分かりづらく書く意味ってあるの?

mimisemi2008-12-01

またエッセイのやり直しだったわけだけど、俺の一番の問題はやはり何かを英語で書くことなので、英語を書くことに関してはマゾキスティックにやらなきゃいけない。ってことでやり直しっつっても、それをむしろありがたい添削として受け止めて真摯にやり直しに努めたわけだけど、なんかね、やっぱ文法のマイナーミステイクが多いんだよね。俺。まぁ英語始めて二年ぐらいの人は大体そうだと思うんだけど、文法を使いこなすのって大変だよ。マジで。その言語で育ってきてないからね。それが自然になるっつー状態に持って行くのは本当に難しい。人によっては一生不可能って人も少なくない。


あ、まぁそれはとにかくね、初歩的なグラマーブックとかはさすがにもう読む必要がないんで、ネイティブ向けのグラマーの本を買ったのね。ようは英語がネイティブランゲージでもよくあるミステイクとか、実際はミステイクなのにそうは見なされていないやつとかね、相当文法に関して厳密に書いてあるやつなんだけど、それと同時にね、面白そうな本を見つけたのよ。同じライティング系のリファレンスのコーナーにあった本で、Writing for Social Scientistsという本なんだけど、これって別に社会学者向けの本じゃなくて、学生全般に良い本なんだよね。割と有名な本らしく、プロのライターとかも「この本に救われた」なんて言ってる人もいるぐらい。まぁそれはともかくね、オリジナルは86年に出版されてて、まぁ俺が買ったのは最近出たアップデートバージョンなんだけど、アメリカってのは俺が普段から書いているように、特にこないだも批判したジャーゴンとか分かりづらいレトリックを多用するような、大陸系に多い悪癖に
ついて本当にクリティカルなんだよね。


この本の切れ味は凄いよ。社会学者の文章は悪いのが多いなんて喝破しててさ、まぁ社会学者だけじゃなくてあれなんだけどね、アカデミック系全般に言えるような、ようはスマートに見えたり洗練されたように見えるような言葉を使うということに腐心している文章がアカデミアでは多いっていうようなね、まぁこれも普段から書いてることだけど、アメリカってのはこういう批判が本当に根強いんだなと痛感したと共に、特に最近は前にも書いたようにランシエールとかクリッチリーみたいな本を読んでてもう本当に疲れてたからね、本当にそうだよなって思っちゃったわけよ。


晦渋に書かなければ伝わらないこともあるかもしれないけど、でも大半はもっと簡単に言えることが多いんだよね。割合で言えば9対1ぐらいだろう。で、この本ではなぜ学生がそういう難しそうな本にあこがれを抱いて真似してしまうのか?なんてのも分析的に書かれてて本当に面白いから是非、洋書を読める人は読んでほしいんだけど、あんま内容は書きたくないんだけど、特筆するべきはね、まぁこの著者が社会学者というのもあるんだけど、ナイスな分析だなと思ったのがね、まぁ割と単純な分析なんだけどなるほどって思ったのが、ようはアカデミアってのが、そういうようないかにスマートに見せるかを競うような知の欺瞞を争うようなコロシアムになっちゃってるからね、ようは例えばアカデミアにこれから入ろうと思っている生徒は彼らみたいにならないとダメだと勘違いしちゃって、だからそういうやり方を真似ちゃうっていうことなんだけど、これって丸山真男の蛸壺化理論に似てるよねというか同じだよね。ようは狭い世界のアカデミアだのその業界だのでやっていくためには、その業界でしか通じないようなジャーゴンを使うことがむしろウェルカムなことで、しかもそういったその業界でしか通じないような言葉をいかに巧みに使うかというのが、その業界でやっていく一つの重要なポイントであるみたいなことってさ、とんねるずとかが昔、テレビマンの業界用語を面白おかしく使ってたことがあるけど、ようはああいうさ、ギロッポンでパイオツカイデーのデルモのチャンネーとチョメチョメみたいなのを知的にしたのが大陸系哲学の文章だよね。まぁ大陸系哲学の全部がそうとは言わないけど、さっき例を出したようなランシエールとかが好むようなわけの分からないレトリックとかってのも、ようは構造自体はテレビマンのそれと一緒なんだよね。それが知識人のステータスであるというのが当たり前の業界でやってきてるんでああいうような素人には分かりづらい文章になっちゃう。


これはソーカルも書いているように、例えば例えとかレトリックにしても、その説明したいこと自体が分かりづらいことなので、分かりやすい例えで説明するというのが目的なわけで逆なわけはないんだよ。その辺をふまえて成功したのがジジェクだと思うね。ジジェクはもろにインテリの逆をやってスターになった感じがある。ジジェク自体のサブジェクトは難解なのが多くて、例えばそもそもラカンなんてのが分かりづらいものの代表みたいなもんだし、同じ業界の連中っつってもジュディス・バトラーとかランシエールとかラクラウとか、よくも悪くも大陸系の哲学を引き継いでやってるような、パンピーには分かりづらいような連中が多いんだけど、ジジェクの場合、そういう分かりづらいものを例えばハリウッド映画に例えてみたり、日常的にある、所謂「あるある」系で小難しい概念を説明したりすることに長けているので、だからスターになったんだと思うんだよね。まぁあとあのキャラクターもあるし、やっぱ受け入れられやすさだよね。そういう意味でまぁジジェクの文章自体が簡単とは言えないけど、難しいことをなるべく簡略化して説明しようとする態度というのは、本来の知識人を役目を果たしているという意味で評価できると思うんだけど、日本も酷いよね。


日本もニューアカを引きずってたり、知的な文章に見せることに腐心しているような自称知識人が凄く多い。もっとも最近の新書なんかを読んでいると、ちゃんとした知識人がパンピーに分かりやすく難しい哲学とか概念を説明しているような本が多いなって思うんで、それはそれでいいことなんだけど、特に呆れたのを今日は書きたいと思ったのがね、NHK出版から出ているシリーズ・哲学のエッセンスという哲学入門書シリーズみたいなやつがあるんだけど、それのデリダのやつがあるんだけどね、著者は斎藤慶典っつーんだけど、このおっさん酷いんだよ。文章が。何が酷いってね、これって入門書シリーズなんだけどさ、デリダの説明をしなきゃいけないのに、デリダと対話しちゃってるんだよ。ようはデリダのアイデアを説明するのに、一方的な故人であるジャックデリダへの手紙なんていう無駄に詩的な形式を取って文章を書いているんだけど、これが読みづらいんだわ。なんでこのおっさんがこういうやり方を選んでいるのか
本当に理解に苦しむ。俺の勝手な想定だと、デリダみたいな大陸系哲学を代表するようなね、ましてや分かりづらい文章を書くような人の研究をしてる人って、さっきの無知な生徒の勘違いみたいなのを、彼らも学生時代に経験していたと思うんだよね。


ようは学生の頃にポストモダンとかデリダみたいなのを読んで、こういう文章を書けるようになるとかっこいいだとか、こういう文書を書けるようになるのが学者になるための条件なのだみたいに勘違いしちゃって、大陸系の哲学者の悪い晦渋な文章がミメーシスしちゃってるんだよね。だから大抵、他のやつにしても、例えば哲学の現代を読むっていう白水社から出ているこれまた哲学の入門書みたいなシリーズでもね、ドゥルーズのやつなんかが酷いのはね、ドゥルーズみたいな分かりづらい文章を解体すること無く、同じような文章と文体で説明してるのね。しかも鼻につく詩的な言い回しとか分かりづらいレトリックだらけでさ、これも完全にドゥルーズが著者にミメーシスしちゃった結果なんだよね。言ってる意味分かるでしょ?ポストモダンみたいなのを研究している連中は、またその研究主題のコロラリーに自動的に入っちゃってるっていうね、思うにデリダにしてもドゥルーズにしても、それが入門書のような体系を取っている以上、プレーンで分かりやすい文章で説明しなきゃいけないと思うし、そっちのほうが建設的だと思うんだよね。あと平坦に説明できればその本の価値も上がると思うんだよ。ちなみにさっきのNHK出版の入門書シリーズに関しては読みやすくて分かりやすいのもあるんだよね。


例えば名前がうろ覚えなんだけど、確か上野修って人のやつだったと思うんだけど、この人のスピノザ入門書系は本当に分かりやすい。読んでて著者に好感が持てるぐらい、無知な読者にガイドラインを与えてくれてるんだよね。これこそがまさしく知識人の役目だと思うんだよ。繰り返しになるけど、その正反対がさっきの斎藤というおっさんとか、ドゥルーズの本を書いている若い研究者二人とかなのね。いや、デリダのやつは本当に酷い哲学者ならぬ哲学学者の悪癖がモロに出てるような本なんで、気がついたら書店で立ち読みでもしてほしいと思う。本当に酷いから。読者に喧嘩を売っているとしか思えないような読みづらい文章っつーか読みづらいフォーマットを取ってるんだよ。どういう目的?クリスティバだったかがさ、過去に詩と思想の融合だかを試みたらしいけど、これも酷い話だよな。ましてや政治哲学みたいな政治学とか社会学みたいな、ソーシャルサイエンスとリンクしているような、割と科学的な分類の学問に詩を混ぜるなんて最悪だと思うんだよね。


ってことで次回に続きます。

スピノザの世界―神あるいは自然 (講談社現代新書)

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↑良い入門書のお手本。

デリダ―なぜ「脱‐構築」は正義なのか (シリーズ・哲学のエッセンス)

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↑悪い入門書のお手本(仮に入門書じゃなかったとしても、どの道悪文に満ちた悪書)