哲学とはエロスである。とかって言ってみたりして。

mimisemi2009-03-26

はい。では続きっつーかこれは一度に書いたやつじゃないからどこが区切りか分からないんで適当に区切っておくね。


で、俺が大学に行く意味って可愛い子に会うことと面白いやつに出会うことと良い先生に出会うことに尽きるよね。あとはまぁ学歴だけど。まぁ動機としては十分か。勉強は基本的に自分でやるって話なんだね。ようは。あと暗記とテストの話にも関連するんだけど、恐らくね、特に学問っつーか哲学みたいなのってイデアルなエロスなんだよね。詰め込むもんではなくて味わうものっていうかさ、例えばね、南の島で一ヶ月の休みがあってさ、自然のサウンドスケープに耳を傾けつつトリピカルなカクテルとか飲みながら理想的な恋人と愛を語らいつつ夜中は激しく燃えるみたいなさ、そういうレジャーの中にある強烈な強度を持ったエロスが哲学なんだよね。


仮にそれが地下室であっても自分はその南国の島に恋人といる気分で、エクリチュールを貪るわけだよね。恋人とファックしているときは全身全霊がそれこそさ、全神経がファックに集中しているわけだよね?それこそ乳房の感覚だのさ、乳首を舐める感覚だの舐められる感覚だの普段は舐めないようなところを舐めたりしながらハメハメハするのってさ、その全神経がその一点一点の身体的な快楽に集中しているわけだよね?匂いしかり味しかり感覚しかり全部がファックにオキュパイドされている。これと同じ感覚っつーか俺はセックスしたことないから分からないけど、まぁセックス的なエロスっつーのがようはエクリチュールとファックするってことだと思うんだよね。哲学者なりが書いたことに全身全霊を傾けてそれを感じながら貪り尽くすんだよね。


で、認識という名のエクスタシーが最終的に得られるっていうさ、エクスタシーを得るためのファックやエクリチュールの貪りなんではなく、エクスタシーというfinal causeも含めた快楽を貪り尽くすってのがエロス的快楽なんだよね。なんで南の島である必要があるのか?っていうとこれはシュトラウスが書いていたことなんだけど、ようは哲学を貪り尽くすのってレジャーが必要なんだよね。それを貪るための時間とかお金とか生活的余裕が必要なわけ。その余裕を利用してそれにのめり込むっつーのが究極の快楽なんだよね。だからイデアルな南の島で恋人をファックしまくるようなのがね、エクリチュールとファックしまくるっていうエロス的プロセスなのね。たぶんこういうのが無いと物事って極められないと思うんだよね。それこそそれが好きなやつって猿が死ぬまでオナニーし続けるようにさ、それをやり続けるんだよね。やり続けるだけのエロスへの渇望と生活の余裕が無いとダメってことだね。まぁ楽なことじゃないけども究極の快楽ではあるよね。だから俺が本を読む事とオナニーに日々明け暮れているのは極めて人間の快楽原則に則った行為ってわけでさ、それがまぁ俺にとっての「善」の実行なんだよね。もちろんいつも書くように頑張らなきゃ死ぬしかないっつー崖っぷち的な状況もあるんだけど、むしろその崖っぷちの状況を楽しむんだよね。それを快楽に昇華させるっつーのがさ、今の俺の生活であり日々のプロセスなんだよね。だから最近はどんどん良い意味で主体性がなくなってきているっつーか、自分は空間に存在する歯車なんだなっつーのを集産的な意味ではなく、達観的な意味でそれを凄く感じるわけ。前にも書いたけど意識って水みたいなもんでしょ?


歯車一つの動きが全体の動きを規定するので、実質的な「部分」は存在しないっていうね、歯車が動いていての全体なわけだからさ、それを無意識的に全体性に組み込まれるのではなくて、それを認識した上で歯車となることが重要なんだよね。実際、社会から隔離されながら生きていくことは不可能なわけだし、それはまぁ俺の勝手な解釈のlainについてでも書いたことだけども、まぁlainってすんげーアリストテレス的なんだよね。まぁそれはともかくさ、その自分が歯車であるということとエロスを貪るという人間の快楽原則に則った行為を両立させるってのがまぁ今の俺の目標なんだなって改めて思ったね。こう考えると自分が学校に行くのも全部説明がつくし、意味の無い暗記ややっつけ仕事をやらなきゃいけないというのも全部納得がいくわけね。エロスだけ追求しているとあたかもそれが無駄な事のように思えるけど、エロスの追求は歯車にならないと出来ないという前提がある以上、学校に行くということもエロスの追求を支える一環なんだよね。そういう意味だと最近は凄くプラトニズムが理解できるようになってきた気がするな。


プラトン繋がりでシュトラウスの話をちょっとするとだね、「高貴な嘘」の話なんだけど、結局まぁ解釈次第なんだけど、例えば大量破壊兵器があったとかないだとかっつーのがさ、あるって言うのもまぁ高貴な嘘なんだっつーまぁシュトラウスを出してきて擁護するやつらもいれば、逆にシュトラウスを出してきて「これはシュトラウスのドクトリンだ」っていう批判をしていたやつもいるんだけど、結局のところ、所謂、高貴でもなんでもない政治的な嘘なんてのはシュトラウスが生まれる前からあったわけで、別にこれはシュトラウスの特権でもなければ、シュトラウスが提唱していたまぁプラトン流というかソクラテス流の高貴な嘘はあくまで「高貴」な嘘なんであって高貴な「嘘」ではないってことなんだよね。強調点が違うということね。


まぁ前にも書いた事だけどあえて繰り返すとさ、例えばまぁ例えが良いかどうかは分からないんだけど、分かりやすい例として母親が子供を寝かしつけるっつーか寝かしつけるために夜になったらお化けが出てくるから早く帰ってらっしゃいとか早く寝なさいっつーのはさ、パターナルな嘘だよね。この嘘を信じさせる事で子供は暗くなる前に家に帰ってくるし、お化けが出ると言われている12時前には寝るようになるわけだ。まぁ神経質な子供がお化けを怖がって寝なくなるっつーまぁ細かい話は置いておいてね、母親が子供のことを考えて寝かすという行為もさ、結局、子供が次の日に寝不足になって学校で上手くいかなくなるとかさ、そういうのを防ぐためっつーかまぁあとは発育のためもあってちゃんと寝かせるわけじゃない?これは子供のことを考えた母親の優しい嘘だよね。ようはこういうことなんだよ。あとはまぁ因果ね。悪い事をしたらそれがいつかは自分に帰ってくるという教えもようは宗教的なドグマを利用した道徳のドクトリンなんだよ。真実かはともかくとして大衆がこれを信じて悪い行いをしなくなれば、この嘘は正当化されるし良い嘘とされるわけだよね。これは人々や社会のことを考えた嘘なわけだよ。でもね、ありふれた政治的な嘘っつーのはようは政治家の利権だのなんだのっつー個人的なinterestを目的に嘘をつくってことでさ、こういう高貴でもなんでもない嘘ってのは昔からあるわけだし、こういった類の嘘をシュトラウスの言っていた高貴な嘘と結びつけるのはおかしいってことなのね。嘘でも嘘なりが違うんだから。もちろんシュトラウスの教えを曲解して利用したりね、勘違いして利用する政治家ってのはいるだろうよ。


それがまぁ前にも書いたシュトラウスの思想がデリケートな爆弾みたいなもんってことなんだよね。爆弾も良い事に使えばいいんだけど、悪い奴の手に渡ったらえらい事になるっていうね、それが人々に善をもたらす爆弾なのか、爆弾の所有者の欲求を満たすためだけに使われる爆弾なのかっていうのがさ、まぁドグマの使い方の難しいところだよね。デリダじゃないけど、結局エクリチュールってのは読み手と書き手の関係性なわけでさ、解釈は人の数だけあるんだよね。シュトラウスは勘違いされやすいし、左翼系のライターが悪魔化したのもあるし、そういった言説がメジャーになってしまったっつーのはさ、南京大虐殺の本みたいなもんなんだよね。あの中国共産党から金もらって本を書いてたっつー中国系のアメリカ人のライターいたじゃない?で、後にアメリカの他の歴史家だかにこれは事実ではないって指摘されて、んで面目丸つぶれで自殺したっつーさ、明らかに本の内容は嘘なのにも関わらずベストセラーになっちゃったんで、この反日のライターが書いたプロパガンダが事実というか史実として信じられるようになってしまったわけだし、今でも本屋で売られてるんだよね。こんなもの発禁にしなきゃいけないし、ニュースでもデカデカと取り上げられないといけないのにさ、なぜかまぁ発禁になってないんだよね。これは由々しき自体だよ。中国とか韓国が反日教育受けて洗脳されているレベルならまだいいんだけど、英語圏でもこういった本の出版によって事実とは違う反日的なプロパガンダがあたかも真実のように広まってしまうってのはヤバいことだよね。


シュトラウスも同じなんだよな。シュトラウスを半ば悪魔の総本山とするみたいな見方がメジャーになってしまったので「違うんだ」って言ったところでなかなか通じないっていうね。南京にしてもシュトラウスにしても「それは違うんだ」って言うと「んじゃあお前は侵略を正当化するのか?」なんて言われちゃう。だから言う側も勇気がいるし面倒なことなんだよね。場合によっては村八分にあったり仕事干されちゃうみたいなさ、そんな危険性を含んでいるのがまぁ南京の真実とかシュトラウスの真実だよね。シュトラウスが言っていたことは違うと主張する事が何もイラク戦争の支持に繋がるわけではないのにそう勘違いする人が多いっていうね、南京しかりね。あんなものは中国のプロパガンダだって言うと「んじゃあお前は虐殺や侵略を支持するのか?」とかさ「お前は右翼か?」とかって言われるんだよね。悪い事をしたのは事実だけど侵略に至るまでの細かい政治的プロセスとかもあるわけだし、そういった細かいところを抜きにして単純に侵略だっつって批判するのはちょっと違うんじゃないかな?って気がするよね。


侵略はまぁ当時の日本から言えばしょうがなかったところもあるわけでさ、まぁかといって俺は侵略を支持はしないけど、んでもそれ言いだすと結局イラクへの爆撃もまぁ外交的にあれはやっとかないとアメリカのメンツが保てないっつーのもあっただろうから開戦はしょうがなかったとは思うけどね。支持はしないけど、しょうがなかった部分も多々あるってことなんだよ。そこを単純化してただの二項対立みたいなね、支持するのか反対なのか?みたいな基準で考えるのはおかしいわけね。またこういうことを言うとねぇー、怒る人っつーか勘違いして理解しない人ってのが多いんだよな。これがまぁ党派制が持つ単純な部分だよね。右翼か左翼かで見方がシェイプされちゃうみたいなさ、これは馬鹿げてるね。


ってことで今回は一気読み派の人には残念なことに比較的短いんだけど、何しろ次のパラグラフっつーか文の塊が巨大なんてここで区切らせて。まぁあとあれだ、どこに属してるか分からないやつがテキストの中にあったんで貼っておくね。


あとポリサイについての話なんだけど、政府がどうワークしているのか?とかさ、ソーシャルムーヴメントっつってその種類だとか歴史だとかさ、社会と政治の仕組みとかさ、やってみれば興味が湧くものだと思っていたけど、もう面白いぐらい興味が湧かないね。まぁ天文学とかに比べればマシだけど、でも全然進んで勉強しようと思わないし読んでて全然面白くないのね。そりゃー政治を考える上で必須だろう!って突っ込みがありそうだけど、政治理論とか政治哲学だけ勉強して、その分野のスペシャリストになるとかって無理なのかな?それだけじゃ何にもならないのかしらね?だって俺って政治理論と政治哲学にしか興味が無いんだもん。これには驚いたね。アメリカの公民権運動とかさ、アメリカンレボリューションとか全然興味ないのね。独立宣言とかまぁジェファーソンは好きだけど、でも基本的に授業でやるようなビジネスライクな詰め込み的な情報に関しては全く興味がない。その理由を考えたんだけど、恐らくあれなんだよね。それを得る事で何かを考えるってことが出来ないからなんだと思うんだよね。


例えばある考えとかイデオロギーとか政治理論みたいなのを学んだ上でさ、「あーこういう考え方もあるのかぁー」っつって自分の思考実験なりなんなりに役に立つものであると俺は凄く興味を示すっつーか何かを考えるネタになるやつだとかなり貪欲に色々取り込むんだけど、ただのインフォメーションだと全然興味ないのね。仕組みはこうです。はいそうですか。みたいな感じで終わるやつに関してはもう死ぬほど興味が無い。大丈夫なんだろうか?俺。ポリティカルサイエンスをメジャーにするとかって宣言しておきながらやれるかどうか分からなくなってきたな。ポリティカルフィロソフィーとかポリティカルセオリーっつーのを重点に出来れば問題ないんだけどね。で、まぁ必須科目としてアメリカンガバメンとがあるぐらいなら全然いいんだけど、ポリサイメジャーっつって政府の仕組みとかばっかやらなきゃいけないんだったらこれは俺の領域じゃないよね。そうなると俺って大学でやれるのって哲学ぐらいしか無いんだよな。マジで。あとあれだ現代思想史とかでもいいんだよね。ニーチェからポストモダンまでみたいなね。政治哲学・政治理論・現代思想史みたいなのが取れればもう俺のニューナンブはギンギンになったままだろうけど、そこにさ、政府の仕組みだとかさ、憲法だとかが出てくるとダメだね。興味ないから。


ってことで今日はこの辺で。