ペルソナ4について。

mimisemi2008-12-28

ペルソナ4終わったんだけど凄いね。これ。このゲームの密度というか、プレイ時間の長さとかさ、ゲーム二本分ぐらいだよね。これ。凄い。前に書いたようにこれは日本的なゲームのコラージュみたいな感じなんだけど、ポピュリズム的にそういうフォーマットを取りつつも、あくまで根本はペルソナのままというよりかは本当に今作は特にサイコロジカルな面と社会的な面が本当に強かったと思う。


まずいうまでもないのが形骸化した郊外だとか田舎ね。ジュネスが来て商店街が寂れるとかの現代的な資本主義の問題っつーかさ、あのシャッターが閉まりきった商店街の異様さというか寂れた感じってプレイヤーはみんな引くと思うんだよね。郊外っつーか田舎がスッカラカンになってるっつーのが本当によく再現されているというか、本当にやられたなぁーって感じだよね。全作にも増してアニメっぽくなってたんで軽い気持ちではじめたら内容は相当ヘビーなのね。何しろあっちの世界のコンセプトが本当にフロイトそのままで最高だったね。これはフロイトが空気のように普及しているアメリカのほうがこのサイコロジカルなコンセプトは受けるかもしれないね。


人々の剥き出しの欲望が抑圧された場所がTVの中の世界で、んでまたその媒介がテレビっつーのがさすがだなって思っちゃったよね。これってすんげーなんかさ、マスコミとか相当批判的に描いてるじゃない?最近のマスゴミみたいな言葉を象徴するようなテレビの扱いだと思うんだけど、人々の「見たい」っていう欲望がダイレクトに繋がって「ほれほれ」って見せるテレビと人々の体質というかね、これってのは逆説的にテレビが視聴者のニーズ、つまり欲望に答える装置として考えるのならテレビは人々のプリミティブな欲望の表出の現れというか集積と言う風に言えるよね。これが意味するのはつまりはペルソナ4でテレビが人々のイドというか抑圧された無意識への扉なのはテレビが象徴的役割を日々担っているからなんだよね。


ただ最後のボスとか犯人も言っているように、これらは人々が心の奥底で願っていることだったり欲望していることなので「これは現実ではない」と言ったところでその説得力は無いんだよね。むしろ人々のうちにある何らかのもののほうが現実を規定していて、現世はそういったものが様々な形、それは妥協であったり直接的だったりメディアだったりという形で表れる場なわけだけど、あくまでリアリズムは無意識にあるわけね。キャラクターがペルソナを得る瞬間というのは自我、つまりはイゴがイドをコントロールできるようになってそのイドがイゴに操作されたものとして現れるわけだけど、これは実質的にスーパーイゴにイゴが操作されているというような図式が一段階下がったようなものだよね。まぁつまりは統合ってことだ。統合できるようになって真の自分というよりかは本来の自分を認識できるようになってはじめてスーパーイゴもイゴもイドも統制された人間の心として存在することになる。


これは黒沢清ドッペルゲンガーと同じ構造ね。主人公のイドの表れがあのアクティブなもう一人の主人公で、主人公が本来の自分を得る時というのは、ペルソナで主人公達が剥き出しのイドを倒すことでイドがコントローラブルなものとして心に統合されるわけだけど、ペルソナでは例えばペルソナを得た後の各キャラクターはスッキリしているよね?あの宿屋の娘は明るくなって笑い上戸になったりしているし、ドッペルゲンガーの主人公もイドを殺した後に向こう見ずなイドと冷静ながらも抑圧され過ぎのイゴが統合されて自分が表れるじゃない?で、上手いこと物事が運ぶようになるよね?


こういうかなりドグマティックとも言えるべきフロイト的な構造というのが特にペルソナ4では顕著なのね。だからあれなのよ、アメリカですんげーペルソナ4の評価がいいのは単純にゲームの質が高いし、ましてや相対的に見るとペルソナ3の難点が完全に改善されているという意味でもまぁ評価は高くなるんだけど、それと同時に理解しやすいサイコロジカルなコンセプトがあると思うのねっつーのはアメリカっつーのはフロイトの理論が空気みたいに浸透している国だから、ちょっとリテラシーレベルの高い人なら完全にコンセプトを理解できるしのめり込めるんだよね。それはもう日本的なキャラものRPGとかギャルゲー的RPGみたいな枠組みではなく、サイコロジカルであったりサイコロジカルな要素が絡んでいるポリティカルなものとして捉えられるんで、あくまでギャルゲーだのキャラゲーだのという枠組みはただのプラットフォームでしかなくなるわけ。それはマトリックスが枠組みではSFであったり派手なアクションシーンというところで映画を規定しているのにも関わらず根底には哲学的要素があったり宗教的要素があったりするっていうことと同じで、マトリックスの場合、プラットフォームがアクションやらSFだったりするというだけで、コアの部分は哲学や宗教なんだよね。


一見、ポピュリズム的に見えて本質的なものはクオリティが高いって散々マトリックスのやつで書いたけど、ペルソナ4もまさしく同じことが言えると思う。特に日本人が取っ付きやすいキャラゲーという枠組みを使ってディープでサイコロジカルなテーマを扱っているわけだから根底はやはりペルソナのコンセプトが続いているわけだし、ポピュリズム的手法でプレイヤーを増やしているという点でも手法が巧みで高度だと言えるわけ。まぁ政治におけるポピュリズムと正反対ってことだね。政治の場合、巧みな手法を使って支持率を集めるんだけど中身はスッカラカンなんだよね。ハリウッド映画みたいなもんだ。


で、ペルソナ4の場合、マトリックスと同じですんげーポピュリズム的手法を使っているのにも関わらず内容はポピュリズム的なそれと正反対なのね。それはメディア批判であったり日本の鬱屈した現状への批判的な観点であったりあとはYosukeが言ってたようなさ「明日の自分を見つけろ」みたいな最近のポップスの歌詞にはうんざりだみたいな言葉に象徴されるかのような、世にあふれる自分探しの勘違いだったりね。いや、実際、自分を発見するということは精神的なレベルにおけるサイコロジカルなエージェントの統合なんだよってのをペルソナは言い続けているんだけど、その強いメッセージ性がポピュラーなプラットフォームで伝えられているというのが抜群に良いわけ。それはマトリックスも同じね。世の中のニーズに迎合したような映画のフォーマットを使っているのにも関わらず根底がかなり革命的で哲学的っていうね、この表面と中身のギャップの差というのが凄くいいわけよ。


もちろんマトリックスもペルソナ4も表面的なものも表面的なもので終わっていなくて、それはそれで凄くいいわけ。キャラもいいしアクションシーンもいいし映像もいいしゲーム性もばっちりなわけよ。ようは押さえるところを全部押さえてるってところだね。なので退屈しないしのめり込めるし心底楽しめる。これほどレベルの高いエンターテイメントは他には無いよ。ましてやペルソナ4の英語版の場合、あくまで俺の主観だけど明らかにキャラがこっちのほうが立っているわけ。これは前にも書いたことだけど、どうも日本的なキャラゲーで台詞も声も日本的だとやはりアニメカルチャーというかさ、日本的なアニメっつーのが想起されて悪く言えば安っぽくなるんだよね。でも英語の場合、日本のアニメカルチャー的なものが想起されない分、純粋にキャラが立っているし、そのおかげで物語やコンセプトもよりクリアになるわけ。ようは日本的なオタク臭さが台詞を英語にすることで無くなっているということだね。


英語版の声優は全員硬派な感じだし、俺から言わせればこっちのほうがよっぽどいいわけ。あとは言語的なキャラクターもあるのか英語版のほうが台詞がしっかりしてるんだよね。日本語版はまぁあえて高校生っていうかガキ臭さを出しているんだけど、それがちょっとなぁーってのも無くはないじゃない?特にそれは過去からのメガテンファンみたいなのには受け入れづらい、過去からのメガテンファンが通ってこなかったようなジャパニメーションの道を通ることになるわけだから下手すると苦痛なわけだよね。あの青臭さというかなんというか。でも英語版の場合、ほとんどそれが無いのね。それどころか各女の子達も英語版のほうがよっぽど可愛いし繰り返し書いているようにこっちのほうがキャラが立っているので感情移入しやすいよね。それは男キャラも含めてね。日本語でやったら全然全体のイメージが違うと思うんだけど、俺は恐らく英語版のほうが明らかに全体的なクオリティは高いと思うね。声優が全員上手過ぎるしぴったり過ぎる。まぁ前にも書いたように変な話なんだよ。日本人の日本的なキャラが英語で喋るなんてね。でもどういうわけかこっちのほうがいいんだよ。いや、ホント、一度でいいからやってみてほしいね。ペルソナ4の英語版。ちなみにペルソナ3も英語版は凄くいいよ。


繰り返しになるけど、郊外の空洞化だのサイコロジカルなテーマだのアメリカではかなりおなじみというかなじみ深いテーマであるだけに恐らくアメリカのほうがむしろペルソナに対する評価というか受け入れは大きいかもね。俺みたいにアニメチックというだけで避ける人が多いかもしれないけど、やってみればそんな先入観がいかに無駄だったかを思い知らされるよね。それはマトリックスを「ただのSF映画」と片付けてしまうのがナンセンスなのと同じことね。ペルソナ4はもうゲーム史に歴史を刻んだゲームだと思うね。それは色んな意味でね。テーマと同じくこれだけ総合的に統合的に素晴らしいゲームってのも滅多にないと思うね。現代的な社会が持っているジレンマや問題というのをサイコロジカルな枠組みで捉えつつ、そこにメガテンシリーズの要素である日本神話という説明の枠組みを持ってきてそれに当てはめたりしているのも高度なことで昔からのファンとしては本当に納得のいく作品だよね。「変わった」とか言う人がいたとすれば、それは見た目でしか判断してないね。根底では全然これはメガテンシリーズだよね。いやーこれは100点満点中200点って感じのゲームだね。素晴らしい。


「俺らはお前らのパペットじゃねー!」っていうような熱いメッセージはマトリックスのそれと凄く似ていて革命的で、ポピュリズム的な表層からは想像もできないような転覆的なコンセプトが含まれているわけね。もっともそれを熱いメッセージとして受け止めるか受け止めないかはユーザー次第なんだけどね。そこはもう民度に関わることだけどね。こういうコンセプトっつーかゲーム作りってスクエアとかエニックスみたいなでかくなりすぎたゲーム会社には出来ないことだよね。これがなんつーかアトラスの素晴らしさだよね。本当に。まだまだアトラスは腐ってないなって安心した一作ですよ。マジで。中学とか高校のときにこのゲームが出来たらそれはもうそれだけでその経験が財産だね。そのぐらいこれは素晴らしいゲームだね。もちろんノスタルジックだし理想的な要素が多いにしてもそれをただの観念的な善として流さないというのが重要な点だと思うよね。凄く啓蒙的で押し付けがましくないのが凄くいいね。恐らくこういうコンセプトだとキャラゲーとかメジャーなフォーマットにしないと押し付けがましい教養的なものになっちゃうのかもね。それはマトリックスも同じようにね。だからポピュリズム的な部分も含めて総合的に評価できるよね。これは。


いやー年の最後に素晴らしいゲームと出会えましたよ。ペルソナシリーズとは言えこれはなんつーか特出した出来だと思うね。ノクターンに継ぐ近年のメガテン系列の名作だと思うね。これは。


はい、んで補足。


で、あれだ、分節化しすぎなペルソナ4に関する覚え書きみたいなのをまとめて1エントリーに統合したいっつー欲求に駆られたんで、他のエントリーからのペルソナ4について書いたやつをここに貼っておくわ。2009年1月10日からの抜粋です。


あとね、ちょっとした覚え書きなんだけど、ジュネスってジェネシスのもじりなのかしらん?まぁジェネシスgenesisで綴りは違うんだけど、何かが起こる媒体の媒介としてのジュネスってなんかシンボリックだよね。あとあれなんだよ、前にペルソナについて色々書いたけど、もっと簡単な説明があったんで書くわっつーのはね、あのテレビの中ってタルコフスキー惑星ソラリスと一緒なんだよね。あれ?マニアック過ぎて余計分かりづらくなったか?ようはジジェクが言うようなイドマシーンってことね。人間のイドが具体的な形として表れる場。で、その統合がどうのってのは前に書いたからいいんだけど、テディーはシンボリックだよね。最初はイドの化身なんで中身が空っぽなんだけど、主人公達と関わることで自我が生まれて、んでそれと同時にテディのイゴから発生したイドが生まれて、んでそれがペルソナになって、んで統合されてんで実体が生まれるってよく考えれば凄いよく出来た話なんだよね。これ。


テディーの可愛さというか面白さでそういうシリアスな面が見えづらいけど、何気にあれはすんげーサイコロジカルで哲学的なキャラなんだよね。まぁあれをああいうコミカルなキャラでやってるっつーのがまたいいんだけどね。あとあれ書き忘れてたけど、性同一性障害というかさ、実際はゲイだったり見た目が兄貴なのに手芸が好きだったりっつーのを変だからという理由で抑圧しなきゃいけなくて、んでそれを過剰に隠すためにマッチョな自分という幻像を作り出してしまうっつーのもさ、他者性への問いかけがあるよね。自分は自分でいいじゃないっていうような、俺が普段から書きまくってるような他者性への受容の重要性というのが描かれてるのよね。逆にあの名前忘れたけど探偵みたいな子いるじゃない?彼女は逆なんだよね。警察っていう世界がマッチョな世界なんで女じゃダメだってことで男になりたがるんだけど、またそこに葛藤があるっていうね。この子は逆に女なのに子供の頃からヒーローものとかロボットモノとかが好きだったんだよね。カンジと対照的なんだけど、その性への揺らぎを感じている二人が惹かれ合っているというのがまた象徴的で凄くいいよね。まぁあれはカンジの一方的な片思いか。最初はさ、カンジのイベントで「ゲイを馬鹿にしてるのか?」って思ったけど全然違うのね。すんげー重要なメッセージが含まれてて関心しちゃってたわけよ。そういうのもあって凄まじくハマってたんだろうね。


あ、んで股が死にかけの犬みたいな臭いがしていたんでシャワーを浴びてたらテディーについて書き忘れてたことを思い出したんで書いておきますっつーか書かないとスッキリしないからね。テディがさ、考えるようになるでしょ?一人で考える時間が必要だって。これはあれなのね、ソラリスの妻が彼女自身の実存が夫のイド、もしくは記憶やノスタルジーによって作られたものであるので、その作り出された妻が「私って一体何?」って考えて自殺しようとするでしょ?まぁ死ねないんだけど。ようはソラリスの妻とテディの両者の実存的な葛藤ってのは同じってことね。


でもこれってのは何気に全ての人間が共通して抱える実存的問題と同じで、ようはハイデガーの被投性みたいなもんで、テディは理由も無く、ただあのテレビの世界に放り投げだされてどうしていいか分からないっつって戸惑っているわけだし、それはソラリスでの作り出された妻も同じなんだけど、実は人間も同じっていうね、それをテディという様々な実存レベルの問題が介在するキャラクターを媒介にして、ナラティブに描いているわけだけど、それはソーシャルリンクが介在するどのキャラクター達も主人公達も共通にして抱えている実存的問題、まぁそれはユニバーサルなものとパーソナルなものも含めてあるわけだけど、共通した解決方法というとあれだけど、まぁペルソナというテーマもあってか、そのブレイクスルーの一つが内省なんだよね。それは大げさに言えば人々の仏性の発見までの物語ってことかもしれないわけ。心理学で言うところのintrospectionね。んで企投をすることで主体性の獲得をするわけだけど、例えばそこでの現存在の確立というのがテディの実体化というシンボリックな現象によって表されてるわけ。ってことでたぶんもう書き忘れは無いと思う。まぁようはサイコロジカルですんげー実存的ってわけよ。


はい。終わり。


PS


あ、んであれね、書き忘れたんだけど、ペルソナ4がむしろ英語の方が良いというのはあれね、アメリカ映画の吹き替え版のほうがむしろ声がキャラクター達にあっているみたいな変なことね。例えるならバックトゥザフューチャーとかホームアローンの吹き替え版みたいなもんね。これらは日本語吹き替えの声優が良過ぎるのとキャラクターにマッチしすぎているので、本来のキャラクター達の声よりそっちのほうが良いっていうような矛盾的効果なわけね。


PS2


最高な動画を見つけたんで貼っておきます。AVなので嫌な人は見ないように。


ttp://www.yourfilehost.com/media.php?cat=video&file=07220814_bono05.wmv


ペルソナ4

ペルソナ4