大衆に政治は担えないなっていう。

mimisemi2009-02-05

マイブームのレオ・シュトラウスに集中し過ぎて乗り換えの駅越えちゃってさ、んでそのまま学校に行ったら30分ぐらいの遅刻になりそうだったんでそのままとんぼ返りしてきた。それにしてもハードコアだな。フォレストヒルズに引っ越してきてからっつーのはやっぱり明らかに通学時間が増えてるわけでさ、今日もあれだもん、とんぼ返りなのに2時間かかったからね。ちょうど4時半ぐらいに家を出て、んで6時半に帰ってきた感じ。まぁ電車に乗ってるときとかずーっと本を読んでたんで読書時間と見なせば全然無駄じゃないどころか、まぁ有用なんだよね。俺はこれを強制読書って読んでるんだけど、どういうことか?っていうと、電車にいるときみたいな、どーしょーもなく手持ち無沙汰で持っただけみたいな状況になるときに必ず読書するという癖をつけると、その通勤時間が読書時間に変わって、んで結果的に普段読書しないような人でも年間単位で見ると読書時間が凄まじいっていうね。だから俺はこっちに来てからっつーものあれだよ、電車の中とかホームで電車を待ってるときとかに必ず読書してるから、普段の読書の分プラスその待ち時間っつーか手持ち無沙汰時間があるから読書時間が凄いんだよね。そのおかげでまぁ近視が年々酷くなっているんだけど。最近は割と新しめの新調した度数の眼鏡でも黒板の文字が見えなくなってきてるからね。


ようは去年買ったロイド眼鏡とかね、ああいう新しめのやつですらもう黒板が見えなくなってきてるってわけよ。自慢みたいになってるかな?だからあれなんだよね、たぶん視力と読書量って比例すると思うんだよね。目が良い割に物知りってやつは物知りぶってるだけで、知識はウィキペディアとかネットレベルっつー可能性が高いね。何百冊って年間読んでたら健全な視力を維持することなんて不可能だよね。これちょっと試してみるといいよ。読書家ぶってるやつとか、物知りぶってるやつの視力を聞いてみるの。1.0とかあったら絶対そいつ嘘つきだよ。俺は確か0.002だかなんだか、確か0.1とかじゃなくて0が一個多かったと思うんだよね。完全に近視ですって言われたから。読書は量じゃないけど、でも俺みたいにこうやって日々の単位で読書ってのをしていくと確実に視力を失っていくっつーのは確実ね。まぁそんなんで昔は目が悪いっつーか眼鏡をしているということが賢さの象徴みたいな感じだったんだけど、今は微妙だよね。さっき「視力を聞いてみるといいよ」って書いたけど、そいつがウィキペディアマニアで、1日ずーっとウィキペディアばっか見てるやつとかだったらそいつも視力悪くなってるもんね。あとネットゲームとかさ、単純にネットサーフィンとかね。携帯メール然り。ゴメン。撤回するわ。視力の悪さ=物知りっつー枠組みはもう通用しないね。現代では。


で、物知り繋がりで覚え書きをすると、レオ・シュトラウスの聖書の解釈で面白いっつーか「なるほどぉー!」って思ったのがあったんで書くねっつーかシュトラウスに関しては「なるほどー!」っつーかにんまりするようなことが多くてさ、だから今日はもう学校どころじゃ無かったんだよ。だから本読みたくてしょうがないんで帰ってきたのね。全然授業出る気になれなかった。で、アダムとイヴなんだけどさ、イヴのほうだったと思うんだけど、知識の実だかを食べちゃうじゃない?で、神からこれを食べる事を禁止されてたという理由っつーのがさ、知識を得るということは神への反抗にもなりうるっつーか、ようはフィロソファーっつーかThe lover of knowledgeってそれまでの既存の概念とか習慣とかに反抗しなきゃいけないんだよね。それでこそ知識を増やせるっつーか、反抗しなきゃいけないっつーか反抗しないと何も新しいものは得られないってことなんだけど、そういう意味で神はアダムとイヴが神に服従するものとして存在するならその命を保証されてたって感じなんだよね。さすがシュトラウスって感じなんだけど、こういう読み込みからさ、アホな大衆を操作する方法の一つとして宗教を重要なものとして考えていたんだよね。こういう読み込みっつーかまぁ事柄はこれだけじゃないんだけど、ようは聖書自体が「神に服従せよ」って言ってるようなさ、ようは支配するもののドクトリンっつーか支配するやつが利用する虚構としての伝説っつーか道徳っていうかさ、人々が自分たちで道徳とかを考えることができないんで、んだからこういうのを信じさせておけば、その通りに行動するし、操作する側もバイブルに沿って話を進めれば大衆を操作しやすいっていう話なんだよね。まさしくブッシュ政権がやってた手法はこれだよ。だからアホなエヴァンジェリカルズとかバイブルベルトの人達はブッシュに投票したし、それ以外の人も特に911以降なんかはブッシュを支持したし、今でも共和党支持者ってのは多いんだけど、その多さの理由の一つにアメリカって国が聖書によって汚染されてる国っつーのがあるよね。


まぁ他の国でも宗教が重要な位置を占めている国だと、宗教が支配の重要なポイントを掴んでいたりすることが多いよね。まさしく宗教ヘゲモニーだよね。聖書ってのが大昔から権力者に利用されてきたことの背景にはさ、ようはドクトリンを植え付けるっつーか既存の「当たり前」とされている概念のパラダイムを人々が物語として共有しているってことは、それだけ人々の頭の中が統治者に丸見えってことなんだよね。そういう「当たり前」とされることを権力者が人々の生活レベルに布置することを、ようはフーコーは生政治って呼んだわけだけど、でも聖書が人々の考え方や行動までをも規定するということだったらもうそれって生政治どころの話じゃないよね。もう人々の中身まで権力者が統治してるってことになるじゃない?宗教って怖いね。ちなみに小規模でそういう宗教的ドクトリンを利用して組織を作り上げているのという良い例が創価学会ね。だから池田大作自体が宗教を信じているかいないか?なんて全然問題じゃない。あれだけ宗教を利用した権力システムってのが機能しているということが宗教の恐ろしさや宗教ヘゲモニーの歴史を物語ってるわけだね。政党や大学やメディアまで宗教団体が持ってたり、中には牛耳ってるものもあるなんて、それこそ中世の宗教システムと全く同じだよね。


例えば久本雅美みたいなのはシュトラウスが言う"Zeal"をそれこそ体現したような人物だね。ってーのはさ、ああいうのがいるとああいうファナティックなのが勝手に自分で勧誘とかをし始めるんで、権力者にとっては便利な存在だよね。勝手に熱狂して勝手に活動してくれるんだから。同じ事がナショナリズムにも言えるよね。勝手な物語を信じて、ナショナルなものにファナティックになって、んで勝手に自分で国の素晴らしさを語り始めたり愛国運動みたいなのをやり始めたりしたらもうそれってすんげー便利だよね。統治者が国民をそうなるようにしむけて、ある程度そういうZealなやつらが出てきたらあとは放っておいても勝手に統治が出来るんだから便利なシステムだよね。勝手に熱狂して勝手に戦争とかおっぱじめる風潮を生んだりするんだから、こりゃー動員が楽だ。ナショナリズムと宗教は本当に便利なツールっつーのは本当に言えていると思ったね。特に2ちゃんのへたれナショナリストみたいなのなんて簡単に動員できるだろうな。「チョン」とか「三国人」みたいなワード出しておけばとりあえず敵対心と愛国心を維持できるんだから楽だよね。敵/味方区別をはっきりつけて、ナショナルな連帯を強めるって右翼の十八番なんだろうけど、操作される側の必須条件としては「馬鹿であること」が重要なんだね。それは宗教もナショナリズムも一緒だね。だからこそ神はアダムとイヴに知識や考えるということを持たせてしまう知識の実を禁じたってわけだ。


で、シンボリックな意味でキリスト教イスラム教の宗教戦争イラク戦争ってことになるんだけど、まぁこれはアメリカの勝手なんだけどね。シュミット式の敵/味方区別の重要さってのを書き出すとまた長くなるからやめるけど、繰り返しになるけど宗教ってすんげー便利なツールなんだよね。統治者にしてみたら。それを伊藤博文ってのは気がついたわけだ。すげーなぁー。ようはキリスト教が宗教ヘゲモニーとして支配するという枠組みを天皇に入れ替えて、んで擬制としての天皇制というのを統治のツールとして作り上げたわけだね。チョムスキー風に言う「戸惑う人々」ってのは何か寄りかかれる大きな物語なりリーダーなり神話ってのを求めるんだよね。こういう人が世の中には多いし、こういう人が多いんじゃこういう人達による社会の統治なんてのは無理ってわけで、んじゃあこういう戸惑う人達を操作して動員してんでエリートの寡頭政治を行うしかないじゃないかってのがシュトラウスの考えなんだね。まぁ俺の考えはここまで洗練されたものじゃないけど、でもドッグヴィルと民主主義とか他でも散々色々書いてたことってようはこういうことじゃない?だから読んでて「そーそー!それなんだよ!」ってすんげー興奮しちゃうっつーかだからまぁ今日は駅を乗り越したわけだけどね。


宗教なり天皇なりっつーのは統治の道具ってわけだね。もちろんそういう意味で天皇もブッシュもただのパペットマペットなんだよね。道具として使われているだけ。特にブッシュはマジで聖書を信じたりしているディックヘッドだからパペットにぴったりだったってわけだね。そう考えるとアメリカのネオコンのやり方ってのはアメリカらしくすんげー合理的だね。めっちゃ合理的に寡頭政治を行おうとしているっつーかさ、まぁただシュトラウスほど洗練されてないけどね。俺が普段書いているように本当の政治的エリートって少ないからさ、ただ逆を言えばシュトラウスが言うような本当の政治的エリートがネオコン的手法で世の中を統治したら、それが結局、資本主義っていうシステムの枠組みで考えられる一番の政治のあり方なんじゃないか?ってことにもなりかねないよね。「いや、何を言ってるんだ!」って言いたいなら君たちが頑張りなさいって話なんだよ。国民ならぬ「人民」が頑張らないとそうなっちゃう。ただ俺はもういいやって感じなんだけどね。国民にも市民にも絶望してるから。思うにシュトラウスは例えば俺の前のルームメイトみたいな酷い俗人に会って嫌な思いをしたってことで、エリート思想がより磨かれたのかもしれないね。まぁエリート思想っつーか俗人はダメだなっていう俗人への憎悪みたいなのがある背景にはシュトラウスの実存レベルでの何らかの経験ってのがあるのかもしれないね。あそこまで徹底的に人々を信用しないっていう考え方の背景には何らかの実存的な経験があるのかもしれないよね。それはエリート思想が先立っているのか、俗人への不信感が先立っているのかは分からないんだけど。まぁ半分ジョーダン23みたいな話だけどね。


でも歴史を見ても政治ってのは常に少数の権力者によってなされてきたわけだし、人々の統治ってのがあったことがないし成功した試しが無いんだよね。アホが変なドクトリンで政権を取るとスターリンとか毛沢東とかポルポトみたいなダメな指導者がとんでもないことをしでかすわけだよね。そういう変な左翼が政権をとっても大変なことになるんで、余計にちゃんとしたネオコンが頑張らないと政治ってのはダメなのかもしれないね。ネオコン系の人達の共産嫌いの理由がだいぶ分かってきたな。最近。俺も最近嫌いになってきてるからね。左翼。何が嫌ってほとんどの議論を最終的に「民意を問う」みたいな言い方をして留保したまま終わらせちゃうんだもんね。それが凄く嫌。そういう言い方をすればなんとだって言えるよ。「今こそ我々が・・・」みたいな言い方はもう観念レベルでしか存在しないよね。政治ってのは現実レベルで行われるものなんだから、だからこそシュトラウスが言うような擬制としてのハイパーリアリズムが必要なのかもしれないね。そうなってくるとナショナリズムってのを利用するのが本当に手っ取り早くなるわけで、例えば今の日本みたいなダメな連中が能無しに右傾化していて、なおかつ人々が不安でしょうがなくて、んで何らかの大きな物語なり指導者にすがりたいっていう思いをしている中で例えばヒトラーみたいなカリスマティックなやつが出てきたらそれこそナチス的な全体主義の再来が無い事も無いんだよね。読んでないから分からないんだけど、この辺の話はハンナ・アーレントとかを参照したほうがいいのかな。あーまた読むのが増えた!余計学校行ってる場合じゃ無くなるな。


ただエリート主義の目的ってのはユダヤ人虐殺とかをするナチズムじゃなくて、エリート統治による善い社会の設計なんだよね。そういう意味で俺はシュトラウスに共感する部分が多いってわけ。善い社会の定義は色々だけど、少なくとも今みたいな悪い社会が跋扈しているようなカオティックな世の中よりかはよっぽどいいし、ましてや人々に政治を担える力が無いというのが自明なら、性急にエリート育成をしないといけないってわけなんだよね。そういう意味でアメリカはエリートを育成するという伝統があるんで、だからネオコン思想みたいなのが根付きやすいし実現しやすいのかもしれないね。ただ俺は全然アメリカの共和党に頭の良さを感じないけどね。俺がシュトラウスに共感するといっても、ダメネオコンみたいなのに共感を得てるわけじゃないっつーのは本当に理解してほしいね。ネオコン思想=既存のネオコン政党ってわけじゃないのは、マルクス思想=マルキシズムじゃないのと全く同じことだから。


思うにギリシャ哲学とかって危ないんだよね。現代的な観点から見たら政治的に相当アウトだもんね。俺の勝手な推測だけど、ネオコンとは違う左翼の立場からもランシエールみたいなアンチデモクラティックな人がいるってのは本当に興味深いな。で、ランシエールがよく引き合いに出すのがギリシャ哲学だったりして。で、今、Yahooの記事を見ていたら首相にふさわしい人のトップが小泉ってのがあったんだけど、ジョーダン23だろ?って感じだね。まぁこんなものはただの一つの統計に過ぎないんで、一般化は出来ないんだけど、逆説的に言えばミクロなものはマクロを構成するわけで、馬鹿がどれだけ多いのか?っていうのを表している良いアンケートの結果だと思うと同時にポピュリズムの効果の根強さってのを実感するね。本当に大衆は操作されやすいんだなって思うよね。だったらその操作を本当のちゃんとしたエリート達がやればいいって話がシュトラウスの議論だわ。結局のところ。それが小泉じゃしょうがないけど、ちゃんとした政治家ならオッケーってことで、ちゃんとした政治家が政治を担えれば「高貴な嘘」もオッケーっつーのは俺も全面的に同意するねっつーのは本当も嘘も判断できないようなどうしようもない馬鹿が多いんだから、嘘か本当かなんて本質的なことじゃ無いんだよね。古代ギリシャからデモクラシーってのが衆愚政治として嫌われてきたってのには歴史的な大きな裏付けがあるってことだよね。ようは大衆に政治は担えないってことだ。ランシエール風に言うならば「とるに足らない者による統治」は無理ってことね。あ、でも大きな違いがあってね、ランシエールは民主主義というシステムが寡頭政治みたいなものを生み出してしまう原動力になっているので、「とるに足らない者による統治」が可能なシステムを模索するものとしての政治哲学ってのを打ち上げているわけで、まぁそこに人民への信頼というか、まぁやはり人々が政治を担えるようになるにはどうしたらいいのか?というような考えを措定していると思うんだけど、まぁ俺に言わせれば糞食らえだね。そんなもの。だからランシエールの「民主主義への憎悪」を読んだ後にすんげー不満が残ったっつーかガッカリしたんだよね。だいぶ前の話だけど。「期待してたのと全然違ったな」っていう。やはり人民に望みをかけるという意味だとやはりランシエールは左翼なんだなって凄く感じたよね。


ってことで今日はこの辺で。

Taste of Un Sorso Di

Taste of Un Sorso Di