ラジオ・ラヒーム事変。

mimisemi2008-09-25

スピーチのクラスなんだけどね、詳細を書かなかったね。初日っつーか最初の自己紹介みたいなのではもうパニック地獄でさ、まぁいつもの手を使ったんだけどね。「自分は人前に立つことに対して人並み以上に恐怖感を感じるので、どうか僕を見ないでください」みたいなことを言うんだけど、小さいクラスだとウケるんだよね。本当のことをカミングアウトしつつ、それを最初のつかみとして使うみたいなさ、この辺ってアメリカのスタンドアップコメディが凄く参考になるんで、俺はいつもこういうスピーチの場があると、それはもうスタンドアップコメディをやってるもんだと思ってるのね。素人の俺がコメディクラブに無理矢理立たされている。緊張するのは当然だ。でもどうしよう?みたいなね。


だからアガりまくっているというのをあえて隠さずに、全面的に出すことで「あいつはアガっているんだ」と思わせることで、俺が逆にアガってないように見せかける努力をしなくて済むので、そういった意味ではまぁ暴露療法的というか、それが笑いなれば一番いい。ただ保守的な国から来た人とか固そうな人にはウケないんだよね。逆に引いてるっていうか。その辺は俺はプロフェッショナルじゃないから完全にすべてを笑いには変えられないんだよね。まぁ初日はまぁまぁだったんだけどね。「どうか僕の顔を見ないでください」っつーのにウケてた人もいれば、ひいてた人もいる。で、そのひいてた人の一人がこのスピーチクラスの先生で、授業中に「ちょっとあなたに話があるから残ってください」なんて言われちゃって、授業後に話し合ったんだよね。先生と。で、俺はまぁマジでパニック発作とかを持ってるんで、人前に立つっつーかましてや英語でスピーチするなんて不可能に近いことなんだっていうのを言いつつもまぁ先生はどうしようもなかったんだけどね。だってクラス自体が人前でスピーチをすることを目的にしているんだから、俺だけ先生の前だけでやるなんてことは不可能なんだよね。で、まぁ話し合いっつーか、なんか登校拒否になりかけの生徒が先生と話し合ってるみたいなムードでいろいろと話したんだけど、まぁ結局、先生はビジュアルエイドを使って人の目が俺に来ないように工夫するみたいな、いろいろな助言はしてくれたんだけど、そういうことじゃないんだよね。パニック発作においてはその場が「来る」という状態にあるときの予期不安だとか、その予期不安から来る勝手な強迫観念的な思い込みから不安が助長されて、んで大変なことになるとか、勝手に想像してパニックになったりするってことが問題なんであってね、電車に乗れないって人とかそうなんだよね。電車が来るまでの待ってる間というのが凄まじい恐怖なわけ。あと買い物でレジを待ってるときとかね。「あー次は自分の番だ」っていう待っているその状況自体が凄まじい恐怖を及ぼすわけ。


どうでもいい話だけど俺ってカウンセラーとか精神科医になったら一流になれるかはともかくとして、当事者としてその辺の医者よりじゃはよっぽど患者の気持ちがわかるんで良い先生になれるような気がするんだけど、問題は精神科医とかカウンセラーになるってそんなに楽なことじゃないんだよってことね。教育だの学歴だの資格だのも大変なんだけど、一番大変なのは患者の実存に影響されてしまうということね。逆を言えば患者のディープな状況にもあくまで第三者のヒーラーとして患者と対面しなきゃいけないので、俺みたいに誰かの実存について感情的になってしまうようなナイーブな人には一番向いてない仕事なんだよね。いやね、北里とか行っててしょーもない医者が多かったから、あの時から密かに「これは俺も勉強すればなれるな」って思ってたけどっつーか今もそうなんだけどねっつーのは学校とかね。今のフレンチのクラスとかが顕著だけど、あのぐらいで教授になれるんだったら俺なんてもっと良い先生になれるわけ。ましてやこのフレンチの教師なんて英語もへたくそだしね、どうやって仕事を得たの?っていうようなクオリティなんだよね。だから全然俺のほうが良い授業をできるみたいな変な自信があったりするっていうのは前にも書いたかもしれないしっつーか書いたし、それは前にも書いたようにDJとかと一緒なのね。クラブ行くと「なんでこんなのかけるのかな?俺にやらせろ!」っていうようなDJばっかっつーか自分のDJがテクニックはともかくとして良いから他の特に矢部さんみたいなね、本当の超一流のDJはともかくとして、その辺でやってるようなDJより自分のほうがよっぽどいいから、他人のDJなんて超一流以外は聞きたくないわけ。それがカウンセリングとか授業でも同じで、「これならもっと俺は良いのをやれる」とかって相対的に思っちゃうんだけどね。いや、今の先生はいいよ。心療内科ね。最終的に行き着いた先は本当に良い先生なのであった。ただそれまでが地獄だったわけで。


あ、んでね、スピーチなんだけど、その待つのが嫌でしょ?だからいつプレゼンをやるのか?っつーのをシートに書いて決められるんだけど、俺は自主的に初日の一番目にしたのね。だってそうしないと「来るべきスピーチ」によって苦しまされるのは俺なわけだからさ、その「来るべき」状態から抜け出すにはとっととやっちゃうのが一番いいんだよね。だから厭なことは後回しよりかは先にやっちゃったほうがいいわけ。まぁ宿題とか他のくだらないやらなきゃいけないことは別としてね。ってことでこないだやったのはデモンストレイションスピーチというやつで、簡単に説明すればアメリカの大好きな「ハウトゥーもの」ってやつね。何をどうやれば何が出来るのか?っていうのをデモンストレーションして知らしめるという内容なんだけど、俺は何をやったかというと「スピーチクラスにおいての緊張の解き方」みたいなのをやったんだよね。一番緊張しているやつが「緊張の解き方」をデモンストレートするなんてすげー面白いでしょ?まぁ他人に伝わらなくても自分が面白いんでまぁやったんだけどね、つかみで「はぁー・・・・もう死にそうな気分ですよ。本当に・・・。そんなわけでここに立てて幸せです」とかもうちょっとちゃんとやればウケたのかな?みたいなつかみをやったんだけどまぁウケなかったっつーか理解されなかったんだよね。みんな俺の異様さに圧倒されて唖然としてる感じで。


んでまぁ例の緊張しまくっているコメディアンがその緊張の恐怖にかられるあまりに空白を全て言葉で埋めようとして過剰に動き回ったり喋り回ったりするみたいな、ロビン・ウィリアムスを地で行くようなスピーチをやったんだよね。本当は正面を向いてみんなのほうを向いて動かないで喋らないといけないんだけど、俺は喋っている間終止、御法度のスピーチ中にウロウロするっつーのをやったんだけど、これって俺のことを知っている人が見たら大爆笑すると思うんだよね。「あいつ、マジでやってるよ!」みたいな。動画が無いのが残念なぐらいだ。ただクラスでは俺のことを知っている人はいないし、かなりの部分ふざけてやっているってことも本当に緊張しているか、不可解な動きをしているということしか伝わっていないんだろうけど、そんな不穏な空気が流れる中、最高のつかみになったのが先生の一言ね。「歩き回りたかったんだったらそこの椅子をどけたらどうなのかしら?」なんて言うから、俺は「え?こうですか?」なんて座ってみたりしたらクラス中が大爆笑。なんか懐かしい大爆笑だったな。まぁ素人ながらスピーチをやるときはさっきも書いたようにスタンドアップコメディだと思っているんで、大体今までは笑いを取ってきたんだけど、今回も本当にオオウケだったね。懐かしいっつーのは前に英語学校とかでやってウケた感覚みたいな、緊張しているんだけど、笑わせるのが楽しくてしょうがないみたいな感覚を思い出したってことね。


ここでまぁ気をよくした俺は、「なんで君たちはスピーチで緊張するのかね?」なんて質問をしたりしたんだけど、ここでも自己満足的なマルクスネタを披露してさ、「なんで我々はこんなに日々の生活に苦しんでいるのでしょうか?」という実際は質問をしていない質問を「レトリカル・クエスチョン」と言って、まぁスピーチ術のテクニックの一つらしいんだけど、ここで俺は「あ、んで僕がここで質問をしているのは、先生が言ってたような・・・・えーーっとなんだったっけ・・・ダイアレクティカルじゃなくて・・・・あ、レトリカルクエスチョンだった!」みたいなね、まぁウケなかったけど、質問したら何人かが答えてくれてっつーか、割とノリがいい感じで答えてくれたりしたんで、まぁクラス中の心をわしづかみにした感じだったね。本当は誰も俺のことを気にしてほしくないのに、気にしてほしくないがゆえにそれを過剰に隠そうとすることでそれを述べるというやり方は隠すということでそれについて言及するというようなラカン的手法と言えたかもしれないって後付けっぽい言い方だけども。俺の場合、まぁ逆なんだけどね。隠そうとしないことを過剰に隠さないことで隠そうとするわけ。これは隠そうとすること以上の過剰な自己防衛なんだよね。


ってことで自分でも信じられないぐらいほぼ全く間が無いぐらいよくもまぁこんなに喋れるなってぐらいペラペラ喋ったんだけど、極めつけは前の番に思いついたパンチラインね。隠そうとすることをしないことで過剰な自己防衛するみたいな哲学的手法で臨むならもっと哲学性を深めてやろうとか思ってサルトルでプレゼンの緊張を説明することにしたわけ。というのはUnreflected consciousnessとReflected consciousnessね。Unreflectedのほうは我々が日々の何気ないものを何気なく知覚しているような感覚で、そこに「今、自分は歯磨きをしているんだ」なんていう感覚がない状態を指すわけ。There is no "I"ね。その一方でReflectedのほうは例えば自分が何かをミスして「あーもうなんで俺はいつもこうなんだ!」って自分に切れたりしているときに、そこに”I"があるような状態を指すわけね。ようは自分の考えを知覚している自分がいるというのをReflected consciousnessというわけね。で、俺がまぁ別に「オチ」という意味ではないんだけど、まぁ今回のスピーチの核にしようと思った部分をサルトルを援用したのは、スピーチで緊張するというのは、そこにスピーチで緊張している自分を過剰に意識している自分がいるから緊張するんだってことね。だからまぁ楽なことじゃないんだけど、スピーチという普通ではない状況をあたかも普通の状況として考えることで、その緊張を和らげようということなわけ。


つまりはね、普段俺が言っているようなことで、「恥ずかしい」だとかなんだとかっていうようなことは、そこに自分自身が存在としてパブリックな場所に存在を露呈させているからそう感じるわけだけど、その主体がスーパーモデルだとか、本当に目立ってしまうような人以外はね、例えば俺とか他の生徒が自分以外の生徒のプレゼンをあくまでそれを見ているクラスルームの生徒の一人として見ている以上はその見る対象に特別な意味は無いんだよね。ただそこに立っているのが普段は先生なんだけど、今はプレゼンなんで他の生徒の一人が立ってやっているということだけで、大半の生徒はそれを気にしないし、それは自分が仮にそういう状況にあるということを想定して考えてほしいんだけど、自分がそういう場だったら自分のことしか考えないでしょ?「あーこいつ英語割と上手いな。俺はあんなに上手く喋れないなぁー」とか「あー次のクラスでは俺がこれをやるのかー」とか、自己中心的な見方しかしてないんだよね。ホッブズが言ってたように、人間は他人より勝りたいだとかなんだとかっていうような卑しい感情によって動かされているわけで、他の生徒のプレゼンというのもまた、それを相対的に見ている厭らしい主体が介在している状況なわけで、主体がそれを知覚している以上、それはもうそれ以下でもそれ以上でもないんだよね。ということでプレゼンをやってる生徒なんてのも好きな人とか気になる人だったらともかくとして、日常的なオブジェクトでしかないわけだよね。


それを考えるとプレゼンで緊張するなんていうことがいかにうぬぼれた概念かというのが分かってくる。基本的に誰もあんたのプレゼンなんて気にしてないわけ。みーんな自分のプレゼンやらグレードのことばっか考えてるわけ。もしくはもっと他のあんま関係ないこととかね。プレゼンを見ている他者は少なくともunreflectedな状態でプレゼンをしている生徒を見ているか、もしくはそれを相対的にreflectedな状態として見ているわけで、そこまで気にしてないんだよね。だからんじゃあ自分も別にunreflectedだっていいじゃないかと。日常的な感覚で、自分のことを誰も気にしていないような場で自分がスピーチをやるんだと思えば全然たいしたことじゃない。スピーチで緊張しないコツに、見ている人々のことをジャガイモかなんかだと思えばいいっていうやり方があるんだけど、これは極めて実存的というかオントロジカルな方法論なんだよね。ということを説明したわけ。で、終わりの方の結びで「誰もあなたのことなんて気にしてないよ」なんつったらまたウケたんで、今回のスピーチは割と成功だったかもしれない。俺がずーっとベラベラ喋ってるんで、先生が「素晴らしいプレゼンだったわね。ありがとう」なんて拍手をし始めて終わらせたんだけど、まぁ本当に拍手が凄かった。思わぬ大成功なんだけど、でもこれは例えば自分がウディアレンとかビルヒックスになったつもりでコメディクラブに立っていて、んでスタンドアップコメディをやって大成功している自分というのを頭の中で思い描けていれば、おそらくそれはそうなることなんだよね。ありふれた話なんだけど、ベストな自分を思い描けていると、そうなる可能性が高くなるということね。ただ俺みたいに自分に自信が持てていない主体にとっては、そういったことを思い描くのはなかなか難しいことかもしれない。だからこそスピーチみたいな場をスタンドアップコメディだと考えて、自分がウディアレンなりビルヒックスになった「つもり」でスタンドアップすればいいだけの話で、そこにいるのはウディアレンやビルヒックスといった超一流コメディアンなわけで失敗するわけがないんだよね。そこで主体を無くして仮の主体に場を任せて、んで成功したらその手柄だけを本来の主体が横取りするっつーね、ちょー功利的なやり方でしょ?スピーチは成功して、んで成功したという自信ももらえるわけで、これはやらない手はないよね。


まぁ今回は今まで通りにやって、また成功したっつーだけで、次は成功しないかもしれない。でも今までは成功してきてて、んで今回も成功したわけで、確率的に次も成功する可能性は高いよね。この積み重ねがおそらく「自信」とか「セルフエスティーム」みたいなのに繋がっていくんだろうね。引きこもりだった俺にとってはこういった過酷な状況それぞれが凄く良いリハビリなんだよね。そんな意味で今回も大成功だった。やったね。俺。ありないぐらいスピーチを上手くやっている自分を想像してたら本当にそうなっちゃったんだから凄いよね。ずいぶんと英語も上手くなってるなと思ったね。ノンストップで十分以上も喋ってたんだよ。まぁウォール伝でこんだけずーっと止まらずに書いているようなADDな俺なんだから、まぁ当然と言えば当然なんだけどね。それはジジェク師匠が言ってたような、何かを書くのが嫌なので、その嫌な書く行為ということから過剰に逃げるための過剰な書く行為によって書く行為自体を無くしてしまうみたいなさ、俺にとってのスピーチってのはそういうことかもしれないね。喋るの上手いじゃん。英語も上手いじゃんって言われても、それは自分の下手な英語とか苦手なスピーチという行為から逃げるためのスピーチなんだよね。だからノンストップなわけだ。もちろんこれはノンネイティブ用のスピーチクラスなので、評価の基準が低いとか、色々なことが多めに見られるってことはあるにせよ、元々スピーチなんて出来ない俺にとってはそんなのどうでもいいことなんだよね。だから仮に将来、またプレゼンがあったとしても、また全く今までと同じような方法でやっていくわけだよ。で、それが成功するんだよね。変に上手くフォーマルにやろうとするよりよっぽど成功する。完全にフォーマルにやらないと評価されないなんていうシステムがあったら、それはスピーチ以外でも、例えば書くものしても音楽にしても様々な表現物にしても、俺は評価されないだろうな。そんなことは出来ないわけだから。だから俺がやれるところだけやればいいんだよね。それで上手くやってきたわけだから今後も成功するよね。


ってことでなんかさ、俺のこっちで生活ってちょっとしたドラマだよね。凄まじい過去があるので、まぁいつも書くことだけど、こっちで上手くいってることが奇跡的に輝くんだよね。パニック発作や欝などで外も出られなかったやつが、アメリカの大学のスピーチのクラスでスピーチをして上手くやってるなんてさ、それだけ見たらまるで成功物語みたいだよね。でも俺って確実にそういうのを地でいってる感じなんだよね。まぁ日々の生活は地味なんだけど、それはいつも書くように、俺みたいな精神的にも人格的にも逸脱したやつが普通にやっていけているというだけでもう感謝感謝なわけだよ。


ってのがまぁスピーチクラスだったわけだけど、上手く行ったという経験は凄いよね。仮にそれがまぁまぁだったとしても、それを褒めて上げられるのは自分しかいない以上、それは褒めてあげないとダメだし、それは子供が褒められることによって伸びるように、人間ってのは内面的な意味では常に子供なんだよね。それは自分が自分自信を子供の教育課程で有効と見なされるような、プリミティブなやり方で伸ばしていくということが重要なんだよね。


まぁそんな感じで今日はこの辺でね。あ、あとね、あれなんだよ。ウォークマンの出力が低いってのは前にも書いたよね?最大ボリュームでこんだけ?っていうさ、元のマスターのボリュームがそこまで高くないやつだと結構音が低いんだよね。で、なんとか音を上げられないかなぁー・・・ってことで音が低い、特に昔のCDみたいなのは一旦HDDに取り込んでリマスターとかしちゃったりなんかしてそれをRに焼いて聞いたりしてたんだけど、あるのね、そんなことをしなくても済むような商品が。っつーかI-PODのさ、アンプリファイアー+スプリッターみたいなやつがあってさ、ようはI-PODとヘッドフォンの間にそれをかまして音をデカくするわけだけど、誰かとI-PODで音楽を一緒に聞くことが無いような俺としては、その「スプリッター」ってのが余計で悲しくもあって、ただのアンプリファイアーだけでいいのにって思ってたらKOSSっつーメーカーのEQがあってさ、ウケるんだよ。これ。ロー・ミッド・ハイっつー3つのEQがフェーダーになってるような、ポケットEQみたいなやつでさ、しかもボリュームもコントロールできるんで、元の音をデカくしつつ、さらにEQで音をデカくできるみたいなね、だからもう俺にとっては夢のようなツールなわけだよ。I-Tuneのボリュームを最大にして、さらにイコライザーでDBをマックスまで上げているか、それ以上の音でウォークマンを聴けるわけ。ただまぁ外に音がモレモレで迷惑だけどね。日本だとダメだな。京王線とかヘッドフォンのボリュームは控えめにみたいなのが貼ってあるもんね。ニューヨークは例外ってわけじゃないんだけど、まぁそこまで酷く音をデカくしなけりゃー大丈夫だろうなって感じ。デフォルトで地下鉄はうるさいし、うるさい客も多いし、爆音で音楽聴いてるやつも多いんで、俺もまたそれらのone of themになれるんで、まぁだからって良いってわけじゃないんだけど、まぁーいいでしょーって感じ。


で、こないだちょーウケたのが、ボリュームを最大にしてZincのWatch the Rideってミックスをちょー爆音で聴いてたらさ、学校の帰りでね、向かいに座ってる黒人が妙にノッてるんだよね。で、そのノリかたが半端じゃない。座ってるのに「クラブか?」っていうような尋常じゃないノリかたをしている。で、俺はすぐに気がついたんだけど、この黒人、何も聴いてないんだよね。ヘッドフォンらしきものをしてないし、あのI-PODの白いコードだとかイヤフォンもない。で、俺はまぁ音は漏れてるっつーのを前提に聴いてるんで、見せびらかせるような、昔のニューヨークの地下鉄でレディオラキームみたいなやつがブームボックスでヒップホップを鳴らしてるような感覚で、俺は人に聴かせてもいいようなかっこいいミックスだとかを爆音で聴いてるんだけど、笑っちゃうのがニューヨークの地下鉄っつーかバスもそうなんだけど、コンポのマークにバツが書いてあるのね。ノースモーキングはタバコに赤いバツが書いてあるように、あのタバコに相当する記号の一つにコンポがあるのね。コンポにバツって!さすがはニューヨークだなと思ったよね。来たばっかりのときは。だって昔はレディオラキームみたいなやつがブームボックスを持ってヒップホップをガンガン鳴らしながら歩いてたわけじゃない?そういういきさつがあって迷惑なんで禁止になったんだよね。そんなカルチャーが無い日本にとっては、そんなことは禁止にならないよね。だって誰もやらないんだから。


マスターベーションをしてはいけません」みたいなのが電車に貼ってあるわけがないのと同じね。そこはさっきのラカンじゃないけど、禁止とか隠すということでその現存在を示しているわけよね。禁止されたということは、そこにそれがかつてはあったということを示唆しているわけだよね。逆説的で面白い。で、向かいのヘッドフォンをしてないのにノリノリな黒人に話を戻すと、よーくそのノリ方を観察すると俺の聴いているZincのWatch the Rideのムンベビートにピッタリなんだよね。え?俺のビートでノッているのかこいつは?しかも半端じゃないぞ!動きが!動きがビートにぴったりだぜ!おーすげー!目の前のブラザーの動きと俺のポータブルブームボックスが鳴らすビートがシンクロしている!!!これには本当にウケた。漏れてる音でノッているのかこいつは!というよりかは漏れている音でノレるぐらい俺のヘッドフォンの音がデカいというのを示しているわけで、「やっぱちょっとマズいな」とは思ったけど、でも気持ちいいんだよねー!すんげーかっこいいトラックとかを爆音でヘッドフォンでかけてそれを電車にいる人たちに間接的に聴かせるわけだよ。半ば強制的にね。だからかっこわるいようなやつは恥ずかしいから爆音でかけられないんだよね。いやね、ラジオラヒームの気持ちはよく分かるんだよね。俺。で、まぁこの時は俺はユーズレスなフレンチのクラスに疲れ果ててたんでその黒人が確実に俺のビートでノッているということを確認しつつ浅い眠りに落ちたんだけどね。


日本のみなさん、および良い子のみんなはマネをしないでね!ちなみに右翼の街宣車とか一人でラヒームみたいにブームボックスで軍歌を鳴らしつつ、メガフォンで演説をしながら歩いている変態右翼とかも心境は同じかもね。ラヒーム型は自分のビーツを聴かせるという自己顕示欲の現れで、馬鹿な右翼はそれが形骸化したイデオロギーっていうね。まぁ両方に共通して言えるのは迷惑だってことだね。


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ってことで今日はこの辺で。