プラクティカルな選択や判断をする重要性。

mimisemi2008-08-21

あともう少しで帰るわけだけど、まぁ家族といろいろ話したよね。それは思い出話というよりかは、現実的な人生の話だとか人間関係のことについてだとか、もっと細部を言えば、例えば会社という場所で起こってしまう構造的な力関係が生み出す人間関係におけるコンフリクトだとか、まぁいろいろなわけだけど、とりあえずコンフリクトってのをキーワードに今日は書いていくつもりっつーかまぁあれだね、こないだ書いたドッグヴィルに出てくるような、実践的政治の人生バージョンみたいな感じなんだけどね。


っつーかね、究極的に言ってしまえばね、何かしらのユーズフルなことってのは、その思考なりシステムのパラダイムというのがプラクティカルにワークするような、ある一定のフレームワークを持っていたりするわけ。だから精神分析の理論が政治に応用されたり、哲学が精神分析に応用されたりだとかっていう、なんというか人間の考えることというは最終的には何らかの普遍的な枠組みっつーか、まぁ哲学で言うところの真理みたいなところに帰結するのかもしれない。ただ俺は真理主義者ではないけどね。価値観とかってのは相対的なものだから、何らかのひとつの普遍的な真理というのはありえない。なぜなら真理ということは物質ではなくて概念だからその解釈は恣意的で主観的なものなので、実際的に数学的な普遍的な帰結になるような思考というのはありえないね。これはまぁ水の温度みたいなもんで、バスタブぐらいのサイズの容器に入っている50度ぐらいの液体に90度のお湯を入れたら全体の液体の温度の平均は何度になるか?なんてさ、そのときの室温やらなんやらかんやらなんてので数値はいくらでも変わるわけじゃない?液体の温度なんてリアルタイムに変わるし、全体の液体の温度を60度ピッタリにする調整なんてのは無理でしょ?出来たとしてもそれはすんげー厳密に緻密に行われるもので、出来る状況やら環境ってのは限られているよね?思想なんてのはそれと同じでさ、人によっては容器の形も大きさも違えば、入っている液体の温度や量なんてのも日々違うわけで、そこに例えば90度の液体という「真理」を混ぜたところで、その混ぜ合わさったものが何度になるか?なんて分からないわけよね。逆に真理の温度が60度なんであれば、日々生きていて偶然に温度が60度になることもありうるだろうし、60度になる方法なんてのは偶然性も含めていろいろありうるわけだよね。それはもともと熱い液体の温度を下げることによって達成されるかもしれないし、冷たい水にお湯を足した後、待ってみたりすることで達成されるかもしれないけど、まぁ仮にんじゃあ60度が真理の温度だといっても、それを真理の温度だと感じるのは、その容器に入っている液体の温度を感じる主体なわけで、人によって真理の温度なんてのは違うだろうし、だからそういう意味でも普遍的な温度なんてのはありえないわけ。


まぁいいや。それはともかくとして、親父と話したりしていたことのディティールは置いておいても、まぁ大枠を言うとだね、っつーかまぁ俺のメインポイントだったのがね、まぁ親父は会社で荒波を立てないということを凄く重要視する人なのね。まぁ分からん。会社なんてどこも同じだろうし、荒波なんて立てられないっつーのが大半だと思うんだけど、まぁそういうのを聞いたりすると「日本的だなぁー」なんて思うんだけどね、ようは荒波を立てないことで場を終わらせるだとか、自分を殺してでも争いごとは作らないというのがまぁ日本的だなって思うってことなんだけど、そこでまぁ今回俺が言っているドッグヴィルっつーのはね、まぁ極端に言えば、自分の人生の中で明らかに得と思われるようなものは荒波を立ててでも得なければいけないということね。これじゃあホリエモンみたいな理論になるけど、実は全然違って、ようは会社でも個人でも長期的なタームでベネフィットになるようなことがあれば、仮にその場でコンフリクトが起ころうが、対立が起ころうが、面倒ごとが起きようが、コンフリクトを作ってでもそれは得なければいけないということね。ここで争わなければ事態は収拾する。ただ争わなければ自分は多くのものを失うことになる。争う事になれば他者にも迷惑がかかるし、嫌に思われることにもなりえるし、また時間のかかる面倒な事態を作ってしまうこととなる。でもそれを乗り越えれば自分の得るもの、もしくは守りたいものが守れるというのであれば、それはコンフリクトを作ってでも死守するべきなんだよね。


つまりね、荒波を立てないようにするということを人生の中において至上の目的としてしまうと、その至上の目的によって得られなくなる多くのものがありうるということね。だから人生においての至上の目的というのは、まぁ人それぞれでいいんだけど、やっぱ自分の目的だよね。ただそこでエゴイスティックになるのではなく、周りも配慮したところでの自分ね。だからね、普段から荒波を立てまいというのを重要視し過ぎると、荒波を立てることで得られるものというのが見えなくなってしまうということなんだけど、でもまぁこれは常に倫理的な問題が付きまとうわけで、例えば自分さえ良ければいいということになれば、例えば人を殺してでもお金を得られればそれでいいのか?なんてことになっちゃうよね。ただ俺が言いたいのは、そんな哲学的な倫理の問題とかでは無くて、荒波を立てない事を重要視し過ぎることの落とし穴ってことね。面倒ごとは起こしたくない、ただ自分の主張を通すためには面倒ごとが起こってしまうことは必然だ・・・というような状況になったときに、特に日本的な考えだと、その面倒ごとを起こさないことに目が行き過ぎるわけね。空気を読むなんてことがこれだけ重要視される背景には、やはり争いごとを好まない日本人的体質というのが凄く現れていると思うわけ。ただね、空気を読むことで得られないものというのもあるんだよ。大げさに考えなくてもいいんだけど、例えば「あの映画は良かったよねー」なんつー話題が合コンであったとして、みんなが良いと言っているからなんとなく自分も周りに合わせて「良かった」ということにしておこう・・・なんていう選択には、自分の思っていることをあえて主張しないということを無意識にというか、必然的に選んでいることにもなるわけ。


「いやぁー俺は微妙だったなぁー。だってさ、あの映画ってさ・・・」なんて言うことが、馴れ合いの場に緊張を作って、話題の潤滑油になるかもしれないんだよ。そこからもっと映画の話題で盛り上がれたら、合コン全体で見れば、おそらくあの時に空気を読んで何も言わないよりかは、意見を言ったほうが良かったということになるよね。まぁいやらしい話をすれば、自己主張をすることで目立てたかもしれないし、ペダンティズムになってしまってはいけないんだけど、映画について語ることで、女の子からの気をひけたかもしれないよね。だからそれはそれなりの個々のパースペクティヴのもとに選択があっていいと思うわけ。話題重視で自分が切り込み隊長になって映画の話を発展させるために、あえて反対意見を言うとかさ、目立ちたいやつは、目立つためにあえて反対意見を言うとかさ、もっと先には自分の得意な分野の映画の話に結び付けて女の子の気をひくとかさ、空気を読んで何も言わないということで失われている可能性ってのはいっぱいあるんだよ。それに俺は基本的なスタンスとして、コミュニケーションってのは対話であって、空気の読み合いではないんだよってことがあるんだよね。だから俺は相手や場に迎合するだとか、空気を読むということを第一優先にするのではなく、あくまで対話を第一優先にするので、そのためのコンフリクトというと大げさだけど、ちょっと場の読めていないような意見を出すということも辞さないというわけね。


だから空気を読むだとか、それとはちょっと違うけど、んでもあえて言わせてもらえば、荒波を立てないってのは、大体が短期的なパースペクティブによって選択されている極めて日本的な概念ということになるわけで、その「立てない」ということを至上の目的にすることによって、得られなくなることはたくさんあるわけね。何も進んで争いごとを作ろうと言っているのではないよ。ただね、長期的に見たりね、結果的にそれが良い方向に進んだりするような要因を作る事が出来るかもしれないのであれば、一見悪く見えるようなことをする必要もあるかもしれないし、争いを作る事もありうるかもしれないわけ。で、さっきの倫理的な問題に戻ってしまうんだけど、10人殺すことで100人の命を救えれば、それは10人殺すべきなのね。まぁ状況にもよるけどさ、まぁあくまで簡単な物言いとしての比喩なんだけども。逆を言えば10人殺さなければ100人死ぬのであれば、そこに「殺す」という能動的行動を必要とする大変な事だとしても、それは助かる100人のためにやらなきゃいけないことなんだよ。そこを「殺さない」ということを重要視し過ぎてしまうと、100人の命が救えなくなってしまうわけよ。100人助かるほうが良いことなんだ、というのを少なからず自分の実存的主観レベルでも考えられれば、それはやるべきなのね。その「やるべき」という選択は当然、個々に委ねられるわけで、他者がどうこう言えるレベルではないんだけどね。


それがようは政治にも言えて・・・というよりかは政治に言えることなんだよ。政治にする前にまたちょっと例えをしたいんで、付き合ってほしいんだけど、「このビデオは猥褻です」というのを判断するのが素人では困ってしまうよね?それは映倫みたいな専門家によって組織されている審査委員会みたいなので猥褻か否かを判断しなければ、判断は常に恣意的で適当なものになってしまうよね。保守的でおまけに年寄りのじいさんとかだったら、水着の姉ちゃんが映画に出ているだけで、それを猥褻と判断するかもしれないよね。逆に俺みたいなちょーリベラルなやつが判断しちゃったら、それはフリーセックスみたいな世界になっちゃうわけよね?そういう判断基準の恣意性や非専門性をカバーするのが専門家なわけよね。でもね、仮に何かの作品が民主主義によって猥褻か否か?を判断しなければならないってことになったとしたら、その水着を猥褻だという爺さんの意見もまた民意の一つであるから尊重しなければいけないというよりかは、一つの意見として公平に扱わなければいけないし、俺みたいな性的にリベラルなやつの偏った意見も民意として公平に扱わなきゃいけないわけよね。そんなことをしていたらビデオの判断が時代や恣意性や状況によってガタガタになるから、だから映倫なりビデ倫なりっていう審査委員会が必要になるんじゃんね。素人の手に負えるものではないわけだよ。


政治もまた同じなわけで、極めて素人的で恣意的な「閣下がお祭りに参加してて笑顔が良かったんでファンになった」みたいなものが民意として扱われて政治に影響してしまうのであればね、仮にその閣下なるものがレイシズムや貧困や拝金主義みたいなものを主張する人間だったとしても、「笑顔が良かったから」という判断基準で選んだ国民の意見はそれがようは後に投票のようになってしまうかもしれないわけで、だからそんな人のキャラクターで政治を判断するような素人に政治なんて勤まらないわけだよ。だとしたら、ちゃんとした区別の出来る民意を代表していると思われるような、エリートで組織された映倫ならぬ政倫のような中間団体が様々な討論を経たりして、何種類かに分かれるような、政治的に玄人であるような人々が考え出した意見なりなんなりを民意として扱えばいいわけで、そこに政治的な素人の意見なんていらないわけだよね。政治的に素人な連中が多いような社会では、ポピュリズムに動員される連中が多くなるのは必然的なわけで、だからこないだ書いたような、本質的な意味での社会や民衆のベネフィットになるようなものを考えられるエリート民衆による民意の表出や投票が必要なわけ。


プラクティカルであるということはこういうことであるわけで、究極的な合理性を突き詰めればドッグヴィルに行き着くかもしれないし、「民主主義の否定」というような、反感を買いそうなステートメントをあえて必要性によって主張するだとか、人間関係でも、自分なりの最善という結果なり流れを作りたいのであれば、その場においての争いや反論や空気を読まない発言というのも必要かもしれないわけで、ここで重要なのが、さっきから何回も書いている、「穏便に済ませる」だとか「空気を読む」だとか「民主主義」だとかドッグヴィルにおける「二コール的ヒューマニズム」だとかみたいな概念を無批判的に最上のものとして、半ば思考停止的にそれを大前提として物事を考える事で失う可能性や道というのは少なくないわけね。むしろそういった概念を最上のものとすることで、すでにその状態がある可能性を作らないような構造的枠組みを自動的に作ってしまうかもしれないし、そういった概念が生成的に人生や思考の中で知らないうちに作用してしまうかもしれないわけだよね。その結果が愚民による民主主義の愚民政治であったり、特権階級の連中による傲慢な下々のものに対する上目線な施しであったり、空気を読むことに腐心する人間関係であったり、穏便に済ませることを最優先にすることで得られるものを得ないような負け犬人生を送ることであったりするわけで、それらの知らないうちに原則的に組み込まれている思考のパターンや、これだけは絶対譲れないというような、原則のフレームワークを司る構成要素などについて、批判的に再検討してみたり、取り除いてみたりすることで、人生や思考や社会や政治の流れが変わるかもしれないわけよね。


いや、変革までいかなくてもいいよ。ただそれらの各主体の当たり前の諸概念というのが、いかに人生や思考の中で足かせになっていたか・・・というのに気がつくだけでも十分なわけで、そこからの変化やコミットなんかは、個々に委ねられるわけね。「あ、そうだったのか」って思っても、空気を読まなきゃやっていられないような職場なりなんなりにいる人なのであれば、空気を読まないということは不可能かもしれないし、これだけ広まってしまった民主主義を取り除くなんてことは不可能かもしれない。でも民主主義にしても空気を読むにしても、それらを再検討できるようになるというのは凄く重要なワンステップだと思うけど、でも人によってはでもまぁやっぱり民主主義だよな、とか、角が立たないということだよな、とかって帰結するかもしれないけど、でもそういった帰結も、再検討の上で成り立っていればそれはそれで主体の選択というか意思なのでいいわけね。恐いのは半ばイデオロギー装置に布置されたような概念としての「民主主義」やら「KY」やら「ヒューマニズム」なわけ。


まぁ最後に改めて言いたいのはあれだね、目先のことだけにとらわれない、長期的なパースペクティヴから判断した事によって、最善に繋がるとそれが主観レベルでも思えることを達成するために必要なことというのが、今まで主観レベルで当たり前だと思っていた事と相違があったとしても、それを選択する必要性や可能性を視野に入れておいたほうがいいということね。人間関係レベルでも、自分が我慢することによって得られるものが大きければ、それは長期的なパースペクティヴから見た観点からでもそれは最善に繋がる選択かもしれないわけで、我慢する価値はあるんだけど、例えば極端な例で言うと、我慢しても何の得も無くて、むしろ反発したり発言したり意見を言う事で得られるかもしれないもののほうが、我慢するそれよりも明らかに大きいのであれば、それに対するリスクなどもふまえた上で、「でも争いごとは起こしたくない」なんていう思考停止状態を作ってしまうような概念に振り回されずに選択を判断するということが重要ってわけね。


いやー長くなったね。でもスッキリしたね。マジで。ってことで今日はこの辺で。


Apollo: Atmosphere & Soundtracks (Dig)

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