ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/修道士による日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

キリスト教に目覚めていく私。

積読が100冊に迫る勢いなんだけど主に買ってるのはモノとしても好きな戦後から70年代ぐらいまでの本ね。絶妙な古本の匂いと今じゃどこもこんな硬派で売れなさそうな本出さないよなっていうような出版社の心意気が感じられるようなのが多くてんでまぁ多分現存してない出版社とか多いんだよね。

 

聞いたことない出版社とかなんだけどとりわけ神学とか宗教系の場合、マイナーだからマイナーな出版社からしか出てないみたいなのが多いよね。まぁ岩波みたいな大御所もあるんだけども。まぁんで安いですよね。1円から2000円の間で一冊買えるしっつってもまぁ送料が350円ぐらいかかるから十冊買っただけでっていうかアマゾン在庫じゃない場合送料だけで結構いくんだけどまぁでも安いっすよね。

 

んでまぁ古本って線引きとかメモが書き込まれてるやつとかめっちゃ安くなるじゃん?アウトレット的な?んでその線引きとかが前の持ち主が必死に本と格闘してきた歴史みたいなのが刻まれてるっつーかそういうのも含めて面白いっていうかまぁなんか今みたいななんでもデジタル!みたいなIT時代に逆行するようなロマンがあるよね。まぁ俺が生まれる前ぐらいの時代の空気感とかが好きなのかもしれない。

 

まぁそれは前にギターとか前衛音楽のことについて書いたりしたときにも言ったけどロマンっつっちゃーロマンなんだけどなんかいいよね。60年代のアングラロックとかの雰囲気とかあとまぁフリージャズとかさ、学問は学問でよくこんな本出したな!っていうぐらい取っつきづらいものとかが翻訳されてたりしてなんかで読んだけど日本ってどの国よりもかは分からんけど色んな本が翻訳で読める国の一つなんだよね。確か。まぁ別に洋書買えばいいじゃん!っていう話なんだけど意外と手に入らなかったりするんだよね。古くて再発が無いようなやつとかはアメリカのアマゾンなら買えても日本から買おうとすると買いづらかったりっていうかあんまり売ってなかったりとかなんだよね。

 

まぁいいや。そんな感じでまぁメインの教科書的なやつも読みつつ専門書が大半なんだけど昨日気がついたっつーとアレだけどまぁ色々考えてる中の一つのことなんだけど神の存在とその存在を受肉したジーザスっていうことなんだけど神の証明っつーのはまぁどれも成功したものが無いし証明できるような神は神じゃないだろうってことなんだけどあとまぁジーザスの実在性というかね、そこもまぁ19世紀ぐらいにいたとも言えないけどいなかったとも言えないっつーまぁそれが限界っていうことなんだけどなんつーかまぁスピ的な要素を抜けばまぁキリスト教を思想と言うのには語弊があるんだけど例えば今思いついたのが他に聖人っつーとまぁキリストは聖人じゃなくて神だろってことなんだけどまぁそういう細かいところは別として例えばまぁブッダとかムハンマドとかあとまぁだいぶ哲人寄りだけど孔子とか老子とかもそうだよね。

 

老子に至ってはこれまた歴史的にいたかどうか?ってのがよく分からなくてアノニマスな教えとか書き手のコンピみたいなのが老子だっつー説もあるみたいなのを読んだことがあるんだけどまぁどれにおいてもその開祖みたいなのがどういうプロセスでそういう教えを説くようになったとかまぁあと説いてるわけじゃなくて生き方で示したとかまぁブッダで言えばブッダっつーよりその弟子とかの記述がブッダの言葉とかになったわけだしまぁそれ言うとソクラテスがよく良い例として出るよね。

 

ソクラテス時代はなんか残るようなものとして書いたってのが無くてプラトンによってソクラテスの哲学みたいなのが記述されたっていうね、まぁただどこまでがマジでソクラテスの言葉でどこまでがプラトンの創作なのか?とかまぁぶっちゃけ知りようがないよね。

 

どうでもいいという話ではなくて史実としてはまぁ歴史的にそれを学問的に検証するっていうことの価値はあると思うけど思想っていう面だと経緯とかはどうでもいいわけじゃないけど二の次だよね。問題はその思想なわけでさ、それってまぁ老子が実在したかどうか?っていうのは関係なくまぁでも老子の思想として受け継がれてきてて今実際に読めるっていう意味でようはその実在したか?っていうオントロジーっつーよりかは思想が受け継がれてきたか?っていう現実でのプレゼンスの問題だよね。現前性というかなんというか。

 

まぁそういう意味で宗教って意味でもあれですよね、例えばブッダが生まれてすぐ唯我独尊!って言ったとかそれが嘘くさいからブッダの思想もねつ造が多いかもしれないっていうか伝達っていう意味においてそういう神話とかエピソードに今で言うところの科学的厳密性が無いから信ぴょう性が低いとかって言えなくもないけどまぁそれってブッダがいたかどうか?ですらももはやどうでもいいよね。

 

それがブッダの言葉として伝達されていて今読めて仏教を学べるっていう意味でもそれは存在してるのよね。むしろそれが現在においてどう影響を及ぼすのか?っていうプレゼンスのほうが大事だよね。んでまぁジーザスについても同じで神の受肉がイエスだったのかとかって関係ないんだよね。それは神の受肉以外ありえんだろうっつーぐらい神々しい行動とか発言とか生き方っていう意味で例えばソースを旧約聖書にすれば整合性があっていや、マジでジーザス神っしょってことになったとかならなかったとかまぁどうでもいいんだよね。

 

そこでまぁあれなんですよね、無神論の数学者とかが数学やってて神っているんじゃね?って思うような神の介在を数式とかから感じたりすることもあるっつーのはこれって完全に客観的っていうか神とか関係ないもんなんだけどクリエイター的なまぁ誰かがデザインしたのか?っていうようなところを数学っつー言語から読み取れなくもないっていう、ただ別にそれが神の証明になるわけでもないし数学者が神を信じるようになるきっかけになるとかではないんだけどまぁそういう神学とか関係ない部分で数学以外の分野でもサイエンスやっててまるで神が作ったかのようだ!って思うような神々しいものってあるわけなんだよね。まぁカントで言うところの崇高というかサブライムな感じっつーかね。

 

エルデシュスピノザ的な意味での神ならある意味信じてるってそれはまぁアインシュタインだったか忘れたけどまぁエルデシュにしてもギャグですべての数学が記述されている神が持っている本っていうのをThe Bookって読んでてそこに書いてあるものを神から授かるっていうと宗教的なんだけどまぁ神にThe Bookを見せやがれ!とかって思ってるっていうような、まぁそういう意味でエルデシュが宗教的に敬虔だったか?とかは関係なくまぁそれってある意味で神に仕える奉仕だよね。

 

数学をやるということが奉仕になるっていうまぁそこをギャグなんだけど自分の数学レクチャーをPreachって読んでたりとかまぁこれって関係の類似性っつーと語弊があるけどまぁ似たような構造だからそういうのが面白いっていうか表現として伝えやすいみたいなことであると同時にエルデシュの数学観というのがそういう呼び方から出てるっていうようなことだよね。

 

で、別にエルデシュにとってそのThe Bookを持つ神がいるかいないか?ってどうでもいい話じゃん?数学が神の言語だろうがそうじゃなかろうが数学は存在するし整合性があるわけだよね。そこでまぁ相変わらず誤用が多いゲーデル不完全性定理を出すと不完全性定理があることで別に数学の基盤が揺らぐわけじゃないっていうかよく揺らいだとかって書かれてるのもあるけど全然揺らがないよね。

 

全然それは極端な話、数学そのものとは関係ない基礎論の話なんであってっつってもまぁ基礎論ももちろん数学なんだけどじゃあ例えば数学がそれ自体で証明ができないなんつってもまぁそれが真というと語弊があるけど例えばなんかの自然現象でも力学でもなんでもいいんだけどそれを記述するときに使う数学がまぁようは数学的に記述できるっていう意味で自然現象に対応したっつーかむしろ自然現象を記述する言語としての数学ってのがあるわけでだからまぁ神の言語とかって言われるんだけどそこにおいての神は別に比喩なんであっていようがいまいが関係ないんだよね。色んなものを記述できるヤバい言語っていうことなわけで。

 

んでまぁ相当語弊があったり自分の不完全性定理の概念の乱用になるかもしれないんだけどまぁあえて書くけどキリスト教における神の存在論ってまさにそれなんだよね。キリスト教的原理が普遍的な善を中心とする行動規範とか考え方を表しているとかまぁそれは聖書がそういう原理なんだっていう前提を措定して現実に日々の生活で自分たちがその規範をベースとして動けば黄金律が働く的な、まぁそういう思想っていう一面もあるわけだよね。

 

もちろんそれは数学みたいに明らかに「これだ!」っていうような客観性はないんだけどでもまぁ主観から逃れられないとしてもまぁ宗教的なものっていうのはある種のその数学的な絶対性っていうのをようは聖書が神の言葉なんだっていうところがまぁその数学の比喩で言うところの数学は神の言語であるっていうことなんだよね。

 

もちろんそこで聖書が神の言葉だからそれを原理とすればいいっていうような思考停止にはならなくてまぁそれは仮に聖書とかキリスト教的なものをベースとしてもどう行動するか?とか考えるか?ってのは常に個人に委ねられてるわけだよね。んでまぁそこは難しくてキリスト教的な考えに忠実に行動したつもりがファックアップしてしまったみたいなこともあるわけで別にそれで上手く行くとかいかないとかっていうことではないんだよね。あとまぁ本人がキリスト教的なものをベースにして行動したつもりでもそれは実際は全然違うものだったとか勘違いによるものだったとか誤読によるものだったとかってことがあるわけでまぁその辺はファジーだよね。

 

ただまぁ考え方として原理主義的な意味じゃなくて聖書を教典とするっていう考え方ってのは聖書の無矛盾性とか誤謬性が無いとかっていうことじゃなくてまぁ多分実際は矛盾だらけなんだけどそこから人間が神を見出すっていう言わばポータルですよね。媒介ね。で、上手く神を見つけられたらまぁそりゃ凄い!ってことなわけなんだけどルールとかではないキリスト教的な考え方ってのが正しいっつーのはその正しさっていうのは絶対に正しいんだ!とは言えないし証明はできないんだけどまぁ現実において数学とかではない人間と事柄とか人間対人間みたいなところでの正しさってまぁようは相対的じゃん?相対主義っていう考え方を取らなくても必然的に相対的なものだっていうことになっちゃうよね。

 

そこでのまぁ俺がシュトラウスに依拠してよく言うプレモダンな感覚っていうのがようはそういう相対性が分かっている上でそれに陥らないためのあえての絶対性だよね。シュトラウスが明言してるかはともかくとしてまぁこれについてはもう昔から書いてるけど俺が絶対的だと思ってるのは善だよね。善のイデアですよ。まぁそれをキリスト教にアプライするとネオプラトニズム的っていうことにもなるんだろうけど言い方としてその善っていうのは神から来てるとかもしくは善から神が来てるとかね、まぁどうとでも言えるんだけどその辺の細かいところとかんじゃあ神がいなければ善は存在しないのか?っていうと少なくとも自分たちが生きている世界では絶対的な善はあるって言い切れるわけだよねっつってもまぁそれはあくまで思想でそれを信じるってのは宗教を別としてまぁその思想が正しいって信じるっていう言わば信仰だよね。

 

もちろんそれはイデオロギー的ではありますよ。昔のマルクスなんてまさにそうじゃん?これはもう社会科学なんだ!っていうことでマルクスが言うようなことは絶対正しいみたいなことになってまぁある種のジーザス的存在になるっていうね、まぁただ科学ではないですよね。んでも資本主義のクリティークとしては一級品だっていうことが言えるわけで結局聖書なりキリスト教もそういうことなんだよね。深く言えばそれが絶対的で普遍的なルールだっていうことになるんだけど控えめに言えばそれは人間がどう生きるか?っていう規範のリファレンスとして一級品だっていうことになるわけよね。

 

キリスト教っつーと日本人にとっては異質な感じがするけど仏教だと割と普通だよね。別に日本人は無宗教だしただ文化として葬式は大体仏教のスタイルでやるとかまぁ観光名所はお寺とか神社みたいなまぁ神道と仏教ってところなんだけど別にかといってお寺とか神社に行くからとか初詣に行くからっつって別に神道主義者ってことにはならないよね。まぁようは文化だよね。

 

まぁ特に教義もないってところがホントに日本人の気質っつーかまぁ逆に神道デフォだから多神教とか自然崇拝に違和感を感じたりしないのかっていうところでもあるんだけどただまぁその神道っていう宗教的な文化があるっていうことと古事記とか日本書紀はただのファンタジーで厳密な意味だとそんなものがあったなんてことはありえないっていうことは関係ないよね。よく考えればお参りなんて厳密な意味では想像上の祭られた神とか精霊的なものに願掛けしたり祈りを捧げるわけで全く無益なんだけどでも別に神社って行くじゃん?

 

っつーか相当意識的にそんなものは信じぬ!っていう立場を取らない限り例えばときメモみたいにあけましておめでとうございますって朝に可愛い子が着物着て初詣に行こう!って言ってたら行くよね。んでまぁお願いするでしょ。別にこの子とヤレますようにとかなんでもいいんだけどね、そこで相当お参りということに違和感を感じるんであればそれはアンチ宗教な思想ってのが相当無いと逆に違和感感じられないってぐらいまぁ初詣って別に特に宗教性を意識しないような自然なものだしってまぁそりゃ人によるけど例えばまぁ俺がクリスチャンになったとは言えないけど仮にまぁ今後キリスト関係のことに没頭して正式にクリスチャンになるかは別としてまぁキリスト教主義的になったとしても別に神道との矛盾って生まれないんだよね。

 

神どうの以前として別に日本における神道は文化だし祭られている神さまがどういうものなのか?なんて知らないでみんな行くわけじゃん?俺はまぁ神社好きだから調べるけどまぁでも例えば学問にご利益があるとか金運アップするとかだったら困った時の神頼みじゃないけど普通に行きますよね。んで仮に八百万の神がいたとしてもそれと創造主って別にぶつからないからね。

 

汎神論を受け入れた時点でもうそれは創造主の否定だっつーのは八百万の神っていう意味での神と世界を作った神を混同してるんだよね。全然次元というか属性が違うっつーかさ、ただまぁすげープリミティヴな自然崇拝って意味で例えば山自体をご神体として考えるってのはその山自体が神なんじゃなくて神が部分的に顕在化したものとして崇めてるっていうか祭ってるっていうことだよね。っつってもその顕在化してるのが創造主の一部かどうか?ってのは分からないんだけどまぁ神の露われってことでしょ。

 

で、なんかご利益があったり俺もそうだけどまぁスピ寄り過ぎるかもしれんが気当たりするんだよね。なんか分からん、その教義とかシステムじゃない超自然的なものってのはあるんだよね。ただまぁそれを安易に宗教に結びつける必要は無いしそれと俺が今ハマってる意味でのキリスト教を結びつける必要もないしもっと言えば超自然的なことってのは宗教とかとは関係ない自然現象として存在しててただそれは人間によって定義できないからそれを神だと呼んだり精霊と呼んだりとかあとまぁありえない偶然とかこんなのなんかが介在しないと回避できなかっただろ!的な九死に一生的なこととかさ、まぁじゃあそれがあるのに九死に一生の逆バージョンは何であるの?っつーのもまぁある意味神学的トピックになるんだろうね。すげー極めてそれはカルヴィニズム的なもんかもしれんよね。

 

すんげー良い子で病気の母を介護しながら頑張って働いている若い女性が滅多にない事故で死にましたって神も仏もないぜ!って言いたくなっちゃうよね。行いが良ければそれを神は見ていてなんか救いの手を差し伸べてくれるんじゃないの?って思いがちだけど恐らく現世のこととそういう神の仕事みたいなのって関係ないんだよね。ただなんか別に行いが良いとかそういうの関係なく超ギリギリで命が助かったとかあとまぁ奇跡的な出会いだったとかってのはあるじゃん?で、そこは神が介在していたんだって考えたり文化が違えば守護霊によるものだとかなんだとかまぁ色々仮定するよね。

 

なんか色々と回収できないぐらい話が広がり過ぎたんで例のゲーデルの話に戻るけどあくまで比喩的な意味でのまぁ教えに帰依するっていうことはその教えの絶対性を信じるっていう立場ですよね。ただまぁ人間はフレキシブルだし俺みたいなリベラルだと何もかもを教えに帰依させて考えるんじゃなくてまぁキリスト教的なものが相当ベースにあったとしてもそれはまぁようは自分で考えるわけよね。キリスト教的な知識をベースにして考えるっていうよりかはまぁ自分が考えるんだけどただそこで自分が考えるっていうレベルでもキリスト教的なものが介在してるとより自分にとって良い選択ができるようになるっていうことだよね。それがまぁようは善く生きるということに繋がるわけだ。

 

まぁ絶対性というと排他的になるからあれなんだけどキリストが神の受肉であったのか、そもそも神は存在するか存在しないか?っていうのは別に教えを学んだり実践する上で関係ないことなんだよねっつーのがさっきの数学の比喩がだいぶ語弊はあるけど似てるって意味で例えやすいのがそこに神がいるかいないかとか関係なく数学は成立するわけだよね。神がいないから足し算のルールは信用できないみたいなことにならんでしょう。証明できようができまいが数学そのものになんの影響もないって意味でそれはキリスト教においての神と全く同じだと思うわけねっつーかあくまで現時点ではってことなんだけど。

 

神がいようがいまいがブッダの言葉とか老子の著作とかと一緒でようはジーザスってのがいてああいう記録があって体系になっていると。んでまぁそれには感嘆するようなことが書いてあって奥深くて人生にアプライすることが出来るっていうようなことでまぁ道教的な世界観で生きるとかその教えを実践して霊的成長を望むっつーかまぁ霊的ということに語弊があれば別にそれはソクラテスで言うところの魂への配慮ってことですよねっていうところで実際に老子がいたのか?とかそれは創作なんじゃないか?とかってのはあんまり関係ないぐらい道教ってのはこの教えに沿って生活してみよう!っていうような道を示すような体系になってるってことでしょ。まぁ体系っつーのも語弊があるけどまぁようはシステムよね。

 

まぁそこで俺が今思うのは逆信仰っつーかまぁいつも書くけどサタニズムに凝り始めてからはだいぶ違うけどまぁその前は神秘的なものは好きだったけど主に現実の宗教がクソなのが多いからアンチ宗教だったわけなんだけど今こうやってキリスト教とか神学を学ぶ上で一気に典型を受けて宗教的な人間になったとかってことではなくて今までの自分との地続き感を感じてなおかつまぁスピ寄りな言い方をすれば今までが全部ここに至るまでのプロセスの一部だったんだって思うとまぁ何もかもをキリスト教に回収させるわけじゃないけど必然的なんだけどまぁすんげー救いでもあるわけなんだよね。

 

でもそれは神がいるから救いなんじゃなくて世俗的な意味ではない本質的な意味でのディープな思想としてのキリスト教ってのがあってまぁそれは長い歴史を持つ哲学者とか神学者が涵養してきた知的財産ってことなんだよね。

 

まぁようはキリスト教への偏見が無くなって真剣に向かい合ってみると一気に感化されてしまうようなものが自分にとってはあったということだよね。まぁぶっちゃけただこれだけですよね。神がどうとか関係ないんだよね。神学とかキリスト教っつー自分にとってどうでもよかったジャンルが今では没頭できるものでなおかつそれが実存的な救いになっているっていう意味ですでにそれは福音なんだよね。ブッダがいようがいまいが仏教にまつわる神がいようがいまいがお経の考え方に救いを感じるとか色即是空的な考え方に感化されるとかね、そういうのと同じだよね。

 

ただまぁ俺は宗教嫌い!とか言いながら元々の性格が信心深いっつーか神々しいものに魅了されるっつー気質が元々あるからだからまぁお寺とか神社大好きだったり神話とか古い教会とかが好きだったりとかっていうのはあるんだけどまぁそういう素の自分が持ってる感覚とキリスト教ってのがまぁマッチしたっていうことではあると思うんだよね。スピ的に言うとそれは必然的に導かれたってことになるんだけど導かれてたとしたらまぁそりゃなお嬉しいけど別にそこに神的な介在があろうがなかろうが今の時点で救われている自分っていうのがあるのが証左なんだよね。もちろんそれはまた今後色々あったりすると揺らいだり変わったりするかもしれないんだけどただまぁ自分の考え方にすげー影響を及ぼすものであることは間違いないよね。

 

まぁあとキリスト教的なものを勉強して日々の生活の中で教えを実践していくっていうのはよく言えば宗教的実践とか修養ってことになるけど感覚としては数学的な感じだよね。所謂普遍的と呼ばれるものが本当に普遍的なわけ?っていうのを半信半疑ででも全力で信じて実践するんだよね。んでフィードバックがヤスパース的な意味でのっていうかまぁ別に俺も書いてたけどまぁ物事をエクリチュール的に考えるっていうか解釈するっていうところで言うところの何らかの行動や思想が伴った上での一つのフィードバックみたいなのを考えてそれがワークしたのかしなかったのか?ってそんな完全に検証できるようなものではないんだけどただまぁそれは主観で判断するしかないからあんまりオカルトとかスピっぽくならないように冷静に検証して考えるってことだよね。

 

でもそれは短期間じゃ分からないことだらけなんだよね。例えばそれが教えに沿っているから黄金律的にそれがワークして自分に利益があるみたいなそういう実用的なものじゃなくて精神的なものだからね。それを行うことで魂の涵養になるのか?っていうところでただまぁ逆に魂の涵養というところを重視し過ぎて例えば他人のことを気にしなくなりすぎるってのも問題なわけでそこはまぁ聖書そのものだったかはともかくとしてキリスト教的な教えの中では諫められてることでもあったりするよね。人との関わり合いの中でそういうのを実践しろっていう考え方だよね。

 

まぁだいぶ前にっていうかまぁしょっちゅう話に出すけど禁欲的生活を送るために坊さんが出家して世俗と離れたところで修行するってのもそれって世俗から離れてるって意味で全然修行じゃねーじゃん!みたいなディスって過去にも何回か書いたと思うんだけどまぁ初期のキリスト教とか考え方によってはまぁ修道院的なやり方もあるんだけど大体まぁこのオワコン過ぎるファーストパーソンのクソゲーの中でその教えを実践してそのクソゲー神ゲーにしよう!っていうのが俺が考えるキリスト教だし実践だよね。凄くプラグマティズム的な実用性があってなおかつ精神性と知性と理性と霊感みたいなのも鍛えられるっていうような、まぁ今の俺にしてみれば万能に見える思考のパラダイムなんだよね。

 

でもその神ゲーっつっても経験値が得られやすいとかなんでも思ったことが具現化するみたいな意味でのやってて楽しすぎる神ゲーってことじゃなくて神の介在によってクソが神になるっていうその変換だよね。ジーザスの弟子になることでどうあがいてもクソゲーにしか思えない人生が実践によっては神ゲーになるかもしれない?っていう可能性を秘めているものなんだよね。

 

まぁすげー実践的なアンチニヒリズムでもありますよね。何しろまぁ俺の今のこの開眼ってのは例の去年の超絶鬱からニヒリズムについて色々改めて読んでみるっつー中で発見したキリスト教だからね。元がニヒリズムなんだよね。そこをシュテルナーとかニーチェは創造的無っていう相対的で無だっつー事実からそこからクリエイティヴになれるだろう!っていう超人思想なんだけどなかなか実践が辛いわけよね。

 

一時期はそれでよかったかもしれないけどサステイナビリティが無いっつーかあとまぁ鬱ポケットにハマると前にも書いたけど普段は能動的なニヒリストなんだけど気分によっては受動的ニヒリストになっちゃってなかなかそこから抜け出せないことが多いっていうことなんだけどそういう意味において俺の今の思想の転換期の契機っていうのがキリスト教にあってそれはもうニヒリズムという枠から飛び出すっていうことだよね。

 

かといっても深淵を覗いてたやつがたまたま宗教の勧誘にハマって宗教にハマっちゃったみたいな思考停止的なものじゃなくてそれは世俗的な宗教じゃなくて人文的な知の集積としてのキリスト教だよね。それこそまぁアウグスティヌスやらアキナスやらみたいなのを経由してまぁんでドイツ神秘主義からシュライアマハーやらまぁただぶっちゃけそっから結局ヘーゲルやらフォイエルバッハやらっつーまぁそんなに読んでないけどまぁ自分にとってはおなじみの哲学の系譜ともろにクロスするわけなんだよね。

 

んでまぁキルケゴールからニーチェでんでハイデガーってことになってまぁ近代思想ですよね。全然飛躍ないのよね。地続きだけど今まで見向きもしなかったところに実はすんげー知の集積があってなおかつ今の自分にとってすげー合うものっていうかさ、精神に語り掛けてくるものがあるんだよね。

 

まぁでもこれって哲学経由してないとそうはならないしだからまぁ今までの自分が読んできたものありきなんだよね。んでまぁさっきシュトラウスの名前出したけどシュトラウス読み的なさ、それを現代の観点から読むんじゃなくて当時の歴史的背景とそれがなんでそう書かれたのか?ということをなるべく当時の目線で読むっていうところでのまぁシュトラウスの古典回帰的なものってそういうもんじゃん?

 

んでまぁこれがシュトラウス独特の思想なんだけどスピノザとか中には直に書き過ぎると弾圧受けるからっつーんで遠回しに書いていたような秘儀的なesotericなテキストの次元があるっていうことなんだよね。んでまぁ俺にとって神学とキリスト教ってそのesotericなものの集まりみたいなもんでさ、それはとてもじゃないけど世俗的な理解をしていては見えないようなヤバい次元が存在するものだっていう確信があるわけなんだよね。

 

でもそれは単にテキストに向かっただけじゃ分からなくてそういうものがあるんだって分かるレベルの自分の教養とか積み重ねとかあと人生経験を必要とするもんなんだよね。だから何もかもそういうの無しでいきなり例えば聖書を読んでそういう知的次元に行きつくことができるか?っていうとまずそれは少なくとも俺にとってはないだろうな
っつーのはあるよね。だからこその今の俺がこういうタイミングでこういうものと出会ったというところに俺は神々しいものを感じるんだよね。

 

結局それは真善美みたいなのを渇望するっていうロマン主義的なエロスなんでしょう?って言われればまさにそうなんだけどただそこでポイントはそのエロスに向かうということが自分の日々の喜びに繋がっているということなんだよね。スピノザが力の源泉ともうそれ自体が善っていう倫理なのだ!って言えるような「快」なんですよね。バルトが神学は学問の中で一番美しくて素晴らしいものだって言ってたのも分かるよね。まさにこういう意味での美しさなんだよなっていうことでまぁつまりはバルトはイデアについてある種自明なことを神学において言っているということなんだよね。

 

だから神がいようがいまいがその真善美に向かおうとするエロスを発動させてくれるようなものっていうものには美しさと出会えた喜びを感じざるを得ないでしょう。まぁそこでの俺の比率で言うとまぁキリスト教は辛さを耐えるようなマゾ的な宗教だとも言えるんだけどそもそもこれって現実がオワコンであるって前から俺が言ってるようなこととかしょっちゅう無に飲み込まれそうになる俺だとかそういう意味でもうデフォルトで苦難なんですよね。

 

ただそこで命を絶つようなことをしないでんでも楽しく生きたいんだけどでも物質的な快楽とかではそういうのには限界があるってのがまぁ散々書いてきたコンテンツ消費し過ぎて娯楽が無くなる問題だったりするんだけど、今の俺が思うキリスト教とか神学の切り口ってのは今の俺にとっての凄まじい処方箋になってるわけなんだよね。

 

んでまぁ最初に積読が100冊超えているって書いたけどボリューミーな本もあったりするから読書モードに入ってもう読書しかしなくなるみたいな状況でも進めるのが難しいぐらいなかなか進まないっていう分量があるんだよね。言わばまぁ神に与えられた神コンテンツなんですよ(笑)神だけにね。だから神様ありがとう!って感じなんだよね。そこでまぁ元々信心深い俺はこんな惨めな俺にこんなのどう?ってキリスト教と神学を提供してくれた神に無限の慈悲を感じるんだよね。

 

スピ的なことを書けば全くキリスト教なんてのが過らない中でまぁ去年の超絶鬱の中で何が今の俺にとって必要なんだろう?ってギターにも挫折してボロボロになってる中で考えてた時になんかその超自然的なミラクルを必要としてるんだよなっていうような考えが過ってたんだよね。それがなんでか?ってのは分からないんだけどなんかそう考えていたってのがあるのよね。で、まぁ今は見事にそのミラクルが起こりました!っていうことであんまり勇み足してもしょうがないんだけどこれを召命と考えればこんなにありがたいことはない!ってことなんだよね。

 

かといっても別にこれだ!って思ってたギターをやめるわけじゃないしただまぁ今は時間なさ過ぎてそれどころじゃないっていうだけで今までは何だったんだ?っていうようなことでもないんだよね。積み重ねがあって今があるっていうだからなんでもっと早く出会わなかったんだろう?っていうことはないんだよね。今の自分じゃないと分からないことだったわけでだからこそその今であるっていうところに必然性を感じるわけだよね。

 

まぁそれは哲学とかスピ系の本とかでもよくあるフレーズだよね。今!今でしょ!っていう今ここなんですよ!っていうそれは仏教の啓蒙の本とかでもあるよね。まぁある種普遍的なルールだよね。現在ということの必然性とそれの連続とその集積が自分が自分たる所以を規定しているが故に過去は過去で未来は未来だからどれに引っ張られることもなく今はフリーなんだよね。もちろん仕事しなきゃいけないとかっていう物理的な制約はあるんだけど本来のマインドで言えば常にフリーなんだよね。ただそれが生活に埋没してると分からなくなっちゃうんだよね。んで勝手に自分を自分のマインドが支配するような悪循環になっちゃうんだよね。

 

んでまぁバルトの説教だったかでバルト自体もこれは誰かが比喩として言ってたことだみたいなことを言っててまぁソースが不明なんだけどまぁいいや、その状況っていうのが例えばまぁ俺が哲学とかやってきても超人思想なんつっても維持するのが大変で常に沼にハマったままだっつーような状況ってのが沼に落ちている自分を自分の手で自分の髪を掴んで沼から引き揚げようとするような不毛さなんだよね。

 

現実はオワコンだからこそその認識から初めてまぁそもそも認識が世界を作り出すっていうのは人間がもう存在それ自体が主観的でしかありえないから結局は世界ってのはそういうものだからこそ世界を構築していこうっていうのはまぁ19世紀的な価値哲学だとかね、エミール・ラスク的なものとかやっぱりあとはニーチェ的な創造的無ですよね。それとディオニュソスね。でもそれは結局は内在性の限界ってのがあって沼にハマると全ては内在性だからそこから引き揚げる自分の手というのも沼にハマっている自分の手だから髪を掴んであげようとしても上がらないんだよね。そこで他者の手っていうのがあるわけなんですよ。それをバルトは神だって言ってたりするんだよね。

 

まぁあくまでそれは自分のコンテキストでそのバルトの説教を理解してまぁこういう理解で実際にバルトがそういう意味で言ってたかはともかくとしてまぁ俺にとってはこの沼の話とかまさに「おお!」って感じだったんだよね。そこでの信仰ということになるのか!っていう発見と驚きだよね。ある種のコペ転ですわ。ただ別に常にそんなに助けてくれるほど神は暇じゃないんだよね。

 

ただもうこいつ沼に沈んでもうそっから出られないなっつー深淵の底に足ついちゃったみたいなやつには手を差し伸べる場合もあるってことだよね。んじゃあなんで無い場合もあるのか?っていうのは分からんよね。それは神の気まぐれなのかカルヴィニズム的に救われる救われないってのは最初から決まっててあんまそいつがどうとかっつーのは関係ないっつーことなのか、まぁ俺はこの予定説なんて信じないけどただまぁその救いの手は俺にはあったっていう感じだよね。

 

まぁそれが別にオカルトとか抜きでの凄く霊的なインスピレーションっていうかインスピレーションって言葉自体がそもそもスピ的意味合いを含んでるからね。まぁ別にスピ寄りになるわけじゃなくてあくまで厳密な学としてのキリスト教ってのを勉強するつもりだしまぁそれを科学だ!なんていうつもりはないけど自分においてのほぼ科学と同じぐらいの妥当性を持ったものになるんじゃないかな?っていう普遍性を感じるっていうことだよね。

 

でもそれを他人に押し付けるわけでもないし価値観が合わない人なんていくらでもいるわけだしその時点で普遍的じゃねーじゃん!ってことにもなるんだけどでも俺は普遍的だって信じるっていうこのあたりの合理性とかではないところの論拠が無い論理に飛躍があるところってのが言わば信仰ってことなんだと思うんだよね。ただぶっ飛びすぎてるとそれは安っぽいニューエイジになっちゃうんだよね。まぁようはスピリチュアルですよ。ちなみに神秘主義とスピリチュアルって全然違うからね。

 

まぁぶっちゃけだからニューエイジ程度のものに認識が留まってる場合、多分霊的涵養はできないでしょう。っつってもここが難しくて本人は涵養できてる!神様のおかげだ!とかって思ってるかもしれないんだよね。

 

そこでまた語弊あるけど虚偽意識的なイデオロギーで終わる可能性も高いってことなんだよね。ただまぁ宗教って社会的イデオロギーとしては使われまくってるけど個人の信仰レベルでのイデオロギーってまぁ例えば左翼思想べったり過ぎてなぜか自虐史観で人権絶対でなんたらなんたら・・・っていうまぁそれは本人が思っている価値観だと思ってるんだけどめちゃめちゃイデオロギー的なものに洗脳されているっていう意味でそれは虚偽意識だよね。で、本当の信仰っていうのはその信仰自体がイデオロギー臭さが無くて自然な自分として自分があるというところに落ち着くっていうようなものなんだよね。凄く静的であると同時に確固たるものがあるから意志が強くてダメなものにはダメ!って言うわけよね。

 

ただもうそれはジーザス然りソクラテス然りなんだけどそれをやろうとすると世の中と衝突することだらけなんだよね。むしろ批判を受けたりっていう特に宗教の場合、オーセンティックな組織化したものってのがそんなのキリスト教じゃない!とかって弾圧するような感じだよね。

 

キルケゴールはめっちゃキリスト者だったけど教会とか既存の世俗化したキリスト教とは激しくぶつかってたわけでまぁマジもんのキリスト者ってのはいつの時代もマイノリティなんだと思うよね。でもそれは選ばれた人間なんだ!っていう神に選ばれた選民ということではなくてそもそもそういう受難を受けてしまうんだよねキリスト者っていうのはっていう必然性だよね。常にマージナルな存在で少数なんだよね。

 

ただそれが分かっていると別に世の中のキリスト教がどうとかバチカンがどうとかそういうの全然関係なくなるもんね。自分の知的センサーを元にただそれは神の導きだって信じて厳密な学としてのキリスト教と神学をやるっていうことだよね。でもそれはみんなが納得できるようなところに落ち着くわけじゃないからサンクション的なお墨付きは得られないっていうだからこそ権威とかが良くできました!とかって言ってくれるようなものではないから常に魂の涵養が必要になるんだよね。自分は正しい道を歩んでるんだっていうのを自負しながら己惚れることなくそれを実践して学んでいくっていうことだよね。

 

権威とかは行いをしなきゃダメとか教会行かないとダメとか色々言うけどそんなわけないからね。仮にそこに行いが発生するんであればそれは俺が全く縁が無かったようなキリスト教と出会って目覚めるかの如く自然にその行いも出てくるようなものなんだよね。人事尽くして天命を待つですよ。これってマルクス的な思想とすんげー親和性あるよね。マルクス主義と宗教って水と油みたいに見えるけどつまりはマルクスが言う理想的な社会っていうのは人が各々の特性を見合ったところまで最大限に活かしながらやっていけるような社会っていうことでしょ。

 

極めてユートピア的だけどめちゃめちゃ宗教的だよね。まぁただヒトラーで言うところの第三帝国だったりもして危険と隣り合わせですよねっつってもマルクスの言うユートピアヒトラーが言うユートピアは全然違うから同じにしちゃいけないんだけどただまぁ下手するとジェノサイドに繋がる可能性もあるのがユートピア思想だよね。イスラム過激派の全世界をイスラム教にするみたいなのもまぁこんな感じだよね。

 

そこにまぁなんか伝道と政治と思想っつーすげーファジーなものが出てくるよね。実践っつってそれが個人だろうが組織的だろうが社会的なものが介在するとそれは必然的に政治性を帯びちゃうからね。その辺はまた違う課題なんだろうけどね。だからまぁやっぱ俺の元々の気質ってのもあるけどそこは政治っつーより仙道的な個人の魂の修養の道っていう感じがするよね。まぁある意味で部分的に仏教的でもあるよね。でもそこで隠者的になり過ぎてもダメでボンフェッファーみたいな勇気も必要なんだけどまぁそれは今はいいかっていうか今の俺じゃなんとも言えないところだからな。

 

ただそこはキリスト教が介在したからっつって俺の根本的な政治的心情とか思想にはプラスの影響しか及ぼさないと思うけどね。根本の俺の政治思想がありつつまぁそれって常にアグレッシヴで良くない意味での権威的なものとか権力的なものに抗うものだよね。まぁジーザスも革命的観点からすれば革命家的であったって言えなくもないよね。生きるために金稼ぐだけが人生じゃないっしょっていうメッセージは解釈によっては今の資本主義的なものにアンチを掲げるものでもあるよね。

 

何しろそれはマルクスで言えば疎外ってことだし別に思想関係なくそれは真理なんだよね。ただまぁシステムが金稼がないと生きていけなくてしかももうそれに忙殺されるだけで人生が終わるみたいなのを強制的に強いるからね。

 

だからまぁ俺みたいにそうじゃなくて精神性とか善でしょ!っていうのは反資本主義的なんだよね。っつっても資本主義以外のシステムが分からないっつーか社会主義じゃ無理だから資本主義しかないんだけどただまぁそういう社会の構造によって個々の生き方が規定されてしまうっていうのはもう本質的に疎外を生むもの以外のなにものでもないわけでそういう疎外からなんとかして抜け出して自分の人間性を取り戻さないといけないわけだよねっつってもまぁそれはアームチェアー的な実践的じゃない思想だっていうのは分かるんだけどでも仮にそうだったとして仕事に忙殺されるだけの生活がんじゃあいいんですか?っていうと良くないよね。

 

キリスト教思想でもソースが聖書かどうかはともかくとして解釈の一つとしてはそもそも毎日イライラしてるとか憂鬱とかそういう不快であるっていう状態自体が悪であるってことでもあったりするんだよね。キルケゴールだったっけな?忘れたわ。んでまぁスピノザもそうだけどキリスト教でも味方によっては善いことが介在する「快」ってのが正義なんだよね。

 

可愛いは正義!って言葉があるけどかなり言えてるよね。まぁ顔面カースト制度みたいになりすぎるのもあれだけど可愛いととりあえず「快」の感情が生まれるからもうそれは正義なんだっていう、まぁそこですよね、そこをスピノザは快が正義で力の源泉だって言ってるわけよ。精神の快楽ですよね。だからまぁそれって逆に物質的なものだとすぐ頭打ちになるのは目に見えてるよね。身体的な快楽とか物理的な快楽ではなく精神の快楽っつーとそれは知的なもんなんであってだからこそスピノザが言ってたかどうかはともかく俺のスピノザで言うと俺のスピノザはその精神の快楽を最大限にするために認識とか知を磨かなければいけないってことになるわけなんだよね。

 

まぁそれはある種普遍的な哲学の命題ではあると思うんだけどかといってもヘーゲルみたいにその先に絶対精神があるみたいな単純化はダメでそこをあえて宗教的な言い方をすると神となるべく同一になるように努力するっていうことなんだよね。まぁすんげー具体的に言うとジーザス的に生きるっていう意味でまぁ一気に普通のある種当たり前の考え方になるよね。キリスト者として生きるってことですよ。

 

別にキリストを出さなくてもそれは別に原理がスピノザであろうがプラトンであろうがニーチェだろうがヘーゲルだろうが基本一緒だから宗教が介在しようが介在しまいがあんま関係ないんだよね。そこはもう譲れない知的行為なわけでそれもイデオロギーだと言われればそれまでだけどまぁそれを普遍的な価値だと信じるわけでしょ。もっと具体的に言えばただの金儲けとかより純粋な知的活動とか芸術とかのほうが価値があるに決まってる!って思うことなんですよ。まぁナイーヴだと言われればそれまでだけどね。

 

ただまぁキリスト教的な敬虔さって労働は神聖なものだ的なことを言うのもあってそこを歪めてもっと極端にすると苦痛は神が与えてくれたチャンスだ!っていうような、これって酷いブラック企業に勤めて苦痛でしかない満員電車に揺られて帰って寝る暇もなくただ数時間寝て疲れが取れないまままた満員電車に揺られて・・・っていう苦しみを尊い真正な労働による真正な苦難とかって言っちゃうと完全にそれは悪魔の宗教になりますよね。問題はそうと言えなくもないっつーか解釈によってはそれも正当化されうるっていうところの危うさだよね。

 

小室直樹日本教と言ってたようなものは明らかな邪教なわけで、でもまぁ狡猾な奴は聖書にこう書いてあるんです・・・みたいな言い方をして過酷さを正当化したり神聖化したりする場合もあったりするわけでだからこそ抗わないといけないんだよね。キリスト教を乱用するようなものとかってのはもう真の神の徒としてノー!って言わなきゃいけない。

 

所謂ニーチェ邪教としたような類のキリスト教は駆逐されないといけないんだよね。なんかまぁキリスト教に目覚めてより孤独になった気がするわ。認識と思考を深めれば深めるほど敵が増えるというね(笑)でもまぁ孤独じゃないんだよね。何しろジーザスの徒なわけで孤独なわけがない。他にも知的な師匠である保田師匠やらニーチェを師匠って言うかはともかくまぁあとスピノザやらシュトラウスやら俺の軸になってるようなものって俺が心底敬愛する思想家達だからね。

 

そういうのが背後にあれば孤独なんてまずありえないですよね。そういうまぁ神レベルの思想家がいるなかでジーザスっつー神を受肉した聖人と歴史的なキリスト教的聖人たちも加わってるから最強のペルソナを兼ね備えた耳蝉みたいなもんだよね。そんぐらい思想って強いもんだよね。それを改めてキリスト教と神学に向かい合いながら思ったんですよ。んで仮に神がそういうきっかけをくれてるんだったらもう神慈悲深過ぎでしょってことになるわけよ。

 

なんかすげー勢いでずーっと書いてるからこの辺で終わるけどあとまぁ最後にサタニズムについて書くけどまぁ今のところの俺としてはサタニストである俺ってのはアウフヘーヴェンされてないんですよね。俺が思うっていうかもう崇拝とは言えないけど好きなサタンってのは反逆的のシンボルでまぁルシファー的なものだよね。それは悪をもたらすんじゃなくて力をもたらすわけなのよ。

 

言わば神に頼めないようなpersonal gainをくれるんだよね。だからまぁそういう意味で世俗的な神なんだよね。次元としては天使とかと同じなわけであとまぁ元が天使だからね。サタンとも親睦が深いキリスト者ってのは言わば究極的な中立なんであって真逆のものがぶつかり合うことなく調和しているっていう言わば陰陽みたいなものなんだよね。

 

ただでもサタンっつーのは天使だから神そのものとぶつかるような次元のものではないんだよねってさっきも書いたけど元天使だからね。そこはなんつーか神の徒とかって言い出すとより俺のもとからある仙人気質みたいな厭世的なものになりがちだからこの欲望だらけのリアルをやっていくにあたっての心強いガーディアンとしてサタンも信奉するってことですよね。目には目をですよ。世の中悪魔だらけだからね。マジで。

 

まぁでもそれは信奉するんであって崇拝対象はあくまで神ですよっつーかまぁよりオントロジカルに言えばジーザスですね。あまりに実体が無さ過ぎて超越的過ぎるものを崇拝するっていうのは難しいんだけどそこでやっぱりジーザスの存在が人類にとっての救いであるのはその神が受肉して神だったらこう生きるぜ!みたいなのを体現してくれたっていうことだよね。

 

それが神のロゴスとして聖書に記述されているっていうだからまぁ聖書は神の言葉じゃないんだよね。神が色々と介在したという記録だよね。それは具体的に思想を「こうである。こうじゃなきゃいけない」みたいなことを明言しない小説とか物語のヒーローとかが行動によって体現するものってあるじゃん?ケンシロウの生き様とかっていう意味なんですよね。で、まぁそれがゲームとかアニメのキャラクターでも心酔すればそれは個人的に崇拝するような対象にもなったりするよね。この男の生き様を俺は手本にしてるんだ!っていうことがあり得る。

 

そういう意味でジーザスはそういう生き様と手本を示されたっていうことなんだよね。それを記述したのが聖書ってことなんだよね。例えばそれって北斗の拳全体=ケンシロウの生き様ではないじゃん?(笑)ハートさまとかひでぶー!って言いながら死んでいくチンピラやらまぁようは物語とその舞台とか諸々の登場人物っていうことだよね。そこでまぁケンシロウの生き様というのがそのまま北斗の拳が座右の書になるっていうような、言わばケンシロウに心酔する人達にとっては北斗の拳がバイブルだったりするわけよね。

 

んでまぁ俺がキリスト教に開眼したってのはキリストっていうよりかはまぁ主にキリストをソースとする後の神学者や聖人達の人文系の知的努力の末に抽出された純度の高い思想書っていう意味でのバイブルですよね。だからまぁそれは現代じゃないとありえないわけよ。すんげーディグってきて研究されてきたっていう結果を俺は享受できてるわけで聖書オンリーでそれがなされるとは思わないんだよねっていうか少なくとも俺はっていう意味でなんだけど。

 

だからまぁジーザスを崇拝するって神の存在の有無関係ないよね。道教において老子が神格化されるだとか仏教において宗派の開祖が神格化されるっていうのと同じ意味でジーザスを神格化して崇拝するっていうことなんだよね。だから例えばそれが旧約聖書のみだったらどうなのか?っていうと俺は開眼しないわけよ。ジーザスが介在しないと俺はその偉大さに気がつかなかっただろうしだからジーザスは偉大なわけだよね。受肉の意味合いってのはそういう意味で本当に深いわけなんだよね。まぁ受肉論みたいなのが成立するぐらい深いトピックだから色々また読むけどまぁ考え方の大枠はあんまり変わらないと思うけどね。

 

なんつーか仏教を信奉してますっていう人が例えばブッダは神様なんですってあんま言わないっていうかそれは教えをフォローする徒なんですっていう意味合いが強いでしょ?言わばブッダのフォロワーなんですってことを言っているわけでそういう意味で崇拝っつーと原始的であんまり知的じゃない感じがしちゃうけどまぁそういう意味で俺がキリスト教を信奉してますっていうときにはそれは主に教えなんだよね。でもその教えが顕在化したきっかけを作ったのはジーザスの受肉なわけよ。それがないと分からなかったわけだからね。

 

そういう神のロゴスというのを受け取ってちゃんと解釈して自分がキリスト者として生きるっていうのは物事をエクリチュールとして考えるって前に俺が書いたことで言うところの神のロゴスをそのエクリチュールに介在させるっていうことなんだよね。ただもちろんそれは判断は難しいわけよ。介在させることができたのか?っていうのは客観的に分からない。でも人事は尽くしたいわけじゃないですか?だから勉強と実践に重きを置くわけだよね。そうすると自然に神のロゴスは介在することになるわけなんだよね。

 

っていうのがまぁ今のところの俺のキリスト教理解だけど今までの俺と変わらないんだよね。前はそれを善のイデアとか善くあることとかエロスって言ってたのがキリスト教が介在することで言い方が変わるっていうことだよね。まぁもちろんジーザスそのものに影響を受けるわけだから言うことも変わるっていうよりよりハイブリッドで高いものになるわけなんだけどまぁでも根本の思想は同じだよね。まぁ極めてシンプルですよね。いきなりオカルト臭いものに目覚めたんじゃなくて今まで見えなかったものを見ようとして取り入れようとしてるってことだよね。

 

そうすると例えばそれは奥さんが妊娠したりすると街にいる妊婦さんが目につくようになるっていうかなんだっけよく言われるのはベビーカーだっけ?まぁそれまで気にしてないっていう意味で目には入ってるけど志向はされてないっていうものが意識に顕在化することで目に入って気がつくようになるっていうことなんだけどその気づきだよね。キリスト教的な気付きを得たことで見えるものが変わってくるっていうことだよね。まぁ現象学で言うところの志向性だよね。ノエシスノエマの契機が変わるというか進化するという感じだよね。

 

まぁそんな感じで今日はこの辺でっつーかすげー書いたな。まぁそんだけ毎日考えてるってことなんですけどね。まぁそんな感じで今日はこの辺で。