分かりづらく書く意味ってあるの?さいご。

mimisemi2008-12-02

はい。では続きです。


社会の構造なりさ、権力の力学を説明するのに、例えばランボーみたいな分けの分からない詩を使う必要性ってあると思う?むしろ権力の力学を説明しようとするなら、読者に分かりづらく説明しなきゃダメでしょ。というのはね、哲学を詩でやるみたいな、あくまでそれが詩というフォーマットでなされているものならいいんだよ。それは詩だからね。たださ、一応さ、タイトルが権力のどうのとかって言ってるなら、それを伝えないとダメだよね。肝心なところをぼやかしたり抽象的な言い回しとかをするのってなんの意味も無いよね。読者は混乱するだけで、そこにあるのは著者の知的欺瞞だけなんだよ。「どうだ!かっこいいだろう!」というような、ゴダール的な衒学性丸出し。だから哲学とか政治学とかって暇人がやる学問になっちゃうんだと思うんだよ。そういう著者とか哲学者の知的欺瞞に付き合えるような暇がある人じゃないとやれなくなる。ってことで自動的にそういう知的欺瞞万歳!みたいなね、むしろそういうことでしか自分の実存を肯定できないようなダメな連中が、そういう学問に傾くようになるんだよね。


モテない、イケてない、センス悪いみたいなダメなやつが、そのルサンチマンを武器に、詩的で知的な文章を哲学なり社会科学の分野で書くことで、自分を誇示しようとするような悪いスパイラルってのが形成されてると思うんだよね。だから学者っつーか研究者ってダメそうなやつが多くなるし、白い巨塔に籠るような、蛸壺的なアカデミアで、そのサークルだけで理解できるような言い回しとかを使いつつ、社会に貢献すること無く自己満足で終わっちゃうんだよね。思うに哲学みたいな学問の現実に対する無力さの原因の一つってこういうところにあると思うんだよ。「いや、哲学って素晴らしいんですよ!」とかさ「この哲学者は分かりづらい書き方をしてるけど、実は凄い思想が隠されているんですよ!」とかってのを明らかにすれば、別に晦渋な文章を読み解くことに慣れていない人でも彼らが書いた入門書を通してその哲学に近づくようになるかもしれないし、それが出来たら、まぁ変な言い方になるけど哲学が社会にコントリビュートすることになると思うんだよね。ようはまぁ啓蒙というと大げさだけど、マイナーで分かりづらかったものを劣化させること無くクリアにすることでメジャーに出来たらそれって凄いことだと思わない?たださっきの斎藤とかドゥルーズの研究者とかは、デリダとかドゥルーズがやってたような、伝えることに力を入れないオナニー的な文章の反復を行うだけでさ、なんの貢献もしてないよね。


だから若い世代ってのは「もうそんな知的欺瞞にはうんざりだ!」って言っていかないとダメだよね。まぁそれが安易なソーカリズムになっちゃいけないんだよ。分かりづらいのと地頭が足りないので理解できないというのは全然違うことだからね。だから分からないことを「著者の書き方が悪い」と安易に決めつけるのはよくない。ただ「分かりづらい文章を書く著者ってのはどうなんだろう?」と疑問を抱くのはいいことだよね。なんでこれがいいことなのか?っていうと、同じ知的欺瞞をしようとするような読者ってのは、分かりづらい本をあたかも理解したかのように振る舞うことで、また自分の知的ステータスをアピールしようとするような風潮があるんだよ。つまり、こういう人達のサークルでは「分かりづらい」なんて言うことがタブーなんだよね。恐らく。そんなことを言うと自分のインテリジェンスを疑われてしまうので、分かったようなふりをする。もしくは凄まじい読解の末に理解したものを、あたかもスラッと理解したかのように振る舞う。「みなさんもご存知のようにドゥルーズがですね・・・・」なんて説明するわけよ。


ドゥルーズなんてみなさんがご存知じゃないだろう。ただ知ってて当たり前だよね?なんていいかたをすることで、自分の知性を自慢したいんだよね。本人はそれがステータスだと思ってるんで、こういう連中ってのは下手な知性を持った馬鹿だと言えるよね。下手すると真性の馬鹿よりタチが悪いかもしれない。真性の馬鹿は微笑ましい馬鹿な振る舞いをするだけで済むかもしれないけど、知的な馬鹿ってのは鼻につく振る舞いしかしないと思うんだよねっていうのさ、さっき書いたような「みなさんもご存知のように・・・」みたいな言い方とか、そういう知的欺瞞を継承することで生まれるその業界でのpeer pressureね。「もちろんご存知ですよね?」という言い方をすることで、相手との競争を計るわけ。で、喧嘩を売られたほうも分かったフリをする。こういう知的欺瞞の悪いサイクルがアカデミアを支配しちゃってるんで、基本的に中身が腐ってるんだよね。だから使い物にならないのが多くなる。さっきも書いたように、そのアカデミアでやっていくことの条件が、そういうような知的欺瞞の振る舞いをすることであったり、知的に見える欺瞞的な文章を書くことであったりして、ようはテレビ業界みたいな俗悪な業界とあんまり変わらないんだよね。で、同じような酷い蛸壺化を日本のDJカルチャーに感じるというのは前にも書いたからここでは繰り返さないね。また死ぬほど長くなるのでっつーかすでにもう長いけどね。


とにかく俺はそういうのにうんざりなんだよ。でもこういうとさ、孤立するんだよね。やってける場所が無くなる。どっかの蛸壺に入らないとメシが食えないって最悪なことだよね。左翼業界とか右翼業界とかさ、アカデミック業界とかテレビ業界とかさ、そういううさんくさい業界でやっていく振る舞い方というのを身につけないとオマンマが食えないって最悪だよね。徒党を組むやつって大体レベル低いから、業界そのものがそれに迎合する烏合の衆の塊みたいになっちゃうんだよね。だから相対的にレベルが下がっちゃう。で、本当に凄い人ってのは勝手に出てくるんだよね。そういう狭い業界とは関係ないところから出てくる。それは廣松渉が言ってたような、本当の知識人は野原から出てくるだったかな?野原じゃないか。FF2じゃないんだから。まぁつまりその辺から出てくるってことね。ようはその存在自体が独立したものとして出てくるってことね。


で、時が経つとフォロワーがその凄い存在に関する研究とかをし始めて、んで徒党を組み始めて、んでその学派みたいなのが生まれるんだよね。そういうのって学派の元となった思想家なり学者とはかなりかけ離れたものであったりすることもあるんだよね。それはマルクスマルキストじゃないのと同じロジックね。本当に凄い人以外は注目を集めないでさ、で、中途半端に凄い人ってのは孤立して忘れられちゃうんだよね。アメリカでも著書は結構あるんだけど、アカデミアからは黙殺されてるような人って結構いるんだよ。中途半端に頭が良いフォロワーのみが、その蛸壺でやってけるとなると、各業界のレベルが下がるのは必然だよね。だって本当に凄い人って彼らにとっては迷惑な存在なんだから。例えばさっきの斎藤なんたらっておっさんが学校の先生だったら最悪だよね。あんな文章を書くようなのが先生だったら悲劇だよ。あんな文章を書くやつだから、生徒もそれに迎合して似たような分かりづらいレトリカルな文章を書いたりするんだろうな。で、この斎藤なんたらっておっさんが、レトリカルで晦渋な文章を書く「優秀」な生徒を推薦したりして、んでこういうダメなフォロワーが研究員とかになって、アカデミアに寄生するんだよね。


で、その斎藤なんたらに気に入られた若い研究者ってのも同じようなことをするので、結果的にその業界自体が同じようなサイクルを辿るようになっちゃうわけ。まぁこれって構造的なことだから、それって似たようなことが政府とか企業とか色んな各業界に言えるかもしれないけどね。まぁ常にその基準が変わらないっつーのかな?何しろそれを担う連中ってのが、既存のシステムの中に住み着いてやっているやつらなんで、そいつらに歓迎されるやつってのがそういう業界でやっていけるようになるから、当然のことながら似たような連中が後を担うことになるんだよね。最低のサイクルだな。本当に。勝手な推測だけど日本のアカデミアってこういうのが著しく酷いと思うんだよ。まだアメリカののほうがマシだと思うんだよね。アメリカは流動性が高いって言うし。まぁ研究員とかアカデミシャンにとっては安住できるってわけじゃなくなるんで都合の悪いことかもしれないけど、全体そのものを考えるとアカデミックな業界における流動性というのはいわば潤滑油みたいなもんだよね。まぁメンター制度の是非に関してはまた色々あるとは思うんだけど。


ってことでとりあえず終わり。


PS。


そうそう。書き忘れてたんだけど、アートの授業でダダについてのリサーチペーパー書かなきゃいけなくて、んでもう締め切りが近いんで、誰かダダイズムの要約を書き込んでください。まぁ半分冗談かもしれなくもないですけどね。出来れば英語で。締め切りは12月3日です。

Modern Mantra

Modern Mantra

っつーかこれね。

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