言語はシンボルの交換の体系だなっていう。

mimisemi2009-02-04

あれなんだよね、クリティカルシンキングのクラスでさ、難聴の子がいて、んで驚いたことに手話の人が2人もその子についてるのよ。ようはクラスに手話の人が2人いて、その子のためだけに交代しながら一時間以上の授業をずーっと手話で伝えてるわけ。日本の大学行った事ないから分からないけど、日本だと遅れてそうだよね。こういうところ。


で、こないだその難聴の子が隣に座ってて、んで手話の人2人がその前にいるんで、まぁーずーっと手話が見えてたんだよね。横目にだけども。で、俺は先生の方を向いて話を聞いているんだけど、手話も見えるの。で、そこで気がついたのが、まぁ当たり前のことなんだけど言語というのが本当にただのシンボルの交換なんだなと改めて思ったのね。言葉って当たり前のようにあるけど、実際はソシュールとかの例を出すまでもなく、それはシニフィアンシニフィエの関係性で成り立っている差異の体系なわけでさ、ドッグという言葉がドイツでは犬を意味しないように、犬という言葉もまた英語圏では犬を意味しないわけよね。ようはその言語圏で合意がなされている既存の概念のシンボルのやり取りというのがランゲージってことだよね。声とか発音とかもさ、あれだもんね、当たり前に喋ってるけど、実際は発声やらさ、声のトーンやらなにやらって、ようはオシレーターっつーかシンセみたいに音を出しているんだよね。その音の出し方の違いとか組み合わせってのが言語を規定するわけだ。ただそれもまた音という媒体でシンボルのやり取りをするだけで、手話を見ても分かるように、言葉というのが手話というシンボルの交換に変換されると、ようはまぁ当たり前だけど、全部がジェスチャーだよね。でもジェスチャーで言語が伝わるっつーか手話もまたシンボルのやり取りの一つの体系なんだよね。だから本質的に音を伴う言語とジェスチャーだけの言語って別に差は無いんだよね。音かジェスチャーか?って違いなだけで。それは文字も同じだよね。


だからまぁカタカナ英語は英語じゃないんだよね。アップルって発声のレベルで英語ではリンゴを意味しないわけだから。どちらかと言うとカタカナで書くとアッポーでしょ。馬場のほうじゃなくて、英語の発音ってことね。ドッグは犬じゃないよね。カタカナだ書けばダッァグのほうが近いわけで。この辺のことが全然理解できてなくて永遠とカタカナ英語を喋り続ける日本人って結構いるんだよね。これは悲劇だよ。言語の意味とか伝達のメカニズムってのを理解してないから、永遠と英語がダメなままなんだもん。


あと全然話が変わって最近の俺のマイブームのレオ・シュトラウスなんだけど、この人はことごとくまぁ現代のマキャベリって感じね。ブッシュ政権に影響を与えたと言われているネオコンのイデオローグなんだけど、まぁフクヤマみたいなのは「シュトラウス派なんてブッシュ政権にはいなかった」みたいなことを言っているけど、ようはネオコン思想ってことでまぁどの道影響は与えてるんだよね。で、このネオコン思想ってのが極左よりも全然ラディカルで恐ろしいものだっていうのに気がついてさっつーかシュトラウスの本って難しいから今は解説書みたいなのを読んでるんだけどね、簡単に書くとあれなんだよね、例えばナショナリズムとかさ宗教なんてのを統治の道具にするって平気で言ってるんだよね。シュトラウスの場合、真実を書きすぎるのは危険だってことであえて深遠な書き方をして、分かるやつだけ精読して理解しろみたいないかにもエリートな書き方をしているんだけどさ、ようはシュトラウスが宗教を信じているとか、ナショナリズムなどの復興を求めているんじゃなくて、単純に政治の手法としてそれを利用するって感じなんだよね。


で、国が一番成長するときってのが、その国の若い連中が国に殉ずる時だっつーんだけど、それってのがまぁイラク戦争だったりするんだろうけど、そういう意味だとイスラム原理主義の連中の自爆テロってのが究極的な形なんだよね。別にシュトラウスはテロをやれと言っていたわけではないんだけど、ようは若い連中が完全に宗教やらナショナリズムによって洗脳されちゃってて、んで国のために死ぬ事も厭わないようになっているというような状況を生み出す事が重要みたいなことを書いていてね、これって本当に悪魔の政治学だよなって思ったね。読んでてひいたもん。激しさがハイデガーとかカールシュミットとかの比じゃないんだもん。これを極右って言うんでしょうかね?ブッシュ政権を見てみると、それこそプラトン式の高貴な嘘を利用して、まぁ大量破壊兵器だのフセインアルカイダと繋がっているだのさ、こういう高貴な嘘を利用して、んで侵略したわけよね。で、戦争ってのは経済を潤すし、常に敵がいたほうが国民のナショナリズムというか連帯感が高まるっつーんで、常に戦争状態を維持することがベストだみたいなことも言ってて、本当にすげーやつだなって思っちゃったね。非情っつーかなんつーかまさしくマキャベリズムだなと。


911以降のアメリカの動きとか国民の動きを見ていれば、あるところまではシュトラウス的なネオコン的手法が通用していたってことだね。ただ問題はブッシュ政権をやってたような人達が本当のエリートではなかったんで、んでまぁ後半グダグダになっちゃったみたいな感じなんだけど、恐らくネオコン思想を体現できるのって本当のエリートだけだと思うね。凡人には無理だわ。これ。なにしろこれってラディカル・エリーティズムだからね。ネオコン思想がここまで凄いもんだとは思わなかったよ。いや、別にそこで俺はネオコンに転向するわけじゃないんだが、悲しい事に俺が去年からずーっと言い続けているエリート独裁と大衆操作っつーか大衆をエリート達が作った共通善に向かわせるために教育したりコントロールするっつー、ポリティカルコレクトネスゼロな俺の最近の主張が偶然にもって言うと変だけど、シュトラウスのそれとピッタリ合致するところがかなりあってさ、自分でも驚いてるんだよ。前に書いたでしょ?俺がなんとなく考えていたことを、もっとシステマティックに書いていたりする思想家とかの本を読むとすんげー嬉しくなるっていうね。俺の場合、大体いつもそうなんだよ。俺がなんとなく考えていたことに一致するものに物凄い感動を覚えて、んでそれにのめり込むのね。本当にその繰り返しって感じなんだけど、今回はシュトラウスのエリート主義ってのがさ、面白いぐらい俺の考えと合致しててもうちょっと怖くなったぐらいだったね。だって去年から俺が書いてたようなことをシュトラウスが同じようなこと書いていたわけよ。めっちゃ驚いたよ。マジで。


ミュージックコンクレートの手法が俺のオリジナルだと思ってたらシェフェールって人が大昔にやってたっていうような、それと同じだね。はじめてシェフェールを聞いた時の感動って「俺と同じじゃん!」だったからね。基本的に興味っていうのはそういうことなのかもしれないね。何か自分の脳っつーか感性的なものと共振するものに対して人間は興味を抱くんだと思うんだよ。だから全く自分と関係が無いって思うものに関しては興味を覚えないのね。本当にこれはね、あれなんだよね、すんげー曲を聞いたときみたいな、そういう感動っつーか鳥肌が立つような感覚があるんだよね。あ、そのあれね、なんとなく考えていた事と同じか似たようなことが書いてある本に出会った時の感動ね。


いや、まぁ難しいから読むのに時間かかるんだけど、今後は当分、シュトラウスを読む事にしますです。ってことで今日はこの辺で。

Tey Call It Jungle

Tey Call It Jungle