動物化するポストモダンについての覚書。

mimisemi2008-05-05

東浩紀が「動物化するポストモダン」の中でまぁ俺の勝手な解釈だと凄まじく手痛い批判をオタクたちに浴びせたわけだけどっていうのは別に東本人に批判の意図があったかはともかくとして、俺にとっては物凄いアイロニーに見えたってことで、ちょっと簡単に思ったことがあるんだけど、思うに脱政治化・脱社会化というのもこれの構造と似たようなもので、例えば人々が政治に関心を持たないのは、その近代ツリー型世界では保たれていた大きな物語が無くなったというよりは、まぁむしろ物語そのものの崩壊と腐敗と人々の大きな物語への不信感によるものだとは思うんだけど、まぁそこで昔の左翼とオタクが似たようなものっていう分析も凄く気に入ったってーのは基本的にダメ左翼もオタクもオナニー好きということなんだよね。自分が必死にコミットできるすがりつくことができる何かってのを自分の実存の虚構を生めるために必死で、それが昔はマルクス主義だったのが、今はそれが崩壊して、似たような存在というのがオタクカルチャーという風になっているんだと思うんだけど、別にこれは日本に限ったことではなく、日常の虚無感を満たしてくれる何かにすがりたいという気持ちは特に今みたいな時代を生きる人間だったら誰しもが持っている生きるための欲求だと思う。


そういう意味で世界的にも過去の左翼は実際は政治的でもなんでもなくて、実存の虚構を埋めるためのオブジェクトとしてのイデオロギーにすがっていただけで、まぁ本質はオナニーだったわけだけど、この本の中で言及されているジジェクの引用のコジェーヴスノビズム経由のシニシズムじゃないけど、こういうパラダイムで物事を語ってしまうと全てが簡単に片付いちゃうっていうのは、基本的にどの時代でも人間は自分の日常の虚無感を埋めるのに必死で、まぁ現代みたいな飽和化したような社会では虚無感が露呈しやすくなるってーのは生存のための必然性というのがそこまでなくなってきていて、シニカルになっている分、余計に生きる意味が分からなくなっているんだよね。まぁこれはジジェクが散々言っていそうなことだけど、でもそうなると現代も糞も無くて、人間の本質ってのはこんなもんだってことが言えるわけで、基本的に人間ってのは自分ひとりじゃ何も出来なくて自分の実存の虚構を埋めることもできないから、その正当性とか合理性はともかく何らかの自分の欠落を埋めれる対象を求めるわけだよね。それが人によってはセックスだったり消費だったり金だったり名誉だったりするわけだけど、基本的にこの構造で言えば全てが同じようなもんで、問題は大きな物語とその没落とかではなくて、元々人間ってのが自己中心的な生き物で、物語というのも基本的にはそういった自己中心的な生き物が群れることによって形成された大きなオナニーの対象でしかないわけだよね。その形態が変わっただけで、基本的に近代だろうがポストモダンだろうが、それは変わらないと思うわけだけど、その違いってのはその対象がある程度の公的なものなのか私的なものなのかっていうことだけだよね。公的なものになるとそれが大きな物語になって、それが政治的なパラダイムになったりイデオロギーになったり宗教になったりするわけだけど、それが私的にになればカルトになったり暴力的な政治結社になったり、それがもっと私的になるとオタクになったりするわけだよね。でも俺も散々ここで書いてるように、クリエイターも学者も秋葉系のオタクも本質的にはどれも一緒なんだよってのは自分のアブセンスを埋める何かを欠乏して、それにオブセッシヴにコミットしていくっていう態度はオタクのそれと全然変わらないわけ。あくまでその向かうオブジェクトが違うだけで構造は一緒。


で、何が書きたかったかっていうと、まずそういった物語の私的化が進めば進むほど公的なものへの動員が難しくなるってーのは、基本的に私的なことばかりにコミットしているやつばかりが増えるので、公的なものが保持されないわけで、ここで共産風に団結だのなんだのって言ったところで、むしろそんなものに興味が無い連中が増えているわけで、そういった意味での脱政治化は必然なわけだけど、さっきも書いたように本質的に政治が為されていた時代なんて無かったと思うわけってーのは過去にあったような大きな物語である、まぁイデオロギーだったり合意形成のプロセスであったりしたわけだけど、暴論っぽく言えば、あくまで大衆はポピュリズム的なものに動員されていたり、もしくはその要素がドグマティックなものだったり生得的なものであったり(家族からヘリテージされた概念だのなんだのっていう主体の働きが必要ないようなもの)したわけで、まぁ宗教なんてのがいい例だけど、本質的に公的だった人間なんて一部のエリート以外いなかったわけだよね。それ自体は無駄でも政治的に意味があるのでやるとかっていう、まぁこれが公的とは言い切れないんだけど、でも基本的にそれはまぁ今風の言い方をすれば国益を基準に考えることだよね。本質的な意味では。んじゃあそんなことを考えながら生きている人間がどれだけいるか?っていうと世界でも稀だと思うんだよ。もしくはアメリカみたいに政治に興味があるとか熱意があるとかって見えるけど、実はその政治へのコミットの動機が極めて私的なものであったりさっき書いたようなアブセンスを埋めるためだけのものだったりして、それは極端な話、自分の不平を政治にぶつけるだとか、自分の欲求を政治にぶつけるだとかっていう行為は全然公足りえないんだよ。全体を俯瞰してどういう行動や選択がベストか?っていうのが考えられないと政治的なものっていうのは立ち上がらないっていう意味でやっぱり大半の政治ってのが私的なものの塊みたいなもんなんじゃないかなって思うわけ。まぁアメリカなんていい例だよね。石油利権だのさ、まぁ利権で言えばまぁ日本もそういう私的なものに政治家がベッタリでしょ?それはどこの国も同じかもしれないけど、まぁそれは普段から書いてるようにその構造自体が腐敗をもたらすような形をしているので、そういった状況というのがある意味で必然ということはあるかもしれないけど、まぁ乱暴に書くとね、アメリカの大統領だってブッシュみたいに自分のコンプレックスを埋める為にコネで大統領になったようなさ、そんなのが国を率いてるわけだからさ、私的も私的よね。観念レベルでは美少女に萌えているオタクと全然変わらない。昔の暴君とかも全然こういうレベル。支配したいっていう欲が主な行動の動機になっているっていう、オタクの欲と同じようなレベルなわけ。チンギスハーンとかもそうだね。あんなやつオタク以下だよね。まぁ日本の戦国武将とかも大体そんな感じだったんだろうね。


で、まぁさっき書いたことの補足だけど脱政治化しているので国民を政治に動員できないという話だけど、本質的な政治への動員なんて不可能なんだよ。リアルポリティクスならある程度は簡単かもしれないけど、本質的なロングタームの政治としての政治なんて人々が理解できるもんじゃないし、それは過去もそうであったように、一部のインテリによって政治学みたいなものが形成されてきたり、もしくは政府的なもののブレーンになってたりしたわけだよね。で、当然そのブレーンが考える政治ってのは大衆を動員する方法とかってのもあるわけじゃない?そこに大衆を政治的にするっていう意図はほぼ無いといっても過言ではない。あくまで国を動かすための一方的な合意形成を押し付ける形での政治というものしか為されてこなかったと思うし、人々が合意だと思っていることは実際は何らかの形で何かによって形成された虚構にしか過ぎないんだよね。チョムスキーの言う8割が馬鹿で、
残りの2割が頭が良くて、その2割の中の1割が物事をシリアスに考えるような人間で、残りの1割が何かを支配する側になるっていうのが本当だったとすれば、政治なんて成立しないんだよ。だって政治ってのがその支配の1割によって為されるものなんだったとすれば、そこに国民の合意やら政治的意識なんて介在する余地が無いんだよね。あったとしてもそれは常に少数で、広くは浸透しないものだったりするんだよ。でも例えば児童ポルノ規制みたいな話になるとオタクが盛り上るのは、それが彼らの実存に関わることだからだよね。それは彼らが公的なものに関心を示しているのではなくて、あくまで私的な領域での話なんであって、その法案ってのが彼らの個人的領域に露骨に侵略してくるものだから関心を示すし反対をしたりするわけだよね。でも逆に例えば盗聴法だのアメリカでの愛国法だのっていうことに関しては一部を除いて特に表立った反対ってのは無かったでしょ?もっと凄まじいムーブメントになってもいいのでは?っていうものに関して反応が無いのは、基本的に国民ってのが政治ってのを本質的な意味で理解してないからなんだよね。表面上ではどうってことないように見えるけど、見極めれば凄まじい悪法だなんてのがあるわけだけど、そんなものを気にしてるほど普通の人ってのは時間がないし、ルームメイトの言わせれば政治だの社会だのなんてものに興味を示すことが出来る人間なんて暇人だけだっていうことなわけで、まぁ本人はその時間があるときにパリス・ヒルトンのドキュメンタリーとかをテレビで見てるんだけど、まぁこんなものだよね。政治云々語るなんて暇だねぇーってことが言えるような風潮ってのも容認されているような気がするね。例えばルームメイトを政治的にするのがほぼ100パーセント不可能なように、私的なオタクを政治に動員するのなんてほぼ不可能ってーのはどういうことか?っていうと私的なことで動いている人間に政治なんて出来るわけないってことで、だから俺の勝手な憶測だけど過去も本質的な意味で人々による政治なんてのが行われてた時代なんて一切無かったんじゃないか?って思うわけね。だから私的なことで動いている政治家もルームメイトもオタクも行動の動機付けが私的な欲というという意味ではそれはすでにもう政治からは程遠いものなんだよ。


だから私的化だのシニシズムだのってことで物事を語ると全てこれで話が片付いちゃうわけね。概念のレベルでの政治や社会ってのがありえなくなるでしょ?いや、あるんだけど、まぁそれはあくまで欲による欲のためのシステムにしか過ぎないってことね。だからまぁ動物化といっても元々人間ってのは動物的だし、まぁ本ではむしろそのシステムが動物化を助長しているというようなことが語られてたとは思うんだけど、それはあくまでシステムによってエンハンスされた結果なんであって、システムが生み出した動物化ではないってことね。元々動物的なんだけど、そのシステムによってそれが露骨な形で露呈しちゃうっていう、まぁそれだけのことね。人間が欲で動くなんてのはインテリジェンスの問題で、欲を抑制できる人なんて限られているし、サイコロジーによれば、そんなことが出来る人はある意味での逸脱者なんだよね。ってことはまぁ実質的に人間が生きている以上、もうその欲からは逃れられないってことで、そういった意味で人間の存在自体が元々動物的だから、動物化も糞も無いんじゃない?ってまぁ素朴に思ったわけだけどね。だから政治にしても人々が動く時代があったのであれば、それは物語が機能していた時代だったわけだし、今はそれが機能しなくなったという差だけであって、人々の本質は変わってないってことだよね。だから政治ってのはエリートがやるしかないんだよ。極端な話、ちゃんと国家を担える人々が国家を操縦してるんだったら別にそれは独裁であっても寡頭政治であってもいいわけ。まぁ実際、エリートしか政治が出来ないなら、政治そのものが寡頭制でしか成り立たないってことだよね。人々が欲で動いている以上、政治なんてありえないんだよ。公共性だとかもありえない。あくまで全ての基準は個人的なものに帰依するわけだからさ、だからそこでの公共性なんてただの妥協の結果であったり惰性の結果であったりっていう、そんなレベルのものなんだよ。人々が自分たちの生活圏での視野でしか物事を語れないのはある意味で必然だから、全ての人間は本質的にはオタク的な要素を持っているということだよね。引き篭もりと正社員の差とか、そんな表面的なものではこの現象は語れないわけ。だからそういう意味で物語の崩壊だのなんだのってのはあくまで二次的なものでしかないってことね。人間の本質は昔から変わってないっていう意味でね。


でも俺がアナーキストである所以は他にあって、それは恐らく俺の勝手な予想なんだけど、チョムスキーはこういったことをもうとっくに理解していて人々に絶望しているわけ。とっくの昔にね。でもそれじゃあダメだからっていって、極めて性善説的なアナーキズムを人々に提唱するような形で特にアナルコ・サンディカリズムを紹介していたりするのは崇高な人間性に立脚した政治という意味でのアナーキズムを人々に説いてるんだと思うんだよね。それが政治的な形で成立するかはともかくとして理念のレベルでそれが人に通じればとりあえずはオッケーっていう態度でやってるんだと思う。人間ってのは悪だから、殺される前に殺しなさいっていうのがリアリティなんだが、それじゃあダメだろってことで人と相互扶助的な関係性を持ちなさいと説いている。それはある意味で皮肉っぽいけどアナーキストには当てはまらない宗教的な要素があるんだよ。人がダメなのはもう分かりきっているけど、そこで絶望してリアリズムに生きていてもしょうがないから、それが不可能で難しいことであってもレベルの高い人間になりなさいってことなわけで、それがチョムスキーの場合はまぁ政治的なことなんだよね。特にあんな風にアメリカの政治の歴史の腐敗っぷりを露見させることで、それだけでは恥ずかしく見えちゃうような正義だの正当性だの人間性だのってことの重要性を証明しているように見えるんだよね。まぁ分からん、まぁ少なくとも俺はこういう立場でいるわけ。考え方は凄まじくリアルだけど、イデオロギーのレベルでは物凄く対照的で理念的なわけ。だから政治的には悪魔に見える天使みたいに振舞えれば最高だよね。それは俺の人生観も同じね。考え方は凄まじくリアルで、もう今すぐ死んだほうがいいぐらいに思ってるんだけど、理念のレベルでは物凄く理想主義者的なわけ。それが前にも書いたようなペシミズムからのオプティシズムなんだけど、例えばそれらが性悪説だの現象学だのっていう鬱になりそうなものに立脚しているからこそ達成できるかもしれない理念というのがあるわけで、だから「絶望よ、こんにちは」というのは強ちジョークでもないんだよ。だから俺は世の中に対しても人生に対しても諦めたくないんだよね。諦めちゃえば今すぐ死ねばいいだけの話だからさ、まぁ自殺衝動ってのは物凄くあるけどもね、でもそうじゃないんだよね。そういう風に振舞うためにはやっぱり欲ってのが物凄く邪魔なわけ。少なくとも自分にとってはね。欲を考えればその先にあるのは虚構のみだから、今すぐ死んだほうがいい。ちょっとここで死の王に出てくる朗読の文を引用してみよう。

大量殺人者は標的をランダムに選ぶ場合がある
殺人行為によって無名性や性的不能を埋め合わせるのだ
20世紀 人間は我慢しないことを覚えた
不幸や災難を じっと堪え忍んだりはしない
誰もが正当な扱いと正義を求めている
それゆえ人生に厭んだ者も静かな退場はしない
死に方によって人生に意味を与えようとする
その欲求不満は復讐の形で現れる
大量殺人者は自分を無視した者を狙って復讐する
初めて自分が歴史を創るのだ
死んだ生から 生きている死へ
少なくとも数日間は世間の注目を集めるのだから
このバカげた希望は 非存在の全人生よりはるかに濃密だ
無動機殺人者はポストモダニズムの殉教者である


ポストモダン繋がりってわけじゃないんだけど、この無動機殺人者の殺人行為によって無名性や性的不能を埋め合わせるという構図は、欲に生きる人間のそれと同じものだと思わない?無動機殺人者の場合、その埋め合わせが殺人なわけだけど、これを消費だの自己実現だの名誉だの性欲だのという風に置き換えれば、不幸や災難や虚構に耐えられない人間達が静かな退場をしないために必死で死んだ生から逃げようとするのが人生だよね。もちろん殺人行為と萌えを同等になんて語れないよ。エッジが違いすぎる。でも本質的なことは一緒だよってことね。それを私的なものによって埋めようとするのか、公的に見えるものを私的に利用して埋めようとするのか、違いは大きいようで小さいんだよ。それが私的なら人畜無害、公的なら公的であるほど有害なものとなるわけだよね。だから現存する政治家のほとんどが有害と言っても過言ではないし、無動機殺人者が有害なのは言うまでも無い。どんな理由においても一切肯定されるべき存在ではないのが、こういったタイプの人間達ね。東の本で引用されている斉藤環によるオタクの説明は不必要に迂遠だと切り捨てられているもののかなり言い得ているんだよ。「大きな物語を失った(象徴的去勢に失敗した)オタクたちは、その喪失を埋めるために現実のセクシャリティと想像的なセクシャリティを切り離し、後者で前者の不在を補う必要があり、結果として彼らの創作物は過度に性的なイメージで満たされることとなったのだ」ってのはまぁラカンチックな精神分析に立脚しているから、不必要に迂遠に見えるかもしれないけど、基本的に欲という意味で考えるとみんな同じなんだよ。実質的に去勢を受け入れている人なんて相当少ないし、政治家なんて去勢に失敗した連中の吹き溜まりでしょ?本当はインポテンツなのにオムニポテントだと信じきっている。基本的に欲で動いている人間なんて、その人間の不能さ加減に気がつかないか、気がついていてもその不能を埋めるために必死になっているような低俗なやつばかりなんだよ。だから生きるってことがアブセンスを埋め合わせることと同意義になっちゃう。だったらまぁせいぜいそれを私的な領域で留めておいてくれって話なんだよね。これをパブリックなものを利用してやられちゃうとえらいことになっちゃうんだ。だから戦争が起こったりしちゃうんだね。戦争が絶えない理由の一つに人間の欲があるよね。人間であるということが欲と切り離せないなら、戦争は人間が生きている限り起きるものという風になっちゃう。で、アメリカンチックなヒロイズムはその不能を大量殺人というオブジェクトで埋める良い例なわけで、極度にマッチョということはある意味で最高にオカマなんだよ。ここでまぁチャップリンのあの殺人狂時代の最後のほうのアンリ・ベルドーのセリフを思い出してもいいかもね。人が人を殺したら殺人者になるけど、国家が人を殺せばそれは英雄になるみたいな、そんなセリフね。アンリも国家も両方とも凄まじくセルフィッシュな理由で人を殺すわけだけど、その根底にあるのは欲望だよね。そこに実質的な差はない。まぁあるのは規模とか動機とかそんな二次的なものばっかね。そんな欲望に人間性というものを規定されてたらたまったもんじゃないわけじゃない?だからそれを理性でもイデオロギーでも理念でも夢によってでもいいから超越することが重要だし、それを人生のオブジェクトの一つとすることが、自己解放の道だと思うわけ。


そういった意味でディオゲネスが言ってたような欲から自分を解放するということが自分の鎖を断ち切ることだっていうことなわけでさ、まぁその先樽の中で暮らそうが何しようがいいんだけど、まぁそれを自己解放というと大げさだけど、まぁ俺なりの勝手な解釈での去勢という概念によると、まぁその絶対的な実存のアブセンスを受け入れるということなんだよ。人生をそれに埋めるのに費やすのをやめましょうってことね。そんなのただの無駄だからね。まぁその埋める作業をポストモダン的な消費の世界だと極めて動物的に行えるようになったというのは本当に言えてるし、凄まじくアイロニカルだよね。合理性というのは本質を浮き上がらせるような要素があるからね。まぁ結局、そういったシステマティックな社会の移行が人間性の虚しさを露骨に露呈させる装置として機能しちゃったってことだね。だからみんな虚しいんでしょ?何かあると思ってたのに何も無かったんだから。でもそんなの人間という存在が立ち上がってきた時点で最初から何も無かったんだよ。だから何を今更だよね。もしくはそういった虚構を見せ付けてくれたポストモダン的な構造に感謝しないとね。ってことで今日はこの辺でやめるけど、やっぱ病んでるときが一番冴えてる感じがするな。冴えてるっていうか何かに没頭できる。それは病みっていう自分の特に象徴的な不能を究極的な形で見せ付けられる状況なわけだから、それと対峙することで思考やら行動の無駄がなくなるんだよね。危ないぐらい主観的になるけど本当に無駄が無い。まぁただ精神的にはキツイけどね。こうやって何かをしていないと恒常性が保たれないという状況はある意味で不健全だよね。精神的には暇を持て余してゲームでもやってるときが一番幸せかもしれないね。俺もまた不安とか恐怖とかスキゾってのを読書とか何かを書くとか作るってことで埋め合わせようとする弱い人間の一人なわけで、本当に脆弱な精神の持ち主だなって思うよね。精神的なヤミーばかりはどうにもならんね。脳がおかしいんだよね。たぶん。頭がおかしいんじゃなくて、脳医学的に脳の機能がおかしい。それと付き合っていくのが本当に大変ね。ってことで今日はこの辺で。

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

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