ソーシャル・サイコロジーのクラスで思った事。

mimisemi2009-02-06

ソーシャルサイコロジーのクラスにさ、中途半端に頭が良いやつがいてさ、若いやつなんだけど、すんげー衒学的なやつでさ、授業中に質問しすぎてたりさ、なんかあるとすぐ自分の知識とか見識をひけらかそうと必死になってるやつがいるんだよね。そいつと仲が良い馬鹿な女がコンビで色々と発言するんでこいつらのフリートークだけでもうすげー時間食っちゃうのね。だから思ったんだよね。こいつら調子に乗り過ぎだから、おめぇーらが一番クラスで知識があって一番頭がいいって思ってるのかもしれないけど、んなこたねぇーぞってのを思い知らせれば黙るかな?と思ってさ、んで俺があえてTPOを無視したような質問を連発したんだよねっつーのはさ、ソーシャルサイコロジーって結局なんつーか自我は社会によって形成されるみたいなポストモダンチックなところがあってね、だから「これらはポストストラクチャリズムやポストモダニズムとどういった違いがあるんですか?」なんて聞いたりしたわけ。


そしたら先生が思わぬ質問に「え?」とか言うもんだから「ようは自我なんていうものは存在しなくて、自我というのは社会関係や社会性のようなものが規定するものというパラダイムから考えると、ポストモダニズムと似ているところがあると思うのですが」なんつったら先生がちょっと驚いた感じで「・・・あーまぁーそういう感じだねぇー」なんてちゃんと答えられてない感じだったんだけどさ、で、その後も自我の形成の話になったんで「ジャックラカン鏡像段階との関わりや影響などはあるのですか?」なんてまた鏡像段階に似たような話が出てきたんで聞いたんだけど先生はラカンについて知らなかったようで質問を無視していたけど、その後のクラスの雰囲気といったら一変してたねっつーのはさ、俺がこの質問をした後に隣にいたこの衒学的なやつが大きなため息をついててさ、んでその後、全然調子に乗らなくなったのね。「あ、やっぱりそうか」って思ったわけ。ようはクラスで自分が一番だとかって思ってるから、いや、そうじゃないんだよってのが分かればショックを受けて調子に乗らなくなるだろうって思ってたら案の定だったってわけ。俺があえてポストモダンとかラカンとかっていうこいつが知らなそうなワードを使ったのはこういう目的があったわけね。


で、その後にさ、質問をしなくなった代わりに授業中なのに例の馬鹿女と話し始めたんだよね。授業中の私語っつーの?で、それでさ、小声でさ、笑っちゃうのがこの衒学的なやつが「横にいるあの変なやつはただの馬鹿かと思ってたけどインテリだったんだねぇー意外だねぇー」なんてふざけた口調と声で俺を馬鹿にしてるわけ。相当悔しかったんだろうね。こいつは例の馬鹿女に喋りかけていたんだけど、まぁ俺は全部聞こえていたけど、でも別にまぁ「インテリ」って褒められてるからいいかと思ったんだけどさ、やっぱでもコミカレレベルじゃポストモダンなんて言葉すらも知らないやつが多いわけでさ、別に馬鹿にしているわけじゃないんだけど、あまりにも調子に乗りすぎたんで成敗したって感じなのよ。で、大成功だったわけ。相当ショック受けてたみたいだからね。顔つきが全然違うの。まぁーそうだよね。自分が一番賢いとか物知りだって思ってたら、横にいたアジア人の変な奴と思ってたやつが実はもっと上手だったって知ったら今までの自分も恥ずかしくなるし、今後、調子に乗れなくなるもんね。まぁ統制力の無い先生にも問題があるんだけど。


で、この事件を境に思ったのが、個人主義か統制なのか?って話ね。ようはさ、この馬鹿が質問しまくるっつーのも迷惑な話なんだけど、でも一応ソーシャルサイコロジーに関係のあるトピックだったら質問をする権利があるんだよね。かといってそれを放任しすぎると調子に乗ってこいつの独り舞台みたいになるからさ、そこで先生はこの生徒に「ちょっと質問が多過ぎるからやめてくれない?」って言わなきゃダメだよね。でもさ、そこでなんつーかどの程度まで質問を許すか?ってかなり難しい問題だよね。ようはこいつが質問をする権利というのはあるんだけど、それを行使しすぎるとクラス全体に迷惑がかかるっつーか、露骨にこいつを嫌ってる他の生徒とかって多い感じだからね、明らかに迷惑してる人達がいるのよ。


でもその一方でこいつや馬鹿女には権利がある。かといってこの統制力の無い先生は優し過ぎるのか気が弱いのか注意できてない感じなんだけど、この注意をするってのがようは先生っていうオーソリティーがクラスの統制のための権力を行使するっていうのがこの生徒に対する注意ってことになるよね。こいつが質問をするという権利を押さえて統制をするというのが果たしていいことなのか?っていうね、個人主義が行き過ぎるとクラスはカオスになるっていうさ、みんな授業料を払っているんだから、質問をする側も他の生徒のことを考えなきゃいけないはずなんだけど、そうじゃないやつってのもいる。で、そうじゃないやつらってのは周りを気にせずに質問しまくって、んで他の生徒を困らせるんだよね。そこで先生が統制のために注意をしてしまうと、次はこいつの発言するという権利を奪う事になっちゃう。でもそれによって授業は恐らくスムーズに進むし、他の生徒もイライラしなくて済むようになるんだけど、その上にはこの馬鹿の権利の犠牲があるんだよね。


どう思う?難しいよね。俺が仮に教師の立場になったらすげー悩んじゃうなって思ってたりしたら真剣に悩みだしちゃったんだけどね。で、こういうことを書いているわけだけど、どうすればいいんだろうね?たださ、クエンティン・スキナーが言ってたようなさ、私的利害よりも共通善っていう概念が上位にある理由ってーのが、その共通善っていうのがあってこその市民の自由でしょって話なんだよね。自由のためには共通善が必要っつーのはさ、そいつの発言するという私的利害以前に、そいつも含めた生徒と教師のいるクラスを成立させるためには共通善、ようは控えめな質問とかさ、それこそ空気を読むじゃないけど、あんまり出しゃばりすぎないとかさ、クラスを維持する上での全ての生徒にとって最善なことって何?って考えた時にやっぱこいつの発言権(こいつが発言するという自由)なんてどうでもいい話になるよね。個人主義だの権利だってのを言いすぎるとバランスがおかしくなるっていういい例だよね。これは。だから恐らく先生というか統治者は全ての生徒にとって良いクラスというのを維持するための共通善を維持する必要があるんだよね。そこに数人の個人の自由が犠牲になっていても、クラス全体というのを考えた時に結局それは共通善あってのクラスだから、そいつの自由なんてどうでもいいって話になるんだよね。


むしろそいつが権利なり自由を行使する状況というのはさ、その共通善が維持された統制された教室の中で調和を乱さない程度の権利や自由を行使するということだよね。共通善があっての行使なわけで、それ以前の状態での行使はただの行き過ぎた個人主義になっちゃうわけだね。個人の自由と統制というのが両立不可能なように見えて、何気にスキナーの言い方をすると、統制というか共通善あっての自由ってことで、これって割と今回みたいな状況においてはかなりのブレイクスルーだよね。


ってことでもう答えが出たんでいいや。もう気が済んだっつーかなんつーか。

Democracy for the Few

Democracy for the Few

これがポリサイの教科書の一つなんだけど、左翼寄りの教科書って前に書いたけど、まぁ確かにそうなんだけどでも良い教科書だよ。有色人種が今でも白人に比べて職が得づらいとかさ、そういうことに関するリアルな数字とか統計とかが乗ってたりして、かなり強烈だよ。日本語版があるのか分からないけど、でもなんかこれはあれだね、翻訳して日本で出版する価値のある本だと思ったね。アメリカ社会全般に関する病理みたいなのが凄く細かく書かれていて、しかもその内容が教科書になるだけあって多岐にわたっていて凄いんだよ。英語読める人は是非どうぞって感じよ。高いけどマジでオススメの本です。アメリカの真実が分かりますよ。「アメリカの実体」みたいな新書が最近流行ってるけど、そういう新書読むよりこれ読んだ方が早い。新書100冊分ぐらいの内容が詰まってるんで凄い強度ですよ。