ニート、パラサイト、プロレタリア。さいご。

mimisemi2008-11-30

はい。では続きです。これが最後です。


アメリカでもこの期に及んでまだマケインに入れるバイブル圏の連中とかさ、自民党を応援し続けるアホ共とかさ、投票権剥奪しないとダメだよ。ああいうのがいるから悪政が栄えるわけよ。そこにあるのは彼らの排除だけど、彼らが政治を悪くしているのは目に見えているんだからさ、その悪政があくどいやり方を出来なくするような処置が必要だよね。それが市民エリートの育成だし、選ばれしものの一票だと思うんだよね。だから裁判員制度にしても、仮に世の中にアマチュア裁判官みたいなさ、俺がさっき書いた政治的ロゴスを持つ人達みたいなね、法律とかにちょっと詳しくてバックグラウンドがあって・・・みたいな選ばれた人達が裁判員をアトランダムに引き受けるならいいと思うんだよ。まぁその日本が決めた特殊な裁判員システムの方法論はともかく、その大枠の話ね。例えば裁判官系に詳しいジャーナリストとかさ、ライターとかさ、そういう裁判におけるロゴスを持った人達が、権力には迎合しない独立したジャッジメントを下せるようなシステムが出来れば、それはちょっとは民主主義的なんじゃないの?ようはその「民主」の部分の「民」を担えるぐらいの人が裁判官をやるわけだからね、それはいいんじゃないかと思う。ただダメで頭の悪いドッグヴィルを含んだ民主主義というタームで裁判員制度を考えると、モロンレベルの連中が恣意的でわけのわからないジャッジをする可能性もあるわけで、だからさっき書いたように、ドッグヴィルも含めたのが民主主義だ!なんていう高尚な考えはもうやめちゃったほうがいいんだよ。彼らには務まらないし、彼らが務めたところでそれは害悪でしかないんだから、そこは排除するしか無い。さっきから散々書いていることと同じだけど、同じ意味で選挙権もまた然りというわけね。


いきなり思い出したんだけど、高速道路を逆走するボケ老人の事件なんかを見て、うちの親がこんなことを言ったことがあった。「こんな老人に免許持たせたらダメだよ」ってのは明らかに言えていることだと思う。いや、このボケ老人はかつては敏腕ドライバーだったのかもしれない。ただ高速道路を逆走するぐらい判断力が鈍っているんじゃ、このボケ老人の運転する車は爆弾を運んでいるようなもんだろう。ここで平等主義者は明らかに反対意見を言うだろうけど、いや、ダメだよ。選ばないとダメ。みんな平等なんてのはありえないんだから、車の免許にしたって、その人の知性に応じて考えなきゃいけないだろう。誰もがパスできるようなテストを受ければ免許を取れるようになるとどうなるか?といえば短絡的過ぎるかもしれないけど、アホドライバー達による事故の多発・誘発だよね。ニューヨークの荒っぽいダメそうなタクシーの運ちゃんとかを見ていると本当にそう感じる。これと同じことで誰もが人間を裁く機会があるとすれば、アホなキャバ嬢が「だってあいつキモかったんだもん」なんて理由で有罪にしかねないんだよ。政治のポピュリズムも同じね。「純ちゃーん」って演説カーに向かって言ってたようなクソババアも俺らと同じ一票を持っているわけで、こんなクソババアが一票持ってたらいけないんだよ。


政治家は特にあの悪魔の経済学者、竹中平蔵みたいなのがアホマーケティング手法を知り尽くしているんだから、ポピュリズムが政権を握る上で一番有効なのは言うまでもない。メディア利用という意味ではナチスゲッベルスまでさかのぼるんだよ。B層みたいなのがポピュリズムに騙されるのなら、B層から投票権剥奪すれば、ポピュリズムの威力は薄れるよね。こういうところに民主主義のパラドックスがあるんだよ。それはムフ的な意味じゃなくて、民主主義というデカイ理念を貫徹させようとすると、アホな国民というのも含まないといけないので、それらに関連した諸問題が吹き荒れて、結果、悪政が蔓延るわけで、これは時代が繰り返してきたことだよね。マキャベリ君主論を出すまでもない。政治家の素質というのが権力を握るためには何でもする悪魔なんだとすればね、マキャベリ君主論みたいなプラクティカル現実的な政治的手法を取りつつ、そこにあるイデオロギーというのはさっき書いたような共通善を目的とするようなね、ようは市民社会を成熟させるような理念があるイデオロギーの布置のためにプラクティカルな政治的手法を使うっていうね、まぁそれがさっき書いた共通善ヘゲモニーなんだな。まぁ全体主義だけどね。でもそれは一時的なことであって、それは市民社会への移行のステップでしかないというのはさっき書いたから繰り返さないね。


ようは簡単なことだ。ちゃんとした政治をやる連中が政治をやって、まともなことを言うプロパガンダを出して国民を善のほうに洗脳すればいいわけだ。洗脳というと聞こえは悪いけど、それはまぁ教育なんだよ。善を教える教育よ。貧困は良くないだの機会の平等の重要性を語るだのなんだのっていう、ようはリベラルなイデオロギーを広めるってことだね。それはまぁある意味でリベラル的全体主義なんだけどね。でもその布置されるイデオロギーの中に多元主義の重要性なんかも含まれるわけでさ、結果的にそれは全体主義的な方法論で、全体主義とはほど遠い民主主義社会を目指すってことなんだよね。いや、まぁ別に教育というかイデオロギーの洗脳を政府がやる必要は無いんだけどね。でもまぁ教育というのがランシエール風のThe distribution of sensibleの布置ならね、それはまぁ手法的にはプロパガンダ的かもしれないが、まさしくそれはランシエールの言う政治であるわけだよね。コンセンサス形式のプロセスという意味でのポリスの構成要素の大前提となっているThe distribution of sensibleを見極めながら、その中に常に係争を生み出すという運動は、まさしく多元的政治そのものでしょう。


政治を見極める感性的なものの布置が大前提として行われた上でもなおかつそこに係争なりアゴーンとしての民主主義が存在する。そこにあるのはマルクス主義的悪夢の平等性ではなく、多元性なんだよね。つまりポリスの中でも常に様々な政治的アソシエーション内での討議があり、究極的に言えば、そこに合意形成なんてのもは存在しない。あるのは政治的ロゴスを持った人達による討議なのであってその討議、もしくは闘技の中で多元的民主主義というのが維持されつつ、様々なものが止揚されたり平行線上をキープしたりして、社会が育っていくんだけど、その一連の運動のヘリテージが次の世代にも脈々と続いて行けば、洗練された民主主義が可能かもしれないよね。何世代かかるか分からないけども。そこで陣地戦が既存のヘゲモニー内で常に起こっていけば、そこにあるのはもう進歩だけだよね。素晴らしいサイクルだよね。これは。もちろん理念的だけどね。なぜ共通善を持ったヘゲモニーに陣地戦が必要なのか?というと、そこに合意形成が無いからなんだよね。常に政治的闘争が様々な派閥で起こっているんだよ。でもそれは建設的なイデオロギー戦争だと思うけどね。ってことでこんな大それたことを担うひとはエリートしかいない。だからやはり政治にはエリートが必要なんです。


ちなみに共通善についてだけど、これは全ての国民が最終的には国家に服従するみたいな全体主義的な話ではなく、まぁ俺のタームだとね、ようは人々が政治的であることというのがまぁ大雑把に言えば善なのね。凄くこれは大まかな概念で、つまりは国家や市民社会について考える、もしくはコントリビュートすることが結果的に自分たちのコミュニティーや個々の生活を支えるということになるというような、基本的な政治的認識ね。だからイデオロギーはなんでもいいわけ。極端な話、アジア主義だろうがコスモポリタニズムだろうが、基本的に彼らが何を良しとして政治にコミットするのか?というのが常に考察されているという状態を善と仮定するわけね。で、デリダの受け売りになるけど、平等とか民主主義とか貧困の根絶っていう、まぁ基本的には無理かもしれないけど、理念的にはコミットしていく価値があるものというのを、規定概念として常に追っていくわけね。もちろんそこには人種差別や男尊女卑の自由なんかが無いかもしれないけど、それは当然排除されるものとして認識されているということが善なわけ。ようは政治的な枠組みの大前提ということね。で、建前の平等と民主主義に関してなんだけど、それはまた別の機会に書きますね。また例によって長くなりそうなので。


では今日はこの辺で。


PS


政治の主体性をエリートや国家などによるパターナリズムによって植え付けるってのは、まぁ洗脳そのものだけど、教育ってそもそもそういうもんなんじゃないのかな?洗脳とまでは言わないけど、最低限の善なる感性を布置するのが教育だよね。ちょっと違うんだけど、まぁ似たようなことをリチャード・ローティーも言ってたよね。ちょっとまだあれだ、まとまってないからまた今度書くわ。


Purposemaker Compilation

Purposemaker Compilation

これの原曲が学校の近くサブウェイでかかってて、黒人の姉ちゃんが歌ってたんだけど、こっちって基本的な音楽レベルが高いよね。やっぱ。嬉しくなるよね。gipsy womanをラジオに合わせて歌ってる姉ちゃんがいるなんて最高だよね。