よく歩く女には“名器”が多い。

mimisemi2007-03-30

そういえばid:MiyAzyさんのブログをバーッっと読ませていただいたんだけど、俺が前に絶賛してたバカの壁に対して「偏見だらけ」という感想が書いてあった。これは全くその通りなんだけど、なんでバカの壁が批判されるのかというと、ベストセラーだからなんだよね。売れたものとかカリスマ的な人とか(別に養老さんのことではない)になると、批判が出やすい。例えば理論が崩壊しているだの、一貫性が無いだの、なぜかパーフェクトを求められちゃう。「なんでこんなのが売れてるの?!」っていうことでまた読む人がいて、で、批判する人もいる。ただこれが書店の隅にひっそりと置いてある本だったら批判も出ない。なにしろメディアにも取り上げられないし、ましてや流行語になんかなったりしないからね。こうなるともう本自体が論語や釈迦の教えみたいなクオリティを求められて、必ず批判されるのね。でもこれってのはおかしくて、まず最初に考えなきゃいけないのが、養老さんが言っている「ただの年寄りのエッセイ」というところなんだよね。だから完璧なわけがないし、おじいちゃんのお話的なものがあるのも当然。なにしろ本人がそういうつもりで気兼ねなく色々な問題を取り上げて書いているだけなので、例えば脳の専門家が専門のこと以外に口を出さないべきみたいな類の批判は全く見当違いなんだけど、なんでこれが発生するかというと、ベストセラーだからなんだよね。あと理論立ててここがおかしいだのっていう粗探しも全く意味が無い。もっと全体からニュアンスをつかめばいいだけの話で、養老さんのエッセイは理論書でも哲学書でもなんでもない。そもそもベストセラーになるのがおかしいんだよね。養老さんもありがた迷惑だったに違いない。後の何冊かで「私の言ってることが正しいなんてなんて思われたら大変だ」って書いてるけど、まさしく
その通り。なにしろ本を読む上で共感と同意は全く違うところだし、なにより本なんてシロ・クロの問題じゃないのに。思うに本にシロ・クロを求める人って主体無くただ本に身を任せてる人が多いんじゃないかなー?って思うのね。読むことよりも考えることが大事なのに、書物ってのを絶対視しているような傾向があって、例えば本なんて人が書いているもので間違っている部分なんて考えようによってはいくらでもあるのに、そんな人が書いたものに正当性を求めるなんてことがそもそも矛盾してるわけよ。専門家以外が専門のことについて書いちゃいけないんだったら、俺のブログはもうダメね。他のブログも時事やらなにやらに関して意見を書いていたとしたら、もうそれはダメってことになる。なんかね、「所詮、歌手が書いた政治学の本」とか「元タレントが時事問題について語ってるだけ」とかさ、それで何が悪いの?って思っちゃう。いや、歌手が書いた政治学の本があるかは分からないんだけど、別にその人の意見を思うがままに書くことに何の問題があるのかさっぱり分からない。それが例えば教科書だとか、何かの教材になる重要なものに関して、主観丸出しなことが書いてあったら問題だと思うけど、大半の本ってのは、そんな完璧なことなんて求められるわけがないでしょう。だって人が書いたものなんだから。唯一神がいたとして、その唯一神が全てを見通して書いたことだったらそれはあってるかもしれない。それこそバイブルでしょう。ただ普通の人でも学者でも、バイブルを書いているわけじゃない。だから間違ってて当然だし、時代によって風化したり、もう機能しなくなるものだってあるに違いない。そんなことより読者が必要なのって、仮に悪書でも良い部分を見つけるとか、それこそ淀川さんの映画鑑賞じゃないけど、どんなクズ映画にもいい部分ってのはあるし、別にそれで十分だと思うんだよね。で、気に入らなかったら売ればいいんだし。自分の意見と真っ向から反対するものとか、読んでいてイライラするものに関しては、個人的な感情でいくら批判してもいいと思う。ただなんで脳の専門家が書いたエッセイがベストセラーになったってことで目くじらを立てる人がいるんだか全く理解できない。ましてやそれに完全性を求めるなんてナンセンスでしょう。だからやっぱり弊害はベストセラーになっちゃったってことなんだよね。俺は養老さんの駄弁りだろうが、この人の文章とか、なんつーか落語家の話のようなリズム感があって、読んでて面白いんで、もうそれでいいと思うんだけどね。完全性を求めるってことで、養老さんの書いてる原理主義者の危険性じゃないけど、例えばマルクス主義にしても、なんでマルクス主義が馬鹿げてるかっつーと、マルクスが書いたものがバイブルとなってしまっていて、人々の考えも無く、ただその本に書いてあることが正しいので実行しろというこということなんだよね。人はそれこそ脳という考える器官を持っているんだから、本に対して考えるってことができるのに、なんでそれを鵜呑みにしちゃうのか。全く分からん。だから俺は基本的に宗教は信じないし、ましてや原理主義的な宗教は全く信じられない。絶対的な考えが例えば宗教戦争を生んでたりするのもいい例でしょう。だから神なんていないんだから、とりあえず神の名の下に人殺しや迫害をするのはやめようねって気がつけばいいのに、もう狂信的になっちゃってるから取り返しがつかない。で、俺は全体的に見て養老さんの本はそんな批判するほど悪い本だとは思えないので、批判する人の感覚が分からないわけ。全く同意できないとかいう理由で批判しているのならいいんだけど、「売れた本の割に・・・」とかいう理由で批判するのはちょっと筋違いだと思うんだよね。例えば俺はゴダールの中国女が好きだけど、あれがリバイバルで物凄い興行成績を誇ったら、それこそ批判されまくりだろうね。そんな興行成績だのベストセラーだのっていうのは無くして鑑賞しなきゃいけないのに、どうもついて回るんだよね。まぁ俺は逆でベストセラーなんて絶対買わなくて、ほとぼりが冷めてから中古とかで買って読んだりすることがあるんだけどね。だって嫌でしょ。読んでる最中の本の広告が新聞とか電車の中吊りにあったら。ところでバカの壁にしたって、他のにしたって養老さんの本で一貫して貫かれている、自分の脳で主体的に考えろっていうので十分じゃんね。バカの壁 批判で検索すると、チマチマした批判がいっぱい出てくるのが興味深い。で、大半が「200万部を超えるベストセラーと言われる本書だが・・・」といったようなものとか、細かい部分を出してきて「意味不明である」とか「もっと説明がほしい」とか「最初に言っていることと矛盾している」だのと書いてある。なんで話の大枠と関係ないところにここまでこだわるのかさっぱり分からないのと、説明がほしいんだったら、なんで自分で考えようとしないのか、それもさっぱり分からない。だから俺はこの手の人は想像力が欠けている人で、本に絶大な期待を持っている人たちなんじゃないか?って思う。それこそショーペンハウエルが書いてるような、いろんな書物からの寄せ集めで出来ている学者だの知識人だのっていうレベルなんだよね。養老さんの考え方はユニークだけど、まず考えなきゃいけないのは、養老さんが脳の専門家で、極めて本人の主観と経験から色々な物事を語っているわけで、それは知識や書物の寄せ集めでは無く、養老さんの思考の結晶なわけで、「あーそんな考え方するのね」とか「そんな見方したことなかったなー」っていう意味での目から鱗なんであって、革新的な理論書ではないわけよ。昨日の自分と今日の自分は全くの別人であるとか、ある種の哲学だと思うんだけど、これを意味不明の一言で片付けちゃうなんて、はっきりいって想像力がなさ過ぎる。ホームズが現場検証をしているときに、完全に犯人の頭になってものを考えるということをするんだけど、んじゃ俺らは養老さんのものの考え方を想像して理解するべきなんじゃないかって思うわけね。これがあってる間違ってるなんて話をしたら哲学なんて成り立たないし、つまらないでしょう。人の考えや観念や主観が書かれたものがなぜ面白いのかっていうと、その一つは想像力への刺激でしょ。著者が何を考え何を思ったのかっていうことを想像したり、理解しようとするときの頭への刺激。でも「そんなのおかしい」の一言で片付けちゃう人ってのは、相当貧相な人だと思う。で、下手にいろんな知識があって「ここの解釈は何々的に言うとこうであり、これは矛盾している」なんていう批判をするやつは余計にタチが悪い。思うに批判的な批評家の大半がこんなんで、だから昔から俗っぽい批評家は嫌われてきたんだろうね。それはゲーテも詩の中で書いてたと思う。卑しい人だとかなんだとか、ゴミ以下だとかなんだとか。思想とか物の考え方なんて、物凄く抽象的なもんで、それは絵画とか音楽と同じなわけ。「ここの音がこれとぶつかってるんで直したほうがいい」とか「展開がなっていない」とか「短絡的過ぎる」とか、こういうこと言うやつって大抵下手に音楽理論とかかじったわりに感性の無いしょうもない連中でしょ。音がぶつかってるだの展開だの理論だのってことより、てめーが音から何を感じたのか、何を思ったのかってことが重要なわけで、理論やらコンセプトやコンテキストなんて二の次三の次の問題なわけよ。だから哲学なんてその辺に漂ってる煙とか匂いをつかもうとするぐらい抽象的なことで、理解には想像性とか感性が必要でしょう。そんなのを抜きにして全部、数学とか科学みたいな理論で片付けようとするからダメなのよ。たぶんこういうことにうるさい人って絶対俺の文なんて読まないだろうね。まぁそもそも多くの人に読まれるに値するものかどうか分からないけど、こういうきちっとしたことを好む人にとって、俺の文は苦痛そのものに違いない。文がおかしかったり、前後がおかしかったり、意味の使い方や解釈が間違っていたり、内容が重複していたり。なんつーかアメリカ的なのよ。アメリカンエッセイよ。すげー完璧を求める人。俺がアメリカのエッセイが嫌いなのは、書き方とか形式ばっかりを重要視して、んじゃ肝心の内容はどうなのよ?ってところに目が行ってないような気がするのね。書き方が雑でも言っていることが鋭かったり面白かったらそれでいいのに、書き方が違うとか、順序立てが間違っているとかで評価しない。っつーか前のセッションの例のライティングの先生のことなんだけど。まぁ一言で言うと理屈臭い人たちね。こういう人って物事の真髄を見極める力ってのが本当に低いと思うし、恐らく何かを感じるとかっていう感覚的な部分の能力が相当低いんだと思うんだよね。でも自分たちは一端のやつで頭がいいと思ってる。ロジカルな思考が全てみたいなね。で、考え方の遊びが無いんで、書いてることとか言ってることがあってたりするんだけど、全然面白くない。俺がすげー嫌いって思う連中のタイプね。こういうタイプの人が養老さんの本を読むからイライラするんだよね。だって養老さんの本は思考に遊びがあって創造性があって、オリジナルで主観的な考えが入ってるんで、理屈臭い連中には絶対理解できない。で「居酒屋で駄弁ってる老人の小言」とかって評価をするわけ。つまらない人たちだよね。たぶん養老さんもこういう連中をバカの一つとして捉えてるに違いない。いや、分からんけどね。やっぱ読書をする人って、やっぱ理屈っぽいやつらが多いんだろうか?俺の左脳は薬とか仮眠とか昔の深酒とかで完全に溶けてるんで、いろんなことを右脳で理解してるからフレキシブルなんだと思うんだけど、理屈っぽいやつは左脳が全てなんで、だからつまんないやつらなんだろうね。こういう言い方をすると脳のことも分かっていないのに右脳・左脳を例えに出すな!みたいなことを言ってきたりする人が理屈っぽい人ね。俺が言いたいことの焦点は想像性を働かせることで理解することとか、文と文の隙間を自分で埋めてみたりするってことが重要ってことを言いたいのに、あまり関係の無い例えの右脳・左脳のくだりを医学的に間違ってるだとかっていう人たちってのが理屈っぽい人ね。こういう批判は楽だからね。んーちょっとパラダイムが変わって来てるなぁー?とかさ、こういう部分で勝負しようとすんの。パラダイムが変わっても、その人が言いたいことはなんだ?って考えるのが聞き手の役目なのに、全てを言葉に求めちゃってる。これは完全な想像力とか理解力の欠如だと思うのね。養老さんの文字から全てを学ぶなんて危険だみたいなことと似てると思う。まぁ似てなくてもいい。あのね、文章力だの知識だのなんていうのは何か物事を言うことに使うただのアウトプットの手段なんであって本質じゃないわけよ。そこを全て文章力だの知識だのに本質を求めるなんて、ある意味科学でしょ。でも考えなんてのは科学じゃない。幼稚園児並の言語力と文章力しかない人でも、物凄い名言や本を書く可能性なんていくらでもある。ってのは言語力や文章力なんてただのアウトプットの手段なんで、本質の思考という部分には、そこまで影響が無いからね。文章力に依存する思考なんてインチキだね。だって凄い思考を簡潔に誰でもわかりやすく書くのが書き手の仕事でもあるわけでしょ。だから前にも書いたけど、やたらめったら難しい例えだの難しい言葉を並べてきて、それっぽく書けばそれっぽく見えるんでそれっぽさに全てをかけてる人とかさ、中身がスッカラカンで、その文章に意味が無かったりするわけ。ソーカル事件ってのがあるんだけど、これが似てるかもしれない。権威付けに数学用語とか専門的な科学用語を不適切に使う衒学的な哲学者を批判するためにソーカルっていう学者が「それっぽい」意味の無い文章を書いて権威のある学術誌に送ったら審査を通って掲載されちゃったっていう事件。まぁソーカルは科学用語がでたらめに使用されているっていうことに関して批判したんであって、別に衒学的な部分を批判したわけじゃないんだけど、まぁ同じことって捉えても別にいいと思うんだよね。ってのはやたらめったら分かりようが無い固有名詞とか、変な難しい例えとかを持ってきて難しく見せて権威付けようとしている学者っていっぱいいるでしょ。だからこういう回りくどいやり方をしてる本って一切読みたく無いし、それが偉大な哲学者とかって言われてても、俺は眉唾なんだよね。そもそも崇高な思想を簡潔に述べるのが著者の仕事でしょ。ショーペンハウエルの著作と文体にも書いてあるけど、ショーペンハウエルは俺の嫌いなこういうタイプの連中に対して痛烈な批判をしてて痛快なんだよね。俺としては。ここでも俺がショーペンハウエルの考え方を取ってきて受け売りで書いてるんじゃなく、俺が感じていたことをショーペンハウエルがもっと高度な次元とちゃんとした文章で書いているので、俺としてはこの考えに同調できるっていうわけで、ここには確実に俺っていう主体がある。で、本ってわけ。まぁで、こういった本が俺の考え方の補強になったりするんだけど、メインにはならない。だってメインは俺だもん。でもバカは本に全てを求めて、受け売りのコラージュみたいなので学者ぶってるわけでしょ。あきれるよ。マジで。ここもショーペンハウエルが思索についてってので痛烈に書いてるので俺としては痛快なわけ。で、あ、この神経質そうなおっさんは俺と似たような考えのことを書いてるかもしれないって興味を持って他のショーペンハウエルの著作もディグろうと思うわけね。バカは権威だの偉大な哲学者だのってことで、何かにすがりたくて読書するでしょ。これが全くバカバカしいし、ニーチェが書いてるような、悪い読者の典型でしょう。ザッっと読んで、部分的な部分だけ述べてあたかも知ったかぶりをするやつっていう。受け売りだし理解も浅いし最悪なの。こういう連中が遊びのある本を批判したりするわけ。権威が大好きでご本が大好きだから、適当な本とかベストセラーとか俗っぽい本を許さないわけ。だって自分でインテリとか学者とかって思ってるから。で、お得意の粗探しが始まって、頭良さそうに解析して批判するわけ。まぁ一種の自己満足かしらね。自分はもっと頭がいいんだぞっていう。あれかもね、FF7に出てくる、あのセフィロスのオヤジみたいな感じかな。あのマッドサイエンティストね。セフィロスが「コンプレックスの塊のような男だった」って言ってるシーンがあったと思うんだけど、まさしくこういったペダンティックな知識人とか学者ってのは、自分自身の思想の主体性の無さを埋めるかのごとく読書に没頭するわけね。すげー悪循環。だから本の中の知識だけで全てを語ってしまってて、机上の空論やらがポンポン出てきて、想像力一切無しなのね。創造力もないから、主体のある思想が出てこない。で、他人の粗探しは人一倍得意。なにしろ寄せ集めの知識だけはやたらとあるからね。すげーバカだよね。しかお死んでも治らないタイプ。右翼とか左翼とか何々主義ってのが好きな人も、たぶんこの手の連中と同じなんじゃない?主体が無いから何々主義みたいな看板を身につけて安心するわけね。思想の居場所が無くてある特定の場所を見つけて活動したいっていう意味だと、現代人みたいな、主体が無いんで何かに依存していないと不安っていう、自分の自由を投げ捨ててまで、なんらかの結束力の強い組織なり共同体に属そうとする群れ意識っつーのかな。日本ってのはこれが顕著でみんなムレムレなわけよ。もう年中ムレてる。で、自ら従属することを結果的に望んじゃってて、で、結局なんだかんだで縦社会と従属社会を容認しちゃってるどころか苦痛の中で享受しちゃってるのね。で、俺としては「苦痛の中で享受している」みたいなのも、昔の本にありそうな表現なんで嫌いなんだけど、なんとなく出てきたんで書いちゃったよ。こういう書き方したくないんだけど。権威とか組織が好きなやつって大抵主体性がないやつらなのよ。例の渋谷の日記の岩村みたいなやつ。こいつクソ典型的過ぎる→岩村←こいつクソ典型的過ぎる。ネットのコミュニティもそうね。自分が無いけど淋しいんでムレようとするわけ。で、匿名で好きなことを書いて自己満足するわけ。好きなことも言えてコミュニケーションとったようなつもりでいれてネットのコミュニティーに属しているという安心感も得られて最高なわけ。悲しい人たちね。もうネット社会ってのは虚構だよね。無の象徴。でもなんだか特に日本の場合はネット社会が現実社会の反映のように思えてきて、となると現実社会が虚構なんで、ネット社会も虚構ってことなのかな?またこりゃ卵が先か鶏が先かみたいなアレになっちゃうけども。だからみんな虚構の中でも一人になるってことを凄く恐れながら不安に駆られて生活してるわけね。で、常に携帯は手放せないと。いやー悲しすぎる。そう思うと俺は昔、色々あったけど、一人でいて全然悲しくないんで、こんな虚構の中に暮らしつつも現実を見定めず思考力を失っている(捨てている)連中に比べたら俺は幸せもんだよな。あー不幸さまさまですわー。今はニューヨークで勉強できて幸せですわー。そういえばさ、解析する連中って、権威を持ってきて「何々によると」っていう思考停止が得意だよね。権威のある他人様に頼るわけ。で、その解析の結果ってのが、全部、ありものの知識からの寄せ集めで、肝心の自分が何を思ったのかっていうのがさっぱりないのよ。だから逆に権威やら知識に依存していない自由な考えを紡ぎ出す人たちの思考が、若干分かりづらくてユニークというのは当然だよね。なにしろそれは他人の意見や知識に左右されない主観から出来たものなわけで、理解するのに時間がかかったり、かなりアブストラクトってのは当然だよね。それはさっき書いたような煙を手でつかむようなもんだからね。だから俺がさっき書いた、別に理論書とかじゃ
無いんだから、見方によっちゃおかしいって思えるのは当然だし、間違ってるってのは当然なわけよ。養老さんに関しては間違っていることが自明で書いてるからね。それを読者が認識しないといけないのに、また思考停止になっちゃって「ここが間違ってる」だのなんだのっていうレベルになっちゃう。音楽や芸術に間違いなんてないでしょ?横伸びブラザーだって間違っていることは一つもないし、俺が作ってるくだらないやつなんかも間違いなんて無いわけよ。まぁそれを理論好きな人は「ここがダメ」っていうのを指摘するんだろうけどね。指摘唯物論じゃないですか。それって。理論に偏った音楽のどこがいいのよ。いつもこのアレでだすけど、ジム・オルークがミルトン・バビットの音楽に対して、机上の空論っていう批判をしたのが象徴的なんだよね。またこれが説得力があるのは、昔のジムはかなりの理論かぶれでゲンオンかぶれで前衛・実験音楽かぶれだったんだけど、例えばこのね、モンド本でのジョン・フェイヒィとの対談でもあるように、簡単に言えば音楽は理論なんかじゃないってのに気がついて、まぁああいうポップ路線に至ったわけでしょ。古い話だけどさ。でも頭の固い学者とかインテリって、ミルトン・バビットだらけなんだよね。ミルトン・バビットでもクセナキス的な創造性があれば最高なんだけど、なんだか理論に偏っちゃってる。そういえば英語学校のインテリ先生が、メディアスタディのアカデミックな領域が馬鹿げてるのは、彼らもまたメディア中毒でメディアを色々研究しては皮肉ったり批判をしているんだけど、こんなのもメディア中毒になってる普通の人となんら変わり無いわけで、アイロニーなんてまったく意味が無いと。だから別に腐ったメディアに対抗するんじゃなく遮断すればいいわけで、メディアの研究なんて馬鹿げてるっていうわけ。実際、メディア系のアカデミックな連中はロクでもないやつが多いらしい。まぁメディア系って一言で言えないけど、まぁマスメディアに関してだと思うんだけどね。この先生曰く、映画業界っていうメディア漬けな環境で何年か働いた後にアカデミックに行ったんで、両方の立場がよく分かるんだそうな。で、結果論としては、両方ダメ、ピリオドってことらしい。養老さんも書いてるように、ああすればこうなるだのっていう考えは馬鹿げてるわけよ。全部が理論やら科学で説明なんて出来ないわけ。仮に説明できたとしても、俺は人間が持っている創造力とか考える力っていうほうがよっぽど重要だと思うんだよね。これが軸で、それを補強したりするのが理論だったり科学であるべきでしょう。もう世の中、科学やら理論漬けだよね。ホント、病気だと思う。恩田晃っていう写真家・音楽家の人のインタビューで、インタビュアーが典型的にアメリカチックな「それだとさっきおっしゃったコンセプトと矛盾しているような気がするんですが・・・?」なんて質問に恩田さんがかなり怒り気味に「なんで全てを言葉で説明しようとするんですか!?もうそんなの病気ですよ!」って答えてるんだけどまさしくこれよ。インタビュアーは恩田さんの持っている世界観だの創作だのってのを全く理解してないので、こんな愚問をするわけ。仮に矛盾してても世界観が掴めればそれで十分なのに、こういう細かい粗探しとか合理性を求めるわけ。近代合理主義なんていうと大げさになるけど、全てを合理性に求めようとするなんて、もう想像力の欠如としかいいようがないね。合理性ってのも一種の逃げ場だからね。合理性っていうコモンセンスに頼ってればとりあえず間違いは無いみたいな。でも人間の観念なんて元々そんな単純じゃないし、多様性のあるものでしょ。だからこそね、ちゃんと考えようってことなのよ。で、話を戻すと、養老さんの本は同時は祭り上げられ過ぎて、ここで俺が否定するような権威になっちゃってたのかもね。本来はかなりインディペンデントなスタンスを持っている思想なんだけど、メディアが大絶賛して、書店には積み上げられててホント、メディアによって権威に仕立て上げられちゃったのかもしれない。でも本来この本が持っているキャラクターってのは、若干偏屈な爺さんが書いた面白い観点から物事を書いた本なんであって、それは文体からも分かるでしょう。決して権威が自分を主張するために書いたエゴイスティックな本ではないわけよ。「偏屈爺さんの話ですがお付き合い願います」みたいな温かいヴァイヴをなぜ感じないかね?それって音楽のヴァイヴを感じない人と同じでしょ。で、マンコだけでヴァイヴを感じて潮吹くわけでしょ。でも潮吹きなんて生物学的に分かってないことなんていっぱいあるわけですよ。でもとりあえずヴァイヴを感じちゃうから潮吹いちゃうわけでしょ。だったらいいじゃない。その感じたっていう部分にフォーカスを当てれば。そこがね、世の中、理屈だけじゃダメってことなのよ。ヴァイヴを感じて潮を吹く事に理屈も何も無いのよ。オナニーが気持ちいいことに理屈もないわけ。逆に思うのが、こうやってしょっちゅう理屈を出す人って、必要なところで理屈を出さない気がするのね。それこそ私利私欲ということが
いかに醜いかってことを客観的に考えない。それこそ倫理的な理屈でもいい。なのにこういう肝心な部分には理屈が無いんだよね。全部、机上の中の理屈で、現実社会での重要な部分での理屈ってのは欠けてたりするわけ。これも養老さんが書いてる「昔、大学に行くとバカになるというのが常識だった」ってのと似てるかもね。全部が机上のことなんで、実体を伴うことに関してどんどん弱くなるっていうかね。倫理的な理屈を考えりゃ誰だって人殺しが悪いことだとか、人を傷つけることは悪いことだとか暴力はいけないことだってのは簡単に分かることでしょ。それこそ過去の小難しい哲学やら理論書を理解して理屈をグダグダ抜かすぐらいの脳があるんだったら、こんな単純な倫理や道徳を理解できないわけが無い。でもねー、なんだか知らないけど理解しないのよ。出来ないっつーか。で、いらないもんばっか買って散財して女買って車買っていい家住むわけよ。散々机上では理屈をこねくり回すくせに、実生活は女をこねくり回してばっかりだったりして、どうしようもないわけよ。もう欲にとらわれてるわけ。もっとね、知識人なり学者ってのがちゃんとした人間性を持ってればいいのに、もう欠けすぎね。だからホント、いい学者なり知識人って本当に少ない。皮肉だよねー。ホント。これがもっと露骨に顕著なのが政治家ね。もう愚人政治もいいところよ。もっとも机上の理屈すら出来てないリアルなとんまが政治家に多いみたいで、もう希望がありませんな。マジで。ちなみに本に対して音楽に対して映画に対して好き嫌いがあるのは当然で、それはいいと思うんだけど、あってる間違ってるってのは、ちょっと筋違いよねってことね。あ、ちなみにこれはid:MiyAzyへの批判ではないので。好き嫌いがあって当然です。

ところで今日は朝から鬱とは認めたくないけど、無気力が凄まじかった。買い物やランドリーに行こうと思ったんだけど、体が動かない。起きてからは、なぜか起床後にShadow Boxingという
ドラムンベースの曲のつくりがあまりに簡単なので、自分でも作ってみようと思って作ってたんだけど、作ってみるとやっぱただのループでつまらなくて、それ以降、やる気のなさのループが襲ってきて大変でした。食欲が無いんだけど、無理やり飯を食って、Youtubeでごっつ見て無理やり笑った後、無気力のどん底の中、横になっていたら深い眠りについてしまい、起きたら夜中の1時でした。寝たのが10時ぐらいだったんだけど。で、今日、寝れるのかしら?無気力のどん底で作ってたShadow Boxingは近々、アップします。朝からっつっても、起きたのが4時で、
また寝たのが10時なんで、普通の人に例えると、昼にまた寝ちゃったみたいな感じです。今は寝たんで若干やる気があります。例えはこれをアップしたりね。

愛国の作法 (朝日新書)

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Readings By Jack Kerouac on the Beat Generation

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Reads on the Road

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