少年愛の美学と性的マイノリティ。

mimisemi2008-09-07

ショタコンというか少年愛というかショコタンというかショタコンブログというかショコタンブログというか、まぁ足穂とかはおいておいて、基本的にっていうかまずは相対的というか
逆説的というか、少年愛がなぜ美学として成立したのか?というのをまぁ日本にいたときに読み直した足穂の「少年愛の美学」にインスパイアされつつ、まぁ基本的に少年愛者というのは
プラトニックな意味で美学的観点から自らの視点を耽美的に楽しむっていうような、ナルシシズムの究極の形態なのかもしれないなって思ったので、一応はなんというかアブストラクトなんだがね、A感覚の抽象化じゃないけども、まぁショタコンがなぜ美学なのか?というのをショタコンっていうのを美学的概念として措定しつつ今回はいろいろと書いてみようと思ったわけね。


いや、シンプルだよ。桜と一緒。満開期には素晴らしい美しさを兼ね備えているのに一瞬で枯れてしまうっていうような、退廃的美しさというか、一時的だからこそ尊いみたいな、そんなことなんだよね。いや、全ての少年が桜ってわけじゃないんだよ。少年の中にはどんな美女でもかなわないような美しい全てを兼ね備えているってのがいるわけよ。でもそれは少年期だけにある一時的な美しさなのであって、例えば中学生とかになって男性ホルモンが活発に分泌されたりしてすね毛とかヒゲが生え始めたりしたら終わりなんだよね。そこからはもうただのゲイの世界。俺は基本的にヘテロだからそういうのには全く興味ない。差別はしないけど無理。生理的に無理。ただなぜ少年がプラトニックな意味での抽象的な美学的概念として成り立つのか?っていうと、そこには性差を超越した身体的・精神的美しさにあると思うわけ。そこに男も女もない究極の美がある。しかもそれは一瞬で失われてしまうんだよね。酷い場合はこの子が究極的だったのは小五の時だけで、小六になったときにはもう男っぽくなっていたとかね、そんなこともありえるわけ。その一時的な美は超越的なぐらい退廃的で尊いんだよ。


ロリコンとの違いを俺なりの主観で書いてみようかな。ロリコンというのはただの変態だと思う。いや、異論はあると思うけど、俺がなぜ少女に惹かれないのか?というと、そこに何の美も感じなければ、性的なシニフィアンも感じないからなんだよね。さっきの一時的という理論で言うとロリコンも成り立たなくもないんだけど、ヘテロな俺としてはむしろ美しい少女の場合、女性としての魅力が十分発揮される20代過ぎぐらいになってからのほうがいいわけよ。それは女性としての魅力を兼ね備えてから美しさが成り立つんであって、少女っていうのは生卵みたいなもんなんだよね。それに比べて少年は成長しちゃったら終わりだからね。なんとも儚い。まさしく桜なんだよ。


さっき究極的なナルシシズムの形態と書いた意味は、そんな儚い美学的観点からプラトニックに少年に恋をしているような主体は、半ば少年を自分のナルシシズムの鏡像として楽しんでいるような意味があると思うのね。それはプラトニックであればあるほどナルシシズム度は高い。で、この鏡像としての少年というのは男にしかあり得ないのは、もしかしたら主体は自分の少年期を思い出しながら自分自身の少年性というかイノセンスな感性をノスタルジックに味わっているのかもしれないっていうことなわけで、そこでは自分自身も少年であったという条件が満たされないと少年愛というのは成り立たないんだよね。だから腐女子みたいなのはロリコンとかとあまり変わらない。ただの俗悪な趣味としか言いようがない。まぁ否定はしないけどね。


少年愛が高尚な趣味と言われる所以はこういう観念的な美学的概念にあると思うわけ。それは全ての人には理解できないような抽象芸術を心から楽しめるような感性を持った人にしかそれはありえないっていうような意味で高尚なんだと思うんだよ。もちろんプラトニックでなければいけないというのは必須条件ね。そこで少年を性的奴隷というか、性的な対象として見てしまったらもうそれはロリコンみたいな性的倒錯と変わらなくなるんだよね。とかいいつつ少年に欲情してしまうような困り者のために二次元のショタコミックみたいなのがあるのはいいことなんじゃないのかな?そこでガス抜きならぬ精子抜きが出来るわけでしょ?プラトニックなレベルに留めるための抑止力というかね、だからポルノって重要なんだよね。


ちなみに女の子にしか見えないような男の子が出てくるショタコミックがよくあるけど、こういうのは本当にポルノレベルなんだよね。それは設定上のジェンダーの性差の問題で、逆に女の子にチンポが生えているという「ふたなり」なんていうジャンルもあるわけで、そこの境界線というのは曖昧だし、何しろレベルが低いと思うわけ。だからポルノレベルなのね。二次元にしてもポルノではない狙ったようなショタ的含意がないようなキャラクターに美を見出してしまうような耽美的観点からそのキャラクターに恋してしまうみたいなのが少年愛だと思うんだよね。まぁそれは常に主観的だけどさ、でも多分ね、ショタ的含意があるようなキャラ、例えばKOFのクリスだとかパオみたいなキャラクターは俗悪なんだよね。あれは本当にポルノレベルなわけよ。それは綾波レイみたいなのが「萌えキャラ」のアーキタイプとして象徴的に存在し続けるように、クリスとかパオみたいなのもそういったようなティピカルなポルノショタ的アーキタイプから導きだされた機械的というかプロセス的産物なのね。そこにショタ的なアウラは無い。だから気持ちが悪いんだよね。


ちなみに児童ポルノが微妙なのは、ポルノというのは対象を明確に定義するような機能的存在なんであって、そこに鑑賞者の主観は無いんだよね。究極的に受動的なものがポルノだと言える。なんかゴメン、ちょっと今ね、抽象的な本ばっか読んでるんで文体がミメーシスしちゃってる感じだけど、まぁどういうことかというとだね、ポルノってのはそれをオカズとして使うズリネタツールじゃない?だからそのツールとなる対象が未成年では非倫理的ということになるんだけど、例えばプラトニックな少年愛者が美しい少年の姿を見て耽溺しているのを性的な行為だと定義してしまうと、その主体(少年愛者)にとっての少年とは全てがポルノになっちゃうわけだよね。ポルノというか性的対象。いや、そうではないんだよ。それは芸術好きな人が自分の好きな絵を見て耽溺しているのと同じことなんだよって言っても他人には伝わらない。でも仮にプラトニックな少年愛者を自称している人がポルノではない普通の少年の画像を見てオナニーしてたら、それはさっき書いた主体にとっての性的主体のような構造で、性的に思えるものは全てがポルノグラフィックになってしまうわけ。でもそれってのは個人に委ねられてるところなんだよね。別に少年の写真を所有していることは不道徳ではない。ただそれを性的なものとして扱って、例えばオナニーの道具にしてたりしてたら不道徳なんだけども、その不道徳さってのは主体と対象の関係なのであって、客観的に見た時の構造はただの男と少年の写真なんだよね。それ自体に究極的な意味は無い。ただそこに主体の性的概念が介在することで、そのポルノではない対象がポルノになってしまうわけよ。


そういうところから見ても児童ポルノを不道徳と言ったところで、ペドフィリアの欲望というのは変わらないわけだから、社会的というか道徳的観点から見たら彼らの欲望自体が不道徳になってしまうわけで、それこそ欲望する主体そのものが非倫理的存在としてラベリングされてしまう。これが何を意味するのかというと、フーコーではないけど、マイノリティの極端な排除なんだよね。性的倒錯者は手に負えないので「やつら」として抹殺してしまおうと。でも社会的規範の中から外れないで欲望している分には、その欲望は極端な言い方をすれば例えばヘテロが女を愛するように、女が男を愛するように、普通の欲望なわけだよ。それが異常なものとして表出してしまう瞬間というのか社会的逸脱行為なんだよね。つまりはまぁ児童ポルノの所持や未成年との性的行為などね。これを考えるとそもそもその逸脱者がペドフィリアであろうとそうでなかろうと、その彼らの欲望が逸脱行為として社会的なコンテキストの中で表象してしまったというところに逸脱性というか違法性があるわけで、欲望そのものは逸脱ではないんだよね。それは欲望する主体の欲望なわけだから何を欲望しようと自由だし、その欲望の特殊性によって社会から排除される理由なんてのは全くない。だからね、構造的には男が女をレイプするのも、少年愛者が少年を犯すのも同じことなんだよ。両方とも逸脱行為であるし違法なんだけど、そこに異常性が見られるのが後者で、その異常性だけがあたかも犯罪の原因かのように抽出されて批判されて問題視される。でもこんなもの冷静に考えれば分かることで、前者も後者も欲望の表出が逸脱という形で表象してしまったという結果なだけで、彼らが罪を負う理由というのはその違法性にあるわけだよね。欲望そのものに罪は無いんだよ。そういった意味で欲望の異常さを「ノーマル」という観点から批判するのは極めてお門違いで差別的なことで、極端に言えば罪的なんだよ。それはだってレイシズムと同じ構造だからね。肌の色や出身地に原罪などというものが存在しないように、プリミティブな欲望にもまた原罪なんてのもは存在しないんだよ。


でもね、なんかね、勘違いされるのが「異常性」だったり「希少性」だったりするんだよね。レイプ魔の性的対象が女であろうが男であろうが、「レイプ」という罪そのものの定義は変わらないわけよね。少年がレイプされたほうが成人女性のそれよりもっと酷いなんてのはただの主観だし、それは成人女性のレイプ被害者達に対して失礼な物言いだよね。だからね、どんな異常行為も法的にアウトでなければそれは容認されなきゃいけないわけ。前にフェチのやつで書いたけど、使用済みの下着とか靴とかがヤフオクなんかで高値で取引されていようが、その取引自体に違法性が無ければオッケーなんだよ。「んじゃあ取引自体が合法なら児童ポルノのビデオやスナッフもオッケーなのか?」なんていうのは本当にお門違いな議論ね。それは欲望の対象の問題なんであって、取引そのものとは全く関係がない。まぁありがちな議論になってしまうけど、性的逸脱者達の欲望が可能な限り満たされたほうが社会的には健全なんだよね。それが不健全に思えるのはそれを「標準」という観点からしか物事を判断してないからなんだよ。


「性的逸脱者の欲望が満たされることが健全」という言い方には逆説的な意味合いがあって、例えば「普通」のヘテロな人たちが無謀なレイプに走らないのは世の中にガス抜きならぬ精子抜きを出来る素材がゴロゴロしてるからとも言えなくもないんだよ。俺の場合、洋物が好きだからここ一年ぐらいyou pornのアクセス数が多い動画をチェックしてるんだよね。アクセス数が多いってのはアマゾンの売り上げランキング別に商品を見るようなもので、需要の背景にはその素材のクオリティが保持されているかもしれないっていうことなんだけど、まぁ俺のズリネタ話はいいとして、俺が逆説的と書いたのは、「犯罪者に性的逸脱者が多い」ということは実際は「性的逸脱者に犯罪者が多い」ということなのね。まぁどっちから見てもいいや。山本山みたいなもんだから。何が言いたいのか?というと半ば暴論かもしれないけど、誤解を恐れずにいうと、性的逸脱者達にとっての欲望というのは「健全」な社会から見れば異常な欲望なわけで、その欲望を解消できるような性的ツールの供給の少なさというのが原因の一つにあると思うのね。少年や少女に性的悪戯をした・・・なんてのがメーガン法だったっけ?あのどっからでも性犯罪者だかの情報を見れるってやつ。そこに多いんだよね。まぁリサーチしたわけじゃないんでなんとも言えないんだけど、まぁ仮説的に言うとだね、仮に世の中に児童ポルノも含む、性的逸脱者の欲望を解消してくれるような「ツール」、ようはオカズがあれば、もしかしたら彼らと我々の差は欲望の対象の差異だけなのかもしれないってことなんだよね。俺がyou pornなどでガス抜きをするように、性的逸脱者達も例えばペドフィリア専門のオカズが用意に手に入ればガス抜きが出来て、彼らの欲望が逸脱行為として表出することはなかったんじゃないか?っていうことなのね。


蟹工船でさ、オナニーすら出来ないんで糞壷で男同士でやり合うっていう描写があるじゃない?まぁ軍隊とかもそうかもしれないし、監獄なんかもそうかもしれないんだけど、彼らをそんな異常行為に駆り立てているのは欲望の抑圧だよね。あえてこういう言い方をすると本来の性的欲望の対象である「女性」が不在なので、その欲望の対象を「男性」にしてでも自分の性的欲求を満たそうということなのよ。それは身体的に抜かないと不便だからというのもあるね。それこそ蟹工船ではムラムラして勃起しちゃって体は死ぬほど疲れているのに寝れないなんていう生々しい描写があるじゃない?でね、性的逸脱者にとっての世の中ってのはこの蟹工船の糞壷と同じことなのよ。欲望があるんだけど解消できる物理的対象が無い。だからそれが社会的に異常でも子供に手を出しちゃうんだよね。蟹工船ペドフィリアの違いは違法性だけでしょ。前者は気持ち悪いけど合法で、後者は異常でなおかつ違法。では両者の性的欲求を満たすためには何が必要か?というと、彼らの欲望そのものを解消できるような性的対象、つまりそれはイマジナリーなものでもいいということね。それがイマジナリーではないと、蟹工船では例えば娼婦を蟹工船に入れればいいんだけど、後者の場合、それをやってしまうと違法だよね。だからまぁ我々が普段そうしているように彼らにもまたズリネタ提供でもいいんじゃないかと。個々にビデオ個室みたいなのを用意して、気が済むまで抜かせればおそらく男同士でやり合うことも、子供に手を出すこともないかもしれないんだよね。ただビデオ個室にしても蟹工船の男達はyou pornとかで満足できるかもしれないけど、後者は違法性のある素材でしか解消できないことになるよね。だから結果的に後者にとっては彼らが蟹工船にいようがいまいがこの世の中は監獄なんだよね。彼らの欲望を解消するためには実践しか無くなってしまう。その結果として「性犯罪者」が生まれる。仮に俺でもズリネタへのアクセスが一切禁止だったらタイプのブロンドをレイプしちゃうかもしれない。まぁ根っこからの童貞の俺には無理な話だけどね。ちなみに漁船ではエイなんかを性具として使うらしいよ。エイの膣がオナホール的というか、女性の膣に極めて近いものであるらしくて、使ったりもするらしい。


そもそも性的欲求なんてのは人間の自由以上に自由で多様なものなんだよ。それを後天的なイデオロギー装置で「正常」な性的対象に対して欲望させることを植え付けるわけだけど、例えば子供にAVを見せるのは悪影響というのがおかしな話、というのはまぁ時期が早すぎたらあれだけど、中学ぐらいだったら見てもいいわけじゃんね。それが性であるし生なわけだから。セックスが悪影響を及ぼすというのは性行為ならぬ生行為が「悪いこと」として定義されることと同意義だよね。なぜ我々が存在するのか?それは祖先や両親が欲望に身を委ねたファックをした結果なわけだよ。そんなことで我々はむしろファックに感謝しないと。それと同じでスカトロビデオを見てもいいわけよ。スカトロなんてのは異常だと思われているかもしれないけど、仮にその子供なり中学生がスカトロに欲望を感じたら、それは彼らの欲望の対象がスカトロだったというわけなんだよ。もしくはそこで条件的な反射のような諸要素も含めて性的な欲望が喚起されたというだけでも十分。彼や彼女がそれを好きならそれでいいんだよ。やりたければ実践できる場で合法的に実践すればいい。ようは「普通」ということがいかに人間達に対してバインドをかけているかということなんだよ。普通という名の監獄が「普通」の社会なのね。そんな人間の性、もしくは生までをもコントロールなり侵略してきて何かを加えようとするというのがこの世の中なら、フーコーのBio Politicsという概念は本当に的を得た思考のアーキタイプだよね。それはフーコーが生政治というのを考えだしたというよりかは、普通という名の監獄を生きる性的マイノリティだったフーコーによって、生政治的な概念が必然的に高度な思索と分析から導きだされたと言えなくもないよね。フーコーが特に初期では自分を性的マイノリティという観点から様々な思索をしていたというのは、この世の中の抑圧具合から見てもメイクセンスだよね。


マイノリティが「自分はペドフィリアだ」と公式に表明できないということが、彼らの主体性を剥奪して剥き出しの生へと導くように、「自分はノーマルだ」と表明しつつ、そのように振る舞うことが道徳的だと勘違いしている人たちが半ば間接的に「普通」という名の監獄のパノプティコン的監視機能を担うことになっているということを、自分の剥き出しの欲望と照らし合わせて
再考してみる必要があると思う。自分が欲望に対するアノニマスな監視者だったとしたら、そこに監視者に徹するのか辞めるのか?というようなことを判断するための自由意志が介在している必要があると思う。その上で監視者を担うのならそれは個々の自由なのでもうしょうがないわけだけど、世の中には性以外にしても「普通」という監獄の監視者を無意識的に担ってしまっている人たちが本当に多いと思う。個人的な意見としては、そこにレイシズム的な排除の意志が介在するよりも、多様性を許容する意志が介在したほうが結果的に世の中をより効果的にスムーズな形で機能させることが出来ると思ってるわけね。多様性を許容することが性犯罪率の増加を防ぐとまではいわないけど、「普通」という重苦しい鎖が様々な犯罪や、特に近年の日本における一定の自殺などを助長させているかもしれないわけよ。だからね、許容しようとまでは言わないけど、少なくとも排除するにしても「やつら」という線引きをしている差別的意志が働いた上での選択が介在している必要性があるということね。繰り返しになるけども。無意識にパノプティコンの一部になってしまうことほど恐ろしいことはないよ。もっと監視されている側の立場になって物事を考えないと問題は解決できないよね。そこにはおそらくロールズ的な性における無知のベールが有効だと思う。


あーそれにしても腹減ったな。「ごはんよー」って言ってくれる人がいないと何かを食べるのが億劫っつーか忘れちゃうっていうか、食を生活に組み込むのって大変だよね。「おにーちゃーん!ごはんだよー!」なんて言ってくれるショタキャラが俺に近くにいたら最高!なわけがない。それはもうさっき書いたポルノショタなわけで、そんなものは金を積まれても許容できない。まぁいるわけないんだけど。だから常にプラトニックなんだよね。それだったらポーランドの例の姫みたいな奥さんが手料理を作って俺の汚い部屋に持ってきてくれるほうがよっぽど最高なんだよ。それは全ての観念・童貞的ヘテロが思い描く幻想的な妻の理想像みたいなもんでね、まぁ健全というか童貞というか、それがおそらく性的にヘテロたる所以というか、まぁ勝手な俺の理解だと足穂もそんな人だったんじゃないかなって思うわけね。あの人はゲイじゃないから。まぁだからどっちでもいいんだよ。ゲイかへテロか?なんて性差並みにたいした問題じゃない。あー長くなったけどスッキリした。


ではマクロバイオティックを実践することにしよう。あ、玄米を食べるってことね。ではまたね。