余命1ヶ月の花嫁について。そのに。

mimisemi2008-12-04

では昨日の続きです。っつーか昨日の東野見た?前に今田そっくりなAVがあったよね。ようはこれでWコージってわけだ。あ、んで昨日の続きね。


俺がいつも思うのは、こういうドキュメンタリーに感動しているような視聴者の脳なんだよ。こんな人探せばいくらでもいると思わないのかな?もっと悲劇的な人なんて探せばいくらでもいるよ。でも普段はそういったリアリティから目を背けていたり、自分とは関係ないものとして考えているから、いきなりこういった完全に物語化されたプライベートなストーリーに弱いんだよね。それは俺がよくカルネやらアレックスを例に出して言うことだけど、誰にでも魔の瞬間というのは訪れるわけでさ、俺だって明日になったらただの肉片になってる可能性だってあるわけだよ。で、その肉片になるまでの過程が悲劇的であればあるほどそれは物語化しやすくなるんだよね。で、後々俺の後付けと言ってもいいような、生前に残したようなブログとかが伝説化して書籍化される。いや、それは無いか。書籍化は無いな。でもまぁ俺のブログなり音楽が俺の悲惨な留学と死によって伝説化することでパブリックな注目を集めるわけだ。皮肉なもんだね。死んだ人って大体そうだよね。死んだ元ミュージシャンとかの追悼CDとかいってさ、それがなぜかリリースされて、まぁそこそこ売れたりするんだけど、それじゃあなんで生前にもっと売れてなかったんだろう?って疑問に思わない?


さっきのどうってことない漫才師と一緒だね。生前から凄かったんだったら生前から伝説になってるだろう。横山やすしみたいに。でもそうじゃないってことは、やはりなんらかの作為的な物語形成があるわけだよ。その効果によってそれが伝説になるわけだ。この死がフックとなる伝説化なり物語化というのもどうかな?と思うんだよね。俺のブログと俺の死は関係ないよね。俺はその死を想定してブログを書いてるわけじゃないし、仮に俺の肉片化によってさ、俺の色々あった幼少期から青年期からさ、留学に至るまでの話が暴露されてさ、で、両親との対話とかさ、両親の期待とかさ、そんなのも全部物語の一部になるんだよね。今の俺としてはそれは俺の実存的なことの一つでしかないわけで物語でもなんでもないんだけど、俺がドラマティックな死を遂げたら、その死が契機になって全てが美化されて伝説化されるんだよね。よって俺のブログも内容がどうこうというよりも渦中の人のブログとして商品化されてさ、で、音楽とかも後付けでリリースされたりするわけ。あの悲劇のヒーローが作っていた音楽!っていう後付けの要素が介在して初めて評価なり注目なりが生まれる。内容はともかくね。


実際ってのはこんなもんだよ。だから死を美化したり大げさにしたりドラマティックにするのはもうやめて、もっと死と真剣に向き合おう。生きている以上、俺が普段から書いているように、それは常に死への階段へと向かっているわけで、日々を生きるということは死へのステップなわけだよ。だからそこにあるのはドラマでもなんでもなく、ただの死という実存的な結末だけだよね。俺はむしろそこをタオイズム的に生ける死者としてやっていくことで生と死という二分法を無くしているわけだけどね。徹底的に死んで好きなことしかやらない。だから禅僧の至道無難が言うように、自分の心に従ってやる好きなことは全て善になる。ある意味でスピノザ的とも言えるね。だから俺が普段から奴隷になるぐらいだったら死ぬというのは、俺にとっての善を俺が続けられなくなったらそれはもう意味無いんだよ。だからそれを終わりにする。その先にも善を続ける可能性が無ければそこで人生は終わりだもんね。別に超越者ぶってるわけじゃないんだよ。人生ってのを俯瞰してみると、人生ってこうやって生きないとただの苦難の連続になるだけだからね。


あ、話が逸れた。まぁそんな感じでだね、死のドラマ化ってのはロクなのを生まないから、もっと死と向き合おう。あと死が介在するって条件だけで感動するのはやめよう。そんなこと言ったら左翼的な言い方になるけど、世界にはもっと理不尽な理由で死んでいる人達がたくさんいるわけだ。んじゃあ人類単位とまでは言わないけど、死を契機にして、もっと自分の生と向き合ったらどうなんだろう?俺みたいな善を求めるのが一つの答えではないけど、宙ぶらりんなまま適当に生きているよりかはもっといろいろと本質的な生について考えた方がいいんじゃないかと思う。勝手な言い方になるけど、死のドラマで感動できる人は、そこまで真摯に生について考えてないだろうね。だから感動できるんだよ。


あと死を商品として扱うメディアにもっと懐疑の目を向けよう。もっとって言い方はおかしいか。もうとっくに懐疑的になっているとは思うけど、これってのは人間が出来る行為の中でも最低の行為の一つなんじゃないかな?よかれと思って感動のドキュメンタリーにしたとしても、他人の生と死を物語化するのってのはそれなりのリスクがあるってのを肝に銘じる必要があるね。下手すれば墓荒らし以下の行為にもなりかねないわけだから。逆にドラマ化も何も無い、ジャーナリスティックなドキュメンタリーだとしたら、むしろその主人公の実存なんてそこまで重要じゃなくなるよね。AV女優だろうが麻薬の売人だろうが、闘病というのをにジャーナリスティックなフォーカスを当てたものなら、あまりその患者自体の人生ってのは関係が無い。むしろ主体は闘病なわけだからね。ダメなドキュメンタリーとそうじゃないのの差ってここにあるんだよ。ダメなやつは作り手の実存なりなんなりがそこに投影され過ぎちゃってて、ただの映画化しちゃってるドキュメンタリーね。で、良いやつというのは作り手の一定のその問題に対する視点というのがありつつも、その制作者の主観を介在した客観性かもしれないけど、でも物事をなるべく中立に映像化して構成するのが良いドキュメンタリーだよね。まぁ現象論的に言えば主観が介在しない客観性なんてないんで、まぁさっきの言い方はちょっと矛盾してるんだけど。


そういう意味だとこの今回のドキュメンタリーってのは明らかにお涙ちょうだい的なダメなドキュメンタリーの典型だろう。いや、故人やその家族には悪いけど、やっぱ人の死を素材にしてお涙頂戴的なストーリーをでっち上げて金儲けをするのってどうかと思うね。客観性が無いドキュメンタリーと言えば近年のマイケルムーアの「映画」とか、ゴアの不都合な真実とかだよね。完全に作り手の主観が介在し過ぎていて、しかも過度な印象操作が行われている。だから全然ジャーナリスティックじゃないし、ドキュメンタリーでもなんでもない、ただのプロパガンダ映画になっちゃってる。まぁ左翼ポピュリズムってのが存在するとすれば、ちょっと自惚れた統治者的な観点から言えばまぁ大歓迎だけどね。リベラルな独裁ってのは悪くない。もちろんそこには非リベラルへの排除があるけど、右翼ポピュリズムよりかは千倍マシだと思う。


って感じです。ちょっとまとめをしておくと、そこに幻滅があるというのは、大文字の他者の欲望による物語化が形成されている証拠だと言うのは、単純に悲劇のヒロインを求める視聴者の欲望と、そういった思い込みをでっち上げるようなメディアの作為的な物語化があるわけだよね。さっきも書いたように、客観的な観点で闘病について考えるならその闘病者の職業や私生活なんて視聴者には関係が無い。でもそこでピュアでイノセントなヒロインをでっち上げるメディアの作為的な作り込みがあることで勝手な物語が形成されるということね。だからそこにはもう凄まじい幻想化があるわけ。エマ・ワトソンがヤリマンだったとする。だったらハリーポッターでのイノセントな演技はどうなるんだ?俺は騙されてたのか?と思うのは勝手のそいつの欲望による幻想の形成によるものね。ハーマニオニーとエマ・ワトソンは実存的な関係は一切無い。あるのは演技される物語の主体と演技する主体なんであって、演技する主体の私生活なんて
その物語の中では関係が無い。そこをごっちゃにするんでアイドルなり俳優なり女優なりへの幻想と幻滅が生まれる。でも元々この二者に繋がりなんて無いんだよ。


だから今回の故人にしても勘弁してくれよって話なわけ。自分の病気と自分の職歴は関係ないでしょって。現実と物語をごっちゃにするからこういうことになる。だから究極的に言っちゃえば、現実のシミュラクラのドキュメンタリーならぬモキュメンタリーなんて最初から作らない方がいい。なぜならリテラシーが無い人達が騙されるだけだからね。だったら最初から美化などせずに、徹底的にジャーナリスティックな観点で、いわばNHKのお堅いドキュメンタリーみたいな番組作りをするべきだろう。まぁプロジェクトXはドキュメンタリーの美化なり物語化を駆使して作ってたんで、別にNHKを擁護するわけじゃないけどね。ジャーナリスティックというか、徹底的な客観性に基づくものじゃないと、少しのねつ造でもそれが最終的には肥大化して、そのねつ造の根拠を取るためのねつ造が生まれて、んで最終的にあるある大辞典みたいなことになっちゃう。まぁだから今後は番組の過剰演出を「あるある」って言えばいいんじゃないかな?あーこれ「あるある」だよねーって。


ってことで終わり。

Innovation - The Album

Innovation - The Album

これ結構番組として面白いね。セックス絡みってのがいいね。俗悪ながら教育的だと思うな。安易にファックしまくる危険性というか悲劇性というのをよく描いてるよね。

こりゃもう新手の現代音楽だね。池田亮司が真っ青になるぐらいサイン波だらけ。

一時期流行ったみたい。ネットさまさまですな。