共通善と便所と政治。

mimisemi2009-04-01

一昨日からの続きになるのかしら?ところでソーシャルサイコロジーのクラスのあんま気に食わなかったインテリ気取りのやつと割と気が合うようになっちゃったよ。あっちも俺の事を認めてるんだなってすげー思ったね。ただこいつは典型的なunderachieverでさ、このクラスのテストなんだけどさ、俺はまぁ今回は割と良かったんだよ。Bマイナス。まぁ100点満点中80点って感じかな。まさしくこれぞ華麗なジェントルマンズBなんだよね。最小の努力で平均点かそれ以上を取るっていうね、これこそまぁ俺の美学なわけだけど、それはともかくこのインテリってさ、頭いいんだけど学校がバカバカしいもんだって分かってるんであんまクラスに出なかったりさ、全然準備してこなかったりするんだよね。いつも書くようだけどGPAが高いやつって馬鹿の可能性が高いんだよ。秀才か馬鹿に分かれるわけね。それこそ一日あるリソースがみんな100だとしたら勉強に全部のリソースを使ってAを取ってるようなやつね。こういうやつは基本的に社会に出てからダメっつーかただの頑張り屋の歯車になる可能性が高いわけ。


あとプロダクティヴじゃなかったりクリエイティブじゃなかったりする可能性が高いよね。オーガナイズすることに時間を費やしすぎてるみたいなさ、すんげー綺麗なノート取るようなやつね。こういうやつが学校では褒められるけど、実際はただの真面目なやつで頭とは関係ないんだよねっつーのがさ、このインテリみたいなやつでさ、頭がいいのにやらないようなやつね。むしろ興味は他の事にあるみたいなさ、学校でやらされることがバカバカしくてやってこないのね。で、基本的に成績が良く無いっていう。こういうやつのほうが良いグレードのやつより地頭が良い可能性が高いんだよね。グレードがどのクラスも良さ過ぎるやつはそいつの頭を疑った方がいいね。それかまぁあとは相当効率がいいとか暗記力がいいとかだよね。あ、んでこいつのテストの点はCマイナスだったんだけど「なるほどねぇー」とか思ったね。ホントに頭がいいんだなと。まぁ思ってたより悪かったのか結果にイラついてたみたいだけどね。


まぁいいや。努力する人を貶すのはあんま良くないからこの辺にしとくか。まぁあれなのね、やっつけ仕事程度のものは最小限の努力と時間を使ってそこそここなすってのが一番華麗なのね。で、今のところ俺はちょー華麗だよ。クリティカルシンキングでも天文学でもテストは平均だったしバッチリね。これなんだよ。これこそが俺の普段から言っているジェントルマンズBならぬCなのね。リタリンとか飲んで一流大学で頑張ってるやつとか基本的に負け犬なんだよね。そこそこの大学で自分の研究をしつつ、適当に学科をこなすっつーのが一番かっこいいんだよね。で、将来に学生時代に耕した自分のリソースっつーかまぁ持ち味っつーか能力みたいなのを活かすんだよね。これが一番かっこいいしベストだと思うね。まぁ社会的に良いとはされないだろうけど。どちらかと言えば不良だからね。でもねぇーいやー今のところ俺はアカデミックにちょークールだよ。マジで。4大入ってからもこんぐらいの余裕を持ちたいね。まぁそんな感じで以下は一昨日からの続きです。


あとあれね、シュトラウスの言う共通善についての話をしたいんだけど、まぁあくまでいつものように俺の理解で話を進めるとね、まぁさっきも書いたように相対主義は危険だと言ったよね?「善」なり「良いこと」といってもそんなもん時代によって変わるじゃないか。だから追求しても磨いてもそんなものは普遍足り得ないんで意味ないじゃんっつーニヒリズムを産むわけじゃない?これが善に対する努力が無くなってしまう悪しき相対主義なんだけど、そういった意味でね、例えばこの辺は中島義道みたいなのにも真っ向から反対したいんだけど、哲学が人生を変えたり世の中を変えたりするなんてばかばかしいっつーか、そういうナイーヴなことを言うやつがみっともなくて見てられないみたいなことを中島は言っているんだけど、こういうインテリが陥りやすい真理を見たからこそ何もかもが虚無だと考えてしまうようなニヒリズムってのは人間の腐敗しか生まないのね。


中島義道は面白いところもあるし別に否定はしないけど、仮に変な話をするとだね、哲学を追究すればみんな中島みたいになってニヒリストになるか何もかもがバカバカしいとか死ぬ事しか考えなくなるとかだったら哲学なんて害悪でしかないし、そんなもの存在価値も何も無いのね。なんで哲学に価値があるのか?っていうのがね、シュトラウスが感じていた政治と哲学に対する危機でね、中島的なニヒリズムだのポストモダンニヒリズムだのね、過去から培われてきた哲学が本来持っていたヴァーチューや道徳や共通善などに必死に向かう姿勢っつーのを啓蒙主義みたいなのが壊してきたっつーわけね。それは哲学の簡略化なり大衆化なりポストモダン化なりで、むしろ哲学というものが人類にとってのニヒリズムを生み出すようなものに退廃してしまったみたいなね、そういう危機感をシュトラウスは感じていたわけ。


なんで哲学に価値があるのか?っつーと今風に言えばまぁ痛いやつになるのかもしれないけど、ナイーヴでも痛くても真面目に善なり道徳なり共通善なり社会について考え込んじゃうってのが哲学なわけだし哲学者の役目なわけだよね。それを全てを知るものがたどり着いた虚無主義みたいなのになっちゃうなんてのはね、退行っつーか退廃でしかないんじゃないかと。俺が思うにシュトラウスが言っていた古典への回帰というか古典をもう一度読み直すという姿勢は初期の哲学が持っていたパッションみたいなのを取り戻すというか再評価する行為でもあったんじゃないかな?と思うわけね。賢いやつがポストモダン思想とかをかじって浅田彰みたいになっちゃうのは最悪なんだよ。これはインテリの害悪ね。そうじゃなくてむしろ古代ギリシャの賢人達みたいに哲学にマジになっちゃうような情熱が必要なんじゃないか?っていうね、ソクラテスとかってある意味で仏教的な修行僧みたいな面があるじゃない?魂を磨くみたいなさ、その訓練をしなくなったのが理論だの科学だのと色々混ざった近代哲学なんだよっていうね、古典への回帰とはつまりは自分の魂と向き合うことなんじゃないか?って思うのね。まぁそれだけじゃないけどそういった面もあるだろうと。そういったこともあってシュトラウスは歴史主義だの相対主義だのを生涯にわたって批判し続けたわけね。


いや、批判の理由はこれだけじゃないんだけど、まぁ一つにまぁね、善だの徳へ向けての修行というのに懐疑的になっちゃうじゃないかっていうね、そういう理由があったわけ。哲学的ニヒリズムはだからね、最低なんだよ。マジで。そういった意味で中島義道だとか浅田彰みたいな哲学をやり続けた結果、ああいう風なニヒリストになったっつーのは哲学をやってるものとして最低なんだよね。まぁ知識人っつーかソフィストってのはその程度のものかもしれないね。哲学者ってのは良い意味でも悪い意味でもナイーヴな存在だから、だからこそ哲学を追究し続けることができるのだろうし、痛くてもマジで善とか道徳について真面目に考え込んじゃったりするんだよね。でもそういう姿勢が無いと哲学なんて存在理由が全くないんだよ。「あんなの虚無主義を進めるだけの学問じゃないか」っつーね、浅田彰的な姿勢を見てそう思う人がいたとしたら、まぁそれはそれで批判のポイントとしては的を得ているよね。でもそれはああいう人の哲学的姿勢を見ることでしか判断してないわけで、実際は物凄く崇高で人間が本質的に必要とするものの一つなんだよっていうね、痛いとか言われてもまぁ俺はこれを信じるし、信じないとまぁ哲学もそうだし学問なんてやる価値無いと思うわけ。


で、政治についてなんだけど、基本的にさ、共通善みたいなのがね、そんなもん相対的であるし、例えば文化によっても善の概念が違うじゃないか、だからそんな一方的な一元的な概念を押し進めるなんて危険だしファシズム的じゃないかっていうね、そういう批判がいっぱいありそうな気がするんだけど、まぁ共通善の定義にもよるんだけど、少なからず俺は共通善ってのは相対主義ですら相対化しきれないぐらい人間にとっての当たり前の「善」だと思っていてね、で、まぁこれについて考えていて思いついたことがボットン便所の例えね。ボットン便所があるんだけど、長らく掃除していなくて糞が溜まっていてウジが湧いていて、んでそれがふ化してトイレをするたびに便器からハエが飛んで来るっていうね、臭いも強烈で家中がその臭いに汚染されているみたいなね、そんな状況があるとするよね?


で、その家に住んでいる家族にとってさ、このボットン便所の臭いをなんとかすることについての合意なんていらないよね?ようはあまりに自明のことじゃない?今のままでいいって思うやつもいるかもしれないけど、誰だってこの臭いやハエをなんとかしたいって思うよね?でも自分たちがボットン便所に降りて掃除するわけにもいかないし、どうやって掃除したらいいのかも分からないし、何より自分たちにとって手に負えない仕事だってことになるよね。で、ここで呼び出されるのが便所掃除の人達なんだよ。この人達は糞溜めに溜まったウジが湧いた糞を掃除しきってくれて、なおかつトイレや家中の脱臭までしてくれて、ハエの駆除やウジの駆除もしてくれたと。


ボットン便所の表面になにかの加工を施してウジが湧きにくくするだとか、ウジが湧いてもハエやら臭いが便所から臭ってこないような構造に改造してくれたと。こんなことをしてくれたら家族はみんな喜ぶよね?で、泣きながら便所掃除の人達に感謝するに違いないよね。でもこの便所掃除の人達は「これが我々の仕事ですから」といって代金さえ要求しないっていうね、それでも家族は「私たちの気がおさまりませんから!と謝礼として便所掃除の人達にお金を渡したっつーね、で、この便所掃除の人達は「ではこのお金は我々の設備や人材育成などに使わせていただきます」っつってもらったとするよね?これってのがようはさ、政治家ってのが便所掃除のエキスパートでね、糞が溜まって腐敗したボットン便所ってのが政府みたいなもんでさ、で、糞の臭いにまみれながらも泣きながら臭いやハエに我慢して生活している家族が我々国民なんだよね。


今の政治家ってのは「これが我々の仕事ですから」なんて言ってたさ、さっきの便所掃除の人達みたいなこととは言わないわけね。国民から金だけ取って便所掃除をしないだとかね、取った金を設備や維持費に使うのではなく個人的なことに使ったりでさ、良い生活をしていたり良い車に乗っていたりするわけね。マニフェストという名のチラシには「10分で駆けつけます!」って書いてあるのにどんだけ待っても来ないとかさ、でも金だけ取られちゃったみたいなね、そんなのがまぁ恐らく世界中で起こっている腐敗した政府の実体ね。んじゃあこういう腐敗しないね、ちゃんとした便所掃除をしてくれる政治家っつーのはどういう人達なのか?っつーのがヴァーチューのある便所掃除の人達なのよ。「お代は結構ですから」だとか「これが我々の仕事ですから」だとか「ではいただいたお金は設備投資や維持費に使わせてもらいます」だとかって言う人達のことでさ、こういう人達による便所清掃機構ってのが政府であり、賢人によって組織されたクラシアンみたいなもんなのね。「暮らし安心」というのは誰もが望むことで、それを提供するのがクラシアンの仕事なわけでさ、っつーか実際のクラシアンって意味じゃなくて、「暮らし安心」を提供する賢人達という意味でのクラシアンね。


で、この誰もが望む「暮らし安心」ってのがようは共通善なのよ。そこでさ、「安心」っつったって文化や時代によってそんなものは変わるじゃんっつってもね、恐らくどこの国の人達だってウジが湧いたさ、ボットン便所で育ったハエだらけの臭い家に住みたいと思わないよね?そんな家に住みたいと思わないって誰もが思うし、そんな環境を改善したいって思う事がようは共通善なのよ。


そんな暮らし安心を提供するのがクラシアン達の役目であるし、そこで発生した報酬というのはあくまでクラシアン達がそれなりの生活を出来るための仕事の対価としてのクラシアン達に払われる報酬だとかね、あとはクラシアンを維持するためのお金だとか、もっと街中の便所を素早く綺麗にできるようにするためのシステム構築やシステム投資に使うっていうね、つまりはクラシアン達に払われる報酬ってのがまぁ税金みたいなもんなのよ。それは安くないかもしれないけど、それで便所が常に綺麗になっていて、ちゃんとした生活が出来るなら、それは各世帯は必要なものとして文句言わずに支払うわけよね。でもさ、そこでクラシアンに悪いやつがいてさ、清掃料金をぼったくったり設備投資に使うとかいって集めたお金で豪遊していたり豪邸を建てたりさ、便所掃除研究会のためとか言って海外に行ったはいいけど実際はクラシアンの個人旅行だったとかさ、そんな風になると各世帯も支払いをするのに懐疑的になるよね?便所が綺麗になっているのは分かるんだけど、でも渡した報酬に対して彼らが言っているような使われ方をしていないし、チラシに書いてあったような「10分で駆けつけます」なんてことは一切無いし、なんだか最近はクラシアンが来た後もまだ臭いが残ってるとかさ、でも各世帯はトイレが無いと生活していけないし、トイレの掃除をしてもらわないと生活が成り立たないってことで、トイレという名のシステムに依存しなきゃ生きていけないようになっているし、クラシアンに来てもらうしか掃除の方法が無いってことでだからまぁお金を払い続けるしかないってことなんだよね。


で、もうクラシアンには頭に来た!自分で掃除する!っつってさ、自分で掃除設備なんかを買って訓練して掃除できる人はいいよ。でもそういう人ってのは一部でさ、現実に例えるなら「もーいーさー」って諦めて沖縄に一軒家建てて隠居生活するようなもんなんだよね。大半の人は現状の家に住むしかないし、現状のボットン便所で我慢するしかないし、クラシアン達に来てもらうしか方法が無い。「もう怒ったぞ!」っつって武装蜂起してクラシアンの本社に殴り込みをかけて怒った市民がクラシアンを制圧したとするよね?現クラシアンの社長は殺害されて、大半の幹部や社員なんかも捕まったり殺されたと。「革命は成功した!」って叫ぶのはいいけど、さぁ問題が出てきましたと。それは何か?「誰が便所掃除をするんだ?」ってことだよね。さぁー困ったぞと。んー困った。いや、実際、便所掃除なんてしたことないし便所掃除の知識も無いし、短期間で訓練して身に付くようなもんじゃないらしいぞ?と。でも糞がトイレに溜まるのは由々しき自体だぞってことでとりあえず制圧したクラシアン本社の設備を破壊せず維持しつつ生き残った元クラシアン達に新クラシアンの清掃員になってもらうしかないぞと。これはまぁロシア革命で起こったことね。革命は成功したけどプロレタリア独裁っつってもプロレタリアは政治の訓練なんて受けてきてないから政治なんで出来ねーぞってことで、大半の新政府の中核を占めるようになった人材ってのは以前のツァー帝国の人間達ってことなんだよね。


で、結局まぁスターリンみたいなやつが出てきてさ、革命の首謀者は失墜してっつーか病気になって死んじゃって、んでクラシアンのカリスマ的存在がスターリンみたいなやつで、んで以前よりも酷いような圧制を行うようになるんだよね。基本的にこの繰り返しなんだよね。歴史って。ミヘルスの寡頭制の鉄則じゃないけど、政府ってのは寡頭制になる傾向制をどういった政府の体系であれ持っているわけだから、んじゃー最初っから腐敗しないようなしっかりしたエリート達に政府を任せるしかないぞっつーのがまぁ恐らくミヘルスの言っていたことだし、シュトラウスも基本的には一緒ね。シュトラウスがミヘルス的な立場だったかはともかくとして、まぁクラシアンがヴァーチューのあるエリートである必要性があるというのはこういうことね。「これが我々の仕事ですから」「では報酬はシステム維持やシステム投資、そして人材育成などといったものに使わせていただきます」って言えるような人達ね。一切使い込みとか自分勝手なことをしない人達ね。これがつまりはシュトラウスというかまぁシュトラウスに限らず古代から言われ続けてきた共通善ということなんだよ。つまりは便所が綺麗に越した事は無いということね。便所が綺麗であるということに各世帯の合意なんていらないわけ。どういった設備に今後、お金を使っていくか?なんて便所掃除経験が無い人達には分からないことだし、クラシアン内以外での多数決なんて取ってもしょうがないわけよ。


「いやぁーお気持ちは分かりますが・・・・実際はこういう風なことをしてしまうとこういう風な結果になってしまってですね・・・・」って掃除のプロじゃない人達が勝手に決めたクラシアン社の方針ってのにクラシアン達は困るわけね。気持ちは分かるけどそりゃーワークしない。だからこれをやるしかないって決めるのが掃除のエキスパートのクラシアン達の仕事なんだよね。もちろん国民にもクラシアンを常にチェックするような会社っつーか組織っつーか機構みたいなのがあってもいいわけで、まぁそれがチェックアンドバランスってことになるのかな?「掃除は完全に終わりました!」ってクラシアンが言っているのにも関わらず抜き打ちで便所操作に来るような民間の組織ね。で、「佐々木さんのボットン便所はクラシアンが掃除に来たのにも関わらずウジが駆除しきれていなかった」みたいなのを報告するような民間の組織があるわけよ。


無駄をなくすために街中の便所を水洗にしたらどうか?とかね、それを強制的にせず任意で行うことにしようとかね、この辺の議論はまぁ民間でもクラシアンでもあってもいいんだけど、まぁこれも基本的にクラシアン達が水洗にすることの良さというか経済的な面でも衛生面でも効果的だというのをあくまで国民の立場になって考えるってことが必要なのね。海外の水洗便所の会社と結託して利益を上げるためとかじゃダメなの。それは純粋に水洗にすることが国民の生活を良くするものだと判断できないといけないし、それを判断するのがクラシアンの役目なんだよね。で、結果的に大掛かりな設備投資があったものの、その水洗便所の良さに国民達は満足していたら、まぁ結局それが国民達のクラシアンに対する信頼に繋がるわけで、まぁ支持率ってのはそういうことだよね。まぁ実際の政治はここまで分かりやすくないけど、少なくとも共通善といった概念に関してはこのぐらい明らかなものなのね。


だからまぁ逆にね、「水洗反対!」って水洗反対運動みたいなのがあっても水洗にすることが明らかな国民の生活水準の上昇をもたらすならそれは強行採決をしなきゃいけないっつーのがクラシアン達の決断力なわけで、それはまぁ一見反民主主義的に見えても結果的にはその水洗にするという選択はあくまで国民の立場になって考えてなおかつ計算し尽くされていて、これは明らかに生活水準を衛生面でも経済面でももたらすものだっていう判断の元に行われていて、んでなおかつ実際、それが国民の生活水準を上げるものであるならそれは反民主主義的でも分かっている人達、まぁようはクラシアン達が決めないといけないわけね。シュトラウス流の高貴な嘘は水洗にするための嘘なら許されるってことなのよ。ようは水洗にするためのメディア操作も水洗の利点の誇張も結局は明らかに水洗にしたほうが良いわけだからそういった嘘は許されるわけ。で、結果的にそれが情報操作によって民主的に可決されたトイレの水洗化だとしてもね、その嘘は許されるというかまぁ正当化されるのね。実際まぁ明らかに水洗のほうがいいわけじゃない?でも水洗かボットン便所がどっちにしたらいいんだか分かんないってやつらが大半だし、中にはボットン回帰みたいなことを言う変なやつらもいるってことで、こういった連中の意見を変えるための操作や意見を受け付けないといった反民主的な行為も水洗にするのが明らかに良いことであるという共通善を前にすれば許されることなのね。


シュトラウスの高貴な嘘というのはまぁつまりはこういうことだよね。まぁ俺の理解だけどね。まぁそれでもね、民主主義原理主義みたいな人達は反民主主義なので良くない!って言い続けるかもしれないけど、少なくとも水洗かボットン便所か?みたいな議論だったら馬鹿でも水洗のほうが良いって言うに決まってるし、まぁ少数派のボットン原理主義者の意見なんてどうでもいいよね。どうでもいいって思わない?俺はどうてもいいって思うんだけど。まぁ俺の例えの中に出てくる国民達は水洗が良いかボットンが良いかの判断すらも出来ない人達なんだけどね。だからこそ分かる俺たちなら水洗のほうが良いに決まってるじゃないか!って言えるじゃない?


でもこの例えに出てくる国民達はそれが分からないんだよ。だからんじゃあまぁ操作でもなんでも強硬的にでも水洗にしちゃって、んでその水洗の良さを実感してもらって納得してもらうしかないなってことになるでしょ?そこを国民のコンセンサスをとるなんてことは馬鹿げてるよね。だってあいつらは分からないんだから。んじゃあ最初から分からないんだったらメディアを使って広告とか出しまくって水洗の良さを宣伝しまくろうってことになるよね。まぁこれは明らかなプロパガンダだけど、でも水洗にするほうが明らかに良いわけで、そのプロパガンダは許されるよね。まぁ確かに不気味ではあるんだよ。民主的ではないってことはね。でも少なくともシュトラウスエリーティズムというのはこういうことね。水洗のほうが良いに決まってるって明らかな共通善を分かってる人達が便所に対する方向性なりシステム構築をするしかないって話なのよ。


で、その人達がヴァーチューのある賢人である必要があるのはね、例えばクラシアン社が使っている消毒液をA社からB社に変えましたと。理由としてはB社の消毒液のほうが安全で効果も高いってことなんだけど、実際は特定のクラシアンの一部がB社と結託して利益を上げようとするという目的にのみ行われていたとかさ、で、実際はA社の消毒液のほうがコストも安くてB社に変える理由なんて全くなかったっつーのがさ、まぁ腐敗した個人的利益のことを考えて政治的判断をするというか政治を利用するというか嘘やメディア操作や洗脳を平気でやるっつーのがさ、腐敗したクラシアンのやることなんだけど、まぁリアル政治の世界ではこういったことがまかり通ってるわけね。


で、ちなみにこういった動機でなされるプロパガンダや嘘ってのは高貴な嘘じゃなくてただの政治家の嘘なのね。高貴な嘘が「高貴」たりうる所以はそれが共通善に則ったものであるからなんだよね。だから高貴であるし許されるの。でもね、この高貴な嘘を勘違いしている人達っつーのがね、ようは後者のB社の消毒液に変えたような政治家が行った嘘もシュトラウスの高貴な嘘というイデオロギーの影響だとかってぬかすわけ。まぁ全然違うのは言うまでもないよね。ちなみにB社に変えたほうが経済的にも効果的にも良かったんだが、同時にそれによって一部のクラシアン社員達も潤ったとかさ、金儲けの目的もあったっつーと微妙なんだよね。それはまぁ攻殻機動隊の石川が総理に言っていたように、色んな機関なり政府ってのが腐敗していくきっかけってのが、内部の人間がその権力を個人的な理由のために使い始めるようになって起こるってことなのよ。B社の消毒液にするということが仮に国民の視点からも良いことだとしても、それはあくまで国民の視点というか共通善の視点に立った理由で行われなくてはいけないのね。それによって潤ったのはただの結果でしかないということじゃないとダメ。まぁそんなの誰も判断できないじゃん?っつーのはまぁアポリアだけどね。


彼らのみぞ知るって話だけど、だからこそその「彼ら」は腐敗しないヴァーチューのある賢人じゃないといけないわけ。そうじゃないと政府というのはどういった形態であれ腐敗していくものだし、ましてや寡頭制になっていくものなんだから、だったら最初から賢人達に任せるしかなくなるよね。寡頭政治しかありえないのなら、寡頭政治をやっていても共通善が保全されるようなシステムを作るしか無いよね。オルタナティブとしては政治家達の意向に関わらず基本的な政治的行為はシステマティックなことで全てが共通善のために半ば強制的に導かれるみたいなダイナミクスを作るってことね。つまり政治家の善し悪しに限らずそいつがそこで仕事をしてればそいつがどんな人間であろうが結局は国民のために尽くしてしまうってことね。まぁ本来政治家ってそういうもんだけどね。社会や国民のための歯車なんだから。この歯車っつー概念がまぁ攻殻機動隊のSolid State Societyの最後で黒幕が言っていた良い社会に向かうための歯車となろうってことなのね。まぁ微妙に違うかもしれないけど、まぁ良い社会に向かうためのただの媒介者になるみたいなことね。そこに一切の虚栄心だの利己的な心だのってのはないわけ。共通善を担うただの歯車になるということが、実際はどんな富よりもショーペンハウエル的な言い方をすれば精神的な富なのだっていう風に認識できるような賢者ってのがまぁその歯車足り得るってことね。ヴァーチューや共通善にコミットすることが人間にとっての最大の価値であるって分かってるやつが統治者にならないとダメってわけ。それがシュトラウスエリーティズムというか賢人統治の理論ね。


ってことでこの辺で区切るわ。まだふつーに全然あるので次回をお楽しみに。

Aristotle's Politics Today (Suny Series in Ancient Greek Philosophy)

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