ADDと超人。

mimisemi2009-04-02

また栗子とサブグループに分かれて話し合うことになったんだけど、すげーウケたのがさ、「んじゃあ空いてる教室にでも行こうか?」っつったらさ、「えーと・・・まぁその辺のベンチでいいと思うけど」「え、でもクラスやってる教室とかあるし、話し声が聞こえると悪いでしょ?」「でも・・・あ、ここのベンチがいいんじゃない?」みたいなKYな会話があってさ、最近また髪が伸びてきて、んで髪質がココリコの田中みたいなんでボサボサなんだよね。まさこの時のとりみーの二倍ぐらい。で、おかっぱっていうね、オーガナイズドされてないおかっぱで、しかも今日は例の藤田みたいなロイドメガネだったから異様度が半端じゃないんだよね。


狙ってやってるわけじゃないんだけど、まぁ結果こうなってるって感じね。でさ、まぁ昨日ねADDと超人についてのことを書いたから続きじゃなくて今日はそれを貼るけどもね、ADDっつーかアスペルガーってさ、繊細な割にコモンセンスが無いんだよねっつーかさ、この栗子との会話の場合さ、「密室で男女が二人きりになる」っていうヤバさっつーのを俺が配慮してないんだよね。俺は童貞だからそういう下心は一切無いし、まぁそれは読んでる人はどう考えても信じるしかないと思うんだけど、社会的にっつーかコモンセンスで言えばダメだよね。それを栗子との会話の途中で気がついたんだよね。完全に栗子ひいてるし、早く話を切り上げて解散したいみたいなムード満載だったしね。で、まぁ無理矢理ね、「反対派がどう言ってくるか?っつーのを想定してあらかじめ先制攻撃を加えておこうよ」なんて言ってさ、まぁあれなんだよね、前回のおさらいぐらいしかしてなかったし、まぁせっかくだから下心無しでトピックについて話し合いたかったんだよね。でも栗子はちょっとひいてるっつーかかなりひいてた感じだからね。大体そうなんだよな。リア二千の時も同じ。なんとなく興味があったのかもしれないけど話してみたら完全に変人だったっつって見捨てるんだよね。俺の変人度って計り知れないと思うね。それを俺は「アメリカだからむしろこれは特徴だ!」なんつってさ、「俺は人間ってよりかはダイナマイトだ!」なんて思いながらやっているわけだけど、ニューヨークみたいなリベラルな都市じゃないと俺みたいなのは受け入れられないよね。


で、英語のクラスでなんだけどさ、例のミックス渡した可愛い子がさ、「ミックス最高だったわよー!」なんてもうすんげー絶賛してくるわけ。で、もうググったらしくてさ、waxdjのページとか見たらしくて「影響を受けたのはトーマス・ジェファーソン?」とかって聞いてくるわけ。アメリカっぽいよね。「ググったらこんなページを見つけたんだけど」って言わないで遠回しに良い感じで含意するっていうさ、アメリカの映画とか見てるとよくそういうのあるじゃない?いや、アメリカ人っつーか英語がそうなってるのかもしれないけど、なかなか素敵だよね。で、まぁまた俺のADDエンジンが暴走しちゃってさ、んで場を弁えずにはしゃぎまくっちゃってさ、「あー!!ページ見たんだぁー!へぇー!ところでどのミックスが良かったの?」なんて一気に子供みたいになるんだけど、それが授業前の教室のアテンションを惹いたのかさ、この可愛い子が「彼はDJなのよー!」なんつったら「マジかよ?お前DJなの?」なんてストリート系の男子二人が会話に参加したりなんかしてさ、もうはしゃぎまくってたんだけど、そしたら彼女が「彼の瞳を見れば分かるでしょ?目が輝いてるもの」なんてまた言ってくれてさ、まぁ音楽へのパッションだよね。これは。興味が無い事に関しては死んだ魚になるんだけど。


で、まぁこの子のために焼いたディスクを渡しつつ、ラップトップが今日は無いっつーんで持って帰って焼き終わったら、興味津々な例の男子2人に回してってことになったんだけど、この子が俺のメルアドを知りたがっててさ、「名前を呼びたいんだけど、DJネームはあんまり声に出したくないから」なんて言うんだけど、まぁウケたね。結構。まぁ観念的なセクハラみたいなもんだよね。で、まぁあれなんだ、トラックリストが欲しいっつーんで、まぁメールアドレス教えたんだけど「じゃあ今晩さっそくメール送っておくわね!」なんて言われちゃってさ、それこそギャルゲー並の展開だよね。「でもあんまクラブでプレイするとかって興味が無いんだよね。売り込みとかやるのが面倒だし」とか言ったらさ、「でもミックス聞いてるときはあなたがデカイクラブでがんがんに回しまくってる姿が見えたわよ!」なんて言ってくれたんだけど、まぁ俺はウォール伝でよくやる半分ジョーダン23の、まぁジョーダン11.5っつー半分本音っつーやり方で「俺はフィロソファータイプだから家に籠って何かを作ってるほうが好きなんだよね」っつったら「あーなるほどね。生活も音楽も理論レベルなのね」なんてこの子が言ったんだけど、結構話が分かる子だなって思ったね。。とにかくこの子の俺への興味が半端じゃないんだよね。まぁあんま恋愛とか分からないしアメリカ人の感覚って分からないからモテてるっつーよりかは友達感覚なんだろうけど、でも俺の基準で言えばこれはモテてるってことになるね。当社比で。


で、まぁ今日はね、英語のクラスでの中間テストの結果発表っつーか先生が個別面談みたいなのをすることになっててさ、んで今日は俺が授業の最後に個人面談があったんだけど、まぁ授業が早めに終わってさ、んでその後、興味津々な子と話しつつ、いつも隣にいる黒人のやつとかともまぁ色々話をしてたんだけど、いよいよ俺の個人面談の番ってことになってさ、まぁ不安だったんだけどっつーかテストはさっぱりダメだったのは分かってたんだよね。やる範囲間違ったんで全然ダメだったんだけど、問題はエッセイでさ、オディプス王について書いたんだけど、悲劇についてとか色々調べたのを元に「悲劇とは基本的に主人公に起こるものではなく、あくまで観客がそれを悲劇だと定義することで成立する関係性のようなものである」みたいな持論を展開したのはいいんだけど、あまりに話が具体性に欠くものになっちゃって、なおかつストラクチャがぐちゃぐちゃになっててさ、結果はフェールだったんだよね。特にギクっとしたっつーかやっぱそう来ましたかって思ったのが「あなたはESLのクラスは取ったの?」なんて個人面談の時に先生が開口一番で言った事でさ、まぁこれもまぁ遠回しに言う例のあれだよね。まぁさっきの子とはニュアンスが違うけど、アメリカってこういう言い方多いんだよね。直接「文法が酷い」って言わないで「英語のクラスはパスしたのかしら?」とかさ、マイルドに展開しつつだんだん本音を言っていくみたいなね、で、まぁそれはともかくとして先生は俺のエッセイがさっぱり理解できなかったらしい。


恐らくまぁあれだわ、普通の生徒が書いてくるようなエッセイじゃなかったからだろうね。まぁ典型的なエディプス王についてのエッセイみたいなんじゃなくて、まぁあくまで色々なリサーチが元としても勝手な俺の持論をガンガン展開しつつさ、妥協せずに色々とややこしいことも説明した結果、難解っちゅーよりかはヘタクソで難解なエッセイみたいになっちゃってさ、「言いたい事が分からないしもっとシンプルに書きなさい」って言われちゃってさ、んで俺も黙ってるだけじゃあれだなと思って「いや、持論はあるんですよ。僕が言いたかったことはですね・・・・」っつてはじまったらもう終わりだよ。割と最近はヘタクソだけど色々な機会があったり音読の効果があってか喋れるようになったから、その俺なりの悲劇の定義とかさ、つまりはエディプス王は自分のことを悲劇の主人公だなんて感じていなくて、色々な事実を知る事で自分のやってきたことが悲劇だったんだっつーことに気がつきつつ奈落の底に突き落とされて、んでそれを見てカタルシスを観客が得るっつーのが悲劇のダイナミズムなのだ!みたいなのをジジェクみたいなまぁなんつーかADD特有の癖のあるオブセッシヴな話し方で熱っぽく説明したら先生が唖然としててさ、「あら・・・そうなの。アイデアがあるのは分かったけど、エッセイを読んだだけじゃさっぱり分からないわ」なんて言いつつさ、まぁ内容は悪く無いんだけど、ようはグラマーがヘタクソなんだなって思ってちょっと安心した俺はまたエディプス王について語りだしてさ、んで先生はまぁ色々と理解したのか「あなたはディーゼルエンジンを持っているけど、そのエンジンが機能する車を持ってないわね」なんて言ってくれてね、なかなかのフォローだって思ったね。


これまたこういうレトリックっつーか例えがみんな上手いんだよね。アメリカ人は。まぁこういうコミュニケーションの習慣があるからなんだろうけど、まぁさ、「アメリカに来て何年ぐらいになるの」って聞かれたんで「3年です」っつったら「それは凄いわね!」なんて言われちゃってさ、まぁこれもフォローだったのかもしれないけど、ようはまぁ割とふつーに英語を使いこなせるようになるには6年ぐらいかかるんだけど、3年でエッセイも喋りもここまで出来ればたいしたもんだってことらしいよ。まぁこれを本音なのかフォローなのかと捉えるのは俺次第だけど、まぁここはポジティヴに先生の本音だったと捉えておくのが今の俺にはベストだね。俺はすげーエンジンを持ってるわけで、あとはそれを走らせる車を手に入れればいいんだって思いつつ英語を頑張ればいいわけでさ、俺はこの先生の言葉を肝に銘じたね。例のコロンビアの革命家って俺が勝手に思ってる友達のイヴァンもさ「二年でそこまで喋れるのか!」なんて昔俺に言った事があるし、スピーチクラスの発音のチューターも「二年半でここまで喋れるのは凄いわ!」って俺を絶賛してくれてたんだけど、あんまこれに寄りかかりたくないのはさ、二年だの三年だのしか経ってないっつー事実に甘えてるといつまで経っても英語が伸びないような気がするんだよね。逆にもうさ、会話するときはさ、ネイティブなそんなの気にしないからネイティブ並に喋れないとやってけないぐらいに思ってないとダメなんだよね。基準値を胃が痛くなるぐらい高くしないと英語は伸びないね。だからまぁ褒めてくれるのは嬉しいけど、でも事実はまぁ俺の英語は全然ブロークンだし、エッセイもぐちゃぐちゃなわけでっつーかまぁ簡単なやつなら問題ないけど、若干まぁウォール伝的なさ、勝手な持論っつーのをスキゾに英語で展開するとファックアップしちゃう感じなんだよね。


そんなダイナマイトなハニーである俺と先生の会話を例の俺と話してたっつー黒人が聞いててっつーか俺を待っててくれたんだけどなんかね、また長くなりそうなんでやめるけど、こいつが日本語を勉強してるとかでさ、俺が日本人だと知ってすげー喜んでてさ、こいつからの提案で「俺がお前に英語を教える代わりにお前が俺に英語を教えてくれ」って話になってさ、んで今週末ぐらいにどっかで会って話し合うことになったのね。まぁこれについてはまた今度書くわっつーか今日は貼りたいやつがあるのと、Carchemishさんからの素晴らしいツッコミに対していつものように長くなりそうな返事に関してはエントリーを利用して返信するっつーのをやりたいんでねってことで、まずはCarchemishさんのツッコミから。で、ツッコミの後は普通に私信が続きまする。で、その後にADDと超人の話が続くんだけど、まぁあまりに長過ぎて大変なことになってるね。まぁいいや。ギネスに載るぐらいの長文ブロガーになるのも悪く無いからね。あ、んでそのADDと超人の話にいたるまでの経緯ってことで、Carchemishさんとのやり取りを全部貼っとくね。


Carchemish 2009/04/01 02:03


どもども、初めまして。いつも楽しく読ませて頂いてます。


アスペルガーとADDって併発することが多いらしいですよ。私も「アスペルガーADHD傾向」みたいな診断を食らってそりゃどういう意味ですかいみたいな顔をした覚えがあります。ただアスペルガー含む自閉症って視覚優位で聴覚劣位らしい(実際私は耳悪いです)んで、音楽的センスのある耳蝉さんはやっぱりADDに偏ってらっしゃるんでしょうね。


ところで、耳蝉さんの文章って、私自身の脳内のノイズがしっかりとした形になってるって感じがして凄く読みやすいんです。もしかすると私の脳みそのADD傾向な部分が刺激されてるのかもしれない。ウォール伝読んだあとに寝るとひっでぇ支離滅裂な夢を見ます(笑)


何にせよ、刺激を与えてもらえるっていうのは凄く希少価値なんで、今後ともがんばって頂きたいです。


またお邪魔します。では。


mimisemi 2009/04/01 11:03


そうですよねぇー。でも実際は併発するというよりかは、アスペルガーもADDも恐らく先天的なものというか、脳機能の違いによるものだと思うので、それをどう定義するか?っていうのがまぁ精神医学の問題なんでしょうね。アスペルガーもADDもある一定の症状のフレームワークを作って名付けているだけで、だからこそ医学的に曖昧だなんて意見もありますし、酷い場合はそんなものは存在しないなんて言う人もいますからね。レイジーなやつのためのエクスキューズだのなんだのっていう。


それにしてもまぁ改めて自分がADDなんだなって確信したのが「アスペルガーADHD傾向」と診断されたCarchemishさんが僕の文章を読みやすいと感じているってことですね。少数ですけど、同じような意見を述べてくださる人達がいるんです。普通は読みにくいというか支離滅裂という風に感じるであろうウォール伝を読みやすいと言ってくださったり、刺激になると言ってくださったりする人達のことなんですけど、本当に少数ながらもウォール伝が評価されるというのは嬉しいことです。


ただまぁ実際はなんというか世間体とか社会との折り合いで能力を捨てたり社会に適応することを半ば強いられてる人達ってのが世界にいっぱいいると思うわけで、僕はまぁADD的傾向を勝手に良いものだと定義して、それを爆発させることに成功している人間だと思うんですよね。だからこそ少数なわけですが、ポテンシャルを持った人ってのはある程度いるわけですよね。そういう人達が自分たちの症状を悪いものだと思ったり強制的に治したりしているというのが本当に痛々しい現実だと思うんですよね。


アスペルガーもADDも才能だと定義するのがその人にとって最高なことだと思いますよね。医学的に障害だとか言われようが、そういう意見には耳を傾けずに、「才能なんだ」って思う事が大事ですね。はっきり言って活かせば普通の人じゃ敵わないような人間になれるわけですからね。ADDの人達ってのはニーチェが言う超人にかなり近い人達なんだと思います。


あ、また長くなりそうなんでこの辺でやめますね。書き込みありがとうございました!


mimisemi 2009/04/01 11:08


あ、んで書き忘れです。ADDを才能だと自覚して世間体にかまわずそれを爆発させて活かしている人達のことが、まぁニーチェの超人に近いんじゃないかってことです。なので活かしていなかったり悪いものだと思っていたり自覚がない人達ってのは超人足り得ないわけです。


Carchemish 2009/04/01 17:46
 

対抗して私も長々と喋くってみる試み。

 
あいや、単に説明が苦手で話すと長くなるってだけなんですが。

とある医師(大学付属の心療内科医だったかな?)に「病気っていうのは恣意的な定義であってレッテル貼りは望ましくないんです!」とか目の前で大言壮語されてぽかーんとなった経験があったりします。おかげで未だに自分がアスペルガーなのかどうか心から信じきれていません。障害者手帳が出るぐらいなんでそれなりに信憑性はあるはずなんですが、もともと疑り深い性格ということもあって、ずうっと釈然としない感じが続いています。


外側からの定義ってメンタル系の病人にとってはわりと大事なことなんじゃないかなと思います。周りからぼてくりこかされてアイデンティティが揺らいでいる人が多いわけだから、彼らに確からしい足下を提供するっていうのはいくぶんかの慰めにはなるはず。そういう視点からすると、さっきの発言をした診療内科医は微妙に配慮が足りてない(笑)


でもまあ、けっきょく異常と正常とをどう文節するかって問題であって、どのように診断するのが正しいのかっていうのは難しいところなんでしょうけど。風邪の症状だって人によっちゃ千差万別ですが、脳みそは肺とか喉とか肝臓よりずっと複雑だし、今のところ未知でもある。日本語の文献をちろちろ調べた感じだと、どうやらまだ全然コンセンサスが出来あがってないらしい。もしかすると英語圏では纏まってきているのかもしれないですが……私英語読むの嫌いなんですよねー(苦笑) 執着対象が日本語の表現技法なんで、さっぱり興味が保てない。耳蝉さんのおっしゃる通り、世界が狭いのを感じます。井の中の蛙状態。まったく不便。


ちなみに、実は私は才能の安楽死にどっちかというと賛成だったりします。なんでかっていうと、殺して生きるほうが幸せなADDやアスペの人も居ると思うからです。耳蝉さんがやってらっしゃる政治哲学だとか、あと恥ずかしながら私は文章を書くのが好きで、色々と性に合った表現を模索する毎日なんですが、そういうのは社会的に貢献する、まあちょっとした可能性ぐらいはありますよね。自分自身を納得させる「確からしい足下」になりうる。でもそういうのが全然見当たらない人もけっして少数派じゃない。誰しもが戦えるわけじゃないし、戦った結果ドロップアウトする人もいるでしょう。彼らのことも当然考慮に入れるべきだと思うんです。

 
もし自分が仮に「文章を書くのが好き」っていうやり口を見出せなかったとしたら、というか、そもそもそういう「執着」を始めから持ち合わせなかったとしたらというのを想像するだに身震いします。真っ暗な深海に突然放り出されたみたいなもんじゃないでしょうか、そういうのって。もしくは舌を抜かれたのちダルマにされる。酷い話ですよ。そんなのを体験するくらいなら、薬漬けでも電気ショックでもなんでもいいからブチかまして人格改造の後、やや無能な平凡人としての一生を送ることを選択してもそりゃ罪じゃないと思いますし、むしろ全然アリだと思うんです。それに、社会だって社会自身に貢献しない奴らに飯食わす義理はないわけですよ。


……うーん、なんか攻撃するみたいな文章になってしまった。そういう意図はこれっぱかしもないのですが。


けっきょく、どの辺りまでを自分の身内として捉えているのかっていう差異なのかなあ? 耳蝉さんはADDとかアスペの中でもとりわけ創造性に優れた人たちを主として語ってらっしゃるようですが、私はどっちかというと純粋にダメ人間として世の中の息苦しさに喘いでいる人間をメインとしている気がする。どっちが良い悪いって話じゃなくて、ようは自分の立ち位置が何処にあるのかの違い。私はたぶん創造的なタイプとダメ人間タイプの中間ぐらいに立っているんだと思います。何かに夢中になれそうな気がするけれど、フトしたことで虚しさを感じて後ろを振り向いてしまう。ブレーキ踏んじゃうんですよ、創造性を炸裂させるのを躊躇してしまって、頭の中のノイズのまま置き去りにしてしまう。そういうのはやけに苛々する。仕方なく文章を書く。おおこれはなかなか良い具合だ! …でもすぐに虚しくなる。エンドレス。


まあこれも「世間体とか社会との折り合いで能力を捨てたり社会に適応することを半ば強いられてる」せいなのかもしれませんが、あるいは単に能力がイマイチ足りていないだけかもしれません。


それでも「何もない」っていうのよりかは、遥かにマシではあると思っています。

 
で、前(創造性溢れる人々)と後ろ(日々の息苦しさに喘ぐ人々)を見比べると、やっぱり後ろのほうが可哀想なんですよ。彼らこそ手を差し伸べられるべきだし、それに彼らを社会にアジャストさせることは大きな利益になるはずです。というわけで、いかに才能を安楽死させるのかという研究はもっと進むべきではないかと。


なんかブレてきたので何が言いたいのかをざっくり纏めると、耳蝉さんの理屈でGOサイン出すとあまりに弱肉強食過ぎないかってことです。耳蝉さんや私みたいに戦うのが好きな連中は好きなだけ戦えばいいと思うんですが、そしてそういう連中が戦いやすいような条件作りをするっていうのが利益になるっていうのは確かだと思うんですが、虐げられた非戦闘員もまた、省みられるべきなんじゃないかなと思うわけです。大事なのはさまざまな選択肢が目の前に並んでいることで、そしてまたスマートな裁量法が採用されているということ。社会全体の価値の総計を出来うる限り大きくできるモデルケースの開発……ってかまあ、実際にはそれが巧くいかないんでみんな困ってるわけですが。耳蝉さんが研究されている、シュトラウスでしたっけ? 彼の提唱している(のか?)エリート独裁ってようするにありゃ分業の一形態みたいなもんだと解釈したんですが(間違ってたらごめんなさい)、民主主義って言わば貧乏人の不満のぶつけ先として存在してるみたいなところがありますから、社会全体の豊かさが増していけば自然に実現していくんじゃないかなとか思ったんですが……ってやっぱ話ズレてる。


後はニーチェか。ええと、ニーチェの超人というのはある種の究極的な理想の具体化であって、私は「死の恐怖から解き放たれた人」のことだとなんとなく思っています。私はあんまり哲学を体系的にやっていないので、こういうロマンチックな解釈しかできないんですよね。ですんで狂った晩年のニーチェは超人に到達していたのだと思います。逆に言うと人間狂うぐらいでないと超人にはなれない。それか死ぬとか。超人というのは目標じゃなくて結果なんだと思うんです。懐疑精神の果てにいつしか到達しているその極地。そういうわけで、「ADDを才能だと自覚して世間体にかまわずそれを爆発させて活かしている人達」っていうのは超人よりもどっちかというと信仰の徒に近いような気がします。単なる私の印象ですが。

Carchemishさんがおっしゃることは基本的に言えていて、メンタル系の病人にとって定義というのは凄く必要です。定義とレッテル貼りは違いますからね。その医師が言っていたレッテル貼りというのは、まぁどちらかというと患者に「病気なんだ」っていうエクスキューズを与えるのが甘えになって良くないみたいなニュアンスも含まれていたんじゃないでしょうか?僕は実際、北里大学病院の酷い医師にこんなことを言われたことがあります。「あんたは鬱病だのパニック発作ってのを持ってて親も理解してるから、そうやって呑気に家にいられるのかもしれないけど、社会に出てみないとはじまらないと思うよ。あんたがやってるのはただの甘えなんであって病気じゃないんだ」みたいなことを言われたんですが、言われたときはマジで泣きそうになりました。で、こいつではないんですが、似たような感じの医師が僕の定期診断を行っていたんですが、この甘えだって言いきっていたような医師とか定期診断をしていた医師の頼りなさというか言い方の酷さに心底傷ついていた僕はまぁ結果的に病院のバス停で泡を吹いて倒れたんですが、まぁこれが悪夢のはじまりだったのは言うまでもないんですが、これはこれで独立したエントリーがあるので読んでみてくださいっていうかまぁどれだったかは覚えてないんですけど、僕が言いたいのはまぁ基本的にこういうやつらは素人に毛が生えたようなもんで、学歴だけある馬鹿なインテリみたいなのと変わらないですね。ライセンスがあるんで「精神科医」だのと社会から定義されますが、実際の質というか病気への理解や診断というのは酷いものがあるわけですね。なのでまぁ僕が行き着いたコンクリュージョンは自分で病気の事や症状のことについて調べて自分が自分の心療内科医になるってことなんですけどね。


こういった酷い医師が普通に大学病院にいたりするという現状を見ても、精神病へのある程度の客観的なクライテリアが必要なのは言うまでもありませんね。つまりはこれは法と一緒で、例えば裁判官によって法の解釈が違うとかっていうことがあってはいけないわけですよね。実質的には。北海道のなんとかっていう裁判所は審判が甘いらしいぜなんていう違いがあってはいけないわけです。どこに行っても同じっていう、まぁマクドナルドみたいな普遍的な同一性が無ければいけないわけですね。しかしながら心療内科の現状としてはその医者によって診断が恣意的で、コントロールによっては患者を薬漬けにして飼い馴らすということも可能なわけですね。普遍的な同一性というかクライテリアが無いから恣意的な症状の解釈が様々な医者によってなされる結果、境界線が曖昧になってしまっているというのが現状だと思います。


まぁでも結局、異常と正常とをどう区別するのか?という問題に還元されるのはいうまでもないんですが、僕は少なくとも自分なりにADDを調べた結果、これは明らかに才能だって確信しているわけなんですね。社会的にはただの異常者というか障害扱いなんでしょうけど、これはむしろその社会なり人類が必要とする「変わった」人達なんだと思うんですよね。これはまぁ唐辛子みたいなもんで、そばつゆは基本的に全部そばつゆですが、そこにわさびとか唐辛子をちょっと入れるとそばつゆというかそばが美味しくなるんですよね。このちょっとの香辛料ってのがADDなりアスペルガーの人達なんだと思うんですよ。障害という定義はあくまで普通から見たマジョリティによる判断なのであって、マイノリティというか僕らみたいな連中からしたら僕らが普通なわけで、僕がここに普段から書いているようにむしろ普通に社会でやっていってる人達のほうが異常に思えたりするわけですね。


そこには政治学などでも問題とされるような合意の問題と同じで、合意というのはマイノリティの排除というか少数意見の排除を元に成立しているものなんですよね。だから結果がマジョリティーのタイラニーになるわけで、マイノリティからしたらそんなのただのファシズムなわけですね。その線引きというのが普通の人達によって行われる以上、そこに排除的なニュアンスがついて回るのはしょうがないことだと思いますが、例えば今日のエントリーの最初のところで書いたような、僕みたいな明らかな変わり者に関しても「走らせる車を持ってないディーゼルエンジン」みたいな認め方をするような、マイノリティに対しても寛大であるというようなリベラル的な姿勢がマジョリティに必要なんだと思います。僕がアメリカというかニューヨークが好きな理由の一つとしてこういうリベラルなところってのがありますね。変わり者にも寛大というか障害者に優しい世の中とでも言うんでしょうかね?まぁ社会でやっていくのはどこでも障害者は大変なんでしょうが、扱いの作法として寛大なリベラル的態度というのがあるのに本当に関心をするわけです。


ところでCarchemishさんの才能の安楽死の意見に関してはハッとしてしまいました。意外な盲点というか僕が考えもしなかったようなことで、なおかつADDやアスペルガーの人達に対して有効な手だてでもあるからです。誰しもが闘えるわけじゃないし、誰しもが合ったものを見つけられるわけじゃないというのはまさしくその通りですね。僕は元々闘えるような常識や社会や所与のアイデアといったものに対する異常なまでの闘争本能と迎合したくても出来ないというようなフレキシビリティの無さというのがあったりしつつ、ADDにピッタリな音楽や哲学といったことが見つけられたラッキーなADDであるというのは言うまでもない事実です。そういったことを考慮せず、僕の基準で全てのADDの人達は闘うべきみたいな言い方をするのはあまり望ましいことではないかもしれないですね。その考慮の無さというか配慮の無さは恥じるべきことですね。ちなみに今日、このCarchemishさんへの返信の後に貼る予定の「ADDと超人」の話は完全に安楽死という観点を考慮していない極論なんですが、これはこれでまぁ言えてなくも無いと思うので、まぁ読んでみてください。実際はもうすでに長いので今日はこの辺で区切りたいところですが、ADDと超人の話はこの返事の延長上としても読めるものなので、まぁ凄まじく長くなりますが、貼っておきますね。


自分の道を見つけ出せなかった自分というのを想像するだけで恐ろしくなるのは、例えば僕の場合だとあのまま留学というか亡命が出来ずに引き蘢りのままだったら、あのまま進歩無しで歳だけ取っていってたんだなって思うともうそれは死よりも怖いものがあります。真っ暗な深海に突然放り出されたみたいなものというその感覚はまさしくハイデガーの言っていた被投性そのものなんじゃないでしょうかね?しかしながら僕の立場はやはりADDやアスペルガーの人達が安楽死しないような世の中というのを望みます。特殊な脳の構造に生まれてきてしまったという被投性がありながらも、先ほども書いたように、アメリカ的というとアレですけど、それをむしろ才能だと見なして積極的に伸ばすことが出来るような社会というのが望ましいと思うんです。ADDやアスペルガーの人達がその能力を発揮すると大変なことになるのは言うまでもないわけで、それは結果的に共通善というと大げさですが、社会にコントリビュートする素晴らしい人材になりうるわけですね。そんな素晴らしい素質を持った人材がその素晴らしさ故に安楽死をしなきゃいけないという世の中が健全と言えるでしょうか?僕は言えないと思いますし、それは望ましくない不健全な社会なので、一刻も早く変える必要性があると思います。


そういった意味で安楽死というオルタナティブがあると考えつつも積極的にADDやアスペルガーの才能を評価していきたいというのが僕の観点です。全ての人がそうではないのですが、彼らの中には社会に妥協せずとも社会が彼らに妥協をせざるを得ないような素晴らしい才能を持った人達がいるわけで、そういったダイヤの原石みたいなポテンシャルを持った人達がそのダイヤを磨く事なく、ただの石としてそれを破壊してしまうというのが本当に痛ましいことだと思っているんですね。左翼的な言い方をしてしまえば、それはマジョリティによるマイノリティへの人権侵害です。安楽死というのはあくまで主体が選ぶオルタナティブとして存在するべきであって、安楽死基準でものを考えるのは危険だと思うんですね。闘病しても結果的に死ぬ末期がんに苦しみ抜いてでも諦めないというぐらいの葛藤が必要なわけですが、僕は末期がんを克服したというか、今も闘病中ですが、闘病から得た何かというのが今、物凄い勢いで開花しているのを感じるので、ADDやアスペルガーの人達にもこの爆発している感覚というのを味わってほしいと思いますし、開花させたらこっちのもんなわけで、この素晴らしさというのを感じてほしいって思うんですね。彼らがそれを才能だと認める事ができてなおかつそれが社会的なものにも繋がった時に彼らは天才だと呼ばれるようになるわけですね。そんな天才の原石を持った人達というのがADDやアスペルガーの人達なんだと思うんですね。


で、僕がADDでも優れたADDのほうに入っているかどうかはイマイチ分からないですね。「自分は凄い」という感覚は相対的なもので、世の中にどれぐらい凄い人達がいるかは分からないですし、自分の生活圏の中だけでは自分の優劣を判断するのはちょっと難しいですね。ただまぁこれだけ開花しているという事実を見て「凄い」と判断するのなら、まぁ僕は凄いタイプのADDかもしれませんけどね。でも僕もCarchemishさんと同じようなダメ人間感覚というのをずーっと持っていたわけで、最近、開花したおかげで自己評価が変わってきて前向きになれているだけで、そこには自分が開花したことによるパラダイムシフトがあるわけですね。つまりは僕はCarchemishさんと同じような自己評価を持っていた人間で、それが今では開花したおかげというかまぁそれは開花というよりかは認識レベルの話だと思うのですが、まぁそういった認識に達することが出来たおかげで凄いダイナマイトみたいな自分がいるわけです。そこにはマルクスの革命論的な自己革命のプロセスがあるわけです。それは一気に武力制圧という形ではなく、緩やかな移行が行われたことによって自己革命が成熟したということなんですね。だからまぁCarchemishさんの「中間ぐらいだ」という感覚もあくまでそれはCarchemishさんの主観における自己評価なわけです。


例えばCarchemishさんの才能が開花するような環境、例えばCarchemishさんがパリに住む事でその才能を開花できるものだと仮定しましょう。そうなると日本にいる安楽死派のCarchemishさんはCarchemishさんが身を置いている場所や社会やそこに自分がいることで生まれている自我というものの表出によってその「中間ぐらいだ」という自己評価が生まれているわけですよね?アルチュセール風に言えばイデオロギーというのはイマジナリーな主体と主体のおかれた環境との関係性なわけですね。まぁまさしく構造主義的発想ですが、僕はまぁ構造主義的なパラダイムでCarchemishさんの「中間ぐらいだ」というものをCarchemishさんの実存レベルにおける環境との関係性によって生み出されたただのイデオロギーなんだと解釈します。つまりは環境によってはイデオロギーは変わる可能性があるわけです。僕が良い例でニューヨークに来てから僕は変わったわけですね。アルチュセール構造主義的なイデオロギー論をそのまま自我論に単純に還元すると少なくとも僕の場合はその単純な還元がワークしています。なにも海外に行けば全てが変わるというわけではないんですが、僕はジャストな場所というかまさしく自分にとってのright placeを見つけたわけですね。僕の自我は僕だけによるものではなく、僕とニューヨークとの関係や、僕と学校との関係、僕とクラスメートの関係や、僕と先生との関係などによってリアルタイムに形成されているアリストテレス的な運動体なわけです。つまりは自我とはそういった環境的なものと実存による関係性の中でリアルタイムに紡ぎだされている動的なものというわけですね。


創造性を爆発させるのに躊躇しているCarchemishさんがそこにいるなら、その「中間ぐらいだ」という考えが様々なリミットによって作り出されたただのイデオロギーだということそのものが証明されてしまっているような気がします。それは能力が足りないのではなく、能力を抑えているから足りないように見えるだけですね。ちなみに僕も普通の生活のレベルではただのダメなやつです。バイトでも実務系は一切ダメでしたし、今でも日常生活ですら支障をきたすようなことが色々ありますが、それも全ては自分のリミテーションを外すことで、まぁチャラになっているようなものですね。凄いところがあるので、色々なダメなところはまぁ大目に見れるというような感じですね。自分のダメな部分を凄いところで相殺してしまおうというのが僕の行き着いた考えであるし、それでしか僕は生きていけないのだと悟ったわけです。


しかしながらADDにも個体差があるわけで、Carchemishさんがおっしゃる弱肉強食過ぎないか?という疑問を広げると、それはADDやアスペルガーの問題ではなく、能力主義全般の問題になるわけですね。僕は爆発させて凄い事になるADDやアスペルガーの人達がいるならみんなガンガン爆発していけばいいと思っています。もちろん中には誤爆して死ぬような人もいるかもしれませんが、そもそもADDやアスペルガーの人達ってのは頭というか心にダイナマイトを抱えて生まれてきたような人達なわけで、その才能を活かすにはそれ相応のリスクも必要だということなのですが、社会がもっとそういった才能のある問題児達に寛大であって、なおかつ才能が開花しやすいようなシステムが形成されていたら、それがベストなわけです。民主主義が貧乏人の不満のぶつけ先として存在しているというのはまさしくその通りで、民主主義という擬制が存在している理由は、貧乏人や才能を開花できなかった虐げられた非戦闘員達の慰みものというわけです。「ダメなやつでも凄いやつでも基本的に平等である」という理念が存在するのはそういった理由からですね。これはアメリカ的なドクトリンで、アメリカ的ドクトリンが世界に行き渡ったことで民主主義なるものが良いものだと解釈されているだけで、今は歴史的に見て異常な時期です。世界の大半の人達がアメリカ的な擬制としての民主主義に騙されているわけですからね。


human beingsが元々抱えている根本的な才能や能力といったものの不平等性を覆い隠して安心を与えるのが笑顔の民主主義です。実際はその笑顔の民主主義を支配の道具として擬制として利用しているのがパワーエリート達ですが、このストラクチャは普遍的に変わらないわけで、それはもうしょうがないので、その笑顔の民主主義を担うエリート達というのが古代ギリシャ的な意味でのステイツマンたれというのがまぁ僕の意見というか特にシュトラウスに感化されて至った認識です。まぁもうだいぶ前から反民主主義者でしたが、シュトラウスのおかげで「エリート達」という曖昧な存在の具体像がより掴めたというか、より考えられるようになった気がしますね。「エリートって誰なの結局?」という疑問はシュトラウス古代ギリシャ的なステイツマンという概念の研究によって明らかになるものだと思っています。で、その中核を担っているのがVirtue(徳)という概念です。まぁなんというか僕にとってこれらの研究は一大プロジェクトなんですね。もうあまりにデカ過ぎて大変なんで、だからまぁ学校の勉強とかに時間を割いている場合じゃないわけです。


で、超人に関しては今回のエントリーで死ぬほど書いたのでそちらをご覧になってください、というか昨日書いたもので、Carchemishさんへの回答という前提は一切ありません。ただ勝手に僕が書いたものっていうまぁ普段のウォール伝のエントリーみたいなものです。とまぁここまでで十分長い気がしますが、その超人についてのエントリーを貼っておくので、この返信と合わせてご覧になって見てください。とにかく鋭いツッコミありがとうございました!こういう機会があるとソクラテス弁証法というのを信じたくなっちゃいますね。古典的な弁証法ということで、唯物論弁証法というわけではないんですね。


あと書き忘れたんで付け足しますが”そういうわけで、「ADDを才能だと自覚して世間体にかまわずそれを爆発させて活かしている人達」っていうのは超人よりもどっちかというと信仰の徒に近いような気がします。単なる私の印象ですが”というご意見ですが、僕の意見というか僕が言いたかったことは、かつてニーチェが定義した超人の特徴に見事に当てはまるのがADDだってことで、ニーチェの超人というアイデアが先立っているものではなく、そのニーチェの超人的な特徴がADDにはあるってことです。まぁ逆に僕みたいにそれをニーチェと結びつけて「自分はダイナマイトだ!」と破壊者として生きていくという考えは、信仰的というかニーチェアン的な考え方と言えるかと思います。まぁ実際はニーチェの超人の定義とADDというか僕の特徴が見事に一致しているので、自分をニーチェ的な超人だと思って生きていくっていう、まぁ言わば破壊的な処世術ってことでしょうかね?処世術って世の中との折り合いをつけるって意味合いがあると思いますが、むしろ僕はショーペンハウエルニーチェ的な処世術を信じています。


・・・・ということでCarchemishさんへの返信はここまでで、以下は本編というとアレだけど、まぁいつものウォール伝です。


まぁまずニーチェの超人思想だけども、俺のADD論と勝手に混ぜて解説するけど、簡単に言っちゃえばあれだ、所与の価値観などにとらわれずに、むしろその所与の価値観を軽蔑して「何を考えてたんだ俺は!」と認識しつつ、ADDであるということは、つまりは自分がこの世に生まれたことの意味であり才能である、ADDとは大地の意義でありADDこそ大地の意義であれ!と叫ぶような狂人なんだよね。普通の人間として生きるよりかは歩くダイナマイトとして生きる事を選んだADDの人達がさ、価値観に捕われずに自分の好きな事ばかりをやりつつ、とにかくそれに向かって突っ走るっていうね、これこそか力への意志なわけよ。ADDを持つ人達にとって、生きるということはニーチェ的な力への意志により動かされる運動体によるダイナミズムなわけでね、そりゃー正常の人達とはぶつかるだろうけど、そのぶつかりすらもね、その凄さで超越しちゃうっつーか認めさせちゃおうっつーね、そのぐらいの生きる事に対する強い意志だよね。まぁファシズムに利用されやすいニュアンスを持った力への意志だけど、ようはね、「こうしなきゃいけない」なんつーくだらない所与のアイデアを生理的に受け付けないっつーADD気質を持った人達ってのは生まれながらにして超人気質ってことなんだよ。


ただもちろん社会や親とか教育ってのは「こうあるべき」っつーのを押し付けるわけで、それによってダメ人間扱いされるのがADDの人達の特徴だけど、ここでさ、ニーチェが最初にルサンチマン力への意志の関係性を言っていたようにね、まずはルサンチマンからでもいいんだよね。「ケっ!あいつらの言うことなんて知った事か!」っつーね、「俺はダメなんだ」っつー思い込みから発生する反抗という段階での力への意志ね。で、その力への意志が洗練されて、既存の価値観に捕われないダイナマイト的ダイナミズムを兼ね備えた高い認識にあるADDな人達ってのが超人だし、その超人達の頭の中にある常に爆発しているようなモチベーションっつーのが力への意志なのね。


そこで別に普通の人達を卑下することはないんだけど、でもまぁあれだよね、死に損ないの社会の歯車として生きるなら爆発してたほうがマシだ!って思って、んで爆発した結果が実績に結びついてるみたいなね、そういう人達が超人なのね。逆に言えば敷居が高いんだよ。爆発させても実績や人々の評価に繋がるぐらい凄い事が起きるADDな人達ってのはADDな人達の中でもごく少数だよね。爆発させたら干されるとか思って我慢してる人も多いと思うんだけど、そこをさ、爆発させて行けるような分野ってのを見つけて、そこに全ての力を集中させるっつーね、興味があることへの異常な集中力っつーのはADDの才能なんだから、そのダイナミズムを利用して成功してる人達ってのがまぁ超人的ADDなんだよね。もちろんそこにはさっき書いたような「これは才能なのだ」という自覚があるわけね。既存のアイデアに捕われず稲妻のように既存のアイデアをぶち壊して新しいものを作って行く人達ってのがADDな人達なわけでさ、それは天才的であると同時に超人的でもあり、しかも破壊者的でもあるんだよね。ビルゲイツも言ってたようにオリジナリティがあるアイデアっつーのは人から馬鹿にされるぐらいのものが一番良いって言ってるけど、まさしくそうなのね。「気違いだな。こいつ」って言われるぐらいのぶっ飛んだ感じと普通の人がひくようなパワーっつーのを持った人達っつーのがね、ようはその超人ダイナマイトというモーターを利用して力への意志と共にガンガン前に突き進んで行くっつー開拓者なのが超人的ADDなのね。


超人思想を語っていたツァラトゥストラは民衆に笑われたよね。まさしくこれよ。ビルゲイツの言う笑われるぐらいが一番良いっつーのはまさしくこれね。こういう人達を「ただの気違い」と切り捨てつつ、既存のアイデアや社会に迎合しながら生きているやつらっつーのをまぁニーチェの言い方を今風に言えば「終わってる人達」なんだよね。かなしいかな!自分たちの愚かさすらも軽蔑できない人間達ってのが終わってる人間なのだ!だから俺は一貫して言い続けていることだけども、「そういう人達が世の中を支えてるんだ」っつーね、歯車に甘んじることへのエクスキューズのような言い方ってのが大嫌いなんだよね。だったらはっきり言えばいいんだよ。「僕は超人じゃなかったしなれなかったので歯車にしかなれませんでした」ってね。超人であるということはこういった一切の既存の価値観に対する聖なる否定というのが必要なんだよ。ここから自分という世界が始まるわけで、ADDな人達はその世界というフレームワークを生まれながらにして持っている人達なんだよね。それを捨てて既存のフレームワークを受け入れるということが、いかに才能の損失であるのか?っていうのは言うまでもないよね。


ちなみに「全ての人は平等だ」と言ったようなアメリカ的な欺瞞だらけの価値観を信じて人達を啓蒙する人達ってのはね、俺に言わせれば傲慢なのね。一見、超人が庶民を馬鹿にした傲慢な連中に見えるかもしれないけど、超人ってのはあくまで自己超越をした認識者なわけで、そこにあるのは彼らの意志による意志なんだよね。なのでそこに見下すという意志は介在しないんだよね。彼らの自然な言動があたかも見下しているように見えるだけで、彼らは庶民を見下しているわけではない。でもね、ウェイクアップさせなきゃ!って必死になってる左翼みたいな人達っつーのがなんで傲慢なのか?っていうと、全ての人は平等という理念に立って「目覚めた人」として上から目線でモノを言っているからなんだよね。彼らが言う「人々はそれに気づいていない」という言葉のほうが超人のそれよりよっぽど傲慢なわけ。だから超人の傲慢さや自分勝手さってのはね、変な話だけど、実際、傲慢と言われないのに実際は傲慢なドッグヴィルのグレースみたいな人達が世の中にいっぱいいるっつーこの現実ではさ、免罪されるよね。まぁそれは罪ではないんだけど、あまり善くない考えだって「良識」ある人達が考えるのなら、色んな意味で傲慢な連中が多いこの世の中で、超人の傲慢さなんてたいしたもんじゃないでしょうっていうね、欺瞞的な平等理念を否定することの何がいけないんだ?っていう話よ。傲慢であるということと傲慢に見えることは全然違うんだよ。傲慢なやつが傲慢に振る舞わないのは処世術であるし、ヴァイスヴァーサね。ところでさ、ヴァイスヴァーサっつーバンド名なんだけど、表記が「山本山」っつーさ、そういうバンドを考えたんだよね。永劫回帰を音で表現するみたいなバンドね。


あ、んでそれはともかくだな、「こんな考え方は傲慢だ」と思考停止することがすでにアウトなのよ。ポリティカルコレクトネスとか気にしながら政治とか考えるのがバカバカしいのと同じ理由でね、真理っつーと大げさだけど、本当の事っつーのはさ、既存の道徳だとか倫理だとかと釣り合うとは限らないんだよね。だからこそそういった真理としてのJusticeを遂行できるものが法をも凌駕する生ける法としての統治者になるっつーのがまぁシュトラウス流の賢人統治の考えなわけで、実際は差異があるんだけど、色んな意味でニーチェ的な超越者的考えとかとの関連性が示唆されるのはまぁ必然的だね。既存のアイデアに縛られず哲学者的な意味での知識への冒険というのを続けたのがシュトラウスなわけで、彼は哲学的超人なんですよ。彼のカリスマ性ってのは色んなところにあるんだけど、その一つに超人性みたいなのがあるよね。


で、生ける法としての統治者だけど、法には限界があるっつーのがシュトラウスの考えで、その時代や社会における一番ジャストな観点から物事を判断出来るものが法を遂行するべきであるっつーね、まぁそんなやついないだろって言われるのがシュトラウスへの批判の一番の有効なやり方でなおかつまぁそれ言われるとすげー痛いんだけど、パラドックスはね、もちろん法や人権と言った概念を知の体系として位置づけて、それは現在の恣意的な解釈によっては判断されるべきではないっていうね、そういう考え方もありなんだけど、その一方でさ、共通善じゃないけど、法や人権を絶対視するがあまりに実際はその社会にとって善くない結果にもなりかねない決定が下される可能性もあるわけで、そういったものを考慮した上でジャストな共通善に結びつく判断をする執行者としての統治者っていうね、まぁそれを独裁者と言ってもいいんだけど、それがまぁシュトラウスの法解釈というと大げさだけど、まぁ生ける法としての統治者っていう考えなんだけどね、これは危険である一方で示唆的なんだよっつーのはね、俺が普段から書いているように人権という概念を絶対視しすぎることで実際の人権が踏みにじられるといったパラドックスもあるわけでさ、まぁいつも言うのが民主主義というのを絶対視しすぎて民主的な生活が出来なくなるっていうね、民主主義のパラドックスなわけだけど、それは法にも人権にも適用できるんだよね。


なので、そういった意味で法を絶対視せずにそれは人間の英知がそれを超越することも可能であるって意味で俺はシュトラウスの法解釈を支持するんだよね。ましてや法も人権という概念も古くなるわけでさ、新しいグローバル社会とかネット社会みたいなのに対応した柔軟な法とか人権という概念を作り出すっつーか作り直さないとダメだよね。まぁロナルド・ドウォーキンみたいなのは法は解釈であるって言ってるけど、そういう観点に立つならその解釈の余地を広げるような柔軟な法というのを今の社会と照らし合わせて考え直す必要があるのね。人権という概念然り。あ、ちょっと待った解釈を広げるっつーとあれだわ、あんま良く無い感じがするから、ようはフレキシビリティってことね。今の時代にとって明らかに足かせになっている法があるのだとすれば、それに対するブレイクスルーを作らなきゃいけないわけ。それはあれね、アメリカの銃規制にしても同じね。Bill of Rightsだかに銃の所持っつーかまぁ武装の権利ってのが書かれてるけど、これをリテラルに解釈して革命権だのなんだのっつって銃の所持を正当化するのはおかしいわけね。明らかに銃が原因で起こっている事件が多いのならそれを規制するに超した事はないよね。そんな簡単なことじゃないんだけど、単純にさ、秋葉原の連続殺傷事件みたいなのがさ、あの犯人が銃を持ってたらって思うと怖くなるでしょ?宅間もそうだけどあれはナイフだったからあれだけの数で済んだわけで、あれが銃によるものだったら大変なことになってたわけよ。そういった意味でもね、銃っつーのは自己防衛にしても百害あって一利無しなのね。もしくは百害ある中に自己防衛という一利があっても、それは共通善という社会の全体にとっての利を考えたときに、それは百害のほうがハームフルなわけで、百害の中の一利を個人の損得によって判断してそれを社会にまで適用する必要は全くないってことね。


なので武装権なんて無くしちゃえばいいわけ。あんなもの時代遅れの革命家の考えなんだから。ネグリみたいな言い方になるけど、むしろグローバル化したネット社会だったらさ、武装権=革命権にはならないんだよね。武装することが革命への道や権利なのではなく、むしろ現代的な情報化社会における革命権というのは言論の自由のことだよね。それを弾圧している政府ってのはどうなんだろう?っていうね、アメリカはまだマシだけど日本は酷いからね。日本は本質的に国民が無力化されて武装解除をお上から命令されてるようなもんだよね。日本はそういった言論とか思想って意味でのcivil obedienceが酷過ぎるね。これこそがまさしくね、物理的な武力を無くすより恐ろしいことなわけね。で、俺の個人的な意見としては徳の主であるような超人や超越者達が言論という武器で武装しながら既存のシステムを破壊していくという創造者としての破壊者というのを望んでいるわけね。非武装でそれを行えるのは超人や超越者達しかいないからね。「徳の主である」ってところがポイントでさ、そこはやっぱり政治的なことにコミットしていきながら何かを破壊して行くということになるならね、そこにやはり個人的利益よりも共通善を最優先するというようなpolitical virtueが必要になるわけね。なので普通の超越者や超人じゃ無理なの。それこそがまぁプラトンアリストテレスの言うステイツマンってことなんだと思うけどね。ニーチェ風に言えば大地の意義を語るものというのが超人であり認識者であり超越者であり賢人でありステイツマンなわけね。認識の聖者が社会を統治して、認識の聖者の伴侶である認識の戦士が社会を守るっつーね、まぁナイーヴなのは分かるけど、でもまぁそういうことだよ。


現実はっつーと権力と金に拘泥した俗物が世の中を支配していて、その俗物に群がるならずものの集まりである傭兵部隊が社会を守ると偽って他国に侵略しまくっているっつーね、泣きそうになるぐらいの現実だよね。こういった腐敗した状況の中でわき上がるナショナリズムってのは最悪なんだよ。それこそその俗物どもを聖人扱いしてさ、ならず者の傭兵部隊を国士扱いするわけだからね。日本も酷いけどアメリカがこれは本当に酷いね。ちゃんとした聖人を崇めるのはいいし、聖人ありきのナショナリズムはむしろ必要不可欠のものになるけど、腐敗した状況の中に存在するナショナリズムってのはもう伝染病みたいなもんだよね。ナショナリズムのイメージが悪いのもさ、現代的にも歴史的にもナショナリズムってのが伝染病的な性質を持つものであったからなんだよね。ニーチェからの引用だけど「認識に生きる者が、真理のなかにはいるのをいとうのは、真理が汚らわしいときではなく、真理が浅いときである」っつーのはまさしく今で言えばナショナリズムがその真理にあたると思うね。国家然り。これはシュトラウスが言っていたことだけど、善い人ってのは善い社会じゃないと善い人と扱われなかったり善い行いが出来なかったり適切な扱いがされないわけで、善い人がコラプトした祖国を捨てて善い社会を外部に求めるっつーのは合理的っつーかまぁ当たり前のことなんだよね。これにシュトラウスの亡命者としての現前性を見た気がするけど、これって物質とレセプターみたいな関係性みたいなもんでさ、軽油でしか走らない車にハイオクのガソリン入れたってダメってわけよ。まぁ俺がハイオクで日本が旧式のポンコツ車だなんて言わないけどもね。


で、まぁvirtueに話を戻すとね、健全でピュアな魂にしかvirtueは宿らないわけでさ、そんな健全でピュアな魂の雛形を持っているのがADDな人達ってことになるわけだけど、もちろんそれを活かすも殺すも清めるも穢すも本人次第なのでADD=超人ということにはならないわけだけどね。「でさ、お前の言うvirtueって結局なんなのよ?」っていう疑問がありそうだけど、virtueってのはこれまたニーチェ風に言えば「こうなんです」って定義できるような簡単なものじゃなくてさ、その構造は複雑であるし説明に困るほどの崇高な認識の体系なわけでね、むしろそこに定義を与えちゃえばそれは没落するんだよ。でもそれはピュアな魂に降り注ぐ聖水みたいなもんでさ、内面的に起こる渇きを常に潤してくれるようなものなんだよね。なのでvirtueを求めるってことは魂を磨くってことと同意義でさ、それは常に魂の渇きを潤す聖水を求める永遠の旅みたいなもんなんだよね。そんな崇高な聖水について定義できると思う?まぁ悪く言っちゃえばその崇高さというか高尚さはインディージョーンズに出てくる聖杯みたいなもんでさ、「結局あれって何に使うの?」って聞くぐらいインディージョーンズにとってナンセンスなことなのね。それを何かの崇高なものへと向かうための一種のシンボルであると捉えるのも間違えね。virtueには言葉に出来ないながらも抽象的な意識のレベルにおいてのみ実体があるんだよ。それは人々に宿るゴーストと同じようなもので、例えるならホルマリン漬けの脳みたいなもんだね。脳がゴーストでホルマリンがvirtueというわけ。両者は相関関係にあってどっちが欠けてもワークしないのね。あのSF映画とかに出てくる喋る脳みたいなもんよ。ホルマリン漬けみたいな脳に機械が繋がってて喋るっつーのよくあるじゃん?あれのさ、脳が浸かっている液体の要素の一つがvirtueだね。


「人に尽くす事」とかさ、「高貴であること」とかさ、「自分が生きられているこの世の中に感謝すること」とかさ、そんなものに還元されないのがヴァーチューなのね。言葉にすればそこに解釈が存在してしまって、「そうか。人に尽くすってことがヴァーチューなんだな」みたいなアホな判断が介在することになるじゃない?でもヴァーチューってのは魂との相関関係にあるもので、そこには常にエクリチュールと読者といったような物理レベルの関係性ではなく、魂と概念といったようなイデアルなレベルに存在しながら常にそれが意志によって概念が規定されていて、その概念によって意志が規定されているというようなね、そういった意味でまぁさっきホルマリンと脳の関係性みたいなもんだって書いたんだけどね。ちなみに攻殻機動隊の久世がネットという無意識化に自分の意志そのもののような思想が散種されたので、それを受け取ったものがまた革命家として現れるだろうっつー予言はさ、この久世のアイデアが書かれた文章や思想といったものではなく、意志というイデアルなレベルの実体としてネットの無意識化に存在し続けるということなわけでさ、久世のアイデアに共感するなり共振して行動を起こすということはつまりはその主体の意志と久世の意志というのがさっき書いた意志と概念の関係性みたいなイデアルな相関関係によるものってことなんだよね。


思うに哲学も同じだと思うし、シュトラウス読みってのは物理的なエクリチュールvs読み手と言ったような即物的な関係性を打破するイデアルなレベルでのエクリチュールと読み手の関係性の体系というか総体のことを指すんだと思うんだよね。なので単純な「行間読み」といったような行動には還元されないわけね。批判的な言い方をすると哲学の表面的な解釈だけを行うのが哲学学者で哲学者ってのはイデアルなレベルで概念を受容するんだよね。哲学者にはその概念の受容体というのが備わっているんだよね。なので哲学学者と哲学者の距離ってのは近いようで相当遠いし、シュトラウスコジェーヴのことを「彼は知識人ではなく哲学者である」と言ってた意味というのもこういうところにあるわけね。


だからまぁ魂を磨くとかさ、知識や英知への永遠の冒険を続けるという行為はさ、つまりはまぁタオみたいなもんだよね。それ自体が道で、その道を歩むものにしか得られないものであるし、永遠に得られないものなわけね。それは対象aとは違った意味で得られないのね。これこそがソクラテスの言ってた無知の知の真髄だと思うわけ。あ!良い例えを思いついた!恋とか愛って言葉では表せないじゃない?恋している時の気分というのはその人にしか分からないし、その人の現前性やら恋への対象といった全ての関係性を含めたものから出てくるイデアルな感情だよね。ヴァーチューも同じなんだ。魂を磨くとか英知への永遠の冒険を続けるというのもある種の「感覚」なのね。


それは具体的に何々大学の哲学科を卒業後、何々大学研究所の研究員とかっていう物理的なステータスで表されるものではなく、その道を歩むものの感覚によってのみ得られるものなのね。だから才能さえあれば誰でも哲学者になれるんだよね。まぁ哲学者ってのはなれないから、まぁその道を歩むということにコミットできるっつーのかな?それは単純に知の体系としての哲学を学ぶってことじゃなくて、スピリチュアルなレベルで共感しながら貪るってことね。哲学を学習するだけなら誰でも出来るからね。それこそ哲学学者になんて誰でもなれる。ただ哲学者ってのはいつの時代もマイノリティだと思うんだよね。それは人から哲学者とは呼ばれないって意味でも存在が希薄であるしね、それはそのさっき書いた道とそれを歩む主体との関係性のことを哲学って呼ぶんだよね。だからその道を歩むものはみんな哲学者ってわけ。ソフィストや知識人とは対極にある存在だね。だから俺って知識人とか一切信じてないんだよね。


彼らが語る哲学なんて絶対嘘だって思ってるわけで。その中でシュトラウスみたいな珍しいタイプの哲学者ってのがたまぁーーーにいるわけね。そういった希有な存在に共感出来る人達ってのは潜在的にみんな哲学者の素質があると言っても過言ではないね。プラトンが35歳になってから主体は哲学を紡ぎだす事が出来るみたいなことを言っていたと思うんだけど、その理由ってのが今は凄く分かるねっつーのはね、若造が理念レベルで理解できるような代物じゃないんだよね。哲学って。スピリチュアルって言い方は宗教的になるし安っぽくなるので使いたくないんで、まぁイデアルなものが哲学とでも言っておこうかな。この感覚が分かるようになったのってマジで最近だからね。ホント。今まではむしろ括弧付きの知識人みたいなのに憧れて体系を理解することに重点を置いていたと思うんだけど、今は完全に哲学の道を歩み始めたなっつー実感があるんだよね。さよなら知識人宣言っつーかさよならソフィスト宣言って感じね。これもまぁ無駄に時間があるおかげだよ。それこそ哲学をやる上で必須のレジャーが俺にはあるんでトラックに乗る事ができたわけだ。レジャーってのは娯楽って意味じゃなくて暇(いとま)ってことね。ショーペンハウエルじゃないけど、思索をするに十分な孤独と暇こそが魂を研ぎすますわけね。


今後の課題はいかに無駄無くこの暇を龍脈があるニューヨークで確保するか?ってことなんだよね。で、前にも書いたようにそのための無駄な学校の課題なら暇の確保のためにいくらでもやれるし、無駄な授業にもいくらでも出れるってことなわけね。むしろ今はその暇確保のために必死にならないとなって時期なわけでさ、だからこそ特にこっちでサバイヴしていくための英語力っつーか並外れた英語力が必要になるわけね。ましてやさ、金があるなら別だけど、今みたいな世の中では「うむ・・・うん。しかし・・・・わからぬ」みたいな寡黙な哲学者みたいなのってやってけないからさ、それこそソクラテスソクラテスの弁明で自分を弁護したように、今の自体ではソクラテス的な意味での良い弁士である哲学者というのが求められていると思うし、そういうやつしかやってけない世の中になっちゃってるよね。昔だったら質素な生活をしながら川辺でずーっと思索をしているってことが可能だったかもしれないけど、今ってそういうの無理じゃん?中流に生まれたら金稼がないとやってけないからね。それこそ生きてるだけで金がかかりまくるわけでさ、この金のかかりかたといったらまぁ人類初だと思うんだけど、そんな意味でもさっき書いた寡黙なタイプの哲学者ってやっていきづらいんだよね。具体例はないけど成功している哲学者って呼ばれるタイプの連中ってみんな口が上手くて文章も良い意味でも悪い意味でも大衆に分かりやすくっつーかまぁ世の中ウケするような内容とかフォーマットをとっているのが多いよね。まぁジジェクみたいなのが良い例だけどねっつってもまぁ彼も彼なりの長年の苦労があったわけで、別に楽しているとは言わないけどね。


ってことでした。すげー量だな。これぞまさしくディーゼルエンジンですよ。ADDがエンジン的な「ドライブ」という概念で説明されるのが多いっつーのはまぁ俺のウォール伝の出力を見ればよく分かるよね。まぁ全てはADDだからっつーことに還元したくはないんだけど、まぁ異常出力の原因はADDにあるんじゃないか?ってまぁ俺は勝手に思ってるんだけどね。去年ぐらいにまぁこれについては書いたね。まぁあれなんだ、別にだからまぁ精神医学的な定義は必要ないんだよね。俺にとっては。俺が俺であることには今の俺には問題ないどころか有利に働いているわけで、俺は創造者としての造反有理な破壊者という道を歩みたいと思うよね。それはフレーマーという意味ではなく世間に迎合しないアウトサイダーとしての変人ってことでね。だからまぁADDとかアスペルガーの人達みんながアウトサイダーになれって言ってるわけじゃないんだよ。力への意志があるやつだけ闘えばいいって話ね。


ってことで今日はこの辺で。


ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)

ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)

ツァラトゥストラはこう言った 下 (岩波文庫 青639-3)

ツァラトゥストラはこう言った 下 (岩波文庫 青639-3)


今回のニーチェからの引用は全部ここからね。