余命1ヶ月の花嫁について。

mimisemi2008-12-03

余命一ヶ月の花嫁だったっけ?最近ネットの調子が良いんで、なんか久々に動画系のサイト巡りをしてたらさ、これがやらせだったとかいう話があってさ、んでなんか色々調べてみたんだけど、この花嫁が素人もののAVに出てたらしいんだよね。それとやらせの繋がりがよく分からないんだけど、実際にこの人はガンで死んじゃったんだよね。で、批判はこの花嫁がAV女優だったと。AV女優まがいがガン患者のフリをしてドキュメンタリーに出演してたならまだしも、まぁ実際、この人は闘病をしてたんだよね。まぁここでTBSの介入がどういう理由であったのかは分からないんだけど、とりあえず俺が書きたいことはこのことの詳細ではなく、この事柄についてね。


まぁあれだ、ドキュメンタリーがあったとしよう。みんなが泣いてしまうようなね。で、この主人公は最後に死んでしまうんだけど、この人の死後に色々なことが発覚して、例えばこの主人公がAV女優なり風俗嬢だったとしよう。でもこれって別にガン闘病との関係性って一切無いよね。ドキュメンタリーってのは事柄を美しく描いたりするもんだから出演者全てがイノセントでピュアな人間に見えてくるけど、それはただの演出なんであってさ、若くしてガンで死んでいる人なんて世界中どこにでもいるし、それこそテロだとか空爆で死んでる人だっていっぱいいる。「なんで彼女が?」ということを言いだしたら、ドキュメンタリーが何万本も取れちゃう。だから別に彼女のケースってのはそこまで珍しいものではないんだよね。ただまぁこれを感動のストーリーに仕立てるためにまぁ番組とかが介入するわけじゃない?そこでただの人生が物語化するんだよね。伝記とか自伝なんかも全部そう。それまではただのその人の人生だったのが、描き方によってドラマティックになったりする。でもこれは錯覚で、はっきりいってどんな平凡な人の人生だって、人生単位で見ればドラマティックなことは少なからずあるわけで、そこだけを抽出してその人の自伝を仕立て上げたら、それはドラマティックな自伝になるよね。物語の誕生ってわけだ。


このAV出演歴があったガン患者も全く同じだよね。AVに出たことのある女の子がガンで一気に死んじゃった。で、それをドラマティックに描くことで物語が生まれる。で、それを元にシミュラクラが生まれて映画化されたりする。このシミュラクラというのがポイントで、この概念のポイントは現実のように見える幻想なんだよね。ようは現実のように見える偽物が勝手に生産されて出回ったりして、んで最終的に本当の現実というか本物のそれと偽物のそれが分からなくなっちゃうようなことを言うわけね。ボードリヤールがディズニーランドを例に出して、あれは典型的なシミュレーショニズムだと言っているんだけど、まさしくその通りで、ディズニーの世界というのはおとぎ話だよね。でもそのおとぎ話で構成されたリアルな建物やアトラクションやキャラクターってのが3次元で存在することで、人間のリアルな知覚を通してファンタジーを体験できるわけよね。でもまぁそれは実際は存在しないのは自明だけどね。


誰もが経験したことがあると思うんだけど、ディズニーランドの帰りってのは寂しいんだよね。ってのは最高に楽しかった事柄が現実じゃなかったってことを子供心とかにでも痛感するからなんだよね。明日からはミッキーやドナルドではなく、嫌な同級生と教師と顔を合わせて付き合っていかなきゃいけない。こういう辛い現実があるからこそ、ファンタジーが成立すると言えなくもない。つまりは、そういった現実が人間に現実から逃れられる方法というのを求めたがるような欲求を生むんだよね。大人になればその物語がセックスやドラッグや酒になるのは言うまでもない。


さて、この人に話を戻すとね、この人の合意があってドキュメンタリーが作られたのかどうかは分からないっつーか、この人の生前の知り合いの入れ知恵でドキュメンタリー化の話があったとか無かったとかってことなんだけど、この人にしたらさ、自分は自分の人生を生きてて、辛い闘病をしてきたのに勝手におとぎの世界のキャラクターみたいに美化されちゃってさ、で、この状況ってのは実はミッキーの中に入っているのはバイトのおっさんでしたってのが分かった途端に人々が落胆しているようなもんなんだよ。ミッキーから言わせてもらえば勘弁してくれよって感じだと思う。こっちだって仕事でやってるんだからさ、最初からミッキーなんてのはいないって分かっててみんなディズニーランドに来てるわけでしょ?中の人がおっさんだろうがなんだろうが関係ないじゃないって話だよね。この死んだ人にしても同じだろう。自分はガンで辛い思いをしてきたのに、死後にそれを勝手に美化してドキュメンタリー化してさ、まぁそれが美化という名のファンタジーのまま成功してれば良かったものの、AVに出演していたとかダーティーな一面をほじくりかえすことでさ、「がっかりした」とかって言われてもね、勘弁してくれよって話だよね。


ドキュメンタリーを完全に見たわけじゃないからなんとも言えないんだけど、恐らくドキュメンタリーで描かれているイノセントさとピュアさとAVに出ていたというダーティーな現実との乖離が鑑賞者を幻滅させたわけだよね。でも物語なんてのは元々そんなもんでしょ?ニーチェが言ってたように、人の死後ってのはなんでも美化されて偉大化されるのよ。たいしたことなかった漫才師も追悼の時だけ特集が組まれて、まるで伝説の漫才師のように扱われる。で、それが風化したら忘れられるっていうね。下手するとこの死後に作られた死を美化するような番組のおかげでその人が伝説化しちゃうと、その人も生前の平凡でつまらない漫才とはかけ離れて伝説の人になっちゃうよね。でもこれってのは昔から繰り返されてきたことだよね。なんでも死後にデカくなって、それが勝手に肥大化して偉大なものになっちゃう。で、誰も元ネタを知る者はいなくなっちゃう。前に書いた民間伝承が伝説化する話と一緒ね。典型的なシミュラクラムというか、シミュラークルね。


逆を言えば、パブリックな面で見たらダーティーに見えても私生活はすげーイノセントって人だっているだろう。すんげーダーティーな商売をやってたり、それこそAVとかでもいいんだけど、AVの撮影の後に、家に帰ったら病気の両親を介護してたりさ、それこそ誰も知らないようなところで凄まじい親孝行だのさ、子育てだのさ、それこそ密着すればドキュメンタリーが出来そうな素材なんて語られないところでいっぱいあるわけ。ラカン風に言うならば、悲劇のヒロインであったという風に思いたい大文字の他者の欲望が、勝手にこのAV出演歴があった故人への語らいへの布置に割り当てられているわけだよね。逆を言えば大文字の他者が言語の場、つまりは象徴界で語られないことというのは欲望が介在しないので、言語化ないしは物語化することが出来ないものとして、語りえないものとして、実質的には象徴界には存在しないものとして措定されるわけだ。そこには他者の死に勝手なドラマを求める大文字の他者の勝手な欲望がある。もしくはそれに群がって金を稼ごうとする出版社なり映画会社なりテレビ局の欲望がある。そんな欲望の語らいの中に巻き込まれた故人は本当に哀れだと思うし、これほどの死者への冒涜は無いと思う。語らえないところに物語はたくさんあるんだけど、それはメディアとして出てこないので、無いものとして考えられたり、知らないものとして無視されるわけだよね。プライベートなものが物語化して、悲劇だの感動だのという象徴化が行われてパブリック化するとき、そこに他者が介在して、勝手な物語形成がさらに促されるわけだよね。


ってことでまた長いんで次回に続きます。

PS


一年ぶりぐらいに腹を抱えて笑ったのがこれ。凄くスッキリしたな。不謹慎なんだけど。


http://kusowaro3youtube.blog8.fc2.com/blog-entry-195.html


声や仕草まで似ている。大爆笑間違い無し。

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今の俺みたいな感じね。次のセメスターまでを考えると合計、3 months offぐらい。