行方不明の象を探して。その231。

彼は利己的だと思ったこともありました。感情はほんの一部の人にしか持たず、彼はほとんど無感覚でした。でも、その少数の人々に対しては、彼は優しくも厳しくもありました。

 

「私はたくさんの本を読んできた」


と彼は自慢していましたが、AI時代にそういう蓄積型の知識は不要になるって思っている人には何の効果もありませんでした。彼は巨大な他者との対話から多くを学び、その経験が彼の存在を強固にしたのです。しかし、ある日、彼はまた不幸に陥りました。彼の周りには円が描かれ、最終的には自分だけが残されたような気がしていただけなのですが、実際にはそのぐらいのリアリティがあったというわけで、彼は街に閉じ込められてしまったから、困難に立ち向かう彼の冒険は続くのでしょうか?


彼が去る通りの角で見た短いビジョン。女性と子供用の馬車。そして、その影に消えていく瞬間。これは彼の不思議な旅の一部なのでしょうか。


「あなたは誰ですか?」

 

その問いかけは、彼の自己発見の探求と共鳴し、より大きく響いた。自分が昆虫であること、曖昧な地域から来た生き物であることが明らかになり、アイデンティティの謎が何層にも重なり、彼の理解力の構造そのものに挑戦することになった。彼は自分の名前が本当に聞こえたのかどうかわからず、ためらった。他の人たちが静かに去っていったので、彼はその距離と、彼を取り囲む無関心と格闘することになった。その呼びかけは、彼の心の広大な空虚の中で反響し続け、中の人は咳が出ていないのにも関わらず寝つきが良くなるという理由からコデインを乱用してコデイン中毒になった。

 
この部分は、創造と消滅の循環的な性質を掘り下げながら展開し、目に見えない本質に支配された永遠のリズムを強調し、象徴はさまざまな段階を経て進化し、創造的な自然の段階、ジェンダーの出現、物質的存在への人類の降下がいけないわけで。自分自身の影然り、悪霊のような姿然り。僕は逆さまになり、寝台の枕元にある入り口のドアに駆け寄った。鍵穴しかない真鍮の金具に顔を近づけた。しかし、真鍮の金具の表面は僕の顔をとらえることはなかった。ぼんやりと黄色い光を反射しているだけだった。
 
形のない日々の移ろいに何も疑問を持たないアホは自分の時間的巡礼のリズムを解明する。デジタルゲームや文学の世界に身を投じたり、ネットフリックスのドラマの仮想風景を彷徨うなどの虚しい活動に没頭することで、主人公は時間的ズレという独特の感覚を獲得する。日々の刹那的な追求の中で、ただひとつの真実が存在する。それは、容赦ない時の流れであり、俺がいつも言う時間があったら小説を書く、とか絵描きになる、とかって言っているだけのやつのどうしようもなさであり、だったら自分には何の能力もないのでその事実から逃れているだけですって認めてもらった方が楽である。

 

主人公は、ストイックな世捨て人や無気力なニートといった従来の型にはまることなく、自給自足へのこだわりを料理という形で明らかにしていく。賑やかな商業の縮図である近くの商業大通りへの旅は、主人公の孤独を家庭の具体的な果実で彩る、時間的な没入の旅へと変貌する。オブローモフ的無気力、無関心の中で文学の講義めいたことを始めることが特徴である。学問の旅にありがちな実存的動揺がないため、主人公の大学時代は静謐な絵画のように展開する。

 

彼は倦怠の迷宮を蛇行しながら進み、社会的期待の不協和音に包まれる中、大学の学位を取得するという目立たない結末で締めくくられる。中退するよりはマシなのだが、学費を払えば卒業できるFラン学校だったので、あまり関係ないどころかFラン過ぎてまだ高卒ぐらいのほうが良かったと後悔しておるようであーる。

 

孤独の崖っぷちに佇む素朴な住まいの中で、主人公は現代のコネクティビティの意味を考える。人里離れた住居とアマゾンの宅配便が遍在するという変則的な並置の中で、主人公の孤独はデジタル・ユビキタスの色合いを帯びている。田舎暮らしから連想されるステレオタイプな隠遁生活からかけ離れ、主人公の存在は、地理的遠隔性とデジタル相互接続性の調和のとれた共存の証となる。

 

山岳地帯にあるゴーストタウンの中に佇む古代の住居に抱かれながら、主人公は、ミニマリズム、孤独、そして社会の期待の崖っぷちで生きる人生の現代的なリズムの糸を織り交ぜ、表現しようと思っているだけで、「やろうと思っています」って言うだけのぶっ殺したいやつみたいなやつの典型みたいなやつなので、表現する努力も何もしない。機材を買いましたなんつっても全く本気でやる気がないような安っぽいものばかりを集めてクリエイターぶっている最高に殺したいやつである。

 

先祖代々の住居の年季の入った材木は、深い静寂の証人であり、木の葉の柔らかいざわめきと時折吹く山風のささやきだけがそれを際立たせている。孤独の聖域に安住する彼は、静かな自然の旋律の中に難解な何かを見出そうとしているが、中身がぺらっぺらのどうしようもないやつなので、そいつが仙人のような暮らしをしようが修行をしようが何も変わることがないのであった。

 

ひっそりとしたなんちゃって仙人住まいの中で、彼は内観の輪郭を探りながら、影と対話する。彼の住まいの本棚は文学書の重さで膨れ上がり、その一冊一冊が、想像力の聖域の中で身をもって体験した航海の証となる。読書という行為は、超越的な体験へと変貌し、現実の時間的制約から、書かれた言葉によって作り出される無限の領域へと旅立つのではなくて、大体がふもとのブックオフの100円コーナーで買ってきた本であり、名著もあるにはあるのだが、ただのポーズである。誰に見せようとしているのか?こいつは何のために生まれて来たのか?一人一人に役目があって生まれてきているというような宗教的ドグマを俺は信じない。確実に何も持ってないし役目も持っていないただのセックスの所産の肉みたいな人間が大量にいるからだ。

 

山間部の孤立した物理的な隠れ家と、世界的な相互接続性のデジタルな抱擁という二律背反の中で、現代の隠者である主人公は、スクリーン上のピクセルの明滅によって促進される一時的なつながりに慰めを見出しながら

 

「俺だって時間があったら小説を書くのにな」


とぼやき続けている。こいつに時間はありすぎる。仕事をしながら休日や休暇を返上して執筆をしている人たちがいる。そういう人たちに時間と寿命を分けてやるべきだ。こいつは生きている価値が無い。

 

時折、近郊の町に出かけると、こいつ、じゃなくて彼は人間性を垣間見る。商業地区の住人たちとの出会いは孤独を乱し、静かな池のさざ波のような儚いつながりをもたらす。そんな儚い繋がりがさらに自分は何でもないという認識を深めているはずなのにそれを一向に認めないままかなり良い歳になっている。20代中ごろぐらいまでならギリギリこういう勘違い生活は許されるだろうが30代後半、40代後半、というか中年だったらもう終わりである。

 
寝台の脚を探した。布団をめくった。着ていた着物の帯を解いて裏返したりもしたが、自分の名前はおろか、名前のイニシャルすら見つからなかった。僕は唖然とした。僕はまだ未知の世界の未知の僕だった。自分が誰なのかもわからない。そう考えているうちに、ベルトを引きずったまま、果てしない空間を垂直に落ちていくような気がしてきた。腹の底から湧き上がるような震えとともに、僕は自分をコントロールできなくなり、大声で叫んだ。