいんだよね。アーティストが食えないって話もあるけどまぁやっぱ今の音楽の流通の仕方ってそれなりのいろんなもんの帰結じゃないですか?あとはまぁ今の流通にあった音楽のマネタイズの在り方ってのが模索されたりするわけだよね。


まぁだからそんな感じでどんどん存在してた仕事は無くなるんだけど、いや、だからこそ最近っつーかホリエモンツイッターで色々と騒がせた一連のことがあるらしいけどまぁこういうことなんだけどね、ようは有能なやつだけ働けって話なんだけどまさにこれなんですよね。それはホリエモンみたいな資本主義者(かどうかは分からないか)っつーかまぁ徹底的な実力主義者から見ても、俺みたいに食っていくっていう必要性から身売りをしなきゃいけないという呪縛から人間は解放されるべきだ!みたいに考えている人から見ても「そうだよね」って意見が一致するところなんだよね。ようは無理に労働しようとするから無駄な競争が生まれるし、生産性というところから見ても無駄なやつが働いているよりかは有能なやつが働いてたほうがよっぽど経済的に良いわけじゃん?でもまぁ日本って労働量が多い割に生産性が低いって言われてるけどまぁそんだけ無駄な労働力が多いってことだよね。有能なやつ1人で済むところを5人でやってるとか、それが仮に5人の生活費を賄うためにあえて高い人件費を払ってるならそれは社会主義的だよね。食わせなきゃいけないから雇用するっていう。でもそんなのダメだよね。いや、そんなことやってるから生産性が低いわけじゃん?


まぁだからホリエモン的な人が言うのは無能なやつは仕事するな!ってことでしょ。いや、それでいいと思うんですよ(笑)でもそれはあくまで社会的に無能ってことなんであって、もしかしたらその人は絵の才能があるかもしれないし音楽の才能とかも然りだけど、ただ社会的に必要とされるような実務においてはほぼ無能に近いみたいな人なんだったとしたら有能な人に席を譲るべきなんだよね。そういう意味での徹底的な能力主義でいいわけですよ。そこで社会主義になると全員雇用するみたいなクレイジーな考えになるけどそこはもう徹底的に資本主義的でいいわけ。


いや、だからこそね、無能な人が働いているというだけでその席を奪っているということだからそれ自体が害悪にもなりかねないみたいなロジックを認めたとして、じゃあ無能な人たちはどう生きていけばいいの?って話なんだけど、そこでまさに労働の拒否をするべきだと思うんだよね。それは無駄に仕事をしないという意味で限られた雇用を有能な人に譲るって意味もあるし、必要性に応じて半ば生存権のために脅迫的に労働をさせられるという状況から抜け出すとか、そういう状況において闘争するっていう道を選ぶってことだよね。そんなことしたら社会が崩壊するだろ!って崩壊しないんだよね。基本的にそういう道を選ぶ人はあんま仕事とかは得意じゃない人たちなわけだからさ、でも別にそれは負け犬が労働の拒否をするってことじゃないんだよね。それはここで言い続けてることだけど仕事とか実務ができるかどうかで人間の価値なんて決まらないじゃん?実務できるけど人間的にクソとかサイコパスとかだったらどんだけ実務ができてもそいつはクソだよね。


で、逆に実務ができなくてもすげー人間的に良いやつなんだったらそいつは生きてるだけで価値があるでしょう。そういう価値の判断基準を持つということでもあるよね。つまりはそれってようはさっき書いた自己価値創造プロジェクトってことに繋がるんだよね。就職するだけが人生じゃないわけで。まぁもちろん依然として雇用を譲った側がどう食っていけばいいのか?って問題は残るけどさ、でもまぁとりあえず言いたいのは明らかに向いてない人が労働の拒否をするというのは資本主義的に見ても合理的ということだよね。そこはもうホリエモンのツイートに顕著に表れてるじゃん?


左翼思想とかマルクス主義は資本側が労働者を手なずけるとかスポイルし続けることができるようにするために彼らの生産手段を持たない労働者っていう立場を維持させ続けるっていうような支配の構造ってのがあるけど現代の場合違いますよね。ロボットでも代替可能みたいな仕事はぶっちゃけ誰でもいいし、本当のイノベーションが必要とされるような場には有能な人しか必要とされていないっていうさ、そんな中でまぁ奴隷市場みたいな派遣っつー労働力スポイルのとんでもない産業があるんだけど、でもまぁこれってさ、もちろん俺は肯定はしないけど、例えばアメリカとかってなんだかんだで不法移民たちが正規の賃金以下で色々なことをやってるからこそ成り立ってるみたいな地盤があって、それって日本のブラック企業とかも同じなんだよねっていうかそれ言い出すとスターバックスのコーヒーとかナイキとかって話になっちゃうんだけどさ、まぁようは搾取の上に成り立っているっていう話ね。だからそれは必要悪なんだといっても過剰なまでの労働力スポイルの上に成り立っているサービスとかプロダクトなんてのに金払いたくないよね。かといってもだからじゃあそういうのには徹底的に金を払わないようにしよう!とかっていう不買運動なんかをしてもナオミ・クライン的な感じになってリアリズムが無くなるじゃん?


なんつーかそれでも「じゃあどっか行く?」っつって何気に入った居酒屋ってのがブラックか否か?なんてのを考えて入店しないってことだよね。どっかの店行って「あ、これいいね。サイズもぴったり!」って思ったスニーカーが搾取の上に成り立っているものではないから買うことに決めた!ってことにならないっていうことなんだけどさ、でもこういうのと日本的なブラック企業の違いってさ、まぁ現在のナイキとかスタバは過去よりかはマシになってるかもしれないけどまぁでもスポイルっつーよりかは需要があるものに関しての生産ってのを第三国でやってスポイルして儲けるって話ではあるんだけど、そもそもコーヒー豆とかって需要あるじゃん?だからようはコントラクトの問題なんだよね。じゃあもっとそんなに利益貪ってないで生産者に還元しろよ!っていう倫理の問題になる。でもね、一概にブラック企業っつっても色々とあるけど主に労働力のスポイルをしてそれ自体で利益を出すってことをやってる会社って飲食店にせよコンビニにせよインフラっつーレベルで当たり前にあるものとかサービスってのをワンオペでやらせてその人件費を浮かせて利益を出すみたいな構造じゃん?ようは欠陥住宅みたいなもんなんだよね。材料費浮かせて利益を出すっつー仕組みってことだと同じでしょ。


これが大問題なのってまさに搾取オンリーで成り立ってるからなんだよね。スタバとかナイキが生産手段を持たない第三国の人たちを使って色々作ってるっつってもそもそもそれ以外に仕事が無いってところに工場を作って雇用を作ってるだけまだマシと言えなくもないんだけど、労働力スポイルがメインの収益のものってのはサービスなり小売店にせよ飲食店にせよ最低限こんぐらいのコストがかかりますよってところをそのコストを限界まで下げて利益を出そうとしているっていうところだよね。そこが一番やっちゃいけない人件費の削減ってのをやってるからっつーかそれが効率化ならいいんだけど普通にサービス残業させて給料払わないとか違法じゃないっすか?ちなみにアイドル業界とかもそういうのが酷いらしいけど、ようは何で利益出していますか?っていうののメインが剰余価値ですってことになってるようなもんで成り立っている産業なんて潰れたほうがいいって話なんだよね。


古典的なマルクス主義の場合さ、いや、でも資本家って言う大げさなもんじゃなくてそれこそただの一市民みたいなのが決起してリスクを承知で銀行にお金を借りて生産手段を自分で作って何かを始めるっていうことはそもそもそれをやってる人は常にリスクを抱えているわけだし、それ自体の経営っつー労働力もあれば管理とかなんとか色々あるじゃん?で、もちろん人も雇って働いてもらってるけどその人が働いた分の余分な部分をかすめ取ってるっていうわけじゃないよね。個々の取り分があって雇用者も銀行に借金があるって中でやってる共同体みたいなもんでしょ。で、それは何をやってるんですか?ってのが問題になってそれがサービス業であったり何かを売るとかっていう小売りだったり飲食だったりするわけじゃん?でも完全な剰余価値の搾取ってのは何かをやる限り必ずかかるコストって中の人件費ってのをちょろまかすってことだからね。


マルクスなんかは普通はまぁそんなもんでしょって思えるようなものすらも剰余価値って言うからまぁエクストリームなわけじゃん?コンビニの店員なんつっても時給900円以上の仕事をしているはずなのに払われていない!みたいな感じだからね。いやいや、でもオーナーだって色々大変なんですよっていうさ、そんなに資本家と労働者の対立ってほど極端な差はないんですよってことだよねっつってもまぁマルクスの時代とかの場合、それが顕著だったから説得力があったんだけど今はそうでもないよね。


でもまぁそれがブラック企業となると一気にそれが「いや、そのままでしょ」って言わんばかりに剰余価値なんだよね。いや、剰余価値って言うことすらもアレなのかもな。なにしろ違法だからね。契約されている内容以外のことを無理やりやらせてそのお金を払わないとか「クビにするぞ!」とか恫喝したり嫌がらせをしたりなんかして無理やりやらせてるわけじゃん?もうとんでもないことですよね。あ、んで俺はちなみに左翼っぽく賃上げするべきだ!とかは全然思わないからね。だってそんだけ賃上げすればいろんなもののコストが上がるだけだから不便になるだけだからね。あ、この辺なんだよね。左翼思想ってこういう賃上げとかさ、最低賃金1800円にしろ!とかさ、そういうのも混ざっちゃうじゃん?だから左翼ダメだなって話になっちゃうんだけど、まぁ俺が今回色々とネグリとかを出して言ってるのはそういうバカな運動やってる左翼とかとは別にちゃんとした思想としての左翼とかマルクス主義ってのを研究して闘争に役立てるってことだよね。だからそういう意味でイデオロギーフリーな感じね。


まぁマルクス自体がイデオロギーになってるんだけどそういうところから解放させるってことだよね。で、ドグマティックにならず有用なところだけ使えばいいわけで、まぁマルクス主義なんて昔からそうだからね。役に立つところだけ使われてきたわけだし、まぁ悪く言えばそういうところが悪用されたところもあるんだけど、ただまぁ有用に使えばっつーか別にマルクスに還元する必要はないんだけど、まぁいかに剰余価値がベースになった資本ってのが人間をスポイルして社会的にも害悪なのか?っていうことは本当にマルクスなんかを通じてよくわかるし、そういうのを前提とした、あえてそういうのを「悪」と規定した場合に、そういうものに抗うための労働の拒否ってのはそういうタイプの労働の拒否をするわけだからつまりは悪の拒否だよね。つまりは倫理ってことなんだよな。


俺が最近フォイエルバッハなんかを出して書いている善と悪について相対主義に陥らず理性で善を善だと規定できる原理を持つという意味での倫理が必要とされるっていうそういう思惟の力っつーのかな?まぁヘーゲルなんかはそれを磨き尽して国家主義的になるべし!って言ってたんだけどまぁ主な違いってぶっちゃけ国家観とか人間の性善説性悪説に立つか?ぐらいの違いなんであって、倫理に関して言えば大体まぁ同じっつーか西洋哲学の伝統ってまぁ根底ではそういう良心みたいなのがちゃんとシェアされてるんだよね。


だからこないだ書いたようにそういう善の感覚のシェアなんだよね。世の中がそうなってるとか必要だからやらざるを得ないという強制力に負けない力ね。それが俺が一貫して抗うっていう言葉で表現してきたことだし、それを実践するということが徳のひそかな実行だし、自分と言う実存を世界内に企投するということにもなるわけよっていうか企投した結果の抵抗なんであり革命的主体であり続けるっていう遊撃手であり続けるっていうことであり結果的にニヒリズムを認めてそれと共に生きるっていう自己存在を認めるっていうことだよね。だからニヒリズムに抗うというよりかはニヒリズムというのは現象として客観的に存在してしまう無だからこそそれと付き合わなきゃいけないっていうところから来る論理的な帰結としての主意主義だよね。それがあるからこそのアグレッシヴな抵抗と強靭な意志ってのが生まれるわけ。


ニーチェってそうじゃん?だからそういう意味でニーチェは超人になることでニヒリズムを克服しようとしたのではなくニヒリズムをアクセプトするために超人になるという必要性を説いたんだよね。超越というと超えるように思えるけどもニヒリズムは認識がある限り存在する空気みたいなもんだから超越というのは無理なんだよね。それはまさに最近仏教のことについて書いてたことにも通じるけどいろんなもんを超越するといったところで身体ってのは残るからその身体を維持するためのニーズってのは身体がある限り意思とは関係なしに生まれてしまうものじゃん?ニヒリズム然りなんだよね。意識がある限りそれは常に生まれてしまうものなんだよね。だからこそ人間らしい主体性ってのを主意主義的に持ち続けるっていう、クソみたいな現実に対してはマキャベリ的なヴィルトゥを持って立ち向かうってことだよね。その力があればフォルトゥナは絶対その力に味方するよね(味方するはず。うん(笑))


だからこそ燃えてないといけないんだよな。デュオニュソス的陶酔を続けていないと。そういう意味でデュオニュソスのダンスを踊り続けないといけないんだよね。いや、だからそういう意味でクラブカルチャーって必須なんだよな。生きるってことが踊るとかパーティーで楽しむっていうことがイコールになるっていうね、それがどう考えても人間にとって健全な行為なんだよね。まぁあとEDMシーンとか見てればわかるように経済効果あるしね。観念的な意味でのデュオニュソスのダンスもクラブで踊るっていう衝動的で即物的なダンスも規制されるべきではないんだよね。それが仮に完全に規制されてなくても規制されてるような空気観とかってあるじゃん?そういうのに流されると残るのは本当にニヒリズムと退廃だけなのよ。だからみんな絶望して線路に身を投げるわけ。人身事故で電車が遅れるのが当たり前の世の中になっちゃうんだよね。そういうネガティブさに抗わないといけないんだよね。結局それってのが個々がそれを実践することで徳の涵養にもなるし結果的に社会的なアクションにもなりうるんだってことね。


まぁそんな感じで色々と躁状態になってるのが伝わったと思いますが(笑)これを機会にまた色々と深いところにいけそうなんだよね。なんか大体それは年末か年明けぐらいにあるよね。まぁただの地続きではあるんだけどモチベーション的に凄いブレイクスルーだなって思っててさ、まぁ凄く楽しいですね。うん。ネグリマルクス的な社会主義的国家を目指しているわけじゃないのは知ってたけど、どの時代においてもフレキシブルな政治的主体性と実存的主体の革命的な在り方というのを内発性から実践するということの重要性を説いててさ、まぁ悪く言えば観念的なんだけど、下手な国家とか社会のあるべき姿なんかを提示せずに、あくまで主体の政治的在り方っていうオントロジーに重きを置いているんだなっていう風に今の俺には感じられて、だからまぁ凄く改めて感慨深いところがあるっつーかさ、いや、これこそ変な左翼のイデオロギーとかそもそも左翼っつーレッテル張りをしちゃいけないような普遍的な思想でなおかつ普遍的なオントロジーなんだなって思ったのね。そこはポストモダン系の古臭い普遍性を相対化した上で見えてくる望ましい主体性と主体の在り方っつーのかな?俺がDJの話からドゥルーズにハマってすげー読んでたのってちょうど去年だったと思うんだけど、その流れに繋がった感じがするんだよね。だからまぁとにかく楽しくてしょうがなくて。まぁそんな感じでまたなんか書くかもしんないんでまた今度ね。んじゃまた。