相対主義はダメですぅーって結論に至りました。

mimisemi2009-03-27

はい。では続きですっつーかトピックはバラバラなんだが。ところで今日学校休んだんだよね。昨日から頭痛っつーか鬱が酷かったのもあるし、起きても気分が最悪だったっつーのもあるし、なにより今日は学校が魔の天文学3時間半の日でさ、しかも外は雨で、んで明日はソーシャルサイコロジーとポリサイで試験があって、んでしかもポリサイでプレゼンやんなきゃいけないっつーんでさ、本格的な準備あんまやってなかったから今日やるしかないなっつーのもあって休んだんだけど結局、学校休むとダラダラしちゃうんだよね。今もさ、2ちゃんのまとめサイトみたいなやつのね、ゲームに関する都市伝説みたいなやつを読んでたんだけど、ちょっと身に覚えがあって怖いなって思ったのが零のさ、紅い蝶の効果音の話なんだけど、効果音とかを録音しているときに入るはずが無い音とか声とかも入っちゃったらしいんだけど効果的ってことでそのまま使ったっつー噂があってね、まぁ噂にしか過ぎないんだろうけど、すんげー心あたりがあったのがさ、紅い蝶ってどこまでが意図された効果音っつーか心霊的効果音でどこまでが天然なのか分からないんだよね。あまりにリアル過ぎて。


ようは作られた霊の声が混ざってしまったような感じの雑音とかもさ、リアル過ぎて分からないんだよね。この中に違う声が入ってても気がつかないだろうっていう。でもさ、俺の場合、英語版でやってるからさ、背後にあるっぽい声も英語で喋ってたりするとまぁ録音なんだなって安心するんだけど、これが余計に怖いのがさ、日本語のままの霊っぽい声みたいなのが結構あるんだよね。意味不明な赤ちゃんの泣き声とかさ、あと一番怖かったのがあの霊とかを倒した後に手に入る石あるじゃない?あれをラジオで聴くと霊からのメッセージみたいなのが聴けるみたいなさ、その中にどの石かは忘れたけどすんげーリアルに「会いたかった・・・」って入ってるやつがあってさ、その入り方っつーか音の感じがなんつーのかな、歌謡曲とかに混ざっちゃった霊の声みたいな感じなのね。意図されたっつーよりかはマジで入っちゃったような雰囲気バッチリでさ、あれが意図的なものだったら凄いなって思ったんだけど、あまりにリアルで怖くなったんだよね。背後のうめき声とかはまぁ当然作られたものなんだろうけど、でもうめき声っつってもさ、どこまでが録音されたやつで、どこまでがマジなのか?って制作者にしか分からないもんね。そういう意味でなんつーかこういう都市伝説が流布するのも頷けるっつーかね、そんぐらい音声関係がリアルなんだよね。


で、「会いたかった」なんだけど霊の話し声ってのは当然英語で録音されてるんで、明らかに分かるんだけど、その霊とは関係ない背後にある声でしかもその霊とは関係なさそうな日本語ではっきりと入ってるっつーのがマジで怖いんだよね。だからなんか石を手に入れた後、聴くのが怖くなっちゃってさ、あと二週目やりたいんだけどなんか疲れるからやってないんだよね。1も3も通販で買ってやろうと思ってたんだけどあまりに疲れるっつーかさ、あと怖さとかがサイレントヒルとかの比じゃないからね。マジで。なんかね、音声関係にしてもまぁ繰り返しになるけどさ、例えばアイドル歌手のレコードに「う・・・うううう」とか入ってたら明らかに変じゃない?でもデフォルトの音声がそういううめき声っつーか霊的なものだとさ、逆に本当のが入ってても分からないよね。区別ができないっつーか。で、実際、制作者が変な音が入ったと分かりつつもそれをそのまま天然の効果として使ってたらもうこれって本当の心霊なわけでシャレにならないよね。


あ、前置きみたいなのが長くなったね。ってことでまぁ続きです。


あとまぁこれはシュトラウスに影響されたっつーか感化されて思った事なんだけど、ポストモダン風にさ、真実なんて存在しないんだっつってニヒリズムに陥るのって相当アウトなんだなってことね。前にも書いたようにさ、特にヴァーチューとか倫理とか道徳みたいな感覚ってさ、相対化して考えるべきではないんだよね。そんなもの時代によって恣意的に変わるんだから追い求めてもしょうがないって思うのは相当間違いでさ、魂を磨こうと思うならさ、今の自分の状況下において磨く事のできるヴァーチューなりなんなりってのを自分なりに磨いてみる必要があるんだよね。これはまぁ本当にスピリチュアルな話っつーかまぁオーラの泉的なスピリチュアリズムっつーかニューエイジとかじゃなくて、宗教的なスピリチュアリズムね。自分が思っている善は勘違いかもしれないとかさ、ただのおせっかいなのかもしれないっつー考えも分かるんだけど、そういう懐疑的な態度を持ちつつも、とりあえず現状の自分の中にある善なりヴァーチューを磨くってことは日々必要なことでさ、それってのはダイエットと一緒でさ、ダイエットって2週間で何キロ痩せました!とかって話じゃないじゃん?


ダイエットって本来はあれなんだよね、日常的に摂るものが自分の体をシェイプするってことで、ようは生活改善なんだよね。ようは理想的な体を保つにはこういった栄養の取り方が必要というのを日々意識しながら食べ物を食べるっていうさ、一気に絶食して体重を落とそうってことじゃないんだよね。それってまぁあれだよね、啓発系のセミナーとかに行って一気に感化されるみたいなもんでさ、そんな単純なことじゃないんだよね。魂を磨くってことは。魂を磨くってことは自分のイデアを磨くってことでさ、それがまぁ体と一緒で自分の内面をシェイプするわけだから、自分の理想とする自分像というのに近づくための魂のシェイピングが必要なんだよね。それを相対化するとさ、痩せているってのがモテているのは今だけで、昔はふくよかな女性が好まれていたわけで、体重なんて問題じゃないみたいなニヒリズムに陥るようなもんなんだよね。まぁ見た目に関して言えば別に痩せている必要は無いんだけど、でもさ、仮に自分がモデルみたいな体系を美しいと思ってそんな体を手に入れたいって思うならまぁ体のシェイピングは必要だよね。暴飲暴食してる場合じゃ無くなるよね。魂も同じなんだよね。自分なりに考える素晴らしい魂のあり方ってのに近づきたかったら魂のシェイピングをするしかないんだよね。それは2週間とかで体重を落とすって話じゃなくて、生涯に渡ってそれを求め続けてそれに向かう気持ちを保ち続けるみたいなさ、それによって恐らく身体的な健康も精神的な健康も保たれると思うんだよね。それが今考えれる善の体系の一つなんであればそれはやる価値があるってことね。


で、The Truth of Leo Straussって本によればさ、シュトラウスデリダ以上のポストモダニストだって書いてあるのね。つまりは古典的なテキストを古典的な理解ではなく独自の理解をするっつーのと同時にモダンありきのモダンを越えたルーツへの回帰ではなく新解釈というのはね、デリダ以上にポストモダンだっつってるのね。これは言えてるよね。だから哲学は死んだとかって言ってる場合じゃないんだよね。むしろ今こそ古典哲学やるっつーのが究極のポストモダニストってことなんだよね。まぁ詳細は本を読んでみてください。俺の英文読みは完璧じゃないんで。ちなみに高貴な嘘に関してもソースはこの本ね。ようはあれだ、脱構築的に理解するというよりかは、今の常識となっている「西洋的考え」だとか「東洋的考え」だとかのルーツを改めて読み直そうってことなんだよね。それは慣性的に理解してきた当たり前の我々の常識ってのをもう一度確認して問い直そうって話でさ、原点回帰とはまた違うんだよね。むしろ今の当たり前とされているフレームワークって一体なんなの?っつーさ、そのルーツは?っていうさ、この問いかけの態度ってのがようはモダンを越えたポストモダン的なんじゃないかってことだと思うよね。そういう意味だと例えばアメリカで独立宣言をもう一回じっくり読み直そうだとかさ、そういうのもまぁポストモダン的態度なんだよね。まぁそういう運動があるか無いかは別としてそういった態度ね。versoって言う左翼系の出版社が「ジジェクプレゼンツ・レーニン」とか「マイケルハートプレゼンツ・ジェファーソン独立宣言」とかさ、あと誰だったか忘れたけどホーチミンだのジジェクプレゼンツロベスピエールだとかさ、そういう一連のなんつーかまぁ基本的に左翼系なんだけど、ルーツ系みたいなのを今の思想家のセレクションでお送りするみたいなさ、この現代的なクラシックの読みの作法ってのは極めてポストモダン的なんだよね。


versoは明らかにそれを意図的にやってると思うね。哲学はニーチェで死んだとかさ、デリダが葬り去ったとかさ、そういうのってナンセンスだね。本当に。これこそがまさしく悪しき似而非ポストモダンニヒリズムなんだよね。むしろポストモダニスト哲学史すらもエポケーするだろうっていうようなね、まぁこれは俺の勝手な意見だけど、モダンを越えた超越者が訓練する哲学ってのがポストモダン哲学なんであって、ポストモダン哲学という名称がついたものがポストモダン哲学ではないんだよね。なので時代によってコンテキストの意味が変わってくるとかさ、以前より書かれていることの意味合いが社会的情勢によって重要になったとかさ、こういうね、なんつーかどんな時代に応じても何らかの形で強いメッセージを発するっていうのが古典なんだよね。だからこそ古典ってのは読み継がれてきたものだし、語り継がれてきたわけでさ、かといって現代人は古典を古典的な読み方をする必要は無いんだよね。むしろ現代的なパースペクティブで理解するのが好ましいんだけど、勘違いしちゃ行けないのは、現代的なパースペクティブのみで理解していいってわけじゃないのね。「現代的」という言葉は意味するのがまさしくポストモダニストそのものなんだけど、古典が書かれた当時の歴史的背景と当時の政治・社会的コンテキストなどを踏まえた上で、現代的なパースペクティブで、または現代的な知識の集積によって読み返すってことなんだよね。シュトラウスが言っていた奥義としての哲学の真髄ってのはここにあってさ、当時それが書かれた状況を踏まえれば露骨に書けなかったこともたくさんあるに違いないっていう想定から、行間読みを越えた行間読みをするのがシュトラウス読みなんだよね。


これがメタ的行間読みたる所以はまずは読者はその本をリテラルな意味で理解しなきゃいけないってことなのね。ようは書かれたものをそのまま完全に理解すると。その上で現代的なパースペクティヴと現代的な知識によってそれを様々なものを踏まえて読み込むってのがまぁシュトラウス的な読みであるし、奥義としての哲学ってのはこういったメタ的な行間読みをしない限りは見えてこないって話なんだよね。まぁすんげー時間と労力と忍耐力を要するもんだし、これって脱構築とかってレベルじゃないんだよね。脱構築にもそれなりに意味合いがあるし良いところもあるんだけど、でもまぁ俺としてはやはりまぁシュトラウス読みには敵わないだろうなって気がするね。なにしろシュトラウス的奥義的な哲学の理解って他の領域にも言えてさ、まぁ俺の解釈が正しいかはともかくとして、それがメタレベルかも置いておいて、例えば俺が攻殻機動隊に凄まじい社会的メッセージを感じるとかさ、lainアリストテレス的なものを感じるとかさ、カノン・カルネに人生のひな形を見たとかさ、こういうのって表面的な理解じゃ得られないものなんだよね。細部と時代的コンテキストと作者の傾向性っつーかキャラクターも理解しつつ深くその意味を理解するっていうさ、まぁ理解においてはそれが俺というインターフェースを通したものになるので、それは独自なものとなるんだけど、でもメタ的な視点からその作品を理解するって理解ということの本質だと思うんだよね。そこに普通の理解を越えた理解があるっていうかさ、これってまぁ童話とかと同じでさ、童話って大抵話の教訓みたいなのが背後にあるじゃない?子供は物語を純粋に物語として理解するんだけど、メタレベルでその物語からの道徳的教えなんかを無意識で理解しているかもしれないし、それを自覚的に理解できるのが大人だよね。もちろん哲学全般は童話ほど分かりやすくないし、必要とする知識が膨大なものになるんだけど、でもその背後にある真髄を理解するっつーのはつまりはこの童話のストラクチャと話は一緒だよね。もちろんそれは理解者によって相違はあるんだけど、でも深い理解ってのはつまりは個人的な領域においてのみ可能なんではないか?というのが理解ということの本質なんだと思うし、哲学全般そうなんだと思うよね。これを徹底的に映画で行っているのがジジェクね。


ジジェクの場合、アイロニカルでなんの深みも何にも無い表面的な商業映画に哲学的なものを見いだしたりするんだけど、こういった映画の見方こそまさしくメタ的視点なんだよね。例えばジェイソン対フレディをブッシュ対ビンラディンのようにして見るとかさ、まぁジジェク的映画の見方ってのがシュトラウス的哲学読みと同じってわけではないんだけど、両者もメタ的という点に置いては共通しているし、それを言えばまぁ例の本の議論みたいになるけど、デリダシュトラウスって関係が無いように見えてポストモダン的共通点があるってことなんだよね。映画ということで思い出したんだけど、まぁジジェク的映画の見方っつーのをまぁ上手く表しているというか、システマティックにその内面が垣間みれるみたいなのが、New Vocabularies in Film Semioticsっつー本ね。92年に出た本で2008年にデジタルプリントで再出版された本なんだけど、まぁタイトル通り記号論だとかをソシュールだのストロースだのの例を出しつつっつーかまぁ構造主義だの記号論だのヤコブソンだのなんだのっつー言語学なんかも大雑把なことがこれで説明されてて、その例ってのを映画で解説してるみたいな本なのね。ちなみにフロイトラカン精神分析も説明されていて、まぁこの手のものが好きな人だったら絶対気に入る本だと思うんだけどまぁ高いんだよね。専門書の類なんで高いんだけどまぁ面白いんで興味があったら読んでみてください。ちなみにフィルムスタディーズみたいなジャンルがあるみたいね。まぁそんなのこじつけだよって言えなくもないんだけど、でもこじつけをすることで作品を自分なりに深く解釈できたり、今まで知らなかった映画の解釈が出来るようになるってようはさ、今まで見た映画に関しても見方が変わればまた違った楽しみ方が出来るってことで、シネフィルっつーとあれだけど、映画好きだったらコミットする価値ありって感じがしなくもないよね。


ちなみに俺のタランティーノの評価はそういった意味で高いのね。まぁありふれた解釈だけど彼のシネフィル的趣味があそこまでのスケールで描かれているっていうタランティーノの性倒錯みたいなのが凄まじい予算で作られているっつーのがナイスって意味でバーホーベン的でもあるんだよね。スターシップトゥルーパーズがメタ映画であるのはバーホーベンの手によるものだからだよね。あとまぁタランティーノに関してはあの絵に描いたようなアメリカの感じってのが好きだし、タランティーノってのは何かをエポケーするっつーか対象化しつつそれを愛を込めながらも冷徹な素材として扱うっていう点でまぁ凄くサンプリング的でかっこいいんだよね。俺ってそういう意味でまぁ昔からサンプリング音楽が大好きなんだけど、それってーのがまぁあれなんだよね、元のものから前後関係抜きにそれを取り出してきて別のものと組み合わせて異化させるっつーのがさ、ある意味でシュールレアリズム的であるし、その即物的な感じってのがたまらんのよね。全てが物語を失ったただの音塊として存在するんだけど、それがまた音塊の集積っつーかまぁつまりはクラスターになることで違う意味が生まれてきたり、むしろそのサンプリングの元ネタである露骨な感じってのがクラスターの中で面白い効果を出したりね、ようはアイコン的なさ、すんげー有名な映画のテーマ曲とかを何かと混ぜるとその有名さが逆に間抜けで混ざると面白くなるとかね、そういうのをまぁ徹底してやってたのがストックハウゼン&ウォークマンだったり暴力温泉芸者だったりするのね。特に暴力温泉芸者に関しては中原さんのあの映画の見方からも分かるように、音の扱いってのが徹底的に中原的なんだよね。


そういった個人のフィルターを通すことで出来上がるのがサンプリング音楽であったりコラージュ音楽であったりタランティーノの映画であったりするわけで、何の愛もなく趣味志向もなく素材を適当にシャッフルしても所謂括弧付きの「作品」っつーのは生まれないんだよね。そこがサンプリング音楽というかサンプリング全般の芸術性なのね。そのオリジンがまぁダダであったりするんだけど、ダダ的手法でサンプリングを行っていたのがまぁ言うまでもなく初期のメルツバウなんだよね。ゴミの集積みたいなコンセプトね。シュヴィッターズのメルツのコンセプトを音に置き換えたのがメルツバウってわけ。メルツっつーとノイズ王って感じがするけど、まぁ何気にサンプリング王なんだよね。ダダ王というかなんというか、まぁあそこまでのコラージュ音楽をやってたのっつーのは何気にメルツぐらいしかいないんだよね。所謂スカム的視点でサンプリング音楽を行ってたっつーのはメルツしかいないわけ。ってことで初期の抜刀隊なんかはメルツコラージュの大傑作なんだよね。


ってことで異常出力のウォール伝はまだまだ続くよ!

New Vocabularies in Film Semiotics (Sightlines)

New Vocabularies in Film Semiotics (Sightlines)

The Truth about Leo Strauss: Political Philosophy and American Democracy

The Truth about Leo Strauss: Political Philosophy and American Democracy