行方不明の象を探して。その232。

光に包まれた庭の中でテカテカジョイスについて、

 

「あーテカテカしてたなぁー」

 

っていう、ジョイスの顔がテカテカしていて、日本には脂取り紙ってのがあるから、それでテカテカを取ってあげようっていうところの話の本質はジョイスの顔が特に光に包まれた庭なんて大げさに書いたけど、アメリカのコミカレのくだらないクラスでの自己紹介で仮名・ウェンというアジア系のアメリカン女性がアメリカンネームで「マイネームイズジョイス」って語っている時にそれが夏だったからなのか、アメリカではスチームだらけで暖房がエゲつないから室内が暖かいからなのか、とにかくジョイスの顔がテカっていて、それが日光に照らされると後光が指したように、でも顔面がテカっているから前光なのだろう、今書いた文章を擦られ続けまくたっていうか、熱の話を先にしてしまおう。


発熱が限界にまで達して執筆どころじゃなくなってダウンしてしまった。まさに寝込むってやつだ。寝込んでいるときに少し何かやれそうなときに一番誤魔化せるのが小説だ。俺が太宰治を初めて読んだのも中学ぐらいの時にインフルエンザにかかったときだった。そんなときぐらいしか小説なんて暇人しか読むものじゃないと思っていた俺はってのも何回も繰り返しているけど繰り返すけど、寝込んだおかげでサンプリングネタになりそうな過去に買った膨大なハードカバーの洋物の文学を読むきっかけになって、そこで話はテカテカジョイスに戻る。

 

クソ小説はテカテカジョイスの話を大げさに書くことで一冊なんかあったように見せかける過剰包装詐欺みたいなものがあって、テカテカジョイスの話を文学的にすればそれっぽく見せることができるという、言わば過剰包装の文章バージョンみたいなもんで、物凄く思わせぶりな包装紙に包まれていて、なおかつ超高級な万年筆のケースに100均のボールペンが入っているみたいなことで、こういうことを上手く書けないのが俺がライターにも小説家にもなれない理由なのだが、それはともかく、どうでもいい話をほのめかしだとかそれらしく見せることができる小説家は100均のボールペンもデコってバカな読者を騙すことができる。


実際にマンゾーニのうんこが入ってそうな日本だとあまり見ない缶スープの缶にセメントみたいなのが入っているだけのものがなんたらパワーで悪霊を寄せ付けないだか、運気が上がるとかって書いてあって150万円で売られたりしていて、売られているってことは買うやつがいるからなんだろうけど、20万円の作者のオナニーゲームみたいに数本売れればペイできるから売ってるってこともあるかもね。

 

ピエロ・パオロ・マンゾーニっていうマンゾーニとパゾリーニがややこしいしうんこ繋がりで「まぁそれでいいや」って思ってそういう人物を思い浮かべたりしている。マンゾーニみたいな芸術家はセンセーショナルなもの以外、凡庸なものしか残していない場合が多かったりして、実際に画像検索しても出てくるのはマンゾーニのうんこばかり。


でも本質を見ればつまりは100均のボールペンでありうんこはうんこだ。それ以上でも以下でもない。つまりはジョイスの顔がテカっていたという事実だけだ。だから俺はテカテカジョイス派でテカテカのジョイスの顔に出くわすまでの経緯を「いつものように起床した俺はなんたらストリートで朝食のマフィンを買って通学路を歩いた」みたいなマンハッタンの学校に通っているっていう、実際は何もない虚構の街、マンハッタンを美化している人間にとってはたまらないようなマンハッタン描写を入れて「Bビルディングの304号室のなんたらクラスでジョイスに出会うまで」を克明に描く、というのもニコルソン・ベイカー並にそれをネタとしてやるならともかく、ここまで過剰にどうでもいいことを描くんだったらニコルソン・ベイカー的なものがあるのか、何かしらの落ちがあるのだろうな?と思ってしまうのにね、結局はジョイスの顔がテカテカしていたっていうところに行き着くだけだったんだったらっだったらだ熱の後遺症で中の人の脳の回路がショートしているようだ、まだ微熱が続いているから、アンソニー・ホプキンスじゃなくてヘミングウェイだったかも忘れたけどジョイスの顔がテカテカしているのなら「ジョイスの顔はテカっていた」で十分だし、それ以上書いたら上半身裸のヘミングウェイが自分の頭をぶち抜いたショットガンで俺の頭をぶち抜いてきそうだけど「日本には脂取り紙ってのがあって、それでジョイスの顔のテカテカを吸い取ってあげた」ぐらいまでなら許してくれそうで、そこから逸脱して「中の人、ありがとう」みたいな感じでジョイスとロマンスが始まるなんつってもジョイスは凄くアヴェレージな見た目で、小説の神様の映画版を見てすっかり好きになってしまった橋本環奈みたいな異次元レベルの美少女や美人以外受け付けることができない俺としてはジョイスとロマンスに落ちることも、ジョイスとロマンスに落ちたというロマンを書くこともできないし、レシすらも無理だと思われたが、今の話はレシになっているだろうか。


未知の原初的な抱擁が、そして袋と缶詰が、私の存在のに広がる深い孤独と共存している。空腹は遠いこだまであり、食欲のささやきに過ぎず、たとえカビが生えかけていたとしても、鮪の切れ端で満たされるかもしれない。飢餓はつきまとう災害ではなく、不可能なことなのだ。一度開封された鮪の缶詰は、袋に戻るか、手のひらで包まれるかの運命をたどる。

 

とらえどころのない記憶は、遠い星のように明滅し、その不変性は、常に移り変わる私の意識の風景における泥であり、私はその泥にまみれる、育毛用の薬のO型を防ぐやつが見つからない、闇に包まれた記憶の断片は、広大な時間の中で、つかの間の錨となる。

 

日常が見放された絵画の中で、私はうつ伏せになり、現実のありふれた色合いに目を閉じている自分に気づく。口を尖らせ、舌を泥の中になだれ込ませ、原始的な要素と奇妙な交わりをする。喉の渇きという幻の概念は、私の存在という砂漠の中の蜃気楼だ。それは広大な時間の広がりであり、光の中の生活は、私の特異な方法で目撃された、ある生き物の観察によって示された、ベランダにはバーベナが咲き乱れ、赤いタイルを太陽が照らす。

 

鳥と花の帽子をかぶった大きな頭が、私の巻き毛の上に頭を下げている。まきぐそを見つけたのでほうばった。食糞は違法ではない。目は厳しい愛に燃えている。私は彼女に、私たちの助けがどこから来るのか、そしておそらくその時でさえ、時とともに過ぎ去ることを知っている空に向かって、青白く上気した私の目を差し出す。

 

クッションの上に直立し、膝をつき、ナイトシャツを着て、彼女の指示に従って祈る。それだけではない。彼女は目を閉じ、いわゆる使徒信条を口ずさむ。私は彼女の唇を盗み見る。彼女は立ち止まり、再び私を見つめる。私は慌てて自分の目を上げ、間違った言葉を繰り返す。空気が虫の鳴き声でゾクゾクする。それだけだ。ランプが吹き消されるように消える。

 

もはや留まることができないから、湖が凝固するまで偶像が蠢くのを視界が許すから、役立たずの斧を求めて砂肝や燃え盛る炭の間を突く手が止まるまで、そして乾いた血を海に引っ掻かせるまで。手が止まる前はどうだったのか、私が自分自身を引きずって引きずって、できることに驚き、紐が私の首を鋸で切り裂き、袋が私の脇で揺れ、片手を壁に向かって前に投げ出し、決して来ない溝、そこで何かが間違っている、私が彼にしたこと、彼が私に言ったこと。あなたは山と星の下の釘、勝利に傾く黒い十字架を探し求め、もう一度大地の傷の上を這い、よじ登り、手足を焼灼する硫黄を吐き、かつての娼婦たちのように喘ぎ、欲望にまみれた中洲に水を撒き、猛禽の鳴き声が穢れを伴う。

 

眠り、私は目覚め、人の、獣の、あまりにも最後にどれだけ近いか、自分自身に問いかけてみるのだ。それは私のもう一つの資源だ。その鋭い眼光、際立った頬骨、広い額。雨は降っていなかったし、すぐに降りそうにもなかったが、グレーの長いレインコートを着ていた。俺はてっきり最初、彼をヤクザだと思い、周囲を警戒した。肌寒い4月中旬の夜7時半、バーには誰もいなかった。舌が泥で詰まることも起こりうるが、対処法はただひとつ、舌を引き寄せて吸うか、泥を飲み込むか吐き出すか、どちらかひとつだ。

 

男はカウンターの端の席を選び、コートを脱いで壁のフックに掛け、小さな声でビールを注文し、それから静かに分厚い本を読んだ。その表情からは、完全に読書に没頭しているように見えた。30分後、ビールを飲み終えると、彼は手を1、2センチ上げてバーテンを呼び寄せ、ウイスキーを注文した。ヤクザ風の割に本物の本読みだと思った。そこそこの本読みは

 

「偉いわねー」


とか言われたり、なんていうか読書していること自体に関心をもたれる。そうでもないか。言いたいのは次だ。本物。これはただ引かれる。生活のありとあらゆるものを無視して読書に没頭するのだから当然だ。生物学的にかなりおかしいことをしている。突然、私たちはサンドイッチを交互に食べ、私は私のものを、彼女は彼女のものを食べ、私のかわいい女の子は私が噛む、彼女は飲み込む、私のかわいい男の子は彼女が噛む、私は飲み込む......お札がいっぱいになっても、私たちはまだうごかない。