モテ期。

mimisemi2009-02-19

変な髪型と眼鏡だけど俺は完全に今、モテ期だね。こっちに来てから色々あったけどポジティブになったことで顔つきとかオーラが良くなってるのかもしれない。で、そのポジティブホルモンみたいなのが人相に影響してきて、んで良い顔になってるとか。まぁそれはともかくかなりモテるんだよね。本当に。今セメスターでも「なかなか可愛いな」と思った子から誇張無く声をかけられるんだよね。まぁ俺が無意識にジロジロ見てるんで「あいつあたしのこと好きなのかしら?」なんて思われてるのかもしれないけど、こないだもさ、天文学のクラスでクラスでは一番可愛い子があからさまに隣に座ってきてんですんげーチラチラ見て来るんだよね。で、俺も心中穏やかじゃ無くなるわけだけど、授業後に宿題の話だとかなんだとかさ、あっちから色々と話しかけてきてっつーかまぁたまたまかもしれないけどねっつーのはこっちって人と人との距離が良い意味で遠くないから会話が発生するのは自然の摂理って感じなんだけど、んで英語のクラスでもそうだよ。割と可愛い子からチェックされてるっつーかわざわざ声をかけられるんだよね。


で、気になったのがあまり信じる気になれないし興味が無い「引き寄せの法則」という本ね。存在は知っていたけどベストセラーってことでロクでもないオカルト本だろうとかって思ってたんだけど、ちょっとググってみたらこっちに来てからの俺のポジティブの波乗りジョニーの法則と似ているようなところがいくつかあってさ、で、もしかして俺が色々とこっちに来てから編み出したポジティブ法ってのと似たようなことが書いてあるかもなとか思ってちょっと興味が出てきたんだよね。ようは俺がいつも哲学とか色んな本を読む時と同じ動機で「俺の思ってるこんなことが書いてあるといいな」っつーその本に何かを求めるというよりかは、自分の思考と同じだったり近いもののシステマティックな完成品みたいなのを読みたいっつー理由で大抵の本を読むんだけど、そんな感じが引き寄せの法則にも感じるのね。普段読んでる高尚な本と比べたら俗っぽいものだけど、んでも「もしかしたら似てるかも」ってことでちょっと興味が出てきたのね。


で、妄想してることが本当になるということは1世紀も前に書かれたサクセス本の元祖みたいなThe science of getting richという本に書いてあるわけ。これも逆ね。「俺の編み出した方法を誰かが書いてるかも」っつー理由で読んだらビンゴだったっつーのがこのWallace D. Wattlesの本ね。これを読んで実行したわけじゃなくて、自分で編み出したと思っていたことがもうとっくに書かれていたという話。この本はまぁ「金持ちになるためには」みたいなことが書かれているんだけど、ようは俺が前に書いた「なりたいと思う最高の自分を心に描いておけばそれが実現する」っつーそれそのものなのね。それをもっと詳しくシステマティックに書いてあるというのがこの本って感じ。まぁアスリートとかがやってるメンタルイメージだよね。ようはポジティブな波に半ば自分を洗脳して行くって感じで、手法的にまぁ主観に雁字搦めになった精神をニルヴァーナに到着させるための自己解放みたいな感じだよね。


俺の場合はまぁちょっと違っていて、前に書いたけど「アメリカの大学で可愛い姉ちゃん達と楽しいおしゃべりをしつレベルの高い哲学的な話を・・・」みたいな妄想を引き蘢りの時にしていたんだけど、その時は実現するわけが無いと思っていた妄想なんだけど、今まさにWallaceの本に書いてあるような「自分が思い描いたことを実行できる適切な場」で実現できているわけ。もちろんこれはゴールじゃないけど「妄想していた事が本当になっている!」という驚きはもう去年から書き続けていることだよね。これが俺にメンタルイメージの強力さというのを思い知らせた経験だったわけ。まぁ具体的に言うと去年の哲学のクラスね。あと酷いことにはなったけどリア二千との大恋愛とか。前の自分じゃ考えられないような体が浮くような思いがするということが日常単位で叶ってるというか経験できているんだよね。これが凄いんだわ。マジで。どんどん自分が変わっていくのが感じられるし、それはまた同じく去年ぐらいにドゥルーズの運動する有機体みたいな概念で色々とポジティブな波乗りジョニーについて書いたけど、今はそれが確信に変わってるよね。もう自明の事になったというかなんというか去年ぐらいではまだ発見という段階だったけど、今はもう常識になってるっつーかなんつーか。


そんな波に乗っている俺が凄まじくモテているというのはまさしくセオリーが働いているという良い証拠だと思うんだよね。ただ僻ではない今までは思った事も無かった「アメリカンガールからモテたい」という意志が具現化してるってことでしょ?たまたまかもしれないけど、でも明らかにモテてるんだよ。色んな女の子からのアプローチを感じるわけ。これってすげーよな。まぁだからといってプレイボーイにはならないっつーかなりたくてもなれないけど、でもこのモテ加減は半端じゃない。これはひとえに俺が波に乗っているから起こっていることだろうとまぁ定義しているわけだが、このまま進んで行けば全ての自分の望んでいることが可能になりそうな気がするんだよね。そのぐらいマジで半端無く日々の単位で色々なことが叶ってるから逆に怖いぐらいなんだよね。


全部自慢みたいな話になってるけど、いや、でも凄いモテ期ですよ。俺とは明らかに釣り合わなさそうなぐらいのクオリティの高い女の子からも声をかけられたりするっつーのはマジでありえないことだよね。別に恋愛に発展しなくても、それは前に書いたような俺が何かを引き寄せる磁石のような役割を果たしているかもしれないわけで、そこでまぁさっき書いた「引き寄せの法則」との奇妙な一致を感じるわけだけど、まぁ読んでないからなんとも言えないんだけどね。自慢ばっかになるけど、過去にも英語学校とかでも色んな子からアプローチを受けたんだよね。妄想とかじゃなく。ただあまりかわいくない子とかタイプじゃない子が多かったんで遠回しに断ったりしてたんだけど、今までモテたことなんて無かったからね、いや、凄いよなって過去の妙なモテ現象とかと照らし合わせてそこから自分が常に地続きなんだなと凄く実感したわけね。恐らくまぁあれだろうな、見た目が別に普通でも輝いているように見える人って恐らく素敵に見えるんだろうね。それがホルモンとかなんつーか生理現象によるものなのかは分からないけど、俺は恐らくそうなんだと思うね。気分障害でヒドくなっているときもあるけど、でも明らかにまぁ過去よりかはポジティヴになってるんだよね。それが恐らく内面から来る魅力なんだと思うね。そういうのを人間ってのは感じる感覚を持っているのかもしれない。そういう意味で俺がクラスで発言したりして目立ったりした後、男女含めて色んなやつから声をかけられるというのも恐らく引き寄せの一種なんだと思うんだよね。


常に俺は世界観をエポケーしてるんで、その妙な変化っつーのかな?自分の妙な力みたいなのを凄く感じるわけ。客観的に見て「俺って凄い!」って思うよりかは「面白いなぁー」っていうね。自分が中心になっているような感じというのを勘違いではなく客観的に見れるわけね。それってのは元々あったかもしれない才能っつーかオーラを自分がポジティブになりつつ将来の自分というのをビジョン化しているということがエンハンスさせられて顕在化してきているかもしれないわけね。だから凄いのは俺ではなくっつーか俺もまぁ凄いかもしれないんだけど、俺にとっての凄いことは今まで全く考えられなかったような自分のポテンシャルをどんどん引き出しているという自分そのものなのね。だから俺自身はともかく、変わってきて明らかに凄くなっている自分というのにシフトさせている自分自身が凄いなって思うわけね。それは本当に単純にこっちに来てから夢っつーか将来のビジョンを持てたから可能になったことなんだよね。で、また日本批判になるけど、そういった若者に大志を抱かせないか抱く事ができないような日本社会ってもう腐りきっているよね。日本で凄い人々が育たない理由といのがこっちに来てから本当に色々と分かるようになったよね。本当に。


俺がちょっとずつ凄くなってきているのもモテているのも自慢ではなく、ポジティヴな自分にシフトしたことによる劇的な変化という意味でそれをドラマティックな現象としてまぁ説明したわけね。今回は。まぁ自慢にしか聞こえないかもしれないけど、俺が言いたいのはビジョンを描くとか具体的な夢に向かって進むってことが凄まじいパワーや劇的変化をもたらすんだよってことね。このなんか偉大な霊でも取り付いたような俺の波乗りっぷりは半端じゃないんだよね。これは今に始まったことではなく。別に今日、特別良いことがあったってわけじゃなくて、「コンスタントにモテるよな」ということを考えてたらまぁ色々と浮かんだんで書いているだけなんだけどね。元引きこもりのニートがアメリカでここまでモテるとはもう驚きでしょ。それだけ内面が変われば全てが変わるってことなんだよ。なんかだから漠然と恋愛も上手く行きそうな気がするんだよね。マジで。イケメンでもなんでもないカリスマ的なやつが女性からモテる理由がちょっと分かったような気がしたな。ようは内面なんだなと。


あと俺のこないだの肉彦さんへの私信のエントリーで書いた「快楽原則に従って目標に進む」というようなことも、さっきのWallaceの本に書いてあったのね。"Desire is a manifestation of power"って感じで。嬉しいのはいつも書く事だけど俺はあくまで自分でこの発見をしたってことなんだよね。自分で思考して発見した事が過去の偉人の考えた事とかぶってたらむしろ光栄なぐらいでさ。で、Wallaceの本は脱構築して、「リッチになる」というところを自分の目標に置き換えて読めばいいと思う。あと資本家臭い言い回しの全てをそのまま真に受ける必要は無いし、あと時代背景なんかが今とは全然違うから感覚が違うところもあるんだけど、基本的に「成功する秘訣」という核の部分は揺るぎないんだろうし、恐らくこの本は哲学書で言うところのプラトンなんだよね。他のサクセス本のほとんどはただの脚注っていう。まぁサクセス本なんて全然読まないから分からないんだけど。


で、自分で思いつくことの重要さはショーペンハウエルが読書について言っていたことと同じで、ようは読書ってのは簡単なことなんだよ。ようは誰かの思考の足跡を辿って行くだけの行為なんだから。一番大変ながらもコアの部分ってのは自分で思考することなんだよね。だから俺の場合、大抵が逆なの。思考が読書に先立っているわけ。思考があって読書がある。逆なんじゃない。なので曲作りにしても読書にしても「こいつ俺と同じ事やってやがる」みたいなことが頻繁にあるわけね。自分がオリジナルだと思ってたのが違ってたってヘコむこともあるけど、でもそれはまぁさっき書いたように偉大な先人と同じような思考や考えに行き着いたんだったらそれはむしろ光栄なことでさ、それはそれでいいんだよね。考える事や自分で作り出すことというのは無駄な行為じゃないからね。


あ、んで今回の自慢みたいなエントリーだけど、これはこれまたWallaceの本にも書いてあるように確信っつーか真実っつーか事実っつーのは自慢するに足らないことなのね。で、俺が言いたかったのは「俺ってすげーだろ!モテモテだぜ!」ってことじゃなくて「内面が変わると全てが変わるぞ!」っつーことなのね。なので俺がモテているとか凄くなってきているというのはただの所産なわけ。なので自慢に足るものではないと。で、Wallaceの本から学んだ事は「競争心は創造性を生まない」ってことが大きいかなっつーのは前に日本人のクソ島国根性を批判しまくったエントリーで「ライバルを作ればそれがモチベーションとなる」って書いたけど、ライバルとか作ってる時点でアウトなんだなっつーのに気がつかされたね。ようは自分は自分、他人は他人っつーのをまず原則として持っていないと創造性ってのは生まれないんだね。日本の知識人の大半がダメな理由をここに見た気がする。彼らって他の自称知識人との知識の競り合いみたいになってるもんね。だからオリジナリティが無くてダメなのが多いんだな。日本ってこないだ書いたことも含めて様々な見えない力学が創造性や人間のポテンシャルみたいなのを奪ってるんだなって凄く感じるよね。もちろんそれは見えないものだから本人達はそれが当たり前のものとして暮らしているから気がつかないんだけど、ここに急所があるよね。


最後に個人的な覚え書きになるけど、Wallaceが"God cannot help helping you, if you act in a Certain Way; He must do so in order to help Himself."っつってるんだけどこれって究極的な無神論だよね。既存の拝めばご利益タイプのご都合主義宗教を根本的に批判しちゃってるよね。意図がある無しに関わらず結果的に。ようはこれって神ってのは自分自身のFormless Intelligenceのことだってことだよね。恐らく。いやーこれが1910年に出版された本だなんて信じられないな。ラディカル過ぎでしょ。マジで。言ってる事が結果的に宗教批判みたいなインプリケーションが見えなくもないっつー意味だとスピノザ的だよね。


あと最後にもう一つ。「もしかしたら俺の留学は成功しないかもしれない」って考える事がいかに不毛なことなのかを思い知らされた本から引用。

Give no anxious thought to possible disasters, obstacles, panics, or unfavorable combinations of circumstances; it is time enough to meet such things when they present themselves before you in the immediate present, and you will find that every difficulty carries with it the wherewithal for its overcoming.

Never admit the possibility of failure, or speak in a way that infers failure as a possibility.


これはビジネス書として扱われる必要は全くない本だね。なにしろ脱構築しちゃえば色んな境遇の人に対応できる本だからね。さすが伝説の本だけあるなと思った。Wallaceの言う「神」も
「自分の心」つまりFormless Intelligence(Formless Substance)と解釈すれば宗教臭さが一気に無くなるし。ようはFormless Intelligenceという名の神を自分の中に想像しつつ、プロセスに従ってその神を信じながら感謝しつつ教義に沿った行いをすれば誰でも成功するということだね。これじゃー宗教団体とか教会が潰れちゃうと思うんだけどな。


ってことで今日はこの辺で。


富を「引き寄せる」科学的法則 (角川文庫 ワ 5-1)

富を「引き寄せる」科学的法則 (角川文庫 ワ 5-1)

↑を脱構築しよう。

ザ・シークレット

ザ・シークレット

で、早速、今日、学校の近くのバーンズアンドノーブルで↑を買ってきたんだけど(エントリーを書いたのが昨日でこれを書いているのが今日)、これってジャンルが「ニューエイジ」なのね。でも中身を見てみると、それこそ俺が色々と書いてきたこととか思ってたようなことと似たようなことがずーっと書いてあるんで「なるほどねぇー」って感じだったね。特に「磁石」の件に関してはドンピシャ。他にも快楽原則を原動力にするという俺なりのセオリーも、まぁ似たようなのがいくらでもあるんだなと痛感させられた感じでしたね。いや、しつこいようだけど自慢じゃないのね。ようは自分の経験から「こう思う事が重要なんだな」と気がついたことが、もっと体系的に詳しく書かれている本って感じで、実際のところオカルトでもなんでもないね。これ。ニューエイジでもない。まぁある意味で常識っつーか恐らく認知科学的にも常識なことが多いと思う。ところで最近、このぐらいの本なら3時間ぐらいで読めるぐらい英語を読むのが速くなってきたよ!これまた「速く読めるようになりたい」という思いが具現化した良い例ですね。まぁ当たり前なんだけどね。「日本語ぐらいの敷居の低さで英語の本を読めるようになりたい!」っていう欲求を持ちながらずーっと読書を続けてきたんだから、速くなるのは当たり前。まさしくCause and Effectね。あと自分が読みたいとか聞きたいと思う本とか映画とか音楽を引き寄せるのも俺という欲望するアンテナがあるからだけど、これも前に色々と書いたよね。これもドンピシャ。ドンピシャっつーか当たり前の事しか書いてないんだよね。でも当たり前過ぎて「ハッ!」としてしまうというか。そういうまぁなんつーか自己啓発系の本なんだろうね。これ。「こんなミックスを聞きたい」と思った物を具現化させたのがKing of Dickkin'シリーズなんで、このミックスを俺自身が気に入るのは当然、というのは俺が望んでいたミックスだからね。なので表現全般とThe science of getting richとかThe secretには共通点があるねっつーのは心に思い描いたものをが行動や表現によって具現化するという意味でなんだけど。


という意味で俺の曲作り全般に関しても今回気がついたことがあって、俺は基本的に最初から自分が聞きたい音ばかりを作ってきたんだなと。で、今は昔作ってたような電子音楽とかノイズをあまり過去ほどは聞かなくなっているので、だから過去のような曲作りをしなくなったかもしれないね。今はひたすら通学の時に元気が出るようなミックスを聞きたいって思ってるんで、だから創作活動がミックスに向かっていて、んで凄まじい生産性を発揮しているのかもしれない。俺の特にアメリカに来てからのDickkinって全部外でウォークマンで効くのにピッタリなのばっかでしょ?ようは外で聞けるようなのを俺が求めていたからなんだよね。単純な話。まぁ元気が出るっつーかウキウキするっつー意味でまぁ全部ドライブとかにも向いてるかもしれないね。一時期ハマりまくっていたフィールドレコーディングに関しても音全般に関しての自分の答えっつーか考え方みたいなのができちゃったんで、もうそこまで追求する必要が無くなったからあんま興味がいかなくなったのかもしれない。やってた頃は録りながらひたすら色々と音について考えてたからね。今は分かっちゃったんでやる必要が無くなったっつーかなんつーか。まぁだからって興味が無くなったわけではないんだけどね。


で、なんでこんなベストセラーになるような本と俺が色々と気がついていたことが似ていたのか?っていうと単純なことで、人間という一種のシステムの所産みたいなものが思考しながらたどり着く人生についての考え方とか人生における法則みたいなのって人種を問わず「ある社会に生きる人間」という点で一致しているから、数学ほどの正確性は無いながらも、例えば全く違う宗教のドグマが他の宗教のドグマと似ていたり、全く違う観点から話を進めてきた学者二人の結論が同じようなものであったりするのは、つまりはそういうことだよね。そういう意味で意外と思考の多様性ってあまり無いのかもしれないね。「対象と思考」という枠組みで物事を俯瞰すると、「人間」というデバイスが「システム」や「物事」といったハードウェアにアクセスすると導きだされる結果みたいなのが様々な思想や発見や法則だったりするんだろうね。なので学問の領域が違っても。「対象と思考」というパラダイムで考えると、領域の違うもの同士が似たようなプロセスや結果を辿るというのはありえることだよね。だからといって考える事をシニカルに放棄する必要は無いわけだけどね。自分で導きだした理論や哲学や法則が仮に過去のやつとかぶってても、「自分で導きだした」ということに少なくともその主体にとっては意味のあることだよね。何しろ「自分」というデバイスとシステムとの関係性の中で導きだされたものなんだから、その価値は尊いよね。やっぱりなんつーかそれは読書と思索の似ているようで大きな違いがあるってことだよね。


これさ、あれなんだよね、当時全然歌詞の意味が分からなかったけど、すんげーアイロニーなのね。