Carchemishさんへの私信。

mimisemi2009-04-08

またCarchemishさんからのお返事があったので、いつものウォール伝の続きは明日ってことで今日はCarchemishさんへの返事にしますです。あとあれ、ADD 2 Psycho-Stimulant Packageなんだけど、CDRに焼いてウォークマンで聞いたら音がシャリシャリしすぎてたんで、エンハンサー無しのそのまんまの音源をアップし直しましたです。エンハンサー済みのやつはマックではオッケーだったんだけどなぁーっつーかダウンロード少ねぇーな。マジで。ダウンロード数見えないほうがいいね。これだったら。


http://waxdj.com/djs/3044/


あとMKさんからリクエストがあったKing of Dickkin' Vol.18のトラックリストね。


1. Taxing My Soul (Bioground's Exquisite Dub) - Biground feat. Karlyn
2. Chatterbox (Atmospheric Dub) - Terry Lee Brown
3. Quadrant Dub 1 Edit - Basic Channel
4. Maurizio - M07B (unreleased mix)
5. Aire - David Alvarado
6. The Sweetest Taboo (Quiroga Remix) - Nona
7 Sometimes: The Kabuki-Rock-Mix - Farben
8. Planet Janet - Rechenzentrum
9. Setting Sun - Aril Brikha
10. Look At Me Now, Falling (I:Cube Niave Mix) - Maas
11. The Highlife (Remember Herbert's Mix) - Mono
12. Almost Lost (On A Deep Train Tonight) - Timewriter
13. Think I'm In Love - Gemma Fox


http://mushroom.cage.to/mix/dick18.mp3


はい、ではCarchemishさんのお返事からっつーかCarchemishさんのお返事も俺の返事も相当長いです。で、やり取り自体はここからの続きね。http://d.hatena.ne.jp/mimisemi/20090404


PS


っつーかさ、そのうちウォール伝の量が凄まじいことになってさっつーか今でも凄まじいんだけど、定期購読者じゃないと全く話が理解出来ないみたいな状況になってさ、悪質なヴィトケンシュタインみたいになったら面白いと思うんだよね。ある特定の読み方をしないとさっぱり理解出来ないみたいなさ、このエントリーは具体的にはこのエントリーの話を踏まえていて・・・みたいな前提が多過ぎて「ウォール伝リーダー」みたいなのが作られたりしてさ、そうなったら面白いなぁー。あとあれね、コロンビア大学の大学院で日本史を研究しているちょー美人のブロンドがさ、俺と恋に落ちつつ、俺がスキゾに色々書いたのをまとめてくれてまともな形にしてくれるとかさ、そういうのもいいなぁー。口頭で喋りまくったのをちゃんとした文章にしてくれるちょー美人のパートナーね。日本語と英語のバイリンガルの。ところで俺が知ってる限りの最強のウォール伝リーダーって元相方なんだよね。日本に帰るまではさっぱりコンタクトをしてなかったのに会話したら今まで俺が書いてきたウィール伝の内容を全部踏まえているような感じでさ、あれには驚いたね。「こやつ!すげー読んでるな!ウォール伝!」って呆れちゃったもん。あまりに見透かされているんで怖くなったというかなんというか。まぁでも数少ない理解者の一人だから大事にせねば。癖のある人間なんだがレアだし何より俺の理解者というのは本質的に少ないから大切にしなきゃ。たまに悪口みたいなのも書くけど許してね。いや、全部認めてのことだから。


PS


あとあれなんだよね、栗子と春休み前の最後の会話があったんだけど、あれなんだよね、もうさ、地で行くって決めたじゃない?だからもう全部言うのね。「そういえばさ、いつもキミは俺とどっかの空き教室に行くのを断ってるけど、その理由が分かったよ!っつーのはさ、男と女だからだよね?男と女が密室にいるというのが危ないっていう想定があるんでしょ?」って聞いたら「アハハハ・・・・いやーそこまで考えてなかったっていうか、そんなこと気にしないわよ」みたいな感じで完全に呆れられちゃってさ、いかに俺の思い込みの強さっつーか自意識過剰さってのが分かったよね。まずそんなこと面と向かって言うなよって話なんだけど、これもまぁリミッターを外す一環なんだよね。で、こうやってリミッターを外してるほうが変なテレとかも生まれないで自然に会話ができたりして、んでもうさ、ディベートのついての話が終わって帰り際には談笑してたからね。すっかり仲が良くなったっつーかなんつーかまぁこれも俺の勘違いなんだろうし、なにより俺は彼女をオカズにしまくっているわけだから、まぁ友達の資格無いと思うけどね。いやーでもさ、ああやってなんつーのかな?面と向かって話しててムラムラするって滅多に無いことだね。それこそ今まで全く経験したことが無かった感覚っつーかさ、ちょっと男が分かった気がしたね。男が分かったって男と寝たって意味じゃなくて、男の本能について理解できたってことね。押し倒したくなる感覚っつーのが凄く分かるっつーかなんつーかあれで空きの教室とかにいたらヤバいなってマジで思ったねっつーか栗子が空き教室を選ばない理由は単純に俺が気持ち悪いからだからだと思うんだけどね。これはさすがにあってると思うんだけど。なんか展開がオナニーマスター黒沢っつーかさ、まぁあれ最後が大嫌いだけどっつーのは前にも書いたけど、まぁなんつーか普段の俺って相当黒沢に近いね。あれがおかっぱの変人に変わると俺みたいな、そんな感じ。さすがに女子トイレで抜いたりはしないけども。


で、なんかさ、栗子と俺の会話が筒抜けでさ、だからまぁ俺はなんつーか実際は授業やってるクラスに迷惑になるからまぁベンチで会話するのはやめようってマジでその理由で俺は空き教室で話す事を薦めているわけだけど、まぁ嫌がられているのでしょうがないんだけど、筒抜けになってたクラスからボツボツ出てきた生徒達が俺の事を見てすんげー笑ってるのね。笑ってるっつーか「何こいつー」みたいな雰囲気っつーの?「何授業のディベート程度でそこまで熱くなってんの?しかもあんたの話相手は女の子でしょ?」みたいな目線っつーかまぁこれも自意識過剰っつーか被害妄想の一環なんだけど、なんつーかかわいらしくはあると思うんだよね。日本語訛りの変な奴とロシア訛りのエロティックな子がベンチで喋ってるわけだから、まぁシチュエーション自体が異常っつーかなんつーか、まぁそれはともかくとしてまぁクリティカルシンキングマジで楽しみになってるんだよね。先生が「さーて、んじゃあまたグループのサブグループに別れて・・・」っつー台詞を聞くと「よっしゃー!!!」ってなってる俺がいるね。普通にしているんだけど、めっちゃ栗子との会話を楽しみにしてるっつーかなんつーかまぁ相手も社交辞令でハイタッチなんだけどね。クラスの一環だから会話するわけで、相手もしょうがないからまぁ付き合ってやってるっつー感じなんだろうけど、またそれを楽しみにしてる自分の情けなさっつーかさ、そこにまた欲情するよね。基本的にマゾだから相手が嫌がれば嫌がるほどっつーか豚扱いとかされるほどまぁ興奮するっつーね、完全に倒錯しているわけだけども。だから栗子にはもっと豚扱いしてほしいと思うよね。「こんなきもい奴となんでコンビ組まなきゃいけないのよ!」とかって内心思われてたらもう昇天モノだね。マジで。まぁ実際の悲劇はそこまで相手は俺に対して何も思ってないってことなんだけどね。それこそカスタマーサービスに電話したら出た係員ぐらいのレベルだろう。はぁー結局まぁ悲しいなぁー。豚以下っつーかなんつーか、SとMの関係もSがMを豚と認証しないと成立しない関係だもんね。豚だとも思ってないっつーのはもう放置プレイどころの話じゃないわけよ。マジで。


あ、PSが長くなり過ぎたなってことで以下は本編ねっつーかPSとかに書かないであれなんだよね、書き溜めておけばいいんだよね。で、後で放出すればいいんだけど、放出分が溜まってるんで、すぐに出せないじゃない?だからすぐに出したいっつってここに書いちゃったりするんだけど、またそれで無駄にウォール伝が長文化するんで、この辺でやめておこう。それにしても春休みはどうなるんだろうな?っつーかマジでまずはあの例のF1ビザの件を解決しないと話にならないな。


はい。では本編です。


Carchemish 2009/04/07 11:56
倍々ゲームで文字数が増えていく……。


なんか前回や前々回の書き込みと矛盾している箇所がところどころ見られるかもしれませんが、単に耳蝉さんとの対話によって思索の糸がより巧妙に絡み合ったというだけのことです。弁証法って奴ですかね。それもずいぶんと古典的な。今まであんまり環境に恵まれていなかったもので(ようは私は努力を怠っていたわけです)、道化として振舞うのではなくてこうやってある意味滑稽なほどに真剣なやり取りが出来るというのは、新鮮で、刺激的な気分がしています。ただ反面、頭の奥のほうに妙な疲れを感じてもいますが。おそらくこのようなエクササイズに慣れていないからでしょう、この辺りは「要:精進」ってなとこですか。

 
さて。お返事させて頂きます。例によって散漫の上、横道に逸れまくりますがご容赦ください。

 
まずは前置き。

 
喧嘩売られてると感じてるとか、喧嘩売ろうとしてるってわけではないんです、もちろん。ようは私が妙に嫉妬深い人間だってだけのことなんですから。ただなるべく物事を正直にお話ししたいと思ってまして。別に今回に限った話じゃなく、私自身にとってはそうするほうがいつ何時でもやりやすいんです。わざわざ相手のスタンスにぴったり寄り添って話すのはかったるいし、変なお世辞を紙吹雪みたく撒き散らすのも面倒。ちょっとした予防線ぐらいは張りますけれど、逆にそれが浮いてしまったりするので良し悪し。例えば先日のコメントにおける「馬鹿にしてるとかそんなのでは全然なくて」っていう一文がその予防線に当たります。こんなもの、張る必要なんてないとは思うんですけどねえ、理詰めで考えると。でも習慣的に張っちゃうんですよ。変なツッコミが入るってことが経験上多かったもので。この辺はもう我が身に馴染みきった処世術ってなものですね。余りにもそのやり口に慣れすぎてしまって、必要性はそれほど感じないのにも関わらず、欠落しているとそこはかとない違和感を受ける。古臭い言い回しや修辞法みたいな感じでしょうか。特にデメリットはないので積極的に直すつもりはありません。基本的に私って伝統とかそういったものをそれなりに尊重する価値観の持ち主みたいですね。

 
もっとも、馬鹿には馬鹿って言うべきだと思うし、素晴らしいものはそうであると褒め称えるべきだと思うし、わからないものはわからないって素直に白状したほうがいい。私の根っこのスタンスはそのようなものです。気取った言い方をすれば、こういった誠実さこそが私にとっての信念みたいなものであって、ぶっちゃけた話、美学なんでしょう。

 
ただ、私はホラを吹くのが好きなので、っていうか作り話をするのが好きなので、「おお、巧く騙せてるな!」って感じられるようなときには、事実を事実その通りに伝えるっていう基本方針を謹んで後回しにするような場合もあります。自分自身の織り上げた空想のなかに、他人を無理やり巻き添えにしてしまうというわけ。

 
ついでに言うと、他人だけじゃなく、私は私自身をだまくらかすのも好きなんじゃないかなと。

 
それは、耳蝉さんがおっしゃるような「自身の天分を信じる」といったものとは程遠い、単なる自分の顔に貼っ付ける仮面みたいなものです。演じるということ。昆虫みたいに擬態して、その場その場に自分を溶け込ませ、馴染ませること。別に現実に則したホラ話に限らなくて、馴染む対象はフィクションであっても構わない。空想と対話するっていうのを昔っから良くやっていました。延々と頭のなかで繰り返される、様々な対象を相手取って行われるやくたいもない問答は、しばしば鬱陶しいですが、まあ、暇つぶしくらいにはなります。そのおかげで逆に普通のフィクションの登場人物に物足りなさを感じてしまい、エンターテイメントをイマイチ受け付けない身体になっちまいましたが。なにせ実際に文章化されている人々っていうのは酷く類型的なことが多く、自分自身の頭の中の彼らのほうが、よっぽど情報量が豊富で、人間らしく活き活きとしていて、そのうえ自分に合うようにカスタマイズされているもんですから。読んでいるとだんだん苛々してくるんです。それぞれの人物がそれぞれの生を「真剣に」生きていない気がしてしまう。なので今では特定の登場人物一人に絞って相応の深みを持たせかけているある種の教養小説だとか、作者自身の体験を装飾して綴られた独白だとかエッセイだとか、それか真逆に位置するような、ほとんど童話みたいな児童小説だとか、水戸黄門みたく完全に記号化したマンネリズムだとか? そういったものばかりを読み散らかす毎日です。あとは経済学がらみの文献を少し。読書家の端くれとしては、少々不健康なラインナップかもしれません。

 
なお、一応言っておくと、こちらに寄せさせて頂いているコメントは概ね事実一直線でホラは入ってません。いくぶん誇張されているところはあるかもしれませんけれど。人に余計な労力(これは私からするとって話で、相手が余計だと思っていなくても私から見て余計のように見えればそれは余計です。誠実さを欠いている)を支払わせるってことほど気分が沈むようなことはそうそうないですから。そういうのはエレガントから対極です。

 
それで、私は今あることに思い至ったのですが、私って人間はおそらく、この日本って国が大好きなのではないかなと。多くの人々が一つ場所に集まって玩具みたいにこせこせしている、小ぢんまりとした箱庭のようなこの国が。そしてその国を擁する世界そのものや、その世界を覆っている闇青色の天蓋や、その先にあるあらゆるすべてに対して、私は愛着を抱いているらしい。それは人類愛だなんて大層なものではなく、自分自身に対する執着をだんだん外へ外へと広げていって、そのうちその共感性があらゆるすべてを覆ってしまった、そんなタイプの愛着なのだと思います。二十年来過ごしてきた我が家や、歩いて五分の小さな公園や、幼い頃に分け入った爺さんの別荘まわりの雑木林だとか、そして夜の散歩のさなかに、フト頭上を見上げれば横たわっている、優しい無関心を湛えた夜空だとか。そういったものを私は愛しているし、そしてそれらを取り上げられることは、私にとって何よりも辛く、苦しく、ダメージの大きなことなんです。このあいだ内臓のトラブルで入院したときも、二週間で頭がおかしくなって(そのときの私はぎらついた敵意に溢れていました)、急遽自宅療養に回されたということがありました。病気というマイナス要因があったにせよ、慣れ親しんだ世界観を擲った途端、私はすぐさま自分自身を保てなくなってしまった。これはあからさまな弱さですが、その弱さのことが私はそれほど嫌いではないようです。

 
自己愛に根ざしたあらゆるものに対する愛着。そういった思いが私の根源には存在していて、そうだからこそ既存秩序的なものの価値を無条件に認めてしまう傾向がある。ゆえにいわゆるバーク主義的な漸進的な改革主義が私には馴染むし、俄然考え方もそのような形で凝り固まる。バーク主義的な思考法の弱点や時代錯誤めいた部分は自分なりに了解しているつもりですが、それでも感覚的に私が迎合してしまうのはそういったもの。だから私はこの国、引いてはこの世の中に根付いているシステムに対して、あんまり否定的になることが出来ないのではないか。そんなふうに思います。例えば民主主義についてもそうで、まずイエスがあって、そこからbutに繋がるといったふうな顛末を辿る。そしてそれは思考の柔軟性に対する幾分かの足かせとなる。

 
まあ、身もフタもない言い方すれば、ナイーブな楽天家って奴なのではないかと。それで構わないって思ってしまっている時点で、あんまり私は理論家には向いていなさそうですね。

 
もっとも、経済学を齧った我が身の半端な知識を省みても、日本式の中央集約型ネットワークというのは時代遅れだし、改善すべき点が多々あるというのはあからさま過ぎるほど明白ではあります。当然他国の政治主体も同じことで、完全とは程遠い。そしてそれら問題点はバーク的な漸進主義では必ずしも解決出来ず、何かしらのメカニズムによる現存秩序の淘汰と、それによって生じた政治的空白地帯への適応放散という形を経て始めて成し遂げられる変化だと言える(なんだか社会進化論みたいな物言いですが)のでしょう。

 
ここでそれをアスペルガーADHDの話に繋げると、どの程度まで彼ら彼女らの受け入れを計るのがシステム上「効率的」なのかっていうのが、究極的な問題になるんでしょうね。例えば前回出てきたパラレルワールドの生息者が気楽に生きられる社会を構築するコストと、アジャストした彼らが齎してくれるベネフィットとを天秤に掛けると、あくまで私の印象に過ぎませんが、なんとなく前者の方に傾いてしまって割に合わないような気がします。市民権を無分別に与えすぎても最終的に非効率になりうるわけです、少なくとも現段階では。

 
何処かしらに「落としどころ」が存在していて、そしてまたそれは社会の成熟度によって違ってくる。今相応しいのはどれだけなのか、そして今後はどうなっていくのか? そして「すべてが正しく救われる」ためにはどれだけの時間や理念や経済的余裕といったリソースが必要なのか? 私が興味を抱いている点は、おそらくここです。経済学はそのための数々の示唆を与えてくれるように思われます。

 
……ここまでが前置きです。なげえ。

 
さて。まず自律神経系ついてですが、正直私自身がアスペルガーの具体例として不適切なので、申し訳ないですがこれについては確かなことは言えません。というのも、今もこうやって文字を打ちつつアトピー性喘息でげほげほ言ってますし、他にも身体的な疾患が幾つかあって、どの症状がアスペルガー絡みなのかいまいち判別がつかないんですよ。

 
ようは私って自然淘汰に晒されたら速攻で排除されるような立場にいるんです。野生では確実に生き延びられません(笑) その点では現代文明様々ってとこですか。

 
ただまあこれはアスペルガーによる症状じゃないかなというのは幾つかあって、例えば他人の肌に触れたり触れられたりすると何とも言い難い不快感を感じて吐き気がしてくる、というのがあります。それで、こういうのまで「繊細」に含めて肯定しようとすると、とてつもないコストが掛かると思うわけですよ(これからの数パラグラフは上段のパラレルワールドの住人についての話とかなり被っているかもしれません)。生み出した価値の総計がマイナスなものはナマゴミなわけで、アスペルガーADHD持ちの人はプラスとマイナスの値両方が大きく、総計が数直線上のどちら側かに極端に寄りやすい性質があるように思うのですが、プラスが小さすぎるだとか、マイナスがあまりにもデカイだとかすると、正直なところ、そういった人はもうどうしようもないんじゃないでしょうか。「要:安楽死」です。

 
前者を喩えるとするなら、ヒルの脳髄の研究に執着を抱いている人間にまで最大限の支援を与えるべきっていうのは、流石に疑問符を呈せざるを得ないとは思いませんか。そりゃ、研究すること自体は一向に構いませんし、その真摯な姿勢は崇高なものなのかもしれません。だけどそういう大したプラスにもなりそうにない執着のために、彼あるいは彼女の著しいマイナス点を許容するっていうのは割に合わない。もちろん投資はアニマルスピリッツであるとケインズも宣ってますし、何が社会的に有益かどうかなんて分かったもんじゃないのですが、それにしたってなんかこういう明らかにダメっぽいのまでが「守られるべき権利なんだ!」ってのは流石にそりゃどうかと思ってしまうわけです。その権利を守っても利潤を生み出せるビジョンがイマイチ見えてきません。リソースを突っ込むなら別のところに突っ込んだほうがよほど見込みがあるように思えます。

 
また、後者の例として、アスペルガーには(ADHDもそうかは分からないですが)おそらく触法傾向があります。根拠は私です(苦笑) 私はテロリストが大嫌いですが、その嫌悪感の根を探っていくと、テロリストがやらかす破壊行為に対する自分自身の親和性に行き着きます。自分自身の本性を見せ付けられているような気がしておぞましいってわけ。もちろん誰しもが破壊衝動を内に秘めているのでしょうが、普通はそういったものはずっと奥深くにまで閉じ込められているものです。私という人間は、その手の破壊衝動を自発的かつ意識的に押さえ込まないといつ炸裂させてしまうかわからないような状態にしばしば置かれるんです。例えば、私は誰かに恋愛感情を抱くとき、いつしかその人の首を刎ねることを夢見ています。その人を独占したいからってわけじゃありません。ただ「私自身にとって邪魔だから」こそ殺意を抱くんです。自分自身の分裂感に堪えられないんですな。この手のある種倒錯的な、外部へと向かって放たれる、あるいは放たれる間際で留め置かれている敵意というのは、書籍を読んだ限りでは、そして同病の徒とそこそこに交流を重ねた限りでは、わりあい良く見られる感情の蠢きであるように思われます。

 
私と耳蝉さんは、アスペルガーADHDの人を「社会的に有益な方向に持っていく」という目的については同じくしていると思います。ただ考え方にいくぶん温度差がある。私は一応リベラルのつもりではいますが、耳蝉さんに比べるとだいぶん保守的だからかもしれない。せいぜい中道左派といった程度に過ぎませんからね。耳蝉さんの発している意見という作用に対する反作用になっているという意味では、私の意見は確かにネガティブだと言えます。相対的保守派の意見っていうのはだいたいいつの時代もそんなもんじゃないでしょうか。人生に疲れ気味の、瞳の光がだいぶん弱りだしている人々が呟く、現状への諦念の塊のようなもの。

 
ああ、そうだ。ちょっと横道に逸れますが、耳蝉さんが描き出すような「アスペルガーADHD達に最大限配慮した社会」に対して私がやや反発している理由に、私はそういった変わり者が表に出て能力を発揮するためには実はある程度の淘汰圧も必要なのではないかと思っている、というのもあります。

 
もし私が労働のすべてを奴隷に任せて優雅に知的生産に携われるだけの基盤を持つ、裕福なギリシア人だったとしましょう。たとえそのような立場だったとしても、私は文字によって何かしら描いていたとは思います。そうすることが私の「執着」の対象であるということは、私が私である以上変わりようのないことですからね。だけどそんなふうに恵まれた私が、私自身が求める、私のための文章を描けるのかというと、それって正直無理なのではないかと思うんです。もちろん“それだけ”ってことはありませんが、私の描き方のある程度は生きることの苦痛や思い通りにいかない遣る瀬無さに根ざしたものだし、思ったこと感じたことを咀嚼して文字に還元する能力や、今こうやって用いている文体も、必要に迫られて身に付けたという面がそれなりにあります。もし私にとってこの世の中が生きやすいものだったとしたら、今ほど一途に文章に対する「執着」を抱けていたかどうか疑問です。十二少年漂流記みたいな冒険小説を書くだけに留まっていたかもしれない。ずうっと昔はそういうのを書いていた時期もありましたからね。好きだったし、今でもそれなりにはそうです。だけどそんな私は、現在の自分からすると、少し物足りないものを感じてしまいます。

 
まあなんですか、どっかの誰かが言っていましたが、全身の傷が燦々と輝くのが人生ってものではないでしょうか。傷の無い人間なんてのっぺらぼうの健康体に過ぎず、面白みも何もありません。……なんか言ってることがマゾヒストみたいですが。それにある意味これも強者の理論かもしれませんが。

 
話を戻して。

 
アスペルガーADHDの権利拡大を目的とした具体的なアクションというか、サルトルが言うみたいなアンガージェマンを考えるのなら、耳蝉さんのように自分自身の明白な立場に立って地に足のついた発言をするというのはまったく理に叶っていると思います。そのようにやれることが羨ましくもあります。ですが私にはその手法は採りえないし、自分自身がそのように振舞うべきだとも思えないんです。その事実を詳らかにするために、また質問にお答えするために、私にとっての「ステージを降りる」という作業について、つらつらと書いてみましょう。何度か似たようなことはありましたが、その中でもとりわけ症状が顕著だったときのことを。

 
あれは四年くらい前のことで、そのとき私は確か高校の三年でした。十月の半ば、夜ともなればそれなりに肌寒さを感じる季節だった。私は夕食を採った後、自室の電源の切れたコタツに潜り込んで、仰向けになりながらだらだらと本を読んでいました。それは何年も前から日参していたとあるブロガーが出版した本で、その方の専門分野は経済学なのですが、人好きのする文体を買われたのか、それは半ば啓蒙書、半ばエッセイのような内容をした一冊に仕上がっていました。元々慣れ親しんだ方の書いたものだけに、内容がするすると頭に流れ込んで来た。普段私が文章を読むときっていうのは、頭のノイズに悩まされながら…----けっきょくこれってって何なのでしょうねえ? 私と耳蝉さんの最大の違いってこのノイズの有無の気がします。後頭部の痛みと吐き気、それから言いようのない苛つき。開放されるときって言えば、ただ眠っているときぐらいで、ときおり夢の中にまで執拗に追いすがってくることすらある。「執着」あってこそ(今で言えば「書くこと」と「読むこと」ですか)そのノイズに何とか抗うことができ、「執着」を失ってしまった途端、腑抜けみたいに何もかもが遣り通せなくなってしまう。----…無理やり突貫工事をして読みきるのですが、その日はそういった苦労もなく、やけにスムーズに読み進めることができたのです。お定まりのノイズという奴がほとんど見られなかった。極めて珍しいことでした。ですが、その時点ではまだこれといって特別なことだとは感じなかった。ただ、珍しいな、と思い、儲けものだとほくそ笑んだくらいでした。

 
ブログ記事の焼き直しだった箇所も多く、とりわけ目新しい話は書かれていませんでしたが、まあ、悪くない一冊でした。一通り読み終わった後は、特にすべき用事も見当たらなかったので、そのままコタツの中でうだうだとしていた。著者の特徴的な言い回しや、噛み砕かれた理論を頭の中で色々とこね回しながらね。そうやってしばらくあっちに行ったりこっちに行ったりを繰り返していると、変化が起こった。いつしか、これといったきっかけもなく、私の頭が勝手に喋り始めたのです。ぺらぺらと流暢に。少し興奮した口ぶりで、しかし妙に威風堂々として。

 
そのときの私は、先ほど読み終えた本の著者の文体をほぼ完璧にトレースして、延々と散文を頭の裏側に書き付けていくことができました。…----これ完璧に想像であって間違ってたらごめんなさいなんですが、耳蝉さんがウォール伝書いてるときと同じような感覚なんじゃないかなあ? あるいはその延長線上。というのも、私の普段の書き方っていうのは、散々上とか下とかを弄ったり削ったりしながら、石の塊から彫像を削り出すっていうか、たくさんある浮島に橋を掛けていくというか? そういう方式を採用しているんです。なので相当撫で回さないと見れる形に仕上がらないし、筆も遅い。実は今回や前回のコメントは申し訳ないんですがかなり妥協していて、いつもなら一つの文章を上げるのに何遍も何遍も飽きるほど読み直して表現を足したり変えたりをするんです。----…私が置かれたその状態は、一言で言って、いい気分でした。以前のコメントで「天にも昇らんばかり」という一見大げさな表現を使いましたが、まさしくそのようなものだったのです。私はひたすらに頭の中で喋り捲りました。まるでお気に入りのオモチャを見つけた飼い猫みたいに。そう、ほんとうに良い気分だったのです。そのときに限っては、ほんとうに。

 
でもそのまましばらくすると、今まさに置かれている状況というのがやけに空恐ろしくなったんです。他人様のエクリチュールに覆い尽くされて、自分が自分で無くなってしまいそうな気がした。離人症(四、五年前はこの症状が頻繁に出ていました、今も軽いのはときどきあります)に似ていたけれど、少し違った。普通の離人症は「観察する側」が圧倒的優位で「観察される側」は手のひらの上で弄ばれる人形みたいなものなんですが(少なくとも私にとってはそうなのですが)、そのときは観察主体が被観察主体に食い散らかされてしまいそうな気がしたんです。もちろん実際にそういった状況に置かれていた真っ最中には、ここまで詳細に分析することなんて出来ていませんでしたが、まあ、ともかく、怖かったんですよ。身もフタもない言い方をするなら。

 
私は喋るのを止めようとしました。あるいは止めさせようとしました。しかし止まらない。そこで仕方なく私は必死に眠ろうとしたんです、現状に背を向けてすたこらと逃げ出すためにね。割合すみやかに眠れたように憶えているのですが、お喋りな謀反人は夢の中にまで追ってきて、起きているんだか寝ているんだか分からないような状態のまま、ずうっと自分勝手に喋くっていた。しかし、それでも、最終的には逃げ仰せたらしい。そして次の日にはまた元通り、といった次第です。全然眠った気はしなかったし、やたらめったらに疲れてはいましたけれど。嫌な気分が続いたので一週間後に家出をしました。おかげでテストを丸々すっ飛ばしてしまい、そのうえ日頃から出席率があまりよろしくなかったもので、出席日数が2/3を満たさずに見事落第の憂き目。綺麗にオチまでつきましたとさ。

 
もっとも、家出の理由はそれだけではありませんが。ほとんど他人みたいな知り合いが死んだんです。老衰でね。なんでかそのとき実際に肉親が亡くなったときよりも大きなショックを受けました。そのために逃げ出そうとしたというわけ。まあそんなのはこの際どうだっていいことですが。

 
おおかた、顛末としてはそのような感じです。

 
……思うに、けっきょく私は何事においても「捨てられない人間」なのではないかと。自分が可愛い。そして色々なものに片道通行の愛着を持ちすぎる。だから自殺なんて考えるのも嫌だし(私が耳蝉さんみたいなシチュエーションに置かれたらまず第一に考えるのは「自殺」ではなくて「眠ること」です)、家出をしていも一月半もすれば我が家に舞い戻ってきてしまいました。馴染みのものに包まれていないと堪えられないので、そのようなものを増やそうと日夜試行錯誤を繰り返している。そうやって、自分自身の周りをゆっくりと支配していくことによって、あるいはしたつもりになって、ようやく私は心安らかでいられるというわけ。これはたぶん日本だろうとアメリカだろうと変わらないと思います。もちろんそのような私の人格形成にこの国の閉鎖的な構造が一枚噛んでいるであろうことは否定しません。でもそれだけじゃない。物心付いたときから大まかな傾向は変わっていないし、何より私はそんな自分がそれほど嫌いではないのです。

 
次、行きます。

 
私にとっての「綺麗に踊れるテクニック」というのは、おそらく耳蝉さんにとってのアカデミックライティングとイコールなのでしょう。そして私はその手の作業がわりと得意なほうらしいんです。数学の問題を解くこと、というか学校のお勉強全般なんですが、そういったものにそれなりの執着を抱いていた頃には、不愉快さを抱きつつも(それはあくまで表面上のみの執着であって心底数学に酔っているってわけじゃありませんでしたからね)、驚くべきスピードでパチパチと数字や記号が収まるべきところに収まっていた。もっとも、執着を失った後は惨憺たる有様でしたが。

 
私の適性、というか、能力を最大限発揮できる方向性は、おそらくリタラリーな文章よりもその方面にあります。だけど自分自身の好みに合わないがために発生する不愉快さゆえに、私は最も効率的な選択肢を採ることができない。それが前回のコメントにおける「適性」と「執着」のズレです。ズレが存在しない状態、「適性」と「執着」の二つが一致したときこそ人間は最大のパフォーマンスを発揮できる、というのは疑いの余地もないでしょう? その状態から踵を返さざるを得ないということを、私は前回いくらかの自嘲を込めて「悲劇的」だと表してみたわけです。

 
たぶんこの不愉快さを取っ払って、コンピュータみたいに自分を扱うことができれば、私はもっとも「社会的に有益」になれるのじゃないかなとは思います。自分自身を売り渡してまで、そうなりたくはありませんが。

 
そうそう。今思い出しましたが、ってかまたしても話が大幅に飛んでごめんなさいなんですが、私が耳蝉さんの主張にややネガティブな言説を打ってカウンターを仕掛ける原因のひとつに、「アスペルガーは才能! 優れているんだ!」って主張しつつ、その主張に凭れ掛かって満足しているド阿呆と何度か遭遇して凡戦をやらかしたっていう過去があるからかもしれません。日本の事なかれ主義っていうのはアスペルガーADHDに有利に働くこともあるんですな。ナァナァで纏まるせいで自浄作用が働かず、あからさまに狂った主張が堂々とまかり通っているということがしばしばある。アスペルガーという単なる括りにアイデンティティの基礎を置くこと。それは白人至上主義みたいなもので、中身スカスカの上に何の発展性もないというこれ以上ないほど馬鹿げた思想信条です。

 
耳蝉さんがその手合いと同じようなものだって言いたいわけではもちろんないのですが、アスペルガーADHDの特性が負の方向に向かってしまったときのダメさ加減っていうのも、実際問題、かなりのものだと思うわけですよ。別に触法性云々にまで行かずとも。だって根っこにあるのはただの「執着」の強さでしかないのですしね。宗教にハマった人間を引きずり出すのはただでさえ難しいのに、発達障害独特の融通の利かなさまで加わると鬼に金棒です、悪い意味で。

 
有益なものは拾い上げ、不利益を生み出すようなものはやはり排除されるべきではないでしょうか。

 
けっきょく重要なのは、あらゆる人間の目の前にあらゆる手法が選択肢として提示されることと、それを的確に処方できるだけの医療的、社会的なコンセンサスが存在することですか……ってまあ、釈迦に説法くさいですけど。

 
それと、実は私はリタリンを使ったことがありません。なんかよく分かりませんがいつの間にか禁止になってたもんで。ともすれば「安楽死」への道を辿ってしまいかねない薬物療法という選択肢に対して肯定的になれる理由として、「純粋にどんなものか試してみたい」というノーテンキというか、生き汚い理由があるのやもしれません。抗鬱薬のことごとくが副作用出まくりで使い物にならず、睡眠薬も軽いの呑んだだけでラリる(家族が言うには大声で歌ったり幻覚を見たりしていたらしい)ので、今現在、私は内臓関係(クローン病用の免疫抑制剤と喘息用ステロイド)以外の薬を呑んでないんですよ。呑める薬がない。そのため鬱期間が来たり昼夜逆転モードに入ると脱出までに相当の時間がかかる。ここはもう理念云々じゃなくて現実問題として、実生活に不具合でまくりで親に迷惑が掛かるんでなんとかしないとマズいところです。

 
っつーかアメリカよりか世間様と折り合いをつけるのが難しくて現実問題「要:安楽死」の人数が多いはずの日本で、それなりに有用性が認められている薬物がなんでか禁止されてるってのも変な話ですね。そんで厚生省のホームページのQ&Aを見たら「日本では自己責任の原則を強いるほど患者に知識がないので自由化はまだ難しい(大意)」みたいな発言が横たわっていて脱力した覚えが。ようは「日本人は外国人よりアホ」とおっしゃっているわけで、お上根性というか、思考停止というか。日本は好きですが、日本のこういうところは心の底からダメだと思いますわ。

 
うーん、ざーっと読み返してみると、いつにも増して散漫だ(苦笑) とまあ、大体こんな感じで。


「思索の糸が絡み合った感じ」というのは最近ウォール伝でもお馴染みの変人ロバートと話していて感じることですが、恐らくまぁCarchemishさんが変人かはともかくとして、似たような人種ということで思索の糸が絶妙に絡み合うのでしょう。僕はロバートとの会話でもCarchemishさんとのやり取りでも物凄い喜びを感じます。で、全然喧嘩を売られている感じがしませんし、売ろうとしているつもりもありません。ちょっと僕の書き方がアグレッシヴ過ぎたんですかね?いや、言いたい事は分かるんですよ。僕はそもそもCarchemishさんを話の通じる同族だと勝手に思って色々と書いているんで、なんというか僕の心にあるのはなんというか同族へのシンパシーみたいなものでしょうかね?存在がレアなので、そういった人がいると嬉しくなるわけです。これはウォール伝にも書いていることですが、鳥居みゆきとかスラヴォイ・ジジェクの存在を知ったときに「同族見つけた!」と嬉しくなったのはいうまでもありません。ところで妙な疲れを感じているなら、別にすぐに返事をしていただかなくても結構ですよ。気が向いた時というか余裕がある時にでもお願いします。というか永遠に続きそうならまぁ適当なところで切り上げるのが無難だと思いますが、僕の場合、色々と書きすぎてしまいやり取りが終わらないという傾向が昔からありまして、16ぐらいの時に文通をしていた女の子に「あなたとやりとりをするのは疲れる」といって返事をもらえなくなったことがありまして、まぁこれがトラウマでいまだにメールのやりとりが恐ろしくてしょうがないんですけどね。僕は普通に書いているつもりでも相手がどのように感じているかさっぱり分からないですし、文の異様さとか話していることの異様さってのが僕にとっては分からないわけです。なのでたまにメールのやりとりがあるときには「返事はしなくて結構です」って書いたりすることがあります。


まぁそれはともかくすでに前置きで長いんですが、まぁあれですね、馬鹿には馬鹿って言うべきというのは全くその通りで、僕の意見ではそういうことを言わないという態度がhuman beingsからの乖離を生み結果的にコミュニケーションにおける不和が半ば継続的にズルズルと続いてしまうということがあるんですよね。お世辞でも噓をつくということは、コミュニケーションに不和が生じるということです。噓をベースにしたコミュニケーションなど豆腐みたいなもんで、何かの拍子に一瞬で崩れてしまいます。で、日本の場合、コミュニケーションにおける本音と建前というダブルスタンダードが酷いので、これが疑心暗鬼の原因の一つになっているというのは言うまでもありません。Carchemishさんのその誠実さの美学には100パーセント同意しますというか僕も同じ美学を持っています。本当のことを言ったり、建前などを気にせず本当のことをベースに物事を考えるというのは本質的なことですので。


で、その擬態の話なんですが、僕もそれはずーっとやっていました。ただそれをやるには凄まじいパワーを必要とするので、なんというか疲れてしまうんですね。昆虫みたいに生来的な能力でそれが出来るのならいいんですけど、僕の場合、それこそ仮面という言葉にも象徴されるように、様々なペルソナを演じないといけないという必要性が僕の精神を蝕んで行き、本来の自分というのが分からなくなってしまう・・・というような自我との乖離を経験していたというのもあり、その本質的な自分との疎外を避けるためにもペルソナを付けないことにしたのと、まぁあと最近ウォール伝でも書いているように、こっちでは割と地でやっていけますし、地で行ってたほうが何もかもが上手くいくので、なのでまぁ積極的に自分を出しまくるということ練習している感じです。ちなみにこのコミットメントは自分の天分を信じないとできないことですので、逆に自分を常に出して生活するという生き方は常に自意識やセルフイメージとの相互的な関係性を必要とします。常に内省的でいるということですね。アウトプットはふさぎ込みがちではなく、むしろ社交的になるのですが、何も付けないで裸でぶつかって行くので、まぁそれなりのパワーを必要とするわけですね。何かを演じていれば逆にそのペルソナという仮面が自我を守ってくれることもありますが、僕は多少傷ついてでもペルソナを外す事に決めたわけです。


で、その頭の中に出てくるキャラクターですが、その感覚は凄く分かりますというか同じ感覚を僕も持っているようです。ほとんどのエンターテイメントが薄く感じられるという感覚は凄く分かりますし、似たようなことをウォール伝でも書いたことがあります。なので一番ヴィヴィッドなものは小説や物語ではなく思想そのものという風に僕の場合はなるんですけどね。思想家の頭の中を直接のぞいているような感覚を特に哲学などでは得られるので、僕にとって読書というか哲学を読むということは最高のエンターテイメントなわけです。これほどのめり込めるのは他に音楽とゲームしかありません。で、最近ではレオ・シュトラウスに凄まじい知的刺激を受けていて、シュトラウス中毒みたいになっているんですけどね。ちなみにここまで中毒になった本というか思想家というのは滅多にいなくて、過去にはショーペンハウエルニーチェだけでした。で、同じ源流を持つシュトラウスに知的刺激を感じているということは、恐らくこのコロラリーの哲学と僕の波長が合うようです。あとまぁアルチュセールグラムシですかね。あ、あともっとさかのぼればマルクスかな。


ところでCarchemishさんにとっての生活圏への愛着というのは僕の場合、日本にはありませんが、僕はニューヨークというかマンハッタンに似たような感覚を得ています。逆に日本にいたときはそういった感覚が全く得られないどころか、暗黒期が長かったので、「自分の生活圏=暗黒期の象徴」みたいなものになってしまっていて、実存的な記憶と日本というものが倒錯したまま繋がってしまったのかもしれません。元々あまり好きではないのにも関わらず、さらに嫌な事ばかりがあったので、もう最悪ってことですね。なのでこれは僕の観点なのであって、日本自体が最悪とは言いきれないわけです。何しろ場所に関する愛着というのはそれこそ主観レベルでのみ計られるものなので、僕の感覚というのはあくまで僕の感覚なわけですね。まぁある意味でCarchemishさんは僕が持っていないような日本の原風景というか、Carchemishさんにとっての生活圏の中での原風景みたいなものへの愛着があるのでしょうね。ちなみに「自分の弱さも嫌いではない」という感覚は羨ましいです。僕はいまだに自分の精神的な弱さに負い目を感じるというか、ネガティブな観点でしか見られません。「なんで俺ってこうなんだろう?」という弱さに対する自己嫌悪みたいなのが生まれるんですね。まだまだ自己を超越しきれていない証拠です。


ところでバーク主義的な感覚が馴染むというのもなんとなく話を聞いている限り分かる気がします。そういう意味だとCarchemishさんは根本的に保守主義者なんでしょうね。僕は根本的にラディカルなので、だからまぁシュトラウスとかに傾倒するわけです。同じ保守主義でも位置が全く違いますね。日本にとって社会進化が必要なのは言うまでもありませんが、まぁここはなんというかオートポイエシス的な概念になりますが、僕は社会というのはある種の有機体みたいなものだと思っていて、そこには常に新陳代謝というか光合成みたいなのが必要なんですよね。細胞も変わるし細胞の質や有機体を構成するダイナミズムみたいなのも時と共に変わるので、その時々に必要な進化が必要なわけです。まぁそれを進化と言うかただの変化や新陳代謝と呼ぶかは別として、まぁ常に社会は変化を必要するというわけですね。ましてやテクノロジーの発達などによって、生活や社会のあり方自体というようなベースのあり方の概念のようなものが変わってしまうことも多々あるわけで、そういったものに常に社会は対応していきながらその形を変えていかないといけないわけです。


ADHDアスペルガーの話ですが、Carchemishさんのおっしゃっていることはよく分かりますし、恐らく現段階ではおっしゃるようにそうかもしれません。ただ僕が言いたいのはやはりそこは僕らも市民というか人間なわけで、他の人間と同じような人権を必要とするわけです。仮にそこに社会的な負担があったとしても、それは僕らが勝ち取らなければいけない生活への権利です。今は僕らのような人間は「普通」に適応しないとやっていけないような世の中ですが、これはようは前にも書いたように性的マイノリティーが、例えばオカマっぽいと差別を受けるというような、市民社会にはあってはならないことなわけですね。ADDやアスペルガーを隠していかないとやっていけない世の中というのは、そういったマイノリティ達にとってアンフェアなことです。なので僕はこの能力を最大に活用して、何かを自分の行動や結果によって証明してみせるしか自分の意見を証明する方法は無いなと感じているわけですね。人権侵害というのはあらゆる意味において起こってはいけないことです。Habeas Corpusですね。誰も理由無しに僕らの生きる権利を奪う事はできないわけですが、今の社会は「お前等は適応しろ」と遠回しに僕らの人権侵害をするわけです。全てが正しく救われるのは難しいことですが、基本的に国家というものはまず存在理由として人々の人権を守る必要があるわけですね。なのでこれはまぁ人間として当たり前の主張です。何も特別な保護なり処置をしてくれと言っているわけではなく、僕らのような人間もなんとかやっていけるような世の中にしてくれっていう話で、これは特に特別な主張でも無いと思います。まぁただ僕も自然淘汰に曝されたら速攻排除されると思いますけどね。ナチ政権下ではとっくに処刑されているような人間です。過去で言えば精神病院に放り込まれているタイプの人間だと思います。今は薬や情報などがあるのでなんとかやっていけるだけで、過去だったら明らかに弾圧されているでしょうね。なので僕も現代文明の恩恵を授かっています。


ところでCarchemishさんの変なやつに支援を与えるというのはどうか?という意見ですが、これは僕の反民主主義論よりも危ない意見ですね(笑)ところでかっこ笑いって使えますね。滅多に使いませんが。いや、なぜかというとこれはまぁ単純化するとつまりはナチス的で不具者や不能者に生きる権利は無いと言うようなもんなんですね。僕は左翼なんでこういった意見には全く同調出来ません。僕は賢人がこういったマイノリティへの配慮もするというリベラル独裁を望んでいるので、基本的にレジームは相当左翼ですし、まぁ僕が考えている理想的な民主的国家はまぁアメリカ的ですけど、やはりリベラルデモクラシーだと思っていますし、シュトラウスも同じようなことを言っています。「社会的に有益」という観点から共通善を考えてしまうと、それはナチス的な考えに陥ります。つまりは足を引っ張るような輩に人権もへったくれもないという話ですね。有能な人間だけが生きていけるというような究極的な能力主義的社会です。Carchemishさんの残酷とも言える言いっぷりは僕のヒューマニズムの中にある冷酷さと同じようなものを感じるので言いたい事は分かるんですが、僕は基本的にこれに関しては同意しかねます。言いたい事は分かるんですけどね。ただ僕の場合、その基準が悪者ってことですね。つまりは人に迷惑をかけるぐらいしか出来ないような悪質な人間は全て殺してしまえってマジで思います。そういうやつに会うとこういう人間を集めて処刑出来たらなってマジで思います。でもヒルの脳髄の研究に執着を抱いている変人は心優しいやつかもしれないわけで、こういう人間的に良い人間は社会に有益ではなくても生きる権利があるわけです。むしろ生きる権利が無いのは社会に有益でも人を踏みにじったり人の気持ちを押しつぶしたりするような、Virtueの反対であるViceの要素を多く持っているような人間ですね。僕は人間の素晴らしさの基準を利益を生み出すことではなくVirtueによって考えます。まぁこれはvirtueとは言いきれないのですが、例えばどんな馬鹿でも優しいやつならいくらでも生きる権利があるというわけです。最悪なのはviceを持った馬鹿ですね。何気に多いわけなんで困ったもんですが。


僕はテロリストの行為に共感を得たりはしませんが、そのCarchemishさんのテロリストに対する親和性というのは凄く理解出来ます。僕の場合、それがナチスです。ナチス的なカリスマ的指導者を持った力のある凄まじい決断力を持った国家ですね。ホロコーストは許せませんが、あれがさっき書いたような人に迷惑しかかけないような悪質な人間の抹殺だったら僕は反対しないと思います。まぁ社会的な振る舞いとして反対をするかもしれませんが、心の奥では同意していると思います。ホロコーストはともかくナチス的な強烈な力と判断力というか決断主義みたいなのに凄い魅力を感じるんですね。あれこそがまさしく政治だなと感じるわけです。でもまぁ別にナチのシンパってわけじゃないのは言うまでもないんですけどね。形は良くても内容は最悪だったわけで。


まぁ危ない話はここまでにして、「アスペルガーADHDに最大配慮した社会」ですが、Carchemishさんが反対する理由は完全に理解出来ました。つまりはまぁ才能というのは激しい抑圧の中から生まれる爆発のようなものというわけですね。それを言われてしまうと僕も全くそうなので反論が出来ません。まぁもっとも僕の場合はこれしかなかったという消去法的なものがありますが、あとは今の留学生活なども余裕が無いから頑張れるという要素がありますし、自分みたいなのは普通には生きていけないんだがら、特化した部分で人より秀でないと話にならないみたいな崖っぷち的要素があるので、だからこそモーターが激しく回るというのはあるかもしれませんね。僕がブルジョワ出身だったら自分の能力というのを発揮出来たかどうかは分かりません。でもある程度余裕のある家だからこそこうやって社会的には役に立たないように見えるようなことの研究に没頭できるわけですね。この辺のバランスはかなり微妙です。ただ僕の体というかメンタル面では傷だらけですし、リアルタイムにガンガン傷ついているので、その傷こそが自分を奮い立たせる要素なんだって解釈したとすれば、抑圧的な要素に関するものに対する反論はなかなか出来ませんね。アスペルガーADHD達は人以上に頑張らないとやってけないので、だからこそ彼らは頑張るみたいなことはなきにしもあらずというかまさしく僕がそうなので、そこは否定出来ません。そこはまぁ常に議論があるところですね。弱者に配慮しすぎると弱者達がソーシャルセキュリティーに甘えるようになって、ただのフリーライダー化するというのはまぁありますよねというか、まさしく保守系の人が主張する議論ですよね。これに関しては「言えてなくもない」というのが実情ですね。


ところでサルトルアンガージュマンの概念が出てきていますが、まさしくそれですね。正しい場に正しい言葉って感じです!ただまぁアンガージュマンと言えるほど僕は社会的な立場がありませんし、アンガージュマンを獲得するならまさしく僕が社会的地位を得ないといけないわけですね。なのでまぁ今はそのプロセスの最中って感じです。で、Carchemishさんの四年前のエピソードに関してですが、その文体を完璧にトレースする感覚というのはかなりウォール伝的かもしれませんね。ただ僕の場合、読書を通して理解した事がそのまま出るのではなく、まさしくフロイト的な無意識化に知識が放り込まれて、必要な知識の断片が必要なときにパッと出てくる感じですね。なので色々と本を読んでおけば思いつく事とか書く事とか考える事が増えるので、まぁ暇しないってわけです。まぁ読書は燃料補給みたいなもんですね。常に脳は回り続けているので、常に新しい情報を必要とするわけです。


で、このなんというかエクリチュールに覆い尽くされてハイになった時の感覚が空恐ろしくなるということについてですが、僕に関して言えばそれが僕にとっての最大の快楽であり、そういった感覚を得られた時というのが知識を得られた時なんですね。それはドグマティックにエクリチュールに洗脳されるというわけではなく、エクリチュールが情報として脳に刻まれるという感じでしょうか。で、僕の場合はその脳内に刻まれた知識や情報と僕の既存の考えや知識などがミックスされて、それでまぁずーっと止まらなくなることがあったりするんですが、寝れないというのはまさしくこれで、僕はもう10年ぐらい睡眠薬や安定剤が無いと寝れません。常に頭がバーストしていて何かを考えたり想像する癖がついてしまっているので、相当身体的に疲れていない限り寝れないんです。そのCarchemishさんが空恐ろしく感じていた感覚というのが、まぁむしろ僕にとってはそれがデフォルトなんですね。まぁ調子が悪いときもありますが、基本的にハイなときはずーっとそんな感じです。あとは僕にとって自我というものはただのシステム的なものの所産なんであって、実質、僕が感じている自我などというものは基本的に幻想であるというような考え方があります。なので与えられた情報や知識や思想に脳内が占領されても、それはむしろ人間にとって当たり前のことなのであって、情報に占領されている状態というのはむしろ楽しく感じるわけです。自分が自分ではなくなる・・・というよりかは元々自分なんてものは存在しないと考えているので、だったらむしろ脳内で起こる知的快楽を貪り続けたほうが楽しいわけですね。なので僕は自分の好きなことしかやらないし、それしかできないわけです。ちなみにウチの父は僕の事を個性的だと評価してくれているというか、父が何でもこなす器用貧乏タイプなんで、逆に僕みたいなやつが羨ましいらしいです。まぁ僕から言わせてみれば少しぐらい器用になりたいって思うんですけどね。


そういった意味で僕は「捨てられる人間」なんだと思います。元々自我なんてものは存在しないと思っているし、自己愛なんてのも一切ありません。僕にあるのは自分が楽しいと思えることに身体を動かすということだけで、まぁこれも自己愛と言えるかもしれませんが、自分自身に愛着など全くないわけです。だから例えば僕の意識が身体から離れて、例えば攻殻機動隊みたいにデータベースやネットと一体化できたり、ネットを行き来するような情報としての意識になれたらこんな体なんてすぐに捨てるだろうって真剣に思うんです。だからあんまり僕は正直死が怖くありません。怖いのは僕が好きな事を出来なくなるという物理的監獄状態です。生活のために嫌な事ばかりやらなきゃいけない・・・・というような状況に自分の意志というか主観性が陥るのが物凄く怖いわけです。そういった監獄を経験して苦痛にのたうち回っている自分という状況が怖いわけですね。まぁ過去にこの感覚は散々経験したので、ああはなるまいと今、頑張るしかないんですけどね。


そういった意味でなんというかCarchemishさんの自己愛は凄く理解出来ます。「自分が自分じゃなくなる!」という感覚もそれこそ既存の自分という伝統に従った自分を愛してるからこそ革新的な妙な変化に心がついていかないのでしょう。僕が思うにCarchemishさんはマリファナとかドラッグ系が大嫌いだと思います。やったことがあるかはともかくとして葉っぱを吸ったらその自分が自分じゃなくなるという嫌な感覚というのを凄く感じると思いますね。でもこれはCarchemishさん自身もおっしゃっているように、これは人間の傾向性なわけで、別に悪いものではないわけですし、ましてやそういった自分を嫌いではないというのはまさしくその傾向性と自分の好みというかセルフイメージが合っているんではないでしょうかね?僕は変わらないで監獄状態にいる自分というのを想像しただけでも怖くなるので、だから常にいつでも死ぬ覚悟をしているわけです。精神が苦痛に蝕まれていくプロセスを考えたら死んだ方がよっぽどマシだからです。仮に生活にそれほど苦痛が無くても変化が無い監獄状態には僕は耐えられません。


「綺麗に踊れるテクニック」ですが、適性と執着が一致したときのパフォーマンスというのは疑いの余地がありませんが、僕にとってイマイチ「適性」と「執着」が合わない感覚というのが理解できません。僕の場合、執着するもの=適性のあるものなので、この2つは1つなんですね。僕にとっての思索をすることや、質はともかくとして色々書いたり喋ったりすることや、音楽を作ったりミックスを作るこというのは、ダイレクトに僕の執着と一致しており、執着するもの以外に適性は一切見られないというような、ある意味でも違った悲劇なわけです。学校でプレゼンが上手くいった!と喜んでいた自分ですが、まぁこれが良い例で、「向いていないだろうな」と思っていたことでも内容が「執着」のあることだとそこに自動的に「適性」がついてくるわけです。人前に出るのが苦手でも自分のトピックならいくらでも話せるどころか、進んで話をしたいと思うぐらいの自分が今あったりします。まぁこれも自信がついたという事と、自分の「執着」と「適性」の関係性により自明的になれた結果なんだと思います。


ところで「アスペルガーは才能!」と主張しているアホとか自分を天才だと勘違いしているアホと僕は表裏一体です。僕はそう勘違いしないとポジティブに生きていけないというのもあるんですが、「やっぱ俺ってただのダメなやつなんだな」っていう魔の囁きは常にありますよ。ウォール伝では強がったりしているところもありますが、実際はその魔の囁きが常にある感じです。ガーッ!っと突っ走ってるように見えて実際はただの馬鹿っていっぱいいますよね。過去にはよいこっちとかへなちょこパンチみたいな深夜番組でこういう人間がいっぱい出ていました。で、僕にとっての自分がただの勘違いした馬鹿なのか天才なのか?っていうクライテリアが一切無いんですね。それは常に恣意的に変わる感じです。たまに「マジで俺は天才だ!」とかって思う事もあれば「やっぱただの勘違い野郎だ」だとか「凡人もいいところだ」って思う事も多々あります。中身が無い超人思想やアスペルガー/ADD至上主義ほど馬鹿で危険なものはありませんね。これに関しては全くその通りで、僕も常にその崖っぷちに立たされている感じなんです。だからこそ第三者の認証を必要とするわけですね。自分は自分で考えるからいいとか思いつつも、やっぱり学校とかでスマートだ!とか凄い!とかって言われると凄く嬉しいわけですし、その第三者の認証を得るためにも頑張らなくては!というような動機は全然あります。これはシュトラウスも言っていることですが、天才だと思っている自分とか超越者だと思っている自分と天才だと思っていたり超越者だと思っている実際はただの気違いという差は主観レベルでは違いは無いわけです。だからこそ第三者の評価なりサンクションを必要とするわけですし、これはアリストテレスも、哲学のような孤独を必要とするような活動ですらも、第三者との関わり合いによって耕されるものがあるし、第三者との関わりによって育まれるものがベストであると言っています。


だから僕は今、まぁ実験段階にいるというわけですね。で、今は自分を出しても周りに評価されっぱなしどころかそっちのほうがいいというんで、んじゃあ出しまくってやろう!と思っているわけで、最終的に自分がただの馬鹿なのか能力のあるADDなのかは結局は社会的な評価なり地位によってでしか評価できないと思います。そこを独我論に陥ると狂人と天才の境が無い分からないやつになってしまうわけですね。実際は凄くないしスカスカであるという感覚すらも得られない状態が独我論的世界観です。で、最終的にどれを有益なものとし、どれを不利益なものとするかは結局は社会の住人である普通の人達が決めるわけですよね。ADD/アスペルガーな人達の特性を伸ばすアファーマティヴな社会のシステムがありつつも、最終的に誰が生き残るか?というのは結局、能力主義的に決められるわけです。それは普通の人も同じですね。結局は人間が評価される基準というのは全てではないにしても、まぁ能力ですよね。ただこの能力主義が行き過ぎると能力が無い人間はのたれ死ぬしかないということになるわけで、それはさすがにダメだろうというのが僕の意見です。勘違いタイプのADDやアスペルガーもなんとか死なないで生きていけるような世の中というのが望ましいわけです。そこで「凄い!」と評価されるのはこれまた一部の本当に凄いADDやアスペルガーの人達なんで、こればかりはやはり能力主義的じゃないといけないでしょう。ただダメだったからといって生きていけない世の中というのは僕は良く無いと思うんです。


社会的なコンセンサスも、個々のADDやアスペルガー達が彼らにあった適切な教育なり処置を与えた上で行われるべきだと僕は思うんです。能力を活かせるきっかけや機関というのがいくらでもあるのにも関わらず、たいした事無い勘違いのやつのまま終わるやつってのもいるでしょう。それは「あいつたいした事無いな」っていう社会的コンセンサスによって、彼らのレッテル貼りが決まるわけですよね。それは普通の人も同じですね。ただ僕はADDもアスペルガー達も普通の人達と同じ土壌というかレベルで勝負出来るぐらいの機会の平等性というのを保証するべきだと思うわけです。その結果、出てきた能力差はしょうがないですね。ただダメなやつもなんとか生きていける世の中が望ましいわけです。


ところで抗鬱剤の副作用ですけど、まぁCarchemishさんは特に薬との相性が悪い体質を持っていると考えても、まぁやはり抗鬱剤には少なからず副作用はありますよ。僕がよくここに書くEDとか射精障害とか排尿困難だとかもそうですが、他にもあると思うんですが、飲んでいるというのがデフォルトになるので、それを「副作用」と感じなくなるんですね。面白い事に。副作用と感じているときはまだ薬が体に馴染んでいないというか精神が慣れていないんでしょう。実際、多分僕が抗鬱剤をやめたら食欲とか性欲とかが相当増すと思うんですね。あとは胃がスッキリするとかですね。今は別に胃に不快感を感じていませんが、それは副作用がデフォルトになった状態によるものなのであって、抗鬱剤をやめたら変わる事がいっぱいあると思います。でも僕は気分のバウンスというか変動のリスクを考えると性欲とか食欲とかなんてどうでもいいと考えるわけですね。ただでも抗鬱剤睡眠薬は体に良いものではありませんので、飲まないに越した事はありません。僕もたまに思うのが「一生これを飲み続けるのか?」ってことですね。もう飲むという感覚すらもありませんが、薬が無いと僕は生きていけないんですね。それは睡眠薬も安定剤も含めた意味でです。僕はこれを楽観的に捉えていて、今は自分みたいなのも薬があればなんとかやっていける時代なんだ!とかって思ったりしています。薬の奴隷とも言えますが、逆に薬が無いと生きていけないわけで、薬と僕は常に相関関係にあるわけです。


ただリタリンに関しての規制は懸命かと思いますよ。あれはまぁ基本的に覚せい剤みたいなもんですから、いくらADDやアスペルガーなどに効果があるとはいえ、常に軽いシャブみたいなのを飲みながら世間に適応していくというのも変な話なわけです。ここでまた一気に話が戻りますが、僕の意見としてはむしろ社会がADDやアスペルガーを認知していかなきゃいけないんじゃないか?ってことなわけですね。彼らが薬を必要としないような世の中が望ましいわけですし、過去にはADDやアスペルガーと思われる人達が何かを変えてきたり偉大な業績を残してきたという事実もあるわけで、彼らを「障害者」と見なす事にやはり僕は抵抗があります。リタリンは「適応」の最たるものだと思います。つまりは特有の症状を抑えるわけですからね。ただ抗鬱剤や安定剤の場合はアダプトするというよりかは自分を守るという感じですよね。鬱や不安に陥らないように、もしくは陥った時の対症療法として存在するわけで、それらは言わばセーフティーネットみたいなもんですね。ただリタリンは人格改造的なニュアンスがあると思いますし、僕も飲んだ事ありますが、あれはヤバいです。あれはヤバいってのが分かってるので、コカインなんかにも僕は一生手を出さないだろうなって思うわけです。あれは感覚としては最高ですが、明らかにヤバいものです。


というかもうどれだけ書いたか分かりませんが、とにかく今回の返信に関してはそんな感じです。何か言いたいことがあればまた返信してください。トラックバックにはせず、恐ろしく長い文章を返信のところに書いていただいたほうが僕は嬉しいです。


・・・・とここまでが返事なんだけどそれにしても長い。呆れるぐらいにっつーかロバートとのやりとりもこんな感じなんだよ。やりとりっつーか駅の前で一時間ぐらい喋るっつーやつね。ADD vs アスペルガーって凄いね。Carchemishさんはロバートに比べれば全然普通の人なんだけど、でもやっぱこの特有の長さはADDっつーかアスペルガー特有の症状なんだろうね。ってことで今日はこの辺でっつーかあれだね、悟空対フリーザだよね。「は、速過ぎて見えない・・・・」じゃなくて「な・・・長過ぎて読む気がしない・・・」っつーね。まぁ別に対っつっても戦ってるわけじゃないんだけど。


ところで今メール見たら学校のオフィスから「あなたはF1ステータスのルールを破りました!」みたいな警告が来ててさ、内容みたら去年の冬にクラスを2つドロップしたでしょ?で、その結果、5クレジットしか俺はこのセメスターで稼いでいないので、それはイミグレーションのルールに反するみたいなことが書いてあるんだけど、イミグレの条件ってさ、留学生は各セメスターに最低12単位は取らなきゃいけないってことで、俺はまぁようはレジスターはしたわけで、特に問題ないはずなんだよね。それはクラスを落としたときにも手続きの時にオフィスの人に確認したわけなんだけどね、でもなんで今更ましてやこんな時間が経ってからメールが来るのかさっぱり分からんね。どの道、問題があるなら落とした時点でメールくれよって感じ。もう半年以上経過してるじゃないか。ってことでまぁ反論を徹底的に書いてメール出したんだけど、あっちが言うにはオフィスに来て事情を話しなさいってことだったんだよね。で、17日までに来なかったらDHSだかっていうホームランドセキュリティだかに俺のバイオレーションの情報を送りますみたいなことが書いてあってさ、「ちょちょちょっと待ってよ!」って感じだよね。実は今日から2週間ぐらいの春休みでさ、久々にゆっくり読書三昧になれるなぁーとかって安心してたらこんなメールが来るんだもんね。


正直、全然不安じゃないのね。俺は落とす時に確認もしたし、12クレジットをレジスターしなきゃいけないっつー条件は満たしたわけでさ、12クレジット終了しなきゃいけないとは書いてないわけだよね。それだったら例えば12クレジット取って一個フェールしたらそれってもうバイオレーションになるわけじゃない?それってどうなの?っていうね。俺が仮に返金とか受けてたら分かるんだけど、返金とかされてないからね。クレジット分はそのまんま払って、んで落としたわけでさ、なんの問題があるのかさっぱり分からん。まぁこっちとしては色々と言いたい事があるっつーかこっちに疾しいことが全然無いから、まぁ必要があればオフィスに赴こうと思ってるんだけどね。とにかくこっちって自分を自分の口で守らないとダメな国だからね、黙っていられないのよ。マジで。


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