「精神病と私とニューヨーク」みたいなタイトルで。

mimisemi2008-07-08

明日いよいよ最終試験なんだよね。例のリーディング。コステンコにもう会えなくなると思うとそれだけで嫌だな。別に特に話したりしてるわけじゃないんだけど俺のデイリールーティーンから一人の美女が消えるってのは寂しいことだよね。ところで最近、コステンコが俺を意識してるような気がしてさ、あんま目を合わせてくれなくなったんだよね。いや、嫌われてるだけか。あとは俺が見すぎてて嫌がられてるとか。いや、そこまで俺は無神経じゃないぞ。今日はさ、帰りにたまたますれ違ったんだけど話しかけられなかったね。それは前みたいな「ただの綺麗な人」から「若干気になる人」に格上げしたからだと思う。あっちもなんか俺のことを意識してる感じだし、俺は無視しながら追い越したんだけど、あっちは微妙な反応をしてたな。これ読んでる人は全部俺の妄想だと思ってくれてかまわんよ。ホント、One Love per Classって感じで、今のところクラスっつーかセメスターにハズレがないな。1セメ中には絶対美女が何人かいるんだもん。perクラスは言いすぎだけどね、perセメスターって感じで。ただコステンコに話しかけたところで手持ち無沙汰なんだよね。手持ち無沙汰って言葉は絶対使用法を誤ってると思うけど、例えばどっか行くことになって、あんな人がどっかで俺を待っているなんてそれだけで無理。一緒に歩くのとかも無理ね。綺麗過ぎ。俺って大体「いいなー」って思う人のクオリティがずば抜けてるから、いつも無理なんだよね。話しかけてもしょーがないやっつークオリティの人ばっかで。


それにしてもやっぱこれはマンハッタン効果なんだろうなー。地方の学校とかいってもこんな世界の美女とは会えないだろうからな。地方なんてマイノリティが本当にマイノリティっぽいし、ダメな白人多そうだから、遺伝子的にもアウトなやつら多そうだもんね。そう思うとニューヨークはすんげー美女スポットだね。自慰スポットってなわけで、ヌケルコ・サンディカリズムの格好の場ってことだね。オナニー集団主義。いや、コステンコでは抜いてないよ。それはマジ。待ち行く女に美女が多いからネタに困らないってことね。エロ本いらず。それがマムハッタン。あー話しかければよかったな。あんな不自然に無視することもなかったな。ちょっとは挨拶ぐらいすればよかった。思ってたよりマジで可愛いんだもん。コステンコ。明日で最後かぁー。まぁ水曜も結果発表ってことでクラスはあるけど、コステンコたぶんパスするだろうから来ないだろうな。結果は当日分かるからね。クラスで通知する結果ってのはコースのグレードってことね。パスしてもちゃんと出席してなかったり宿題やってなかったりしたらグレードは下がるのよ。


あ、んで最近はマジで多読なんだよ。英語の本ね。もちろんテストがあるっつーのもあるし、テスト対策なんて出来ない俺の唯一の方法は読書しかないからなし崩し的にやっているわけだけど、多読はいいね。速読の本も買ったんだけど、ネイティブにしろ、本を読むときに読んだものを全部頭に入れなきゃいけないなんて思ってるとそれがプレッシャーになって、んで読書自体が楽しくなくなっちゃって、あんま本を読まなくなるらしいんだよね。頭いいやつはいいけど俺ってそんなでもないから自分の頭への期待値の低さってのもあって、特に英語なんかは凄まじいアテンションを払ってないと読めないって思い込んでるから日本語の本に比べたら明らかにフットワークならぬブックワークが重いんだけど、最近、「そんなのいいや!」って思ってね、あと意外と前より読めるようになってるのに気がついたから、余計、この勢いに乗って適当に関心があるのを日本語の本みたいなノリで濫読していけばいいかなと思ってさ、それは夏目漱石も言ってたことだけど、ある程度の文法とか語彙を覚えたらあとは多読なんだよね。分からない単語とかセンテンスは飛ばしちゃって、とにかく読みまくるっつーこれが大事。これによってブックワークが軽くなってもっと英語の本を読むようになるっつーのが俺の狙いだから、理解とかは二の次でいいかなと思ってね。今は理解より英文に慣れることと速く読めるようになることが必要だからさ、一冊一冊精読とかしてられないんだよね。まだ内緒だけど、俺が将来やろうと思ってる学科って普通の学科よりリーディングがすんげー多いやつだから余計に学科入る前に英語ぐらいは完璧にしておかないと明らかについていけないんだよね。そういうのもあってかなりまぁ危機感があるわけよね。こんな歳になってようやく大学生っつー危機感もあるし、今まで相当無駄な時間を過ごしてきたわけだからそれを取り返さなきゃっていうのもあって危機感は凄いんだよね。だから最近はずーっと読書ね。意識があるときは常に何かを読んでる感じ。生活の中心が本を読むことなんで、あんま通学時間とか関係ないんだよね。前より30分増しだろうが、その分の読書時間が増えたと思えばいいわけだし、仮に30分浮いたところでやることといったら読書ぐらいなんだから別に変わらねぇーかとかって思ってるわけ。ましてや俺って学力的なハンデも物凄いんだよね。


中学から一切勉強をやってこなかったわけだからもちろん英語だってbe動詞とか分からないレベルでこっち来ちゃったわけだからね、それ考えるとオブセッシヴに英語に取り組むってのはまぁ当たり前のことなんだよね。今までやってこなかったわけだから、短期間でそれを取り戻さないといけないわけでさ。でも今は洋モノを読めるぐらいになったわけだから悪くないよね。努力したつもりはないんだけど、日々の生活に英語を組み込む(日常会話とかじゃなくて)ことに成功してるってことだよね。結果がジワジワと能力となって出てきてるわけでしょ。今みたいな感じでもっとどんどん英語力が伸びてくればそれは努力を必要としないわけである意味で楽なんだよね。俺が今の自分で構築した生活モデルに沿ってやっていけばいいだけなんだからさ、枠組みのデザインに成功しちゃえばこっちのもんだよね。それは人生全般に言えることだよね。普通に生活するってことが英語力の進歩に結びつくなんてこれほど楽なことはないでしょ。まぁちなみにこれは全然日本でも出来ることなんだけどね。俺がこっちで英語を勉強したなんつってもそれってほとんど独学だからね。英語学校なんてロクでもないから自分でやってなかったら今でも全然英語はダメだったと思うね。そう思うと基本的にやっぱ学問って独学のもんだよね。どっかの機関に行ってどうこうって話じゃない。主体が無いと始まらないわけだね。


なんつーかあたかもこっちに来たから英語力が伸びたように思えるわけだけど、実際、肝心なところは全部自分でやってきたわけだし、スピーキングなんつってもロードアイランドの頃を除けば後はほとんどゼロに近いわけでさ、基本的に全部自分だよね。まぁいいや、ってことで漠然と明日のテストは自信あるんだよね。「自信ってこういうことだったのか」って始めて気がついたっつーかさ、「よし!明日はいけるぞ!」とかっていうような空元気とかじゃなくて、それこそ明日もまた普通の授業があるぐらいのテンションで臨むことが出来るってのが自信なんだなって気がついたってことね。ようはパニック発作の人とかは除いて「よし!明日は電車に乗るぞ!」とかって気合を入れないじゃない?電車なんて乗れるのが当たり前だから気合も自信もへったくれもないわけだけど、それと同じようなことが今起きてるわけねっつーかそれはサイコロジーとか哲学のクラスのテストでも同じだったけど、全然不安じゃないのね。漠然とやれるっつー自信があるんだよね。別にたいしたことじゃないっつーのはただ知ってることを書けばいいだけってことなだけだから不安も緊張も糞もないんだよね。明日、自分の生年月日を言うテストがありますなんつって言われても準備しなくていいし緊張なんてしなくていいわけじゃない?それは当たり前に出来ることだから不安も準備も糞も無いってことなんだよね。で、明日のリーディングはそんな感じなんだよね。全然不安じゃない。ここまで予期不安が酷い俺が不安にならないなんて凄いよね。それだけどうってことないってことなんだよ。むしろ飛行機のチケットがちゃんと取れるかとかちゃんと帰国できるのか?っていうほうが不安だもん。入国ゲートで止められないかな?とかさ、そんなことばっかだもん。テストのことなんて全然考えてない。まぁ全然っつーのは嘘だな。意識してるから最近は特に重点的な多読を始めたわけだけど、でもまぁ多読が普通の生活になってるから、これがテストのために始めたという理由もあるなんつーことはもう忘れてるわけだよね。うんうんいいことだ。


システムの枠組みの中に知らないうちに書き込むっつーのはマジで効果的だね。これって意識的な強制力とかって働かなくなるからね。今日もやらなきゃ明日もやらなきゃなんつーストレスっつーかプレッシャーが無くなるんだもん。それをやるのが当たり前だから、それをやることに対して「やろう!」なんて思わなくてもやれるんだよね。特に俺みたいなやつはこうでもしないと勉強なんて出来ないわけだけど、幸いなことに、この「勉強」なんてたいそうなものの中に自分の好きなものも含まれてるってことですげー楽なんだよね。ゲームやるぐらいのフットワークで「勉強」できるんだからちょー楽。ただ興味ないやつになるとそれが文字通りの「お勉強」になるわけですんげー苦痛になるんだけどね。だからヘルスとかDだったわけで。まぁでもいいんだ。興味ないことは出来ないんだから興味あるところでやるしかないんだよね。下手に興味ないところで頑張っちゃうとホメオスタシスがダメになるからね。俺の場合。メンタル面でのストレスにちょー弱いからさ、俺、だからダメなの。好きなことしかできない。でもこれも活かせば長所ですよ。生かすか殺すかは自分次第だから、んだからこそ「好きなこと以外一切やらない」って決めてるのね。これが俺のプリンシパルって前にも書いたけども。やらなきゃいけないことをやるのが偉いみたいな風潮って才能を殺してると思うんだよね。それってやらなきゃいけないことっつー特定の一般的な価値観から生まれた何かなわけでさ、それって全員に当てはまることじゃないわけじゃない?実際はその人にとってそこまでやらなくていいことだったとしても社会的にいいことってなってるとそれをやらないとダメだみたいな排除があるじゃない?日本ってすげーそれが強いと思うんだけど、そんなのやめちゃったほうがいいよ。それよりも自分のやらなきゃいけないこととかやったら偉いことってのを作ったほうがいい。それにコミットするってことがイコール自分の才能を活かすってことになると思うんだよね。承認は究極的に言えば自己承認でしか満たされないのよ。自己承認が基本で二次的に他者の承認も得られればラッキーってなもんで、最初から他者の承認を前提に承認欲望を満たそうなんて無理があるよね。もしくはそういう風にやってきてるやつってのは大抵個性が無くて無駄に共同体的だったりするんだよ。これをやれば偉いって昔から言われてきたから自分もそれに従ってやるみたいな主体性が全く無いような生き方をしててさ、で、それをやらない人がいたりすると他人のことなのにも関わらず文句を言うんだよね。「これをやるのが普通でしょ?」みたいな勝手な価値観をこっちに押し付けてくるわけ。前のルームメイトが典型的にこういうタイプだったんだけどね。そりが合わないのは必然的だったな。じゃなくてもっと自分の価値観を元に生きていかないと人生なんて空っぽだよね。そんな他人から押し付けられた価値観を無批判に身につけて盲従しながら生きていくなんて操り人形もいいところだよね。だからこういう操り人形タイプってそこまで地頭が良くなくてもその服従する態度の極端さによって他者からの承認は受けやすくなってたりするんだよね。だから馬鹿でも馬鹿がやってる組織の中核ぐらいには登りつめれるわけ。でもこういうやつはこの組織がなくなると生きていけなくなるんだよ。だって常に他者の価値観を基準に他者の承認を求めてやってきたわけだから、そういうのを与えてくれる場がなくなると人生が成り立たなくなっちゃうんだよね。悲しいこったね。こんな風に生きるなんて行き着く先はほぼ例外なく悲劇なわけでさ、そんなのやめちゃったほうがいいよ。マジで。


まぁ俺は極端にしても、やっぱ自分の承認とか価値観を作るのって凄く重要ね。俺が今楽な理由ってニューヨークっていう環境がいいのもあるけど、そんな中で育んできた自己承認システムによるものなんだよね。基本的に自分に忠実に生きていけばそれが何かに繋がるし結果も出たりするんだよ。で、俺が読んでる本とかにしてもなんにしても学校で読まされてるやつでもなければ、一般的に「良書」とかって言われてるから読んでるみたいな理由でもなければ、「古典」なんつー権威的なものにしがみつくような思考停止的な価値観で選んでるわけじゃなくて、全部自分基準で選んでるから読む本に嘘が無いんだよね。それは音楽も映画も同じだけど、見ておいたほうがいいとかさ、今はこれが流行ってるとかさ、そんな馬鹿馬鹿しい理由で選んでないから、選んだものの集積みたいなのが俺自身を表すようなマイルストーンになってるわけね。で、全部自分のセンスと基準と興味で選んでるんで、その選んだ中から得た何かとか、それを愛するっていうような心が俺の内在する傾向性を築き上げるんだよね。まぁそれはどっちが先かは分からない。諸作品が俺の内面に何かを埋めているのか、俺という主体がそれに共感して、その共感したっていう結果が俺の中に集積していってるのかもしれないんだけど、それはまぁモノにもよるけど、まぁメインポイントはそんなことじゃなくて、自分で選ぶことの重要さだよね。自分のセンスを常に信じてアンテナを張って生きるってのが本当に重要。それがまた何かを引き寄せるんだよね。まさしく好循環を作り出すシステムがこのアンテナなんだよね。そういった意味だと俺の人生の中で些細なものは別として間違えは本当に無かったなって思うよね。良くも悪くも我が強いんで、全部それが基準になって何かが形成されてきてるんで、まぁある意味で俺がユニークなのは当たり前なんだよね。だって我を突き通してるわけだから他人と似るわけがないんだよ。で、そうやっているのが楽でこっちでは排除されないどころかそれが個性だとかいって評価されるっつーのはまた最高だよね。まぁようは自分でそういう風に生きるっつーのも大事だけど、それを許容する社会も必要ってことだね。どっちが欠けても成り立たないってことで、日本が将来的にそんなのも許容するような多元的な社会になってるといいよね。そういう風になるためにはまずやり始めることが必要で、それってのは例えば自分がもう他人と同調したり、同調圧力に屈するというようなことをしなくなるような強い我を持つことが重要なんだよね。それをダイレクトに社会にぶつけながら生きていくっつーのが重要。それ自体がもうすでに社会的・政治的運動なわけですよ。元々我はあるんだけど発揮すると排除されるから隠してるって人が大半だと思うけど、何らかのきっかけで「我を出してるほうがいいんじゃん!」なんてのが広まったらあとは一瞬だと思うんだよね。「なーんだ、楽な生き方って自分に忠実であるってことなのか」って当たり前のようなことに気がついちゃって、んでそれを実践していくってことが大衆的運動になるわけね。あ、まぁ倒錯した形だけどそれを究極的に実践してるのがオタクの人達ね。だから俺は彼らを一切否定しないわけ。ある意味で究極的な存在だからね。彼らは。だからっつってみんな秋葉原に行けっつってるわけじゃなくて、もっと自分を実践していけってことなのね。自分を殺してると最終的にマジでそれは自分を殺すことになりかねないんで、マジで危険ってことなのよ。それは俺が証明したわけだし、これはマジで自信を持って言えるな。ただ単に自分であるってことがここまで俺の根の深い精神病を治すとは思いもしなかったわけだよ。まぁ完治はしてないけどね。「いやぁー・・・そんなこと言われてもねぇー」っつー言い訳は無しね。あと「そっちはニューヨークだからいいけど」みたいな言い訳も無しね。あー帰国したらセミナーとかやりたいな。「精神病と私とニューヨーク」みたいなタイトルで。

Audio Culture: Readings in Modern Music

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