他者性を受容できるか?

mimisemi2008-09-22

他者性というものを人間は許容できるのであろうか?なんて言ってみたりして。いやね、思ったんだけど、俺はまぁムフとかコノリーみたいな他者性を認めるどころか、むしろ社会にとって他者性というものが必要な要素であるみたいに考えるのが好きなんだけど、これっていうのは人間の本能から考えると無理な話というか、基本的に高度で知性的な認識のプロセスが介在しないと成立しないんだよねという理由のディティールが以下に説明されるであろー。


あれだね、人間というのは「差異」に敏感だよね。人間は差異によってアイデンティティを確立しているみたいなコノリーの議論に見られるように、基本的に人間ってのは差異に敏感なんだよ。というのはね、アイデンティティというのが後天的な要素によって作り出された相対的なものだとすればね、人間というのは他者との違いや比較でしか自分のことを認識できないってことなんだよね。人間というのは差異に何かを見つけるものなんだよね。それがポジティブであれネガティブであれ。そりゃそうだ。だって全部が黒だったらそれは黒い点の集まりなのではなく、一つの黒い塊だもんね。そこに白い点があることで、他の黒は一つ一つが自立しているように見える黒い点だったということが分かるようなものなんだよ。


ただそこで他者性に寛容であるみたいな意見の盲点は、その黒い点が一つか、もしくは部分部分に点在している白い点や他の色の点に対して寛容であることが出来るか?っていうことなんだよね。それは白いワイシャツについたシミみたいなもんで、全部が白だと汚れが目立つから落としたいって思うのと一緒でさ、他との違いというのは目立つんだよね。そこで汚れに対しても寛大であれというのはジョンケージの全ては音楽だというテーゼぐらい理解に苦しむものだとしか言いようがないわけ。音楽という枠組みだけで音を考えるのではなく、全ての音をそれとして聞くことですべてを聞くというパラダイムに変換するみたいなことは本当にコペルニクス的転換みたいなもんで大変なことだよ。そのきっかけを与える認識的材料が4:33だったわけだけど、これは音楽的認識における啓蒙と言えなくもない。ただ4:33という作品があったといったところで大半の人がそのパラダイムを理解しないか、知らないまま死んでいくのと同じようなもんで、他者性への寛容さという考え方もまた4:33的啓蒙なんだよね。さっきも書いたようにそこに知性的な認識のプロセスが必要なので、分からない人には一生分からないわけだよね。


多くの人は音楽のみを音楽として聞くわけで、サウンドスケープを音楽として知覚して聞いているやつなんて、その他大勢から見れば「違う」ただの変人だよね。そこでなんらかの社会的評価がくだされると一気に「天才」になる。音楽を音楽として聞くというバックグラウンドが後天的に与えられる近代的パラダイムであったとしても、それが大多数というのは変わらないよね。ただ他者性への寛容さというのはもっとやっかいで、そこに人間的本能があるんだよ。違うと「え?」と思ってしまう。目立つということに注目してしまう。俺なんかこっちでもそうだもんな。


見た目が異様だから異様な人が多いニューヨークでも目立ったままだったからね。前にも書いたようにニューヨークは括弧付きの「変な人」が多い場所で、そういった一旦括弧に入れられた変な人たちには寛大なんだよ。でもそれは異質なものに寛大というよりかは、ゲイや妙な格好の人がいるということが当たり前なので、もうそういった環境に慣れてしまっているから、それもまたニューヨークの一部として同化されているだけで、多元的ではないんだよね。そこで俺みたいなジャンル分け不可能なやつがいると、ゲイでもない、奇抜なファッションをしている人でもない、ようは異質なものなわけで、だから目立つんだよね。これこそがまさしく同化しない究極的な他者というか異質なものだと思う。じゃあ俺みたいなやつに対して寛大であれということはどういうことかというと「他者性は社会にとって必要なものだから、寛容することは善いことである」みたいな社会・政治的認識のプロセスが必要なんだよね。そこにイデオロギーが介在する必要があるわけ。異質なものに対して「なんだありゃ?」と即座に反応してしまう本能的な要素と人間の認識的要素に介在するイデオロギーが必要で、これは高度なことだよね。おそらく大半の人は無理だろうから、どこの国の人たちも異質なものに対しては排他的なはずだよ。


ガキの使いのサブの外人の使い方がよくこの「他者性」を上手く逆利用していて、普通の中学に黒人がいるとか、寺の坊さんが黒人だったりとか、アフリカ中央テレビのプロデューサーが日本語ペラペラだったりとか、その人間の「え?」と思ってしまう認識的プロセスを逆利用して笑いに変えているわけだけど、まぁ穿った見方をすればまぁ差別的であるということだよね。おそらくそれを見て反射的に笑ってしまうのが人間の本能なんだけど、そこをあえて道徳的に「差別的だ!」と笑いをこらえて怒るには、そこに左翼的イデオロギーだとか、倫理的イデオロギーが必要なんだよね。働くおっさん人形も同じね。あれを見せ物的で非道徳的だと言う人がいそうだけど、あれを笑うのが人間の本来の姿なんだよね。


そういった意味で他者性を受容するということは、このガキの使いのサブの外人や働くおっさん人形・劇場に対して道徳的に怒るという非本能的な行動を必要とするのと同じことなわけで、高度というかまぁ面倒なことなのね。やりましょうっつって誰もが出来るもんじゃない。前者に対しては「え?」って誰でも思って「なんだあいつ」って排他的になるだろうし、後者に対しては誰でも笑うと思う。それが普通。それじゃいけないんだよというのが他者性を受容するということなんだけど、それは無理だね。はっきりいって。繰り返しになるけど、それって人間の本能に反対しているわけだからね。だから残念ながらこれは頭の良い人が考えだした理念的イデオロギーでしかないんだよね。パンピーは理解できない。まぁ学校で教え込んだり、それを常識とすることが必要なのかもしれないけど、これはもう本当に根本的でラディカルな変革だよね。


でもこれを学校で教えたり常識としてしまうと、人間の考え方にまで社会なり国家が介入しているということでマルチな考え方に対して抑圧的になってしまうという逆説的なことにもなるよね。だからおそらく差別はいけないぐらいのレベルじゃないと人々は理解できない。それは一応コモンセンスとしてあるけど、差別というのは差異によって生み出されるものだから、それはさっきも書いたように人間の本能的なことなんだよね。だから社会的な振る舞いとしては「差別はいけない」という風に振る舞うけど、頭の中では常に差別意識が働いているわけだよね。


こないだのフランス語の授業でさ、またばかばかしいクラスだったんだけど、「どこの国から来ましたか?」みたいな質問をフランス語でやるみたいなので、いろんなバリエーションが必要なんで、俺も選ばれたんだよね。「シュンイチはジャポネぇーですかぁ?」みたいな。で、まぁ俺は「ウィ」なわけだけど、エリオットっつー絵に描いたような昔のアメリカンみたいなやつがいて、そいつが「はっはーあいつらは犬を食うんだろ?」なんて笑ってるわけ。で、他の奴らが「いや、日本じゃなくてそれは中国だろ」とかツッコミを入れてたりさ、まぁコミカレだから人間のレベルが低いというのはあるんだけど、それにしてもまぁーこのエリオットみたいな発言は極めて本能的な脳剥き出しの発言なわけだよね。そこで教育というディシプリンなり知性や倫理や理性というものがある人は心の中でそういった差別的な意識が表象しても、それらを駆使して表出はさせないわけだよね。それが無いやつはエリオットみたいになる。でも根本的にはみんなエリオットなんだよね。


日本人が韓国人とか中国人を差別するのと同じ感覚で、西洋人はアジア全般をオリエンタルな視点で見ているし、人によっては極めて差別的な意識で見ているわけ。これらを変えるにはどうしたらいいか?というともう教育とかそんなのは無理だから、世の中を変えるしかない。っつってもそこで世界革命とかって言うんじゃなくて、単純に歴史的なことで、例えばBRISKじゃないけど、今まで後進国だった国が経済的に伸びてきて、んで50年後ぐらいにはアメリカと並ばないにしてもまぁいい勝負になるわけじゃない?それは戦前の日本がアメリカのドミナントイデオロギーによって「天皇を祀る狂った全体主義国家」というレッテルを貼られたのにも関わらず、戦後のGHQのアメリカ式民主化政策によって復興して「たいしたもんだ」とかって思われたり「日本人はエコノミックアニマルで金持ちだ」みたいな、まぁまだ差別的ながらもちょっとは凄いみたいなイメージが出来たわけじゃない?


あとはアニメとか音楽とか日本の文化で凄いもんがあるんで、あえて差別的な言い方をしなくても正直に中立的に言ってやっぱり他のアジア諸国とはひと味違う凄さがあるみたいなイメージはあるよね。それによってちょっとは他の先進国と肩を並べたことによって、ジャップという軽蔑的な見方があるにしても、ちょっとは凄いみたいなイメージが出来上がったことで「ジャパニーズブランド」みたいな、例えば「Tokyo 」という言葉は人によっては「Paris」だとか「London」だとかと並ぶようになったのはまぁ一言で言ってやっぱり日本の底力というか、まぁ文化的威光によってだよね。まぁまだまだオリエンタルだけどね。


説明が無駄に長くなったけど、今のアングロサクソン的西洋文化がドミナントな存在であるということを覆すには、まぁムフとかの受け売りみたいになっちゃうけど、カウンターヘゲモニーの形成しかないんだよね。そこで俺がBRISK諸国を出したのは、今は後進国でも今後の経済的伸びによって、日本の過去の「狂った全体主義国家」みたいなイメージから「Tokyo」のイメージへの移行のようにまた、他のBRISK諸国にも日本で見られたような変化が訪れるかもしれないんだよね。そこで「インド人って金持ちで頭いいんだよな」みたいなね、今は手づかみでカレーを食う汚らしい人種みたいなオリエンタルで軽蔑的なイメージがあるとしても、文化的・経済的成長によって、それはまぁ観念レベルというかイメージレベルではあるんだけど、その差別がオリエンタリズムを含みながらも、さっき書いた日本における「Tokyo」みたいなイメージが形成される可能性はあるわけだよね。


そういった可能性が今の様々な後進国から立ち上がってくれば今ほどのドミナントな西洋文化ないしはサングロサクソン文化が幅を利かせることもないかもしれないんだよね。だからそういった意味で今って歴史的にも一番良い時期ではあるんだよ。だってただのオリエンタルな島国だった日本が経済的・文化的にも世界から認められて、まぁエリオットみたいなアホアホアメリカンは別としても、黄色人種のくせに健闘してるわけじゃない?だって今までなんて今よりもっと西洋文化っつーかアングロ文化がドミナントだったわけだからさ、そういう意味だと西洋文化というヘゲモニーに従属していたサバルタンがカウンターヘゲモニーを立ち上げて既存のヘゲモニーと競い合っていると言えなくもないよね。だから日本はアメリカの言いなりじゃダメなんだよ。そういった意味で俺はちょーパトリオットなのだが。だから個人単位というよりかは国家単位のアゴーンとしての政治というのがもっと顕著になれば、ドミナントな西洋文化に対抗する良い状況を生み出すんじゃないかと思うわけ。


んだからまぁそんな意味で前にも書いたように、そこで妙に鎖国的になってんで国がヤバいからっつって国を甘やかすとかそんなんじゃなくて、ヘゲモニー確立のために他とは常に闘技状態を続けなきゃいけないんだよね。そういった意味でのグローバリゼーション的展開を特に後進諸国はしていけばいいと思うんだよね。国際的孤立よりかは国際的自立、もしくは自律なんだよね。だから英語を勉強しないとか、自分の国の文化を守るとかって馬鹿なことを言っている似而非ナショナリストは彼らの憂国精神が極めて有毒精神なんだよということを知るべきだね。他のヘゲモニーに対して丸腰なままで鎖国的に伝統に見えるような見せかけの伝統を守っても意味が無い。むしろ侵略してくるヘゲモニーに対して対抗しなきゃいけないわけだよね。そういった意味での国際的なアゴーンとしての政治が必要なわけで。


だからそこにあるのは他者性への受容じゃなくて闘争なんだよね。分かり合うのではなくっつーか分かり合うのは無理だし、受容し合うのは無理なんだから、個々が独立しなきゃいけないわけよね。そこで共通の利害なりなんなりがあって打算的に受容があったりなかったりするってほうがよっぽどリアリスティックでしょ?その利害を共有するためには同じポジションに立たなきゃいけないわけで、だからまずドミナントヘゲモニー、ようはアングロ文化・西洋文化への対抗が必要なんだよね。同化したかったら同化してもいいし、したくなかったらやつらに馬鹿にされないように頑張れってことだ。まさに今の日本に必要なことってそういうことだよね。


長くなったけど今日はそんな感じで。