キリスト教に目覚めていく私。その2。

キリスト教とか言いながらめちゃめちゃ暗黒音源また作ったんでよろしく。

 

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ういっす。久しぶり。いやね、いつまで続くかな?っていうね、今起こっているキリストバブル現象なんだけど前にも書いたけど昔の自分にとっての哲学とそっから数学に鞍替えしてからの数理哲学なんかも含めた数学と哲学とっていうかあとまぁ基礎論とかね、んでまぁ今のビッグウェーブキリスト教で宗教全般まぁ宗教哲学なんかもやるって書いたけど積読が増える一方でイスラムも副科みたいな感じでやるっていうつもりがまぁ無理ですね。

 

キリスト教関係のが膨大過ぎて何個もできないっていうかただまぁキリスト教をメインにやりつつ社会学的な宗教学っていうか宗教社会学っつーのかな?まぁそういうのは読むよねっていうか無神論科学モードとキリストモードっていうようなね、んでまぁあれなんだ、その主観ってことなんだけどベルジャーエフっていう哲学者がいるんだけどまぁロシアの正教って言われるキリスト教がベースになってるような、まぁ客観的に見ると神学者なんじゃね?っつっても本人は哲学をやっているっていうつもりでまぁ自分でも自分のことを哲学者だって思ってるっていうようなまぁ詳細はググるなりしてもらってですね。

 

んでまぁ全然読んでる途中なんだけどハッとさせられるところがあってまぁ俺の今の立場ってポストモダン神学だと思うんだよねっつってもそれはポストモダン特有の方法論とか考え方を導入したなんつーか相対主義的で脱構築的で構造的で・・・みたいなことじゃなくて単純な自分の実存っていう立場からのポストモダンなんだよね。何年か前にここに書き込みしてくれたアードベックさんが言ってたような、ポストモダン的でぺんぺん草も生えないような砂漠・・・みたいな世の中というか疲弊しているというよりかは全部が相対的で絶対的な価値なんてないだろうってことが自明でなおかつただまぁ色々なもんで溢れかえってるけど語弊あるけど芸術的だったり思想的なものとかのまぁそれだけじゃないんだけどまぁ世界観みたいなパースペクティヴに浪漫が無いというか夢が無いっていうことだよね。

 

まぁそういう状況の中でキリスト教に目覚めるっていう単純なそういう立場ですよ。俺が言いたいのは。ただ当然それはポストモダン的思考とか状況を経ているものだからポストモダン的方法論というよりかは単純に今自分が置かれている状況がそうなんであって、ただそこが重要なところなんだよね。ポストモダンを経由した相対主義の後みたいな意味でのポストだよね。

 

まぁただそれは俺が単純にポストモダン以前の神学とか宗教を踏まえてなかったっつーか知らなかったからそうなったみたいなことでもあるんだけどでも結果的にそれがポストモダン以降にそういう認識になったっていうところが示唆的なわけでね、んでまぁベルジャーエフなんだけどすげーざっくり書くとようはなんつーか、例えばフッサール以降っつーかポストモダンとかも含めて基本的にまぁニーチェとかハイデガー以降の現代思想が立脚している立場ってのが科学主義なわけだよねっていうかまぁフッサールが厳密な学としての哲学って言うスローガンを立ち上げたってほどじゃないけどまぁ明確な立場としてそういうのがあるわけじゃん?

 

で、まぁ例えば認識にしても神から与えられたなんちゃらみたいな思考はしなくてあくまで認識の分析っつーところに立脚するっつーかまぁマッハとかもそうなんだけど俺なんかがさ、哲学はオワコンなんつって書いてたのもまぁそういう思考が行きついた先っていうかまぁ例えば認識とかにしても哲学どうのっつーよりそれはもう脳科学でしょっていう真実を求めたら科学に立脚するしかないっていうかもはや哲学が介在する余地が無いみたいな考えにもなりますよね。

 

あとまぁ論理主義っつーかまぁ俺が大嫌いな分析哲学とかまぁそうじゃん?んでまぁそれはもう必然的な近代的なものとして明確にあるんだけどベルジャーエフが言ってるのはっていうかこれはベルジャーエフのみがそう言っているってことじゃないと思うんだけど基本的に哲学のコアはそこにあるんじゃなくて人間が考えるっていうところにコアがあるんだっつーことを言ってるんだよね。

 

なんつったらいいのか説明が難しいんだけど例えば科学的と言われる思考というのはまぁ必然的にある種の真理っていう意味で相対的にならざるを得ないんだけどそこで認識とは?とか実存とは?っつーのを考えても相対主義的な答えしか出てこなかったりあとまぁ思弁的だったり認知科学とかを踏まえたものになったりだとかっていうことなんだけど端的に言えばそういうのってじゃあどう生きるべきか?みたいなことに答えを出せないわけじゃん?まぁそういうのに答えを出すのが哲学だっていうことではないし科学主義的で厳密っていう立場をとる哲学というのがあってもいいんだけど俺が普段言うようなシュトラウスに立脚した考え方だけど前から書いてるプレモダンな感覚とかってのがまぁ科学云々じゃなくて人間臭く人間を考えるっていうところなんだよね。

 

まぁあんま難しい話したくないから簡単に書くと例えばまぁざっくりですけどもそれが科学的な考え方っていうのをレペゼンするかどうかはともかくとしてまぁ凄まじく唯物論的っていうとあれだけどまぁ機能主義的に考えるとっていうか何でも脳に依拠するようなものとかだと例えば愛というのはってまぁ愛にも色々あるんだけど例えば異性に対して感じる愛ってまぁそれは肉欲と考えたときにそれは生物学的に優れた母体を見つけて自分のタネを植え付けてより良いDNAを残す的なまぁアルゴリズム的っていうか機械的な考え方になるじゃん?

 

まぁすげー単純化して話すとそうなるってことなんだけどでもまぁ実際のところ愛って仮にそれが全て脳に帰結するような機能であるっていう分析ができたところでそこに価値観ってのは介在しないよね。まぁ逆に科学的に分析できているからこそ得られる尊さとかってのはあると思うんだけど哲学ってのはそれを概念として考えるじゃん?機能というよりかは人文系の研究やら哲学の歴史として考えるっていうね、まぁそれは哲学に関する学においての愛みたいなことになってまぁコンテキスト依存になったりもするんだけどただまぁ重要なところってそういうところじゃないよね。

 

まぁそういうのを経たうえでの例えばアガペーみたいな愛の概念ってのが例えばそれはあんまり教養無いうちはキリスト教的なドグマぐらいにしか考えられないんだけど色々と経たうえで考えると普遍的真理の片りんを感じたりするわけなんだよね。それはそういう概念が先行している上での愛でしょってことになるんだけどつまりは人間っつー当然限界がある人間にとっての普遍性でしかないんだよね。だから宇宙の真理とまではいかないんだよね。まぁ宇宙の真理だと思うかどうかはともかくとしてそもそも人間であるっていうところからすでに限界が規定されていて人間であるからこそ自ずと決まってくる真理ってのがあるわけなんだよね。

 

そういうのを聖書は端的に表しているってことになるわけなんだよね。なんつーのかな、例えばその聖書を読むものが異次元から来たエイリアンみたいなやつだったらそのエイリアンにとっての愛とはなんだ?っつーのはそのエイリアンの特性というか属性というかエイリアンにとっての愛っていうことになってでも普遍性っていうことを言えばそれは真理ならエイリアンにも適応できるものってことになるけどまぁそうじゃないよねってまぁエイリアンをどう定義するか?ってことなんだけどまぁステレオタイプなエイリアンでいいわ。

 

ようは認知的整合性の中における真理っていうことなんだけどそれはそもそもエイリアンにも適応できないという時点で普遍ではないっつーのは例えば物理法則みたいなのはエイリアンっつー存在関係なく古典力学とかだったら地球上だったら何らかの存在が介在するところで物理法則は変わらないわけだよね。でも人間にとっての普遍性っていうのは物理法則とは違うわけでそれはまぁその存在を介したものにならざるを得ないよね。そこをエイリアンにも適応できないから真理ではないっていうところを物理学とかと比べてそう思っちゃうっつーのがまぁ科学主義っつー誤謬なんだよね。そこはまぁ散々前にも書いてると思うけど人間であるからこそ規定されるものっていうのがあるわけなんだよね。それを道徳規範と言えばそれまでなんだけど人間界における真理っていうことだよねようは。

 

ただそれは文化的なものに依存するし時代とかによっても変わるし・・・っていうことなんだけどそういうのを超越した普遍性を持ったものがあるっていうことだよね。相対主義だったり科学主義だとそもそも価値観を求めるものってのはもうそこに価値を見出すっていうところの主観性とある種の恣意性が介在するわけだから科学じゃないってことになるんだけどそこを論理的な根拠とかではない意味でそこに価値を見出すってのは宗教関係なく結局はそれは宗教的な信仰と似たようなものなんだよね。

 

マルクス主義が宗教的って言われるのもっていうかまぁ特定のイデオロギーが介在しているものってのはそれを提唱する人間なり文化ってのがあって主体がそこに個人的に価値を見出すかどうか?というよりかはそれが価値なのである!ってそのイデオロギーがそう言っているからそうするっていうルールだったりするわけじゃん?例えばまぁ権力的なものには抗う!とかね、なんでもとりあえず反対!みたいなのとかまぁ別にそれが政治的であるかどうかはともかくとして基本的に価値を与えるものっていうか価値のバイアスを与えるものじゃん?思想って。

 

もちろんそういうものに触れないとか何の影響もない人間ってのもいるわけなんだけどでもやっぱり生まれてきた環境とか文化とかに刷り込まれた価値観ってのは絶対あるんだよね。特に価値を見出してそれを良しとしているわけじゃないんだけどまぁそう教わったからそれに関してこれは実際に良いことなのか?って考える余地もなくそれは良いとされるみたいなね、そこに信仰みたいな強い精神の能動性みたいなのが介在しなくても例えばその良しと文化的にされているものがなんで良しなのか?っていう源流を探ればそれは神道でしたとか仏教でしたっていうことだったりするわけじゃん?まぁ土着の文化っつーんですかね、逆にそういうのが全くないというほうが難しいよね。

 

無宗教も信じない!という宗教の一種だって言われるけどまさにそうだよね。信仰とは違うんだけど神なんて絶対いない!とかあとまぁ超自然的なものっていうまぁ幽霊とか偶然にしては出来過ぎている・・・みたいなミステリアスなことに関しても徹底的に科学的に唯物論的に考える!ってのはもはや科学主義っつー信仰なんだよね。でもそりゃ科学は客観性がありますから・・・っていう妥当性があるようで実は科学と言えるのは人間の存在を介さない物理法則とか化学的なこととかまぁ現象ですよね。

 

で、人間の世界観とか主観においてもそれは同じだっていうんだけど人間である限り絶対にバイアスがかかっちゃうんだよね。そこで例えば超絶的にありえないことが目の前で起こった場合、それを頑なになんでも科学で解説しようとするっていうのはもう科学への信仰でしかないよね。解明できないんだけど科学で説明がつかないわけがない!という信仰で科学で説明して意味が分からないというところを無理やり論理の世界に閉じ込めるっていうことだよね。

 

ただまぁ人によってはこんなことが起こっちゃったからもはや今までの考えを変えざるを得ないなっていうそれで世界観が変わっちゃうっていう体験ってあるわけじゃん?宗派関係なく神秘的なことが起こってそれで宗教的になるっていうのもまぁうなづけるよね。あとまぁ臨死体験するとそもそもの人生観が変わるっていうのも言わばそういう経験によって人生観が変わるって言うことだよね。

 

そこに別に神秘体験が介在する必要はなくてまぁ体験自体が凄まじい強度で人生観が変わっちゃうようなものっていうことだったりするっていうことなんだけどそれはもう頑なに科学主義的な人であっても変わらざるを得ないような契機ってのがあったりするわけだよね。もうそれは経験してしまったという時点で不可逆というかさ、ただ仮に人間においての主観とか体験の科学性ってのがあったとしてまぁその科学が万能だとするならそういう経験をしたところでそれも科学で説明がつくから世界観は変わらないはずなんだよね。まぁそういう時代は来るとは思うんですよね。何百年後か何千年後か分からないけど科学によって分からないことがどんどん解明されるようになるとは思うんだけどそれが人間の真理を規定するか?っていうとまた別ですよね。

 

客観的事実の解明と価値観って関係あるところもあるけど無いところもあるよね。仮に聖書が真理の書というか神の言葉なんだとすればそれが科学性を帯びているかっていうことではなくて人間の世界観においての真理っていうことになるわけなんだよね。でもそれは書いてあることが真理だっていうことなんじゃなくて神を見出すっていう解釈学というと語弊があるんだけどバルトなんかはあんままだバルトなんかはそう言っているなんて言えるほど読んでないんだけどまぁようはトップダウンっつーか聖書から人間だったのが人間から聖書っていうことになったっていうのがまぁそういうことでしょ。

 

解釈によって教義が変わったり認識が変わるっていうのはそもそも色々と解釈が分かれる時点ですでにそれは曖昧だってことになるんだけどそういうところはもう単純に人間の問題だからね。聖書自体に神の存在はあるんだけどそれを見出すのは人間でしかないっていうところでキリストが受肉して人間として振る舞って行動したっていうところにありがたみっていうかまぁ俺はこないだも書いたけど受肉した時点ですでに救いがあるって思ってるんだけどね。

 

で、まぁソースが聖書だろうがなんだろうが人間における真理ってのがあるとすればそれは特定の時代にだけ対応するような一時的なものではなくて人間が存在する限りそれは普遍的な真理であるっていうことなわけじゃん?だから聖書は何千年も読み継がれてきて研究されてきているんだとも言えるんだけどそれはまぁある種の宗教ヘゲモニーによるものだったりもするわけでまぁそれが権威の道具だったり統治の道具にされたりとかっていうまぁ神の言葉だからっつー理由で色んな目的でそれを利用する輩ってのがいたわけで聖書が何千年も読み継がれてきているっていうことがその真理性を端的に表しているっていうことにはならないんだよね。

 

まぁそこがようは世俗的なキリスト教と真理の学としてのキリスト教ってことだよね。で、まぁどの時代も大抵において前者が大半だったっていうね、ただ前者が多かったにせよそれによって聖書が読み継がれてきているっていうことが後者を志向する小乗的なんだけど真理を渇望する人たちに救いを与えてきてるわけなんだよね。表面的に見ると結局それが原因で戦争が起こったり虐殺が起こったりっていうところなんだけどそれはもう世俗マターというかさ、マルクスブルジョワを殺すべきだとは恐らく書いてないだろうけど文化大革命だとかクメールルージュだとかまぁマルクスはどう考えてもヒューマニストにしか見えないんだけどマルクス的な思想を背景になぜか虐殺が起こるっていうのもまぁそれってマルクスどうこう関係ないからね。それを元にして行動する人間マターだからね。マターってまぁmatterってことね。

 

なんつーのかな?それが真理である=科学であるではないんだよね。人間の行動や思考とか感情においてはね。そこはまぁ心理学とかでも論争になるところだよね。なんでも脳に帰結させるんじゃなくてやっぱりそこには心ってのがあるだろうっていうね、まぁそれってよくSFとかの題材になるロボットに自我が芽生えるのか?っていうまぁつまりはそこでの自我ってまぁソウルってことだよね。アルゴリズミカルな計算の結果が人間の行動であるっつーのは科学的なんだけどそれは不可解な心ってのを無視した機械論的考え方じゃん?まぁそれは科学的と言えても仮にそれが科学であっても真理ではないよね。

 

そこでまぁなんつーかデュアル思考っつーのかな?無神論的で唯物論的っていう従来の俺のデフォの主観モードもありながら神学というかキリスト教に目覚めた俺の主観モードも同時に存在するっていうことだよね。っつってもまぁデフォでもかなりやっぱり神秘主義的なものは好きだから完全な無神論唯物論ではないんだけどまぁでもそれってキリスト教に目覚めたからっつってそのモードが無くなるわけじゃないよね。

 

同時に存在するんだよねっつーかまぁそれってあれじゃんね?数学に目覚めてから世界の見え方が変わるっつーのもまぁ数学が主観に影響を及ぼすわけじゃん?ただまぁそこはモードってほどではないんだけどね、まぁデフォのモードがさらにエンハンスされるんだけどそこでまぁ今のところ俺が思うのは仮に今後色々勉強していきつつ宗教的体験なんかも重なった上で信仰が高まった場合、止揚されるってわけじゃないんだけど恐らくその無神論唯物論モードとキリスト教モードみたいなのが統合されると思うんだよね。

 

だからなんつーのかな、宗教に目覚めていきなり人が変わったようになるっつーのはある意味ヤバいっていうか洗脳されてるってことなわけでまぁそれがあれですよ、真理にベクトルがあるようなものに気がついて一気に人が変わったようになるってのはあるにしてもヤバい意味で変わるっていうのは今までの自分に立脚してないっていうことだよね。まぁそこが良く言われるあれですよ、幼児洗礼だよね。幼児洗礼っつー言葉で合ってるか分からないけどようはなんも分からないときに洗礼を受けてキリスト教だなんだっつってもそこに信仰は無いだろうっていうのがまぁデフォとしていきなりキリスト教を押し付けてもそれは信仰による目覚めじゃないじゃんっていう能動性が無いっていうことになるんだよね。

 

もちろんただまぁキリスト系の学校ってのもあるわけでなんとも言えないんだけどただまぁあくまで俺の体験から言うと盲信的じゃないマジな信仰ってのは俺みたいに全く宗教とかに縁が無いような、んでむしろ神とかを絶対信じないようなタイプのやつが召命を受けて認識が変わるっていうところからしか出てこないと思うんだよね。

 

例えばキリスト教がデフォでそれがデフォ過ぎると認知的整合性のために宗教をディスってるような意見とか汎神論的な世界観とかそういう世界との接触の機会が無くなるっつーと極端だけど少なくなるよね。で、まぁ自分のキリスト教的世界観を保ちたいがためにキリスト教寄りの考え方になるっていうまぁバイアスですよね。キリスト教が真理なんだったらそれでいいじゃないかって感じもするんだけどそれを真理だと思うには逆説的に全くキリスト教とか宗教的ではない世界観とか主観ってのが必要になるんだよね。

 

別に生まれつきキリスト教だったという人たちをディスるわけじゃないんだけど元々すげー宗教的な人間っつーよりかはむしろそういうの好きじゃないっていうやつが召命された場合のほうが信仰心が強くなるっていうか確固たる信仰が生まれる基盤になると思うんだよね。だからまぁ俺はもっと早くに気がついていれば!って思わないんだよね。今までの積み重ねがあって今の認識になってるわけだからね。

 

まぁ別に信仰について高いも低いもないんだけどデュアルモードの場合、信仰は確固たるものになるよね。揺らぐということがまずありえなくなる。何しろこの認識だと例えば俺の場合、ジーザスが実在したか?とか神は存在するのか?とかとは全く関係ないところで信仰があるわけなんだよね。まぁ今の段階で言うと芽生えているっていうことかな。神がいたらこんなことにはならないだろう的なことっていっぱいあるんだけど色々と読みつつ考えた中で今の俺が思うのは世界で起こることと神とは全く関係ないっていうことなんだよね。

 

なんで神がいるのに例えば老朽化した教会で祈ってた人たちが崩れた教会の下敷きになって大勢死ぬことになるのか?とかそれはまぁぶっちゃけ神の意志でもなんでもなくてただ地震が起こって老朽化した教会が崩れたっていう現象でしかないんだよね。神よ!なぜなのですか!っつってもそもそもそれは神と関係ないわけでそこが神と自分をすぐに結びつけてしまうっていう誤謬なんだよね。所謂真理と遠い信仰なわけですよ。

 

そもそも神が何を考えてるか?なんて分かるわけないよね。仮にいたとしたら無からビッグバンを起こしたような人格神じゃないと思うけどなんらかの意志といっても語弊があるんだけどまぁ何らかの存在の介在があるわけでしょ?そんなビッグバンを起こすようなものの考えなんて分かるわけないよね。こういうのって不可知論とか否定神学とかって言われたりもするけどそれは必然的にそうでしょう。

 

それは自分が人間だからその人間の主観っていうところを一気にスライドさせて神の主観っていう考え方をしちゃうんだよね。んでもまぁ神の主観なんて人間程度の脳じゃ分かりようがないことだよね。あとまぁ良いことをしたっつってご利益があったりするようなものでもないんだよね。そういう人間的主観の良い悪いによる因果律とかとも全く関係ないんだよね。だからもう存在すら不問というか存在を問うこと自体がナンセンスっていうかね、それをまぁ仏教とか禅の場合、無と呼んで前にも書いたけどエックハルト的な考え方だとそういう無といったような存在っていうまぁそこに有という属性をつけるんだよね。

 

そこで別に良いことをしたところでなんの見返りもないような、まぁニーチェが言うような神は死んだ!みたいな世界と変わらないじゃん!っていうことなんだけどまさにそれでそれは認識が変わるだけで世界の摂理みたいなのが変わるわけじゃないんだよね。神を信じ始めてからラッキーになった!とかそういうのはあるかもしれないしそれを恵みだ!って考えるのもいいんだけどまぁそれは恐らく恵みじゃないですよね。あるとすれば神を信じるようになってバイオリズムが良くなったとかっていうより生を肯定できるようになったからパワーに満ち溢れるようになったっていうようなまぁ卑近なたとえで言えば自己啓発セミナーに通って認識が変わってエネルギッシュになった結果、色々上手く行くようになった!みたいなことなんだよね。

 

じゃあそれってそういう損得的な考え方で信じたほうがパワーが生まれるから信じたほうがいいの?とかっていうそういうもんでもないんだよね。それはもう認識が必然的にそこに導かれてなおかつ信じるようになったような契機があったっていう蓋然性でしかないんだよね。そこは常に潜在性としてしか存在してなくてだからまぁ蓋然的なんだよね。まぁ極めてポストモダン的でしょう。

 

かといってもカルヴィニズム的な選ばれた人間とかっていうことでもなくてもうそれは単純な物理現象に還元できるようなこうこうこういうのがあって・・・んでまぁ色々あってこうなりましたっていう帰結でしかないんだよね。帰結ってまぁそこで終わってるわけじゃなくてまぁ始まってるわけなんだけどそんな始まりの契機を与えてくれた神に感謝するかしないかは任意だけどまぁ与えられて信じるようになったら慈悲深さを感じざるを得なくなるんだよね。

 

かといっても信じるようになったから例えば食べ物を極端に選ぶようになったとか色んなルールを守らなきゃいけなくなったとかっていうことじゃないんだよねっていうかそこがやっぱジーザスの偉大なところで律法なんかを軽蔑してたわけじゃん?軽蔑してたかは分からんけどルールを守るなんてことはエッセンシャルなことじゃなかったわけだよね。でもそれがジーザスが神で神の意志を反映して律法なんかを軽蔑してたわけじゃなくてジーザスは自分が神の子であるっていうことは全く分かってなくてただジーザスは律法を軽蔑してそれは信仰と関係ないみたいに思っていたっていうことがつまりはジーザスを介して神の御心を知る契機を人間に与えたっていうことなんだよね。そこがまぁ聖書が神のロゴスたる所以なんだよね。

 

まぁだからなんつーのかな、まぁ前に書いた感じだと自分は唯物論的だけどイデアは信じているみたいな面があってまぁそのイデアに当たるようなものがキリスト教における神の概念の一致するんだとかって思ってたけどまぁ合ってるところもあるんだけどそれは今までの自分が読んできたものとか考えてきたことっていうのをキリスト教に置き換えたり詰め替えたりしてキリスト教を理解しようとするっていうようなキメラ的なコラージュなんであって理解のきっかけとしてはいいかもしれないんだけどロングタームで見ると浅いとしか言いようがないんだよね。確かに対応するかもしれないけどキリスト教にはキリスト教の善の考え方があるわけでそれを簡単に善のイデアだ!って考えるのは楽なんだけどやっぱりそこは仮に対応しててもキリスト教的なコンテキストで勉強して知って考えて実践しなきゃいけないんだよね。

 

だからまぁキリスト教に目覚める前から何もできなくてもとりあえず善く生きることが大事なんだ!ってことをずーっと言い続けてきた俺にとってはすんげー地続きなんだよね。いきなり考えが変わる!とか悟りが開けた!みたいな感じじゃなくて地続きのものとしてまたより広いパースペクティヴを与えてくれるようなものなんだよね。

 

その善さの規範を厳密なルールとかではない、俺みたいな元は無神論者みたいなやつにとってもそれが福音で信仰の道に進むようにまるで導かれているように思えるっていうところがすでに恵みなんだよね。それに気がつくかつかないか?っていう認識の問題なんだよね。ただそれはさっきも書いたようにそれは潜在性と蓋然性以外の何でもないわけなんだよね。だからまぁ俺はラッキーだったとも言えるし細かい現れみたいなのを常に気にしていたっていうような配慮があったからとも言えるんだよね。それは主観的には必然的に思えるんだけどエピソードとして言葉にすると一気に陳腐になってしまうっていうようなことなんだよね。

 

だから客観的にドラマティックなわけじゃないんだよね。ただ主観的にはドラマティックでだからこそ召命だったっていう風に思えたりもするわけなんだよね。宗教学とかはサブジェクトとして信仰の有無関係なしに社会的現象として研究できるものだと思うけど神学においては信仰無しではありえないからね。シュライエルマッハーだったっけな。言ってたの。まぁそれは本当にそうですよねっていうところなんだよね。あとまぁ真の信仰っていう意味で強いのは霊感商法だの安易なスピリチュアルだのカルトだのっていうのに目覚めたり魅力を感じたりする余地が実質ありえなくなるということなんだよね。

 

まぁ元々俺はスピ寄りではあるにせよカルトとかにはハマらないと思うんですよってまぁそういう風に言ってるやつほどハマるっていう意見もあるんだけどキリスト教に帰依するってことは信条的な絶対性があるからね。だから他の教祖とかがいるということがありえなくなる。かといっても別にカルトを廃絶しろ!っていう攻撃にはならないんだけどなんつーかより強くなりますよね。思想やってるやつは強靭な意志の力があるからそういう歴代の思想家からミメーシスを受けるっていうことでまぁ感化されるっていうことだと思うんだけどそれがまぁ理の世界だとすれば信の世界においてのキリスト教ってのもまたミメーシスだよね。

 

キリストに感染してキリストを模倣するようになる。ただそれはすぐにできることじゃないし一生かかってもできないことかもしれないけど模倣しようと努めるということですよね。それがまぁキリスト者になるっていうことだよね。別に自我を捨てるとかパーソナリティを捨てるっていうことではないんだよね。ただ神のロゴスというのをDNAレベルで刻み込むということをやっていくっていうコミットメントだよね。それはだから勉強だけでなんとかなるもんじゃなくて実戦と経験とあとはこれは運だけどおお!って思えるような宗教的体験だよね。

 

でもそこで敬虔主義とかへの批判でそれは個人的な例えば神がかった神秘的体験とか自分が救われたいからっていうような目的で敬虔であるっていうことは利己的であるっていうことで別にまぁ信仰の形態は人それぞれでいいと思うしまぁ神が人間を作るときにんじゃこいつは走る役でこいつは伝達する役でこいつは戦う役でこいつは書く役で・・・っていうアトリビューションみたいなのを与えたわけじゃん?だからっていうのは語弊がありそうだけど天職っていうのはそういうアトリビューションに世俗的なシステムが合致するようなものにハマったっていうところから来るような概念だよね。特に神とか意識しなくても何らかの言葉の中に日本語の場合まぁ例えば天っていう言葉だとかね、まぁそういうのは言語学的に色々あるんだろうけどまぁ神っつー概念が介在してるよね。

 

まぁだからそれが利己的でもそいつなりの信仰の形なんだったらまぁそれはそれでいいんだよね。強者は貧者に施さなければいけないっつってもそれが強制になるとそれは律法になるからね。その辺の信仰の形の多様性っていうのはまぁそのまま人間自体の多様性そのものを表してるんだよね。ただまぁかといっても世の中がオワコンとかっていうようなまぁ俺が長く抱いていたような感覚は消えるわけじゃないっていうかそれは事実だから変わらないよね。キリスト教徒は世界的に見てもすさまじい数がいるじゃないか!とかっていう風にならないのは明白でどうしようもない頭のアメリカの排他的な右翼とかまぁそれはヨーロッパとかでもそうだけどあとまぁ本当に世俗化されたようなものだよね。

 

逆に真の信仰を持って行動するなんてのは本当に大変だよね。まぁそれは仏教でも同じじゃん?ガチの仏教徒でそれを日々実践するなんて世俗的な世の中でやっていくのは大変だよね。そういう意味で常にマージナルな存在っていうかでもそれは選ばれたっていう選民ではなくてたまたまそういう契機があってそういう道を進もうと思ったっていう結果なんだよね。そういう意味で俺なんか元々マージナルだから本質を突き詰めれば相対的に見ればアウトサイダーみたいな意味でのキリスト者になるっつーのも不自然でも何でもないんだよね。

 

だからまぁ感覚としては日本人としては仏教徒になったとかってまぁまだ自然というか座禅を始めたとか禅に目覚めたとかってやっぱりまぁ文化的コンテキストの中では不自然じゃないよね。へぇーそうなんだーっていうまぁなんかのきっかけがあったんだろうなとは思うけどまぁそうなんだねで終わるっていうかまぁそれは仏教とか禅ってのがそこまで宗教性を帯びてないからだよね。まぁその思想に帰依するようになったっていう認識の進歩の一つの結果として自然にそうなるっていうのがまぁ文化的にそこまで不自然じゃないっていうね。そこはやっぱり文化的コンテキストがあるからなんだよね。だから別に普段禅とか知らなくても座禅を体験してみよう!っていうような観光地とかでそういうサービスがあったらやってみようかな?って思うのも特に宗教性をそこまで帯びたように感じないっつーのかな。

 

ただね、そこでまぁ京都学派とかがさ、例えば西田が鈴木大拙と交流があったりして仏教とか禅みたいなものを哲学的に解釈したり咀嚼して自分の思想として純粋体験だとかさ、まぁそれは西洋とかでも影響があったわけだけどキリスト教ってのも思想的に同じように扱われていたっていうかそれは教会に行ってお祈りをするみたいな生活とか儀式の形態とかじゃなくて思想として考察されてたっていうさ、まぁ西田なんかの世代とかだと読めるものは取り寄せてどん欲になんでも読む!っていう感じだったと思うんだけど西田がバルトとか当時のキリスト系の神学者の思想とかにも関心を寄せていたっていうのも納得がいくよね。

 

そのぐらいある意味で宗教性を帯びない純粋な思想性があるというかね、特に京都学派とかあの世代特有のものかもしれないんだけど宗教関係強いよね。で、なんか戦後に断絶がある感じがするよね。左に傾きまくって宗教的なものを否定するみたいな戦後民主主義的考え方とかあったんだろうけど戦前に限って言えば思想としてのキリスト教って一部のインテリたちには凄いプレゼンスがあったんだよね。

 

なんかだから自分の中だとそういう感じなんだよね。宗教に目覚めたというよりかは偏見で頭が悪い人が信じるようなクソみたいなものっていうイメージだったのが近代も含めて歴史的な人文的な知と労力の積み重ねがあってなおかつナイーヴじゃない信じないと効力を発揮しないような類のある種の思い込みと誤謬が生み出す勘違いシステムとかではない強固な論理的必然性と体系があるっていうね、かといっても論理に回収されることなく非論理的なことも扱うっていうそこがありえるかありえないか?みたいな次元じゃないところでそれは有か無か?みたいな二項対立ではない正しいか間違いか?っていうような二元論ではないものとしての思想だよね。

 

ただそこを二元論に回収させないというところに信仰を必要とするっていう感じだよね。かといっても無いものをある!って人に強要するようなことではなくて常に体験と内省と思索ってのが循環するような知的なものっていうかさ、あとまぁ俗っぽいことだけどキリスト教がデフォみたいな国のキリスト教がメタファーみたいになってる映画とか別に小説読まないけど文芸とかの理解が深まるみたいなところでもあるよね。数学を知ると分かることが増えて手を出したくなるコンテンツが増えるみたいなことと同じなんだけどただそれは信仰が介在するっていう意味で凄く崇高な神聖なるものっていう感じがあるんだよね。

 

まぁそういう意味での思弁的なことも含めた何もかもを科学に帰属させるようなものではなくてベルジャーエフが言ってたような哲学的に認識するっていうことの必要性だよね。ただどっちが正しいとかじゃなくてデュアルな感じで科学的認識と哲学的認識を持ってた方がいいってことなんだけどまぁなんつーか同時ですよね。

 

そこで繰り返しになるけど結局は認識の問題なんかは今の時代は認知科学ってことになるわけで古い哲学の言葉を使ってあーだこーだするよりも科学的リサーチしかないみたいな考え方ってのは間違ってはいないんだけど科学主義的過ぎて人間においての認識と主観的過ぎるという意味で科学的であったり学問的であったりすることが不可能なくらいのものとしての意味論とかね、扱えなくてボロボロこぼれるようなものを掬って考えるってのが哲学的認識と思考なわけでんで今の自分には例えばベルジャーエフを知ったのも当然そりゃキリスト教経由なわけで自分の中でのキリスト教的なものへの目覚めと契機とそこからの流れの派生というのが蓋然性によるものだとしても必然的に感じられてなおかつこういう認識に至ることになったっていう、そのボロボロこぼれるようなものを掬えるのが哲学的認識で哲学的思考なんだけどそこでまぁ前にも書いたようにノエシスノエマ的な契機にも宗教性とかある種の超越性が介在すると認識が変わるわけなんだよね。

 

つまりはこの哲学的認識というのが宗教的認識とも言えるというようなハイブリッドなものになるんだけど、それは俺がだいぶ前から言ってたハイパーリアルってこととかオワコンシリーズで書いた自分の世界を形成するっていうのもミルチャ・エリアーデなんかが言っている世界で生きるためには世界を創建せねばならぬっていうことと同じなんだよね。

 

何が言いたいのか?っていうと今まで考えてきたこととか自分なりに思ったことっていうのがどんどんキリスト教的だったり宗教的なものに繋がるからこその必然性を感じるっていうことなんだよね。だからいきなり考えが変わった!とかではなくて今までの積み重ねありきで今みたいな認識とか考えとか読む本が増えた!っていうことだったりっていうことなんだよね。

 

大げさに言えばそれは啓示とか導きとかってことになるんだけどまぁ俺的には本当に哲学シーズン2が始まったって前にも書いたけど昔は哲学だったり数学にハマってたときはそれが生活の中心でそれがあるだけで救われてたけど今は救いに関する学を学ぶこと自体が救いになっているっていうような面白いことになってるってことなんだよね。それを学んだうえで仮に救われなくても今は救いになっているっていうことで瞬間的には自己完結してるんだよね。ただまぁ宗教とか信仰ってのは奥深い世界だから今まで色々やってきて知識が増えてこんな感じになって認識が変わったんだよなーっていうのとはだいぶ違うものになるのは間違いないよね。

 

ウェーバー的に言うと近代社会は脱呪術化が進むっつーかまぁ合理化が進むっていうことなんだけどそこでまぁ俺が今なんとなく思っているのはポストモダン的な砂漠にいるからこそ恐らく歴史的に見れば聖なるものとされていたようなものが顕在化してくるというか輝いて見えるようになるっていうことなんだよね。

 

宗教の呪いみたいなオカルト的な面ではなくて宗教の聖なる面というのが顕在化しやすくなるっていう、その光を見つけられるか見つけられないか?でだいぶサバイヴできるかできないか?が変わってくるっつーか、まぁその光ってのは色々あるけどとりあえず端的に一つ挙げればそれはずばり善ですよね。愛でもいいんだけどまぁ善だわ。善が光るという発想はプラトン的だけどプラトン抜きでもそもそもの善は光なんだよね。聖なる光ですわ。プラトンで言えば創造主的なもの以前にもイデア界に善はあるわけだから神はその善から生まれたみたいな解釈もあるってことだよね。

 

そこのまぁ極端な合理化とか資本主義化ってのはマルクスを出すまでもなく人間性の疎外を生むっつーのも結局は全部金銭的な損得で物事を判断するっていうような打算的な堕落が生まれるっていうところだよね。マルクスが言うようなユートピアはそういう疎外フリーな世界なんだけどキリスト教的なユートピアにしてもそれは経済活動とか政治活動って意味ではない個人に属する善からの疎外フリーの世界だよね。思うにアナーキズム的な考えってのも何気にこの善を信じるっつーナイーヴなところから来てるんだよね。

 

んでまぁホッブズとかはそんなのとんでもない!っていうね、ルールが無くなったら人は殺し合いをするだろうっつーことなんだけどまぁそれが事実ですよね。でもその事実と善を聖なる光と考えて渇望するっていうエロスは関係ないからね。それはどうしてもオワコンな現実とでもその中でやっていくっていう個人の精神性だからね。つまりはそれが倫理ということで善が即パワーになるというようなのが言わばスピノザ的な考え方だったりそういう原理が無くなっても創造的無ってのがあるぞ!っていうニーチェ的な超人思想だったりとか、まぁぶっちゃけどれもこれも神の存在とは関係ない人間の善の実践にまつわる思考だよね。

 

世俗化したようなキリスト教は弱者の奴隷思想だっつーの部分とかまぁニーチェキリスト教批判って的を得てると思うけど結局、ニーチェが神を否定して自分が超人となるのだ!っつーのもロジック的に自分がキリスト者になるのだ!っていうなるべくキリストに近づくようにするっていうような現世的なんだけど超越的でもある概念っていうか、確かにキリスト教は弱者にとっての慰めみたいなものにもなるけどイケイケのアグレッシヴな人にとっての強固な思想にもなるんだよね。

 

バルトなんか相当血の気が多かったらしいけどむしろ血の気が多いからこそ聖なる光に共鳴しやすいというか感化されやすいっていうかそこはやっぱり感受性の問題なんだよね。シュライエルマッハーってまだ読んでないけど宗教は直感と感情っつったのも別に神を精神とか個人に矮小化したわけじゃなくて宗教の主意主義的な意味を言っただけだと思うんだよね。まぁロマン主義的で俺なんか見事にまぁそのままそれじゃん!って感じなんだけどつまりはセンスってことだよね。

 

かといってもそうだからといって神の超越性が無くなるわけじゃなくて、ただ人間においての宗教的なものへの契機というか開かれる条件としてのものとしての直感とか感情っつーところなんだよね。んでまぁ俺が今回蓋然性と潜在性って書いたのもそこにまぁ巡りあわせっつー運みたいな要素が絡むってことだよね。だからまぁ出会えて開眼できた人はすさまじくラッキーとしか言いようがないっていう感じだよね。天職につけてやったじゃん!っていうところの職を抜いた天そのものだよね。まぁそんだけありがたいものってことだわな。

 

まぁまた例によってすげー長くなったけどそんな感じでんじゃまた。