パラダイス・ガラージ、そのに。

mimisemi2009-01-14

はいでは昨日の続きね。


まぁそれはともかくやるにしてもやらないにしてもちゃんとしたドラッグについての教育が必要だね。日本って無知なやつらが色々好奇心から試して失敗するのが多いじゃない?ガスボンベとかどんだけドラッグリテラシーレベルが低いんだって話でしょ。あと抗鬱剤を使うとかさ、あんなもん飲んで一瞬で効くやつじゃないんだよ。プロザックみたいなやつならともかくとしてね。下手なんだよね。使い方が。分かってないやつが多いから。それ故の乱用とか下手な使い方での事故があるのって危険だと思うんだよね。だからちゃんとインフォームすることが大切ね。その上で使う使わないはもう本人達次第っていうさ、それでいいと思うね。いつまでタブー視しててもダメね。もう気がついてるやつらはやってるし、特に今後の世代は「俺たちには関係のないことだ」なんて言えなくなるんだよ。俺は何回かコカインを薦められたことがあるけど当然断ったよねっつーのは俺のドラッグリテラシーレベルによるものだからなんだよね。コカインの害っつーのを分かってるんで、目先でハイになれたとしても全然やろうと思わないのね。これはストイックな強い意志というよりかは単純に知識レベルの問題なのね。結果が分かってるんで結果的に損をするようなやつは最初からやらないんだよ。馬鹿じゃないんだし。


こういう選択ができるようになってはじめて害のあるドラッグってのは市場から消えると思うね。タバコも一緒でしょ。アメリカのオブセッシヴな禁煙運動もあるんだけど、大体の中流位のやつらなら害を分かってるんでタバコなんて吸わないんだよ。むしろ吸ってるのは馬鹿だったり教育レベルの低い連中ばっかでさ、だからまぁあれなんだよね、90年代の初頭だかに禁煙運動がはじまってから、街中からタバコの広告が消えたんだけど、完全に消えたわけじゃなくて移動したんだよね。割と貧民が多いような地区に広告が移動したわけ。こういうやつらはまだ吸うんで広告がまだワークするってことで広告が移動したってわけよ。だからそういう意味でアメリカって強引だったかもしれないけど、割と健全にタバコが生活から消えていってる国だと思うね。ようはちゃんと害をインフォームされれば辞める人は多いってことなんだよ。これはドラッグも一緒。あとあれね、ソーダ類を飲み過ぎで肥満が多いとか糖尿が多いっつーんでこれも教育があって、まぁニューヨークってのもあるのかもしれないけど、学校とかでも水を飲んでるやつらのほうが多いんだよ。俺みたいにコークとかマウンテンデューを飲んでるやつってのはあんまいない。まぁ俺はあえて飲んでるんだけどね。タバコじゃあるまいし、そこそこならなんとか大丈夫なレベルなんで飲むんだよ。好きだしね。でもアメリカンたるものが健康のために水を飲むって凄いことだと思わない?アメリカンっつーとバーガーとソーダって感じだけど、意外と水が多いのね。これは完全にヘルスエデュケーションの賜物だと思うね。アメリカが今まで馬鹿過ぎたんで、もう馬鹿はこりごりだって歴史から学んでるやつが多いわけ。まぁ下手するとコークを飲んでいる=馬鹿みたいな図式が成立しかねないけどね。まるでタバコ=自己管理が出来ない人みたいに見なされるのと一緒でね。


養老さんの禁煙ファシズム理論はあってるんだよ。そういう意味だと。害も分かっているけど、でも好きだからやるっつーのは規制されるべきじゃないわけ。規制っつーかまぁ自由選択が出来る余地があるべきってことね。ようは喫煙者が肩身の狭い思いをしなくてもいいような社会であるべきってことね。それは俺のコーラとかマウンテンデューも一緒ね。ソーダはあんま体に良くないけど、でも好きで飲んでるんだから勝手に飲ませてくれって話なわけ。害も分かっててあえてやってる人に誰も介入するべきじゃないのね。それはピアープレッシャーって意味ね。ようはタバコを吸っている=自己管理が出来ない人みたいな図式はかなり乱暴ってことね。もしかしたらその人は本当に愛煙家なのかもしれないわけで、喫煙しているという理由だけでそういう判断をされるっつーのは良くないってことね。そういう風潮が広まっちゃうと結果的に禁煙ファシズムが成立しちゃうわけだよね。まぁ同じ図式があれだ、少年愛の件で書いたセクシャルマイノリティ達に対する偏見ね。偏見というのがスタンダードな見方になっているとそれが常識になるんで、いつまで経っても彼らが抑圧されたままになっちゃうわけね。だからかなりの変態でも排除をしないという姿勢が必要ってわけね。


で、コカインとか草とかも一緒なわけ。コカインは違法でいいと思うけど、草は害もあるけど、良い面もあるんだからそこはもう使用者の裁量に委ねればいいじゃんって話なわけよ。草愛好家からしたら、楽しみを奪われてるわけだからね、これは国家の過剰な個人領域に対する介入なわけよ。フロイトじゃないけどさ、人間の苦痛ってのが人間の快楽原則を現実原則に委ねることで生まれて来るんだとしたらさっていうかこれは明らかだけど、快楽原則を剥き出しに味わう瞬間ってのがハレだと思うんだよね。人間に快楽原則というのがある以上、だから人種を問わず人間っていう種は生来的な欲求として非日常的なもの、つまりハレを求めるんだよね。ハレを無くすということはもう現実に埋没しきるっていうことなわけで、そこには壮絶な葛藤とストレスがあるよね。そんなのが大雑把に言えば現代社会なんじゃないのかな?合理性だの資本主義だのっつー人間の選択なのにも関わらず、一部の人間の快楽原則に沿った選択に大半の人達は振り回されていて、んでそれに適応しなきゃいけないなんて馬鹿げた世の中だと思わない?本来的な人間性との疎外ってのはどんどん深まるばかりだよね。一部の人間のコントロールされたデカイシステムの中できょとーんとしながら孤独を感じている人間ってのが大半の人達だよね。まさしくこれこそが疎外だよ。で、マルクス的な意味での人間疎外はもっと深刻で、経済だの社会だのっていう法則が人間の手ではどうにも変えられないってことなんだよね。クラブの形骸化もなんというかまぁある意味での疎外だろうね。ウェーバーで言うところの脱魔術化がクラブで起こったわけよ。システマティックに飼いならされたクラブがドラッグというものを介在せずに勝手に回るようになってるわけ。


思うにドラッグにしてもなんにしても、何らかについて考えるときはまず否定する前に受け入れることが重要だよね。頭ごなしに西洋的な概念の輸入で「ドラッグはいけない」なんてのがドグマティックに浸透して、結局、ではなぜいけないのか?ということについて考えなくなるんだよね。これは日本に顕著なことだと思う。「それはダメだ」という前に「それがなぜダメなのか?」というのを考えてから個々がそのものについて判断しなきゃいけないよね。


あとあれだ、人間嫌いについて簡単に書いて今日は終わりにしよう。っつーのはね、一旦人間嫌いになるともうそれは一生続くんだよねっつーのはさ、俺の場合、まぁいつも書いているように、まぁ過去に色々あって人間嫌いになるきっかけが多かったんだけど、それはこっちに来てからも続いたわけよねっつーのは特に強烈だったのが前のルームメイトなんだけど、人って結局大半が嫌なやつでどうしようもないやつが多いんだよね。優しさがないやつとか人を傷つけても平気なやつってのが圧倒的に多い。前にも書いたけど、無知のベールがありえない政治的な装置だとしても、それを個人レベルでアプライするってことはまぁ最初から不可能な話なんだけど、単純な言い方をしちゃえば、相手の身になって物事を考えることが出来る人が多くないとこれは成立しないんだよね。いや、そもそもありえない話なんじゃないか、これはリベラリズムの実践なんじゃないかって声が幻聴で聞こえるけど、リベラリズムの実践にしてもそれを受け止めて考えれる人が多くないとダメだよね。これって哲学者とか思想家の弱点なんだけど、哲学者とか思想家ってのは理念レベルではいいことを言うんだけど、そういう頭の良い人達が考えたことをパンピーにアプライしようってことになると一気に不可能になることって多いんだよ。それは頭の良い人だけが実践できることなんであって、パンピーレベルでは無理ですよっつーことが多い。ロールズの無知のベールはその典型ね。こんな馬鹿げた話は無いよね。マルクス主義以上に理想主義的過ぎる。なのにも関わらず割とプラグマティックな人達の間で評価が高いっつーのはどういうことなんだろうな?って気がするね。擬制として作為的にそういった思想に則って事柄を成立させようという話ならいいんだけどねっつーのはこれが擬制であっても原則として存在しちゃえば馬鹿でもこの方法を自動的に取るしかなくなるからね。ただ理念やら思想としてはダメだね。成立するわけがないので。


それは相手の身になって考えろってことがいかにナンセンスな物言いかってことなんだよっつーのは俺は親父からも何回もこういうことを言われて育ってきたし、まぁ両親が割としっかりしているので俺は親からのまともな教育は受けれたと思うけど、そうじゃない人ってのがすげー多いわけよ。クソみたいな両親から生まれちゃった人達ってのも相当多いわけ。だからそもそもそんな発想が全くないような人達にこういうことを教義レベルであったとしても言ったところで理解しないよね。理念レベルで理解したとしても実践しないよね。むしろ実践できてたらもっと世の中楽なんだよ。人間関係ってのがこんなにシビアなわけがない。ではなんで人間関係がシビアか?っつーとね、そこにはいくつかの理由があるんだけど、まぁ面倒だから大雑把に説明するとまず一つは人のことを考えない馬鹿が多いということね。相手の気持ちを踏みにじるようなことが平気で出来る人が世の中には多過ぎる。だから繊細な人達が生きづらい世の中になっている。それと同時にそういった繊細な人達とか、元々はそういった崇高な理念レベルの教義を理解できる人でも「現実社会は甘くない」と言ったような、世渡りというかサバイブの方法として強くなる方法というのを身につけるんだよね。ようは相手に言い負かされないように会話の布石を置いておくとかさ、こう言われたときはこう意地悪に言い返すみたいなのが防衛術として世渡りの術として必要になるんだよねっつーのはね、恐らく万人による万人のための闘争ってのは人間関係レベルではどこでも起きているんだよね。性善説に立てば人はみな無知のベールを被れる良い人達だってことになるんだけど、そうじゃないわけでさ、ナイーブなままじゃ世の中でやってけないぞってことでいろいろと狡猾な方法とか分かっててあえてやる意地悪な方法とかを覚えるわけじゃない?そこで本来は意地悪じゃなかった人達も処世術としての防衛術を学んでしまうんで、防衛が防衛を呼んでそれがコンフリクトとなってしまう。なので結果的に本来よりももっと多くの嫌で思いやりの無い厳しい人が増えるわけね。


「世の中そう甘くない」って物言いの陰にはこういう理由があるわけね。俺はこんなクソみたいなゲームに付き合うつもりはないんで、なるべくくだらない社会とか離れたところでなんとか生きていきたいと思うわけだけど、アメリカの場合、そこまで空気が張りつめてないっつーのはあるよね。こっちの場合ではむしろ作為的であろうがフレンドリーに振る舞うことが色んな人種の人達とやっていく方法になっているようなところがあるんで、割と見た目は楽なんだよ。人間関係が浅いけど軽くて楽なんだよね。それに比べて日本は常にガードと攻撃だらけだよね。競争と他人との比較ね。これが俺の言った人間関係レベルにおける万人による万人のための闘争ね。フレンドリーに振る舞うということも作為的なものだとすれば、それもまた防衛術なので闘争の一形態ではあるんだけど、刺々しいわけじゃないから楽だよね。あと日本みたいなリテラルな意味ではない、背後の意味がある言い方とか態度とかがまぁ疑心暗鬼を生むって前に書いたけど、これってウィトゲンシュタイン的な言語ゲームをネガティブにやってるようなもんだよね。無駄に色々読まなきゃいけないんで人間関係がすんげー面倒い。


まとめるとさ、相手の身になって考えろってことが出来る人がいっぱいいればどんだけ世の中が平和で楽なもんかって思うでしょ?なんでこんな世の中が世知辛いかっつーと誰かに負けないための競争だとかさ、相手に負けないための防衛とかでみんな必死なんだよね。だから常に闘争状態にあるわけだよね。社会との闘争もあるし人間との闘争もある。人間って放っておくとロクなもんじゃないからやっぱりパターナルな教育は必要だし、結局、個人の暴走を防ぐ国家というのが必要になるわけね。俺は最近、リバイアサンよりもベヒモスのほうがよっぽど怖いなって思うのね。まぁベヒモスってカオスじゃない?権力不在のという意味ではなく、カオスという意味でのアナーキーな状態ね。これほど怖いものはないよ。だからやっぱちゃんとした人達に統治してもらわないと人間ってクソみたいな存在だからダメになるんだよね。自由という選択をしてそれを良い方向に使える人が多ければそれはそれで最高なんだけど、自由を上手く使える人なんて相当少ないからね。これが現実なわけだよね。で、ベヒモスが顕在化してるのってロシアとかだよね。あの特にロシアのスキンヘッズみたいな無法者達。ああいうのが自然状態に近い状態だと出てくるわけだから、結局、そこに権力が介入しないと取り返しのつかないことになってしまう。で、俺はその統治する権力というのがリベラルであればベストだと思うわけ。まぁ変な話、リベラル独裁だね。でもそれはリベラル的政策ばかりをやる政党という意味ではなくて、リベラルが母体の政党ってことね。だから経済状況や社会状態によっては右寄りな政策も実行するわけ。まぁハイブリッドなリベラルって感じか。


まぁいいや。ってことでこれについては終わりね。


マリファナ・ハイ―意識を変えるモノについての意識を変える

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