ドッペルゲンガー。

mimisemi2008-06-02

久しぶり。物件を探したりして忙しかったというよりかは、別に書く気が起こらなかったので書かなかったんだけど書きたくなったんで書くね。


っていうか黒沢清ドッペルゲンガーを見たんだけど、これは分かりやすいぐらいジジェク風のある意味でドグマティックな精神分析風の見方というのが凄まじくワークするんだけど、まぁあれだよね、スランプで自分を見失っている不安定な主人公にイドの化身であるドッペルゲンガーが表れて、主人公の本能的な部分を原動力にして主人公を助けるんだけど、主人公もまた、ドッペルゲンガーが現れることで、イドと超自我との間の自我が無くなって、主人公は超自我と化してしまうんだよね。両方に偏りすぎていても上手く行かない。だけど本来の自我を形成しているイドと超自我が恒常性を保っていれば上手く行くっていうのがあの研究の成果なんだけど、研究の達成によってようやく自分を取り戻しつつあった主人公は化身としてのイドを消すことに成功するんだよね。まぁもっとも物理的な方法ではあるけども。ただそれはイドそのものが言っていたように「俺を認めろよ!」ってことなわけで、ドッペルゲンガーであるイドが超自我によって消されたというよりかは、イドが消えた時点で超自我であった主人公も消え、本来の自我を取り戻した主人公に戻るってな話で、最終的な帰結が、本能のみに生きるわけでもなく、かといってストイックに固く生きるわけでもなく、重要なのはリアルタイムに生成される人生における、もしくは人間内部における強度なわけで、結果はあくまで結果でしかないっていうようなね、ウェーバーで言うところの目的合理的行為に縛られきっていた超自我と価値合理的行為に縛られきっていたイドの恒常性の中に存在する自我が自らのための活動(つまり強度)という何にも拘束されない価値を見出したというのが凄まじく超越的でニーチェの超人的概念なんだよ。相互的関係性の深いフロイトニーチェが素材になってるこの作品は不器用なところがありつつも物凄くよく出来ていると思う。いや、黒沢清ニーチェの超人思想とフロイト精神分析を題材にしたかどうかは分からないんだけど、俺の解釈はこうだから、俺にとってはこれは物凄くいいわけね。黒沢清の作品には一貫してこういうようなある意味でニヒルながらもネガティブではないというような、それこそキルケゴールだのニーチェだのサルトルだのっていう、こういう系統の思想臭さを感じるんだよね。で、俺はこういったものが大好きなんで、だから黒沢清の映画が基本的に大好きなんだよね。


で、この映画の主人公が研究する媒体というのが、人間の意志を媒介に動くバイオマシーンというのも、サイコロジカルなテーマを扱う上でのフックとしては見事だと思う。最初に主人公は「複雑な人間の構造をそのまま再現するのが目的だ」みたいなことを言い、その一方で助手みたいな若いやつは「そうなんだけど、それを見越した上で結果というのは以外にシンプルかもしれない」っていうんだけど、この布石は見事。こんな短いダイアログの中に映画全編のテーマを提示しつつフックとして使うなんてのはね、本当に高度というか見事というか惚れ惚れしちゃった。複雑な人間の構造というのはまさしく映画の半分以上を占めるイドと超自我とのコンフリクトを示唆しているし、帰結である超越は複雑なコンフリクトや人間の様々な構成要素(他者も含む)を越えた上でのリテラルな意味での超越なので、本当にこの布石は華麗なんだよね。で、主人公も永作も超越に成功して、アメリカのロードムービーのような笑い方で笑いあい2000万の現金を元に強度を楽しむ人生に踏み込むというのは今までの黒沢清の映画がリアリズムを追求して絶望ディスペンサーのようになっていたのとは対照的に、映画の全編を占めるような、ホラーを期待させておいてかなりコメディタッチのところが多いというのも、これまでにないようなエンディングのポジティブさを表していると思う。ようはパラダイムシフトというか、ちょっと作り方を変えてみました的な作為的な方法というかなんというか。タバコを吸うというのが「楽に生きる」というか「そのまま生きる」という行為の記号的な役割を果たしているのも本当に良かった。最後に永作がタバコを吸うシーンがそれらの記号的役割を視聴者にも分かりやすく提示しているし、その結果、エンディングがより分かりやすいものになっているんだよね。色々なメタファーのおかげで複雑で分かりづらくなりそうになってしまいそうな映画のテーマを見事に分かりやすくしているというわけよ。


これって空元気みたいに「頑張ろう!」とか「生きよう!」とかって語りかけるような映画なんかよりよっぽど生のエッセンスに満ち溢れた映画だと思うのね。こんなポジティブな映画も滅多に無いんじゃないかな?それが「ポジティブに生きよう!」っていうような、臭いものには蓋をするような方法でポジティブに生きるみたいなことを言っているのではなく、臭いものには蓋をせずに、むしろ臭いものを認めながらも生きよう!っていうようなニュアンスを感じるんだよね。それは前に書いた闘技的精神状態としてのADHDみたいな話で、イドと超自我がお互いに排除しあうことなく存在し続けることで自我の恒常性が保たれ人生の強度が生まれてくるっていうようなさ、これって俺の最近のお気に入りの観念なのよね。全部、ムフに結びつけるのもなんだけど、基本的にそうでしょ。


いや、とにかく本当に良かった。本当に。あと物件とか引越しに関してはまた時間があるときに書くね。暑くなってきたしちょっと疲れ気味なんだよね。最近。珍しく色々と動いてるってのもあって余計にね。ってことで今日はこの辺で。

ドッペルゲンガー [DVD]

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