闘技的精神状態としてのADHD(かも?)。

mimisemi2008-05-24

ムフの民主主義の逆説を読んだっつーかだいぶ前に読み終わってたんだけど、これまた覚書がすぐに書けなかったので、今更だけど色々と書いてみようと思う。


まぁ簡単に言うとムフの提唱するラディカル・デモクラシーとは、ロールズに代表されるような合意論系の言説を徹底的に批判するっていうのも、基本的に「合意」そのものが常に排除の上に成り立っていて、合意なるものを社会要素の核として考えると、そこには常にオルタネイティブやマイノリティーへの排他的なディスポジションが生まれてくるので、その合意なるものの概念から自然に隠されてしまいっている、暴力や不合理性や抗争性というものを抑圧するのではなく、それを受け入れつつ、そこに常にコンフリクトが生じているという闘技的段階への移行を唱えていると同時に、それをまぁ闘技的民主主義と定義しているわけだけど、まぁ別に俺が思うにロールズは凄まじいリベラリストだったと思うし、なんというかこれはただの合意論の盲点なんだけどね。それをムフは徹底的に批判しているわけだけど、別にロールズファシスト的に全てを正義的な合理の上で物事を成り立たせると言っていたわけではなくて、まぁ俺の理解だと、それを正義の原則としてまぁある意味で仮説的に提唱していただけなんだよね。まぁそれが逆説的にロールズの意図とは違った排除的である意味での抑圧的な状況を作りかねないという傾向が生まれてきてしまうんだけど、まぁ別に俺はロールズが好きだし、基本的にムフの批判によってロールズの正義論やら合意論がその存在意義を失うとは全く思えないんだけどね。


まぁでもね、あれなのよ、社会契約説みたいなものに対しての批判って歴史的にも色々あるし、そもそも社会契約論自体が政治的なパラダイムとしては脆弱なんだよね。ただだからといってこれ自体がユーズレスかというとそうではないんだよ。それは俺がいつも書くことで、何かの説なり理論を丸々と教義としてドグマティックに解釈することは全く無くて、むしろ読者が実践的で有効だと思えるエッセンスを抽出しつつ、それを思考の材料にすればいいわけで、何かのモデルに対する批判というのもいいけど、逆を言えばそのモデルから得られる何かもあるわけで、盲点があったり脆弱性があるのでダメということにはならないんだよね。まぁただムフはそれをカール・シュミットで行っているので、まぁいいんだけどね。凄いよね。保守のイデオローグが書いたリベラリズムへの批判理論を脱構築的に解釈してラディカリズムへと帰結させるなんて本当にポストモダン世代がやりそうなことだけど、本当に賢いことだと思う。所謂、まぁ格言的なことだよね。敵から学べっていう。敵というのは誰以上にこちらの弱点を知っているわけでしょ?その知識を防衛に役立てるというのは、アンチ・ウィルスソフトのメーカーが凄腕のハッカーなりウィルス作者をヘッドハンティングしてくるのと似ていると思う。


あ、んで俺が何を書きたかったかというと、こんなことじゃないんだよ。そもそも専門的な政治学なり社会学的なことなんて、ちゃんとみっちりと基礎を勉強しないとまともなものは書けないと思っているから、特にこんな専門書に関することなんて、俺程度の浅はかな知識を持ったやつが書いちゃいけないんだけどね。興味がある人は読んでみてよ。で、俺の解釈というか理解は全く信用しないでください。素人が書いたものですので。


あ、んでまぁ大枠のムフの闘技的民主主義のモデルを俺の精神状態に当てはめると、基本的に数々のサイコロジカルな諸症状を薬でどうにかしたり隠したり忘れようとしたり抑圧しようとするのではなくて、そういったものは精神がある以上、不可避的に常に起こってしまうコンフリクトとして解釈しながら、なおかつそれに対してこうあるべきだっていうベッキーを合意論的に理想的な枠として作ってしまうのではなく、色々なことがありえるが、それをも常に闘技的な精神状態の中での、その存在のあり方に対する相互的な関係性を常に保ちつつ、何に対しても排除的にならず、理想的にならずってことを維持し続けることが自分の実存とそのあり方を司る精神状態との理想的な関係性であり状態なのね。だからデリダ風に言えば、来るべき精神状態ってことなのよ。常に来るべき状態というのを維持し続けるのが、ある意味でのカッコつきでの良い精神状態のあり方というわけね。今までの俺はそれを必死で隠そうとしたり排除しようとしたり、もしくは前に書いたような、普通であるということを重要な要素として捉えてしまい、そういった概念に立脚しているような原則をベッキーとして超自我に書き込もうとして、その意識と無意識の間に生じている本質的なコンフリクトの存在と状態を理解しないまま生きていたわけだよ。もちろん人や社会との関係が無いような引き篭もり状態の場合は、こういったコンフリクトというのは生じにくいってーのは、所謂、俺が普通性を保つ必要性にそこまでかられていないからなんだよね。ただ今みたいな状態だと微妙なホメオスタシスともちろん物理的な意味でのホメオスタシスも求められているので当然そこに差異があってコンフリクトが生じてしまうわけだけど、だからといって人や社会との関係性を完全に遮断して解決するなんていうことは事実上不可能なわけだから、それを止揚していくしかない。で、その止揚の方法論として有効なのが、ムフというかまぁシュミットが元ネタの、「われわれ」と「かれら」の線引きを自明的なものにしつつ、その緊張状態を常に保ちつつけるということと、ベッキーを定義してしまうことはヘゲモニーの表出にもなりかねないので、自分にとっての自分という実存と、俺の異常性(精神病的諸症状・諸行動)との和解というのを不可能なものだと解釈するということなのね。ちなみにヘゲモニーというのはもちろんここでは精神的な思考方法として、まぁ半ばファシズム的に機能するような、固定された定義や自己像や理想像としてのヘゲモニーね。精神というものが無数の数限りない諸要素の複合的構成要素と考えれば、それを支配する要素の一つとしてのドミナントなアイデアとしてのヘゲモニーという考え方ができるわけ。で、ここでの精神的ヘゲモニーというのがベッキーね。


だから俺がADHDか否かというのは本質的には重要じゃないんだよ。問題はその諸症状との付き合い方なわけで、まずその存在を認めつつ、それに対して自明的になるという意味での線引きをはっきりとしておいたほうが、より「かれら」としての諸要素という捉え方がしやすくなるわけ。ようはかれらが分かりやすい概念として表出してくるということね。もちろんそこでかれらを理解するためには、例えば今読んでいるようなADHDの本というのが有効だったりもするんだけど、結局、精神病や精神的な不具合に関しては、今のところはある意味で完全に自己申告制だし、変な言い方をしてしまうと、諸症状を知っている演技の上手いやつが精神科に行けば、なんらかの精神病の診断を下される可能性もあるってことなんだよね。それは俺がよくやってたような、医者が俺の症状を理解していないので、自分に対して有効な薬が何か?というのを大体は分かっていたので、それを出させるように診断を誘導するということと似たようなことなんだよね。ただ自分としては自分がADHDなのか、もしくはADDなのか否かというのをはっきりさせたいというのがあるのと、例えば特にアメリカのような国では場所によってはそれを障害として認定して、然るべき処置を取ってくれるようなところがあるので、自分が本当にそうなのであれば、診断証があったほうが自分にとって有利ってことなんだよね。実際、大学でやっていくのを困難にしている色々な症状があるわけで、全てではないにして、それらを障害として認定してもらいつつ大学が出来る範囲でのサポートというのをしてもらえるなら、俺もまぁある程度はディーセントにやっていけるということなわけよね。今ははっきりいって不利すぎるんだよ。普通の人として大学でやってるからね。っつってもまぁ85パーセントぐらいの成人のADDの患者は未診断らしいし本人もそれだと気がついていないらしいんだけどね。


まぁいいや。具体的なカウンセリングがどうのって話は今回はいいや。メインはムフなので。ってことで自分としてはまぁ今のところの仮想的としてのADHDという内在的存在に対して自覚的になりつつ、それを排除せずに戦いながら生きていくという認識の段階にいたる必要があるということね。思うに精神病が辛い理由の一つにその排除しようとするわれわれの態度と、それを拒むかれらとしての諸症状との間に常に戦争が起こってしまっていることが挙げられると思うのね。自分がこんなんじゃダメだ、ちゃんとしなきゃ!とかって思うから、それがかれらへの攻撃になっていて、かれらはそれに対して防御をしたり攻撃をしたりするわけだよね。もしくは世間体に立脚したような陳腐なものとしてのベッキーをかれらに振りかざしてイデオロギー的な対立が起こっているとか、それが闘技的ならいいんだけど、物理的な戦争が起こってしまっているとマズイんだよね。そこでの精神力の浪費やら疲れというのは凄まじい。何しろ内面で常に戦争をしているわけだから。そうじゃなくて受け入れることが必要って書くと森田療法っぽくなるけど、まぁ実際はそうなんだよね。パニック発作が起きたときに森田療法的な処置を自分で行うというのはまさしく精神の闘技的状況を受容するという態度に他ならないわけ。


まぁそんなことを書こうと思ってたのが二週間前ぐらいで、んでやっと書けたんでスッキリしたわ。ただ理論はあっても実践をしないとダメだけどね。そうそう、付け足すけど鬱病を患っている人に対して「頑張れよ!」っていうことがタブーなのは、俺が今書いたこれで説明つくよねっていうのも、基本的に第三者の励ましというのは鬱病患者に対して、かれらとの戦争を始めろよ!っていうゴーサインとして解釈されてしまうわけで、そこでわれわれとかれらの間で戦争が起こってしまい、鬱病が酷くなるわけだよ。もしくは実際に戦争が起こらなくても、戦争状態を惹起させるようなサインとして解釈されてしまうということね。ホント、でもさ、日本って頑張れよ!っていうのが励ましみたいな言葉だけど、アメリカって「Take care」とか「Take it easy」なんだよね。これってすんげー文化的キャラクターを表していると思う。基本的にアメリカってビル・ヒックスのいうような、「Just A Ride」っていう概念を本質的に兼ね備えているような要素があるんだよね。ちなみにビル・ヒックスのjust a rideっていうのは基本的にまぁ簡単に言うと「Do not to take life too seriously」ってことね。このrideっていう概念が説明しづらいんだけど、まぁあれだ、これまたヒックス風に説明すれば、基本的に人間なんてのは自分の意志を主観的(ある意味では客観的)に捉えているただの現象に過ぎなくて、そこに意味も無ければ死という概念もまた無いわけで、全ては夢みたいなもんだってことね。だからまぁーそうシリアスになりなさんなってことよ。俺が最近、元気になったのは、何年ぶりかにヒックスのDVDを見たからなんだよね。しかも昔に比べて明らかに自分の理解度ってのが高まってるんで本質的に楽しめたっていうか勇気付けられたっていうか、まぁとにかくビル・ヒックスは俺にとってのアイドルだよね。本当に。だからビルっていい名前なんだよね。ビル・エヴァンスとビル・ヒックスっていう自分の二代アイドルの名前なわけじゃない?っつってもまぁ後付けだけどね。誰でもないっていうような意味でビルっていう風に名乗るのが好きってのは前に書いたからいいか。で、二次的な作用として人から名前を呼ばれやすくなって親密度が深まりやすいってことなんだけど、まぁいいや。


ってことで日本人って人生をシリアスに捉えすぎている人が多すぎなんだと思う。そういう意味で俺はアメリカ人の良く言えばイージーな感じが、悪く言えば単純な感じが大好きなんだよね。いい意味でも悪い意味でも適当なところが凄く好き。だからこっちではダイヤに乱れがあったなんてことぐらいじゃニュースにならないし、ましてや銀行のATMがシステム的な不具合で一時的に使えなくなったみたいなことで一大事になったりはしない。これってのは基本的にその人間のまぁヒューマンエラー的な部分についての寛容度が高いんだよね。まぁもちろんそれはヒューマンエラー的な部分だけではないんだけど。逆を言えば日本が狭すぎるんだと思う。だからみんなその閉塞感で頭がおかしくなってる。それは俺がいつも書いているような社会的なディスポジションそのものが国民を鬱的気質に導いているということね。その証拠に今は少なくとも俺にとっては社会から感じるような鬱的要素ってのは昔に比べればないわけだよ。まぁそりゃ学生だからでしょ?って言われそうだけど、そんなこと言ったら日本では引き篭もりだったわけだからね。今のほうが逆に社会へのコミットは多いわけだよ。にも関わらず日本に比べてストレスが少ないというのは、明らかに相対的な意味での日本とのコントラスによる感じ方の違いなんだと思うわけね。もちろんだからといって俺の全てが解決されるわけではないっていうのは、本質的な内面での葛藤というのがあるってことなんだけど、まぁその解決方法というか付き合い方に関する考えを今回は書いたわけだけど、こればかりは環境が変わったところで、どうにもならないんでこれは自分でなんとかするしかないんだよね。でもこっちの場合、色々なものに対して理解があったり然るべきクリニックがあったり機関でもそういったものに対する理解があったりして然るべき処置を取ってくれるような基盤があったりするのはやっぱさすがだなっていうかまぁ日本遅れてるなっていうかね。まぁただそこで話を医療に進めると話が面倒になるんで、今はいいや。


あ、んで俺が前にオナマスを批判したっていうのはこういう理由ね。作者が完全に引き篭もりだの鬱だのっていうのを理解してないっていうことっていうのはまぁ簡単に書くと、社会的・外面的な要素によって生成されている鬱状態というのは、結局のところ、その外の諸現象がどうにかならない限り根治はしないわけで、そこでやるべきことといったら、今の日本の心療内科や精神科が行っているような対処療法しかないんだよね。脳を薬でいじくって社会にアダプトさせようっていう荒療治ね。結局、こういうことに自覚的な人にとっては精神科に行って薬をもらうということ自体が妥協という解釈も出来てしまうわけで、だからある意味で粘って精神科に行かないで引き篭もりながら自宅療養を続けている人達っていうのがいたとすれば、ある意味ではまぁ正しいよね。無理にアダプトすることじゃ病気そのものは治らないんだから。ただオナマスの場合、社会的な要素が鬱を作り出しているという事実があるのにも関わらず、そういった部分に徹底的に無知で、んで最後はあの北原が黒沢に合コンに誘われて言ったら引き篭もりが治ったなんつー最悪な帰結だったんだよね。ようは北原は人や社会に対して過剰にネガティブに考えすぎていたんだけど、それが合コンによって「そうじゃないんだ」ってことが分かったんで、心の葛藤が一気に解決したっていうような、セカイ系もいいところなんだよね。そんなんで鬱が治ったらみんな鬱は治ってるよ。


ってことでtake it easyですよ。ちなみに俺の解釈だとitは人生そのものなわけで、take it easyは物凄く哲学的な言葉だなって感じているわけね。だから俺も頻繁に使うことにしてたら割と口癖になってたりするんで、やっぱ英語ってカスタムだよなとかって感じたり感じなかったり。まぁもちろんtake it easyって本来はそんな深い意味は無いと思うんだけど、勝手に自分ではそう解釈できるでしょ?帰結がtake it easyだと、結局、まぁ力まず生きていけってことなのかよってすげー単純に見えるけど、実は全然違うのは、まぁビル・ヒックスのjust a rideという概念がtake it easyそれ自体に宿っているということなのね。だからこれは凄まじく実存的で尚且つ現象論的な言葉なのよ。まぁいいや。そんな感じで。あーすっきりした!

PS。

面白い記事見つけたんで貼っておきます。

http://blogs.yahoo.co.jp/psykoba/15759871.html

民主主義の逆説

民主主義の逆説