ポストモダンなプレモダン。

mimisemi2009-04-11

実はまだ溜めが若干あるんだが、昨日の夜中に書いたやつをアップしたいんで今日はそれでっていうかさ、俺は今、窮地に立たされているわけじゃない?ビザの件についてだけども。で、実家に電話したらさ、まぁ詳細は省くけど実家が大変な事になってるんだよね。親は俺に心配をかけたくなかったからっつって言わなかったらしいんだけど、まぁ大体知っちゃったんだけど、「全てがうまく行っているような気がする」っつー俺の思いは俺の実存レベルだけで、さすがにやはり外的要素までは力の意志ではなんともならないのか?とかって思っちゃったね。まさしくサルトル的なジレンマよ。田舎に帰って病気の母を看病するのか?反戦活動にコミットし続けるのか?っていうね、いや別に誰かが入院したとか死んだってことではないんだけどね。いやヘヴィーだわ。逆にあれだな、今回は良い契機だったのかもしれんっつーのはさ、このまま俺は何も知らされずに色々やってくっつーのはさ、結果的に実家と俺との乖離を生むんだよね。だから今回の件で帰る事になったというのは改めて家族と今後の方針について話し合うっていう意味でも凄く良い機会だったかもしれないんだよね。


まぁ学生ビザを確実に取れるって前提で言えばだけどね。母との電話でさ、「もし学生ビザが取れなかったら荷物とかアメリカに全部置いたままになっちゃうんだけど」みたいな冗談半分で最悪の事態のことについて言ったら「そのときは私とお父さんが言ってなんとかするから大丈夫よ」ってむしろなんか喜んでる感じさえしたのは気のせいかな?というのはね、俺がもう学生じゃなくなったら経済的な負担がなくなるから逆にそれはそれで助かるっつーよーな、なんかそんなニュアンスを感じたね。俺にとっては考えられない自体なんだけど、母が普通に冗談に応対したのを見ると実家の状況が半端じゃないっつーのを改めて思い知らされた気がしたね。いや、別に学生ビザ取れなくても俺が旅行ビザかなんかでこっちに来ればいいんだけど、まぁそんなことは考えてないけどね。取るしかないわけだから。


ただ問題は学生ビザよりも実家の事なんだよね。学生ビザのこともかなりの大事だけど、それ以上に俺が知らされていなかった大事ってのが実家のことでさ、まぁなんのこっちゃ分からないかもしれないけど、まぁ悲劇的なエコノミッククライシスなのね。ただですら親父の転職によってズレていた留学計画がさらにズレたって感じ。ズレた留学計画でも妹の大学が終わればなんとかなるだろうって話だったんだけど、今は完全になんとかならなくなっちゃった感じなんだよね。まさしく未定っつーかなんつーか。いや、こんな凄まじい逆境でもあれだよね、力への意志があればなんとかなるんだよね。それが俺の最近の認識だし、The science of getting richなんかから学んだことなんであってさ、まぁ一種の宗教みたいなもんだけど、俺はこれを信じるね。この逆境も俺の常に崖っぷちの道の一つなんだっていうね、獣道が続いてたけど、なんとか薬とかに頼りつつ、マチェットで獣道を切り開いていけばなんとかなるだろうって話だったのが、今はいきなり荒山を越えなきゃいけないみたいな話になってて、ロッククライミングしないといけないみたいな感じになってるのね。「えーそんな装備ないし訓練してないっすよー。聞いてないよーそんなことぉ!」って感じね。諦めたら崖に落ちるみたいなさ、そんな感じだね。ヤバいね。俺の人生。なんなの?これ。誰かが仕組んだの?ドラマチックにも程があるだろう。で、俺はそのドラマを成立させなきゃいけないんだよね。


なんなんだぁーこりゃ!リアルオディプス王か!で、盲目とかになって自殺とかするのか?最後。うわーヤバいな。これ。まぁでもあれだ、もうあれだよね、力への意志と精神力とThe science of getting richの法則を信じるしかないね。マジで。そういう意味では怖くないんだよね。俺。これさえあればなんとかなるっつーのを幸いなことに俺は頭の中に持っているから、あとはまぁへこたれずにやってくしかないってことなんだよね。その意志ってのは物理的な干渉などに影響されないんだよね。強く持っていれば。で、その意志が外的なものすらも操作することになるんだよねってちょっとオカルト入ってるけど、まぁこれについてはいいや。俺の勝手な宗教なので。耳蝉教っつーかなんつーか、一人カルトね。教祖兼信者が俺ね。


つーかまぁあれなんだよね、大げさっていう風に思われるかもしれないけど、俺が日本に帰らなきゃいけないってのがもうイコール死を意味するってことだから、だからこそ崖っぷちなのね。それこそメキシコとかからの不法移民みたいなもんだね。親のサポートがなんとかあるコラプトしてて未来が無い国からの移民っつーかなんつーか、だからまぁ亡命なんだけどね。なんとか亡命を成功させないと俺は帰ったら処刑されるわけだからさ、まぁ自分にね。だからなんとかしなきゃいけないよね。マジで。設定としてはナチスに追われているユダヤ人って感じね。ドイツに帰ったらナチスに捕まって処刑されるっていうような、そういう感じ。マジでそうだからね。少なくとも俺にとっては。それにしてもさ、まぁ俺みたいな特殊な例はともかくとして、リアルにさ、それこそ状況が韓国とかみたいになっちゃってさ、海外への移民とか増えたらマジでヤバいと思うよ。日本。韓国って日本と似たような社会でそういうことが起こってるわけでさ、それこそこっちで会う韓国人って結構多いんだよ。そういうやつら。まぁ自分の国がダメだからとは言わないけど、こっちでなんとか職を得てやっていくっつーやつ多いんだよね。で、それがアメリカンドリーム的な感じじゃなくて現実的なのね。つまりは生活していくにはもうこっちでやっていくしか見通しが立たないみたいな感じなの。で、幸いな事に親のサポートがあるやつはいいんだけど、サポートがないやつはイリーガルでフルタイムで働きつつフルタイムの生徒をこなしてるっつーね、恐らくそれはこれまた祖国がダメになってるポーランドとかロシアとかも一緒ね。コステンコとか栗子とかもそうだからね。


家が金持ちでフルタイムの生徒やってるっつーよりかは祖国からこっち来てやるしかないっつーさっき書いた韓国人的っつーのかな?まぁロシア人ってそういう人達多いけどね。国が崩壊してるから。だからコステンコとか授業に来る時とかもう疲れ果ててる感じだったからね。フルタイムの仕事をこなしながら学校をフルタイムでやってるんで常に疲れてるっていう。まぁそれに比べるとっつーとあれなんだけど、俺はまだまだ日和見だよね。ただ俺はもうボチボチその韓国人組というかロシア人組というかポーランド人組に入りつつあるんだなというのを凄く感じるよね。先々までずーっと日本のフルタイムの生徒ではいられない感じだなぁーっつのはあるね。ただ労働と学業は俺にとってはコンパチブルじゃないんで、まぁ学費と生活費をなんとかしなきゃいけない感じなんだけども、一応、俺なりのプランが無かったわけじゃないんだけど、それがズレてきているんで、ちょっとヤバいなって感じね。まぁヤバいとは感じてないんだけどね。プランを変えなきゃなっていう感じね。で、どうでもいいんだけど卵焼きの黄身と醤油とケチャップを同時に食べると味噌の味がするよ。あとビール酵母のパウダーと野菜ジュースを同時に飲むとうまい棒の味がするよ。でもこれって由々しき自体でさ、多くの人達が祖国を離れつつさ、亡命先ではプロレタリアとして血反吐を吐く思いをしながら労働と学業を両立させなきゃいけないんだもんね。


で、自ずとそういったプロレタリア達のメジャーってのが技術系に傾くんだよね。技術系っつーかプラクティカルな学科ね。ビジネスとかマーケティングとかさ、あとはまぁ思いつかないけど、こういった悪しきサイクルが余計また大学を職業訓練施設にしちゃうんだよね。アメリカ人でも同じだからね。18歳越えたら家を出なきゃいけないっつって、んでまぁ実質的にこの亡命ロシア人とか亡命韓国人とか亡命ポーランド人と同じような生活サイクルで生きていかなきゃいけないっつーね、言うまでもなく黒人にはそういうやつが多いね。実家暮らしなのにそんな生活を強いられてるやつらが大勢いる。まぁコミカレだからそういう極貧から貧乏なやつとかも多いんだよね。ちなみにお転婆娘もプロジェクト出身なんだよね。黒人達とかヒスパニックの連中がレイジーだなんてありえない話だよ。彼らは必要性によって労働を強いられているわけでさ、それで学業が疎かになったりしちゃってるっつーのも彼らのギリギリの生活のせいだよね。俺みたいなフルタイムの留学生とか裕福な白人連中は労働しなくてもずーっと勉強できるわけで、そこにまぁ知的ヘゲモニーっつー力学が生まれちゃうんだよね。


高度で学術的なやつはスタート地点でのリソースがあるやつらじゃないと勉強できないっつーね、これって最低だよね。格差社会の構造そのものだけど、アメリカはマジで酷いな。日本も酷いけどね。ただ日本が酷いのはアメリカ的な労働者を道具のように使って切り捨てるっつーやり方がありつつ、アメリカではありえないザービス残業だとかさ、社会保障無しとかさ、あからさまな年齢差別とかさ、就職の際の外見差別とかもうマジで酷いんだよね。アメリカも酷いけどね。アメリカは履歴書に写真を貼らないって聞いたけど、でも名前が「ジャマル」とかだともうアウトみたいなさ、だったらスタインスキーを選ぶみたいなね、そんなのもあるんだよね。「ぐわわぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!社会が腐っているぅぅぅぅ!!!どどどどどどうすればいいいいんだぁぁぁぁぁ!」「なだめる」「叱りつける」「中島は耳蝉を叱りつけた」「おーすまんすまん。まぁーちょっとこっちこいや」「近づく」「銃を構える」「中島は近づいた」「本当はキモイやつだと思っているんだろう!」「なだめる」「叱りつける」「中島は耳蝉をなだめた」「ダメだ!お前のことなんて信用できないね!見せてやる!俺様の革命家としての力!」「耳蝉は暴れだした」「なだめる」「怒った顔」「威嚇射撃」「中島は威嚇射撃をした」「いけぇー!!!」「耳蝉が襲いかかってきた」「耳蝉は雄叫びをあげた」「ピクシーが麻痺した」「中島の攻撃。狂人耳蝉に216ダメージを与えた」「狂人耳蝉を倒した」「中島は1マッカと10の経験値を得た」って感じですね。まぁ吉祥寺のモール周辺にいる狂人レベルのモンスターっつーかなんつーか。


あとあれね、卵もそうね。恐らくイリーガルでずーっと滞在してて仕事しながらフルタイムで学校行ってるっつー。でもイリーガルだったらどうやって生徒になってるのかね?あ、そうか。学生ビザで違法で働いてるってことか。まぁ亡命系はみんなそうだろうな。だって学生って働けないんだから。俺はまぁ働こうと思っても無理だけどね。やってけるわけがないっつーのが目に見えてる。手が震えている精神的に不安定なウェイターとか店員とかってニューヨークとかでもありえないだろうし、まず学校との両立なんて無理だからね。まぁ甘えとかって思われてもしょうがないけど、無理はものは無理なわけで、他の道を探すしかないよね。もちろん法を犯さないということは必須条件でね。


はい。ってことで本編ですぅー。


パイをさ、買ってきた次の日に見て、んでまた今日見たんだけど、なんでこんなに面白く感じるかって舞台がマンハッタンだからだろう。10年以上前とは言え地下鉄なんかは俺にとっては見慣れた風景だし、なんつーか日本にいた頃に見て感じていたパイの感覚と違うっつーかなんつーかアパートの防音の悪さとかさ、細かいディティールが楽しめるっつーのかな?まぁいいや。んでまぁマックスみたいに思いついたことがあるんだけどさ、まぁマックス並ではないんだけど、俺の話を聞いてくれ。ロックだったか忘れたんだけど、欲望ってのは常に悪魔によって動かされるっつってさ、で、その欲望への欲望って自己保存なんだよね。なんで人々は働くか?っつーと自己保存のためっていうね、まぁ生活のためっていうと分かりやすいかもしんない。で、そういう人達が世の中を支えてるっつーのはただの後付けね。そういう意味論を発生させないと日々の無駄な労働と空虚な生活ってのが埋まらないんだよね。


そこに意味を見いださないと人間はやってけない。だから人間は大きな物語とか意味とか宗教とかにすがりたがるんだけど、俺の超人思想やADDについての考え方もまぁ俺にとっての大きな物語なわけでね、まぁ俺も人のことは言えないんだ。まぁそれはともかくとしてシュトラウスなんだけどさ、その欲望の代償というか跳ね返りが死なんだみたいなことを言っててね、まぁ俺流の解釈をするとさ、人間の自己保存ってのは大体の理由で正当化されるよね?でもその欲望の源流は欲望による欲望なわけで根源は悪魔なわけだ。欲という名の悪魔ね。で、その悪魔が行き着く先が死なんだよね。でもその悪魔が一番怖がるのも死。だから人は飢えないように働くし、社会的地位を得ようとするわけだよね。これが今の俺の状況にピッタリでさ、まぁ今の俺の状況もあってまぁ思いついたことなんだけど、まぁ単純な話がさ、「不安」って言葉はようは不安定ってことだよね。安定が無いんで心配になるみたいなことでさ、で、今の俺にはビザという安定がないじゃない?実質、アメリカでの社会的地位っつーかまぁ留学生としてのステータスを失ったわけで、それが具体的に生活に影響してくるわけではないし、警察に付け回されてるわけでもないんだけど、まぁ観念的なレベルのの不安があるよね。「学生ビザ発行できなかったらどうなんの?」っていう不安ね。これは不安定という名の不安でしょう。人は安定しているときには不安を感じないわけで、安定というのは不安からの解放から得られるもんだよね。ヴァイスヴァーサね。


で、フロイトの死の欲望だったかタナトスって言葉があるじゃない?ハイデガー的なまぁ実存ってのは死への階段みたいなものであるっていうような定義でもいいし、キルケゴール的な不安の解釈でもいいんだけど、つまりはさ、ショーペンハウエル的に言えば人って常に不安や恐怖からの回避っつーのを求めるんだよね。別の言い方をすればそれが自己保存とかになるわけだけど、その自己保存という半ば本能的な行為というのが悪魔によって動かされてるっつーのが皮肉でさ、悪魔は死を恐れるから自己保存という欲望を刺激するんだけど、結局、生の行き着く先ってのは死なんだよね。死ってのは不可避的な要素として人間のバイナリデータに組み込まれているのにも関わらず、人間に内在した悪魔がそれを怖がるんだけど、それと同時にその悪魔によって人間は死に向かっているっていうさ、まぁレトリックみたいになっちゃうけど、でもそういうことだよね。だからあんまさ、なんかそば茹でてて思ったんだけど、色々と最悪の状況を想像してもさ、あんま怖くなかったっつーのがさ、今の状況が学生ビザの更新が早まったようなもんだって解釈すれば合理的に解決できるように、仮に学生ビザの発行が無理だったら死のうっつーさ、なんでいきなり死なの?って話はおいておいてもまぁどうにもこうにもならなくなったらまぁ死ねばいいやっつーこの気楽さだよね。どの道来る死が早まっただけだって解釈すれば全てが片付くっていうね、あえて悪魔に動かされず死を選ぶっつーのは究極的な自己解放であると同時にそれはカタルシスでもあるんだよね。死によって生のカタルシスを得るってわけ。それはアリストテレス的なタームでのカタルシスでも、人々が俺のストーリーを見たらカタルシスを感じるよね。で、俺自身はフロイト的な意味で死によってカタルシスを感じるっていうね、これって究極的な生の形だと思わない?俺は思うんだよなぁー。


なんかさ、生きていくってごっこ遊びみたいな感じなんだよね。システムに迎合したりさ、システムの中にいることの条件を満たしながら生きているフリをするってまさしくごっこ遊びだと思うんだよね。そういうごっこ遊びの中で一喜一憂しながら生きているのが大半の人間でさ、だったらそんなのやめちゃえーっつーまぁぶっ飛んだチョイスってのがあってもいいと思うよね。死を怖がらずむしろ迎えるってのが何気にね、つまりは死神と一緒に暮らすということが人間に内在された悪魔を遠ざける一番の方法なんだよね。それは神じゃなくて死神なんだよな。皮肉なことに。悪魔が怖がるのが死神ってわけ。人間が自己保存という内在かされた悪魔による欲望によって刺激されながら生きていくしかないのだとしたら、やはりそれはただの仮定というか想定であったとしても、ホッブズ的な自然状態は免れないよね。全ては自己保存の必要性によって動かされるってのが実情ってことになるわけでさ、人間は政治的動物であるっていうようなステイトメントも曲解すればだね、つまりは人間は一人では自己保存が出来ないので、他者や何らかのシステムに依存していかないと生きていけないので、自ずと社会的/政治的になるしかなくなるっていうようなね、全ては自己保存という悪魔的な動機によって動かされているっていうことでさ、この生を超越した生という観点から見た死の概念っつーのはlainの冒頭で自殺した子のコンセプトに近いものがあると思うんだよね。まぁあくまで俺の解釈だけど、俺はあの子の自殺の意図が最初から直感的に理解出来てたんだけど、今は理論的というと大げさだけど、まぁ意味も含めた深い意味での理解が出来るっていうかさ、いや、別に嫌な事があったんで鬱になっているとかっていうことじゃなくてね、たまたま浮かんだことを書いているわけだけども。


ごっこ遊びといえばお金とか法とか人権とかも全部概念的なものじゃない?背後にある意味とかルールによってそれが成立しているわけでさ、それを考えるとそんな人工的なものに本来は野性的である生ってのが抑圧というか制御されているっていうのはまぁさ、それによって人間がストレスを感じるのは当然のことだよね。何しろ本能レベルのこととはかけ離れた疎外を感じながら人々は生きていかなきゃいけないわけで、一番ハッピーな人達ってのはさ、まぁ色々定義はあると思うけど、やっぱあれだよね、動物的な本能を発揮しながら生きていける人達だよね。大金持ちで何でもやりたい放題っつーような人達がハッピーかはともかく何気に一番野性的な生を満喫できるわけだよね。性然り。姉ちゃんたちとやりたい放題。人類はもしかしたらその野性的な生を全ての人間が楽しめるような、ある意味で原点回帰的な野性的な生を満喫する完全にシヴィライズドされた社会ってのを求めているのかもしれないね。だからこそ全てが動物化するわけだ。本能に従ったニーズというのがテクノロジーであれなんであれ半ば即物的にインフラとして整備されている社会というのが一番好ましいっていうね、これは退廃と見えるかもしれないけど、究極的な原点回帰でもあると思うんだよね。野性的というかなんというか、最高にハイなテクノロジーを利用して常にハイになるっつーかさ、人間の本来的な欲望を自然に満たすようなシステムとしての社会っていうのはさ、ある意味でマトリックス的でもあるっつーのはまぁ人間が本能によって動かされることによって、例えば資本主義社会が回るようになるとかさ、人間の本能というエネルギーを利用して回るのが社会っていうオーガニズムなんだとしたら、そこから逃れるにはつまりは自分の本能を捨てるしか無いわけだよね。


そこで出てくるのがまぁさっき書いた死の概念ね。まぁ生を超越した生という概念からの死の概念ね。人々は俺の悲劇を見てカタルシスを感じて、俺は死によって生のカタルシスを得るっていうさ、これこそがシステムに組み込まれない生の形であるし、本当の意味での自由というのはこういうことなのかもしれないね。つまりは肉体を捨てるってことね。既に身体というのが様々な限界やらさ、ホッブズも言っていたように視覚ってのがそもそも限界を規定していたりするわけでさ、だったらその限界を超越するのって死しかないよね。まぁ死っつーか肉体を捨てることだよね。そこは視覚なり感覚を研ぎすませたり訓練するということは超越にはならないよね。それはただ限界点が高まるだけで、基本的にそこには限界が存在するんだよね。その限界を介在させない方法というのがそのフレームワークを捨ててしまうことだよね。


このなんつーか死の覚悟っつーのかな?死を恐れないっつーさ、本能に動かされないってことがまぁ幸せっつーか解放をもたらしてくれるんじゃないかな?とか思ったりしたね。つまりは監獄に進んで入らないってことね。欲望という名の悪魔を死神の調停によって抑制するっていうね、これってなかなかだと思うんだけど、どうかしらね?ってことで俺の夢は草薙素子になることだね。かっこつけてるわけじゃなくてマジでね。俺自身がデータベースに一体化できたら最高だと思うんだよな。人間的な本能というか身体が要求する低レベルの本能ってのが無くなった純粋な意識としてのデータっつーかさ、そのデータが知的刺激っていう「知ること」という高級の欲求を求めていて、その知る事ということそのもの自体がその意識がデータベースに存在することと同意義になってさ、そうなるとあれだよね、例えばずーっと性欲とか食欲を満たしたいとかって思ってるやつにしてみればあれだよね、ずーっと自動的にごちそうが運ばれてくるシステムに自分がいるとかさ、ずーっと色んな姉ちゃんとやれるシステムに自分がいるってことと同じになるんだよね。


俺が生に動かされている理由といえばもう知ること以外ないわけ。かっこつけてるわけじゃなくてこれは中学ぐらいの頃に思いついたっつーか思っていたことで、当時は考古学に没頭していたんだけど、世界の考古学的な発見というのをずーっと知る事が出来ればそれは幸せだろうなって思ったわけね。生活という意味では長生きしたいとは思わないけど、色々な発見を知る事が出来るという意味では、自分の知ることになる媒体である意志というか脳というのはずーっと存在させておきたいわけだよね。これがつまりはまぁ俺の生への欲求なんだよね。だったらもう無駄なものは取り除いて、自分が求める欲求というか刺激だけ求められるようになれば最高じゃん!ってことで、やっぱあれなんだよな、まぁ自分の意志のデータ化っつーかさ、まぁ無理なんだけどまぁそれが出来たら最高に幸せだろうなって思うわけね。まぁデータが意志足りえるか?っつー議論は置いておいてね。そういえば映画のパイでも同じような話があったね。データ自体が情報へのアクセスというか処理を拒むっつーさ、データが意識化しているのか?ってマックスもソルに聞いていたけど、これは凄く面白い話だよね。まぁ攻殻機動隊で散々語り尽くされている話ではあるんだけど。


ところでさ、意志がそれを見て感嘆することだけ出来ればさ、身体を必要としないっつーのは身体があることで発生する欲求の大半ってのが低級なものばかりだからなんだよね。例えばファッションね。まぁ単純かしちゃえばお洒落をするってのってさ、異性にモテようとするっつーまぁ生存欲求っつーのかな?種を蒔くっつー本能的な欲求に動かされたものだよね?で、お洒落をするのには金がかかって、んでお洒落をするために働くっていうさ、これもまぁ自己保存という悪魔によって刺激されたというか動かされている欲求によって人間が労働とエンゲージするっていうことだよね。衣食住なり消費なり自己実現なりっつーのの大体が低級な本能によるものだよね。他者からの認証だとか虚栄心だとかさ、「よく見られたい」というようなことに終始する人生ね。そのためのリソースとしてのお金で、そういった低級な本能と労働が直に結びついていることで社会の繁栄が生まれるっていうね、人間が欲望すれば欲望するほど社会が回るようになるっつーのはまぁアダムスミス的っつーかさ、なんだったっけ?あのあれだよね、人間が社会で自分の欲求に従って動けばその動きが結果的に共通善にコントリビュートするっていうような発想ね。実際はそうじゃないんだけど、でもそれが資本主義の源流というかエンジンの一つになっているのは言うまでもないね。人々が欲望を無くしたら社会は回らなくなるもんね。そこはロックも似たようなことを言っていて、だからこそ職業的技能を磨くってことが共通善にコントリビュートする要素の一つだみたいなことを言ってるんだよね。つまりはまぁ俺の解釈だけど、自分の欲求を満たすために必要な労働というものをもっと効果的に成すための高度な技能というのがより社会を繁栄させることにもなり、それが意味することというのがつまりは個人的欲求と共通善のコンパチビリティなんだよね。同意するかはともかくとしてまぁロジックとしてはそんな感じだろう。


つまりは本能にのみ動かされるような低級な人間が多ければ多いほど社会は繁栄するってことなわけだね。だから貧乏人やアウトサイダーっつーのはただ怠惰なやつか本能が少ないやつってことになるよね。でもそういうのは社会の掟によって自然淘汰されるようになるので、結果的に社会には社会を担えるような低級な本能を持った人間というのが必然的に増えるわけだね。これを強引に民主主義論と結びつけるとつまりは人々というのが常に群衆である所以というのがそもそもの根本的な社会の仕組みにあるってことなんだよね。社会の仕組みそのものが群衆を必要としているし、群衆も社会への依存性が高ければ高いほどサバイヴしていけるっていうね、この構造が群衆を増やすわけだ。恐ろしいシステムだなぁー!こりゃ。マジで。だから世の中には馬鹿が多いわけだね。賢い人はその社会の擬制っぷりっつーか人生の無意味っぷりに落胆して社会にコミットしなくなるか、まぁ子供に同じような苦痛を与えまいと子供なんて作らなくなるわけだよね。つまりは本質的な賢人達というのはこのシステムでは常に自然淘汰にあうっていうことになるよね。で、そうじゃない社会を育んでいくというのが恐らく賢人達の役目なんだと思うんだけど、そこにまぁソクラテス的なアポリアが介在しちゃってさ、賢人や哲人達は統治なんてしたらがらないしやってる暇ないだろってことになるんだけどね。これはまぁいいや。とりあえず置いておけば。


そんな悪魔によって動かされた自己保存という欲望のフラクタルによって構成された社会に正義や道徳を求めてもまぁ無理だろう。欲望と道徳や正義は両立できないからね。道徳や正義や倫理というのを重視するなら、そこに必要なのは人間的な本能の抑圧なんだよね。んじゃまぁみんな死ねばいいのかっていうわけではないんだけど、まぁ社会に正義や倫理や道徳を求めるなら社会の地盤を変えないと話にならんね。こりゃ。で、どーすんの?誰がやんの?この神様みたいな役割を?こりゃー諦めたくもなるわな。俺は諦めたくないんだけどね。そこがまぁ哲学へのパッションなんだと思うし、政治哲学のあり方なんだと思うよね。アリストテレスが言っていたようなことでさ、最高の善を求めるということの探求が政治哲学の役割というか目的になるのなら、政治哲学は一番重要な学問となるわけだよね。


何しろ社会のあり方ってのが残酷過ぎるんだよな。死にたくなかったら働けっつーのがベースにあるわけでさ、みんな恐怖による恐怖によって自己保存への欲求を半ば強制的にエンハンスされているんだよね。人間の本能による自己保存の総体というのがまぁ社会というわけ。みんな死にたくないので頑張るっていうさ、死への恐怖や苦痛というのを無くしてくれるのが労働ってことなわけでさ、仮に労働が辛くても死によりかはマシっつー自明の理で耐えられるようになってるんだよね。こぇー!!怖過ぎるぜ!ニートみたいなのが増える力学というのがまさしくこれで、労働=死の回避という構造が無くなるからニートは働かないわけだよね。実家にいればなんとかやってけるってことで死の回避である労働というのを選ばなくなるんだよね。で、ずーっと自分の低級な欲望を満たすために毎日生活するようになるんだけど、まぁ俺も同じ構造に今、いるんだけど、俺の場合まぁ自称だけどね、まぁ俺は知的刺激を求めるということに生活の基準があるんで、まぁニート的なんだけど高度なニートなんだよね。まぁそういう暇があるという意味でもまぁ皮肉的な意味も含めてまぁ哲学的な生き方っつーのかな?立ち話とかしてる暇がある人間っつー意味での哲学者ね。崇高な意味ではなく時間があるっていう意味での哲学者ね。だからといって俺は自分のことを哲学者だなんて呼ばないし、何より言葉自体が乱用されすぎててもう意味を失っていると思うんだけど、まぁ知識への愛だよね。それがフィロソフィーでしょ。あ、でもね、身体が欲求する欲望の中でも素敵なのが一つだけあってね、それがまぁ愛なのね。愛なんてイリュージョンだ!とかって俺はいつも言っているけど、まぁ俺の普段の生活を見ていても分かるように、これは身体レベルが欲求する素晴らしい欲望だと思うね。性欲というよりかは愛ね。これがあるからまぁ身体性というものに意味を見いだせるのかもしれないし、もっと言ってしまえば人生に意味を与えてくれるのも愛かもね。まぁ愛に巡り会えない人たちにとってはまぁ人生ってただの苦痛なんだけど。プラトニックな愛も身体が無いと成立しないものだから、その意味において身体性というか実存の現前性という意味合いというのは愛によって保全されるかもね。


という意味でのシュトラウスの言う「人生とは楽しみの無い楽しみへの旅である」というようなことも納得出来るね。全てが苦痛からの回避やら苦痛からの逃避としての労働というようなことにオキュパイドされているのなら、生きるという事はつまりは快楽主義的な快楽原則に沿った、悲惨な自然状態を否定するというようなことから、つまりは自由ってのが自然状態への否定という立場からもたらされるんだよね。まぁこれは俺のシュトラウスの理解だけど、それはさっきも書いた俺の自由の定義とほぼ同意義ね。苦痛を伴う痛み止めとしての労働っつーか人生っつーさ、だったら最初から痛みを感じなきゃいいじゃないってことで、究極的な解放というのは死によってもたらされるわけだよね。まぁそれをペシミズムとかニヒリズムと呼ぶかは別として、まぁ俺はそう思うよね。「なんで俺って生まれてきたんだろう?」というような根本的な実存へと問いというのは哲学的な知識が無くても湧くものだけど、その理由というのがつまりは人間がおかれている自然状態を前提とした社会の枠組みにあるわけね。自然状態が仮に人間の本能というか本質性によってもたらされているのであれば、それはもう不可避なわけでさ、人間であるからには腹が減るというようなことと、ホッブズ的な自然状態はほぼ均等なんだよね。だからみんな建前に飾られたごっこ遊びを社会という場でやらなきゃいけない。それでしか人々ってのは生きていけないんだよね。それがまぁさっきも書いた人間が政治的動物であるという所以ね。これはもちろん俺の現代的なパースペクティヴからのアリストテレスのステイトメントの解釈で、まぁ正しく無いっつーかまぁ独我的解釈なんだけどね。


本能というのを悪魔的な側面が多いものだと解釈すると、そもそも人間が存在するからには悪徳が栄えるってことになるよね。一応、まぁ建前として殺し合いはやめましょーやっつーまぁ擬制的な合意が社会契約論なわけでさ、出発点が悪徳をルール的に栄えなくするっていうネガティブな理由だから、結局、そういった社会に立脚した概念である自由というのもつまりは否定的なタームでの自由になるし、生きることというのもつまりは苦痛や飢えからの逃避になるんだよね。でも根本的に人間の本能のコントロールというかシステマティックな合意というのが社会のフレームワークを提供しているわけでさ、まぁここで俺が言うコントロールというのは抑制という意味ではなく力学をシステマティックにコントロールするということで、つまりは人間の欲が社会の繁栄に繋がるような、つまりは悪徳に立脚した社会システムというのがまぁ資本主義ってことになるよね。まぁ資本主義っつーか社会というもの自体がそうなのかもしれない。人間という欲を持ったアトムによって構成されたものなんだから、その全体性もまた悪徳によって動かされているというのは必然だよね。んじゃあまぁ人類ってのは滅びるしか無いみたいね。まぁそんな半分ジョーダン11.5は置いておいて、社会には低級な欲望を処理できるようなスケープゴートというとあれだけど、男におけるAVみたいなのが必要でさ、で、なおかつ人々が生きるってことがつまりは共通善にコントリビュートするような総体的なシステムが必要になるよね。まぁそれを社会って言うと大変なことになるからまずは政府から変えていこうってことになるよね。


政府が共通善保全アーキタイプを提供して、社会が相互的に政府と影響しながらその形を変えていくっていうね、まずは社会の中核を変える必要があるよね。その根本的ダイナミズムを変えないと一切の抵抗ってのが左翼の馬鹿なプロテストみたいに無駄になるんだよね。それを左翼は分かってないからダメなんだよなぁ。ムーア先生然り。しかしながらね、システムが強制的に共通善を保全するというのもある意味で危険でさ、それは重力を無くすようなもんでさ、社会が腐敗しているからこそ目指したい理念とか共通善の概念だとかヴァーチューの概念ってのがあるわけじゃない?それはCarchemishさんが言っていた抑圧あってこそのADDやアスペルガーの才能ってことと一緒で、半ばアファーマティブに自動的に何かが提供されちゃうとそれが当たり前のものになって人間は努力しなくなるんだよね。これは逆説的で人々が共通善やヴァーチューに則った動きというのをシステマティックにするしかなくなってしまう社会というのは哲学がシステム化してその本質を失った哲学的概念による全体主義国家になるんだよね。これはある意味で最悪だな。それこそメガテン2のアルカディア的な世界だね。まぁ間違ってもユートピアじゃないな。それは。だからこそあれだよね、人間そのものの育成が必要なんだよね。常にそれを担える哲人っつーか賢人の存在が不可欠。今のシステムがそういった人間を生み出しづらくなっているのは言うまでもないね。完全に教育システムっつーのはアメリカも日本も奴隷の大量生産システムになってるからね。


力学そのものが社会の全体を規定しているとなると人々が出来ることなんて温暖化対策並に限られているよね。これが悲劇なんだよな。ここに生まれてくるのがペシミズムとかアパシーだよね。だからこそシュトラウス的な歴史主義などに振り回されない当時の観点と知識で理解するプレモダンな古典回帰というのが必要になるんだよね。現代が進歩していて過去は遅れていたなんて相対的な価値観っつーか歴史主義なわけでさ、今ではないプレモダンな視点ってポストモダンに必要な観点なんだよね。そういう意味でシュトラウスデリダ以上にポストモダニストだったってことになるんだけど。


ってことでまぁ今日はこの辺で。

自然権と歴史 (テオレイン叢書)

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