レコハン記。その18。

ミックス録ったので。

 

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ってことで続きね。

 

いや、カルトが教える聖書ってなんだよ?っていうね、ただですら混乱しやすい宗教的概念とか宗教のイメージとかってのがああいうので色々と捻じ曲げられるんだよなっていうまぁなんか禅僧の南さんなんかもオウム事件前後とかって僧侶の恰好して電車とか乗ると怖がられたみたいな話してたけど仏教ですらそうなんだもんね。

 

まぁそういう意味で日本人の冠婚葬祭的なものとは別の宗教っぽいものに警戒するってのは良いリテラシーなのかな?とも思うよね。変なのにハマるよりかは神社仏閣巡りとかをしてパワースポット!とかっつってお参りしているほうが本当に健全だと思うわ。

 

ちなみに近々鎌倉にまた神降ろしに行ってくるけど世俗のキリスト教はどう言ってるか分からないけど俺が色々と読んでいる限りキリスト教と神道は全然矛盾しないからね。アニミズム的で祖霊崇拝ってのは全く人畜無害どころかヘタな教義があるよりよっぽどいいものだよね。まぁ国家神道みたいなのもあったにせよすげー健全で宗教の嫌な部分がないよね。でもまぁそれ言うと原始仏教も原始キリスト教もそういう嫌な宗教臭さが無いものなんだよね。

 

でもまぁ歴史の色々なアレとか戦争のトリガーになったとかなんだとかっていうロクな歴史が無いし世俗的なのは世俗的なものに成り切っているから外部から見ると「は?」ってなるようなことだらけでさ、ただまぁキリストはパリサイのやつらはみんな呪われろ!って言ってたからね。人間とか世界とか他の要素を無視したような律法が守るためにあるようなものは全部ファックだ!って言ってたわけでまぁキリストってアジテーターよね。

 

しかも前も書いたけど下手な革命家とかよりよっぽどカリスマ的でアジテーションにイデオロギー臭さが無い真理という観点から現実にはびこる良くないものをガンガンディスってたっていう闘争的な人間なんだよね。

 

まぁなんか俺が考えるキリスト像ってのを勝手に思い描いてるってのはあるにしても俺が考えるキリストって闘争的な人間でアジテーターでリベレーターだったと思うんだよね。だからこそ「あいつやべーな。殺さないと大変なことになるぞ」ってぐらい目立った神の子だったわけでしょ。

 

既存のキリスト教には躓きまくるけどキリストに躓かない俺は本当に幸いだと思うわ。なかなかここって難しいからね。マルクスとマルクス主義は全く別物ってのと同じことなんだよね。マルクスがマルクス主義なんつー言葉が蔓延してるときに俺はマルキストではない的なことを言ったっつー話があるけどキリスト然りで自分はキリスト教徒ではないって絶対言うよね。

 

カトリックの大げさなセレモニーやら律法からの解放と成熟を成すために地上に来たはずなのにパリサイ的っつーまぁ決まりごとが多いようなものになっちゃったりだとかね、これはダメ?あれはいい?あれはアウト?とかそういうことじゃないんですよね。そういう意味で内面から働きかけるまぁ言わば本当に文字通り思想とか信条っていうところで、んでも今日ゲットしたバルバロ神父の翻訳の聖書の序文だかに書かれてるようにそれが聖書だかキリストだか忘れたけどまぁキリストよね。

 

キリスト自身が俺の誇張を付け加えれば人類稀に見るというか比類なき宗教批判者だったわけでそれはようはガチガチのただのルールと化したパリサイ派みたいな魂が抜けた宗教ってのをめっちゃ批判したわけよね。

 

んでむしろ自分はその形骸化されたものの本質を完成させるために来たとまで言ってるわけでだからまぁ処刑されるわけなんだけど、そういう意味でキリスト教というか原始キリスト教に戻るならそれは現代で考えられるセレモニー化したりルール化してるような宗教とは全然違うもので大僧正とかヒエラルキーとかが無い原始仏教とかと同じなんだよね。宗教っつーより思想といったほうがしっくりくる。そのぐらい宗教ってのが胡散臭いとか抹香臭いとか形骸化してるってことだよね。

 

ただ宗教っつーのもようは人間の主観による世界観の一つなわけでそれこそ共同幻想的なものかもしれないんだけど近代ヨーロッパ的なニヒリズムってのは科学の発展もあって唯物論的な世界観が一番リアルだろうっていうこれもまた一種の世界観なんだけど科学によって人間は客観性を獲得したって思いこむ幻想が解体するものっていっぱいあるんだけどその最たるものがニヒリズムと相対主義だよね。

 

ヤスパースとブルトマンの非神話化批判でヤスパースの批判に似たようなのがあってまぁようは宗教の大事なところってのが非神話化で失われるみたいなことが書いてあったと思うんだけどまぁ非神話化はともかく我々は客観性を得たのだ!って勝手に思い込む幻想がもたらす価値相対主義とか科学至上主義ってのは逆に盲目を産むっていう感じがしてるよね。

 

元々俺がそういう人間だったからなんだけど宗教は盲目だって思ってたけどいざ宗教側に入ってみて持ち前の学びのスピードの速さによってある程度のところまで到達した身になってみると今の自分が体験して思っている宗教観というのを知らないというのもまた盲目だよなって思うんだよね。

 

鎌倉参りして改めて思ったけど参拝する人たちは何も熱心な神道主義者とかじゃないわけでさ、普通のデフォのカルチャーとしてそこまで宗教という意識が無くお参りをするわけじゃん?トーマス・カスーリスの「神道」に書いてあるような日本人の無宗教的なナチュラルな神道観よね。

 

んでまぁそういうのを例えば形式的なお参りにしてもただの迷信と考えるってのがまさに自分は科学的な客観性を得ているんだって盲信するそれこそまさに迷信なんだよね。難しいし不可能かもしれないんだけど常に中立であるというかさ、ただまぁアメリカのカルトが言うようなクリエイショニズムとかは明らかにアホの所産だと思うわけなんだけどそういうのは抜きにして神道とか仏教とかキリスト教でもそれがなんで信仰されたり文化として存在していて廃れずに存在してきたのか?っていうことだよね。

 

まぁどの道、統治するのに便利なイデオロギーだったっつーことはあるにしてもそういったものを信仰してきたっていう心よね。日本人の心というと国粋主義的になるかもしれないけどナショナルなものってまぁ大体そうよね。

 

んでまぁ文化によっては日本に神社仏閣が当たり前にあるように教会が当たり前にあるっつーキリスト教がデフォの国がいっぱいあるわけでね、イスラム然りなんだけども、そこでなんか逆に日本に居てキリスト教を信奉するっていうのは異国の地で異国の宗教を信奉するみたいなことになってるわけなんだけど少なくとも俺は文化的には全くキリスト教に触れてこなかったしむしろまぁディスの対象だったわけでね、まぁメガテンの影響で神話とか教会とかゴシック系は昔から大好きだったけど宗教的開眼に関しては全く文化的な介在が無いと言ってもいいと思うんだよね。

 

でもそれはいきなり来た啓示というよりかは色々なものが収束して「こういうことだったのか・・・」って分かる感じだよね。導かれている感じというかなんというか、まぁそういう個人的体験なもんだからそれで例えば教会に行こうとか洗礼を受けようとかってことにはならないんだよね。

 

そういうのとは全く関係ないところで開眼してるわけだからね。その開眼のプロセスに関しては個人的過ぎて言語化できないんだけどただまぁ一つ大きな要素としてはまさにキルケゴールとかと同じで深いニヒリズムがあるんだよね。

 

んで西谷啓治みたいにっつーと語弊があるっつーか烏滸がましいにもほどがあるけど(笑)受け止めるんだよね。そこから逃げない。んで思想とか思索とか先人の残してきたものとかをディグることで抗おうとするとか抗うというよりかは自明な立脚点として思考とか生きるということの出発点になるっていうかね、そういうポイントよね。

 

逆に今ぐらいでそういうポイントに立てたから長く悩んできた甲斐があったものでましてやキリスト教はよく言われるように受苦の宗教なわけでそれはマゾっぽく苦しいことをやるっつー短絡的なことなんじゃなくてニヒリズムの攻め苦を受け続けるということだと思うんだよね。それを背負うということが十字架を背負うということになってるっていうかね。

 

まぁめちゃめちゃ実存主義的なんだけどまぁそこが個人の宗教観とかキリスト教観の違いなんだと思うけどキリスト教っつーと働きかける例えばボランティアをやるとか貧者を助けるみたいなイメージがあるけど禅僧っぽい内面に沈下して考え抜くとか瞑想をするとかっていう修道士とかの修行僧的なベクトルもあるというか元々歴史的にはそれのほうが最初なんだよね。

 

だから社会的行動というのはだいぶオーガナイズされてからなんであってそれが悪いということではないんだけど歴史を知れば知るほど全然前のイメージとは違うむしろ初期仏教とか禅みたいな内面の世界の話なんだなって思うわけなんだよね。

 

ってことで続きますんでんじゃまた。