Carchemishさんへの私信。その3。

mimisemi2009-04-15

Carchemishさんからの個人的に待ちに待ったお返事が合ったので早速、いつもの調子で一気に返事をさせてもらったので、今回はそれをアップしますっつーかとりあえず私信シリーズはこれで一段落です。


で、こっからの続きね。


http://d.hatena.ne.jp/mimisemi/20090408

Carchemish 2009/04/15 00:24


……すみません、頭を駆け巡るノイズが許容量を振り切りました。書きたいという「執着」よりも「苦しみ」のほうが大きくなってしまった。面目ないです。経験上これ以上書き進めようとしてもムダなので、書きかけのハンパのまま投稿させて頂きます。申し訳ない。


ところどころ意味が取れないようなところがあるかもしれませんが、ご容赦ください。


頭のなかのギアがシフトしたら、またコメントさせて頂きます。今はもう他者に関わることそのものが酷く疲れる作業になってしまいました。弱々しさここに極まれり。



私の知識っていうのは概ね教養という形で半ば機械的に身に付けたものなので、耳蝉さんのように特定の誰かしらの思想信条にシンパシーを感じる、というようなことはほとんどありません。かろうじてダーウィンの進化論やハイエク(といっても著作を読んだことはほとんど無くて彼らの主義主張のエッセンスに対する共感でしかないのですが)といったところですが、それにしたって機械的に自分に照らし合わせて性に合うらしいことを理解したがために採用しているに過ぎませんから。ラインナップを見ても明らかな通り、片方は科学者でもう片方は経済学者、そもそも哲学からは幾分かの距離があります。私にとっての思想というのはあくまで資材のひとつに過ぎません。大仰な物言いになりますが、世界を確からしい形で理解するための、です。哲学や経済学や自然科学といった資材を使い、そして文字というフォーマットを用いて、私は私なりの解釈を作り上げようとしている。自分の手で自分自身が安心して暮らせる我が家を建てようってわけ。そういうやり方しか出来ないっていうのは、やっぱり何だかんだ言って私も不器用な人間で、不器用なやり方しか採りようがないってことなのではないかと思います。けっして私も常識人ではありませんからねえ(苦笑) 基本的に自分の身内にしか興味が持てないので、自分自身の外に位置する存在に対しては扱いが酷くぞんざいになる。だから私は私自身が属している世界や、社会や、コミュニティや、家族や、そして自分自身に対して、「我が家の中」であると感じられたときにはこれ以上ないほど敬虔に尽くすし、反面「家の外」に位置すると思ったときには一転してゴミのように扱う。しばしば二重人格のように見られることがあり、文面が錯綜したり発言が支離滅裂になったりもするのですが、その辺は概ねそういった私の自分勝手さが表面化したからこそという気がしています。


耳蝉さんは積極的なコミットを提唱し、またそれを実践されておられますが、私はそのようには振舞えず、いくぶん傍観者的な態度を採っています。その理由もおそらくこの辺りにあるように思います。私にとっての世界やら社会やらといったものは、必ずしも私の「家の中」にあるものではない。自分自身の外側にある、何か不可思議なものであるといったような捉え方をしているがために、それほど親身になって考えることができない。「家の外」で動いている大きな機械、システム。実際のところそれは自分自身と密接に関わっている、にもかかわらず、何処か他人事のように空々しい。

 
そこにはアヤフヤだけど明白な断絶があります。

 
私は、前にお伝えした通り「アスペルガー症候群」であるかどうかっていう自信はあまりないのですが、自閉症って言葉にはそれなりの親近感を覚えるんです。閉じている、というか、何か感覚器のひとつが潰れて働いていないかのような感触が常々している。精神的に盲目、という表現が気に入っています。その言い回しが、自分自身をもっとも的確に表している気がするんです。

 
世界のすべてが嘘っぱちで、目の前で蠢いている人々は私の空想の産物でしかなく、目覚めという一瞬の間隙を隔てて、あらゆるすべてがさっと様変わりしてしまうのではないか。未だにそんな馬鹿げた思いに囚われて、身震いするようなことがしばしばある。これは酷く幼児的な体験で、人生のある程度早い段階で乗り越えておくべきラインのように思います。乗り越えておくべき、というより、乗り越えて「いる」ラインと言ったほうが正確かもしれませんが。おそらく脳に器質的な障害があって、ある特定の部分が欠落しているか、それともドーパミンが不足していて不活性なのだか? その手のわりかし物理的な原因によって、今の症状が出ているのではないかと推測しています。なのでまあ、変な分類かもしれませんが、私はADHDよりアスペルガー高機能自閉症)寄りの人間なのでしょう。ADHD特有の多動性だとか過集中だとかいった特徴も持ち合わせてはいますが、やはりそれよりも、「閉じている」といった実感のほうがより大きいですから。

 
ところで、ADHDアスペルガーがどれぐらいの割合で存在するのかは諸説入り乱れていてイマイチ判然としませんけれど、患者が発現させる症状にほぼ同一の傾向性があり、また幻覚や妄想というのが主症状ではなくてあくまで二次障害であるということからも、確かにこれらは脳の機能不全って言うよりも、脳の適応不全って感じはしますね。前回ロマンチックな話をしましたが、実を言うと私もそれなりに信じているんですよ。そうでなきゃそうそう口に上らせやしません。ADHDアスペルガーは、障害ではなく、マイノリティー性であると捉えるべきなのかもしれない。種分化へと向かう方向性のひとつ、人類という種族のバリエーションに過ぎないのかもしれない。そんなふうに思わないではありません。……もっとも、上段で述べた通り器質的なトラブルを抱えている人は多いとは思いますが。あと、もしかするとビン首効果によって偶然多数へと受け継がれた障害であるという可能性も否定できませんが。……まあ、ロマンについて話しているんだから、そうやって腐すのは止したほうが良いんでしょうけども。

 
ただ、明白な差異があるという観点から、マイノリティー性としては人種や肌の色とかいったものよりもよっぽど扱いが難しいのは確か。人種差別や性差別みたいなものも未だに世間では根強く残っていますが、論理実証主義は否定されているわけで、私はこの方面についてはわりと楽観的です。馬鹿げた差別は、今すぐに無くなりはしないにせよ、徐々に薄まっていくはず。もちろん彼ら被差別者は未だに救われてはおらず、格差や偏見といったものに晒されてはいます。でも、少なくともルール設計の段階にそのようなバイアスを組み込むことがナンセンスであるのは確かなのですから、社会の今のままの自律的な改善システムに任せていれば大丈夫だと考えます。

 
反面、ADHDアスペルガーと、多数派の人々との間には能力的な違いがある。こういった場合、バランスする位置取りを導き出すのは酷く難しく、最適解となると尚のこと厄介。何処がもっとも効用を最大化するポイントなのか、確たることは誰にも言えない。彼らが最大限能力を発揮できる環境を作り上げ、各々に与えるのが効率的なのかもしれないし、あるいは全員を薬漬けにして安楽死に持ち込むのが結果的には安上がりになるのかもしれない。そういう極端な話ならまだしも楽で、実際にはおそらく、様々な要素が複雑に絡み合った誰にも導き出せないような答えが何処かにあって、試行錯誤を重ねることによってじりじりとその答えに向かってにじり寄って行くしかない。そういうのを想像するだにうんざりしますが、ていうかここでうんざりしてしまう時点で私の知的誠実性の程度も知れようってものですが……。

 
まあ、それは置いておくとして。進化論やハイエキズムが私に馴染む理由ですけど、ようするに自生的秩序という奴に私は強く心惹かれるんです。それは社会的な構造体のすべてを理路整然と説明しきることができない、かなりファジーな観念ですが、そのあやふやさという点が逆に現実に則っているような気がするからです。私にとってはすべてを知る必要は無くて……なにせ私にとって真に重要なのは「我が家の中」にあるものですしね……ただ自分自身の「外側の秩序」を許せればいいわけで、あいまいな理解でも十分なのです。おおまかであってもいい。ただそれが理解できれば、私は「外側の秩序」を支配下に置き、最大限の慈しみを与えて満足することができるんです。むろん錯覚です。だけどそれでも構わない。私にとって重要なのは、世界が他人であるか、それとも友人であるかということだからです。

 
ようするに、社会を有機体のようなものと捉えているというのは私もそうで、ただその有機体と自分自身を対比させるのか、それとも自分自身がその有機体の一構成物であると自覚するのか。それが私と耳蝉さんとの違いなのではないでしょうか。それはもしかすると、アスペルガーADHDとの違いでもあるのやもしれません。単なる個人差かもしれませんが。

 
そういうわけで、私にとってシンパシーという言葉はかなり縁遠いものです。物事は「自分自身」と「それ以外」に明白に分かたれているからです。 病的なまでにはっきりとした境界線

 
例外があるとしたらアルベール・カミュでしょうか。彼の文体や思想や生き様は たぶん彼を自分自身に取り込めない理由は、彼が過去に生きた人であるからであり、また異国の人であるからであり、偉大であるからであり、自分自身の理解を超えたスケールを持つ人間であるからでもあるでしょう。


私にとってもっともしっくりくる純粋な「文章」というのはもっと論理立てられたさながら数式のような存在であるというのがあります。というかぶっちゃけてしまえば、私も論理立てて考えれば「一番ヴィヴィッドなものは小説や物語ではなく思想そのもの」であると思っているってことなんでしょう。ただ感性の側面でその事実を認められない。私が自分の「文章を書く」って行為を「踊る」だとか「描く」だとか表現する理由がここにあります。私にとって重要なものは思想の妥当性ではなくて美的側面なのではないかと。 私は「文章」というフォーマットを用いているくせに、「書く」のではなくて「踊ったり」「描いたり」しようとしてしまう。 小説を読んでいてつくづく思うのは、ぶっちゃけた話、私にとってはストーリーなんてどうだって構わないんだってことです。ただそこに生きた人間が生きた言葉や振る舞いによってエレガントに踊っていればそれでいい。私の気質が哲学ではなく芸術の方向を向いている

 
あるいは私は「仮面」を作りあげるその作業が好きなのかもしれない。

 
確かに私の物言いはしばしば残酷です。それはおそらく、私は私自身を打ち据えているのだという感覚を持っているからだと思います。「ヒルの脳髄研究」と「私の描く私のための文章」というのには近しいものがありますし、私自身の生活リズムも実際ぐちゃぐちゃ。ようするに私はアスペルガー症候群の欠点を叩いているかのように見せかけて、その実単なる自虐をやっているのだとも言えるわけです。自分自身を相手取っているものだから、どれだけ表面上派手に打っているように見えても、その実しっかりと抑制が効いている。なにしろ私は自殺とは最も程遠い人種なもので。

 
いやまあ、テロリストに対する共感とかを鑑みるに、私は自分の「外側」で起きている残酷極まる出来事に対しては極めて鈍感ではありますけどね。統計上の数字には心を痛めますけど

 
まあそれとは別に、残酷さというか他人事みたいに人間のことを扱うようなところは確かにあります。切り捨てられる人々は出てきてしまうという諦めみたいなものでしょうか。

 
うーん、話せば話すほど私ってリベラルからは遠いんだなあ(苦笑) ちょっとショックかも。


 
まあ、巡礼にも色々なタイプがあると思うのですよ。私の書くという行為にしたって、一種の ただ、私はそれに対して心から真剣に打ち込めているのかというと、私はそこまで自信がないんですね。ノイズの問題があり、ズレの問題もあり。

 
しかし、若者の保守主義者ってものほど見てくれの悪いものはないですねえ。

 
確かに表裏一体かもしれません。もっとも、反転した最良のカードっていうのは一転して最悪を示すっていうルールが古今東西有り勝ちのような気がしますけども。アスペルガーADHD)は才能! …と叫ぶ連中の何処が一番アホなのかと言えば、ぶっちゃけた話アホなんだってことですよね。なんかムチャクチャ言ってますけど(笑) 中身がからっぽなのにその外枠だけを持ってして威張り散らすっていうのは、権威主義的だし、それが権威にすらなっていないという時点で滑稽でしかない。一番マズいのはその構図を理解せずにただ表面的な居心地のよさだけに釣られて乗っかることで、 。 何の発展性もないし、むしろ他の同病の徒に迷惑を掛けるし、そして何より見ていて不愉快なので、

 
てゆかですね、ADHDやらアスペルガーやらが持ち合わせているのは「才能」じゃなくて「執着の強さ」っていうある種の身体的な特徴なわけで、それをいかに生かすかっていうのは各々に完全に任されていると思うんですよね。耳蝉さんの仰るとおり、 それを積極的に生かそうと努力するのは素晴らしいことだと思いますけど、手元に大事そうに抱え込んで得意がってるってのは ナショナリズムと一緒で愚か者の麻薬。

 
やまあ、彼ら彼女らがそういった麻薬に縋らずにはいられないという現状も汲むべきだという理屈は分かるんですよ。でも腹立つものは腹が立つので

 
私は抗鬱薬を呑んだ際(一番酷かったのはリスパダールだったかな?)に「これはヤバい」って感じてしまうんですよね。なんだろう、日頃必死でブレーキ掛けてるところに向かって無理やり突っ込まされるような感じ。抗鬱薬って書いてあるのに鬱をより悪化させている気がする。アスペルガーADHDの違いかな?

 
ようするになんか、一種の知的誠実性においては私と耳蝉さんって方針が被ってるんでしょうけど、そして その症状の出方が真逆じゃないか? と思いました。

 
というわけでゆっくりと読み進めていって、何か気になることがあったら、というか、もっと耳蝉さんについての理解が深まったら、またコメントさせて頂こうかと思います。


あれですかね、やはりなんといいますか、やり取りそのものが苦痛になるわけですよね。前に書いた以前文通していた女の子も理由は違えどそういうことだったんだと思います。つまり僕が書きすぎるのでそれに付き合うのに疲れるというか、あと僕の主張が強過ぎるというか、我が強過ぎるので、相手もある程度、僕の脳内に合わせる必要があるというか、僕とやりとりするということが、僕が強制的に僕の脳内に人々を招き入れてずーっと話し合うみたいな感じになってしまうので、なんというかまぁ分からないんですけど、理由はどうあれ僕とやり取りするのは疲れるだろうなって凄く思います。変人ロバートですらこないだは限界を超えていたみたいで、僕はロバートを越しているんだなって凄く思いましたね。つまりは僕の方がロバートより喋ったりずーっと話し続けるということです。これは重症ですね。まぁそれはともかくまぁ僕はこうやって勝手に返事をしますが、とりあえずやりとりは今回で一段落というか一区切りにしましょう。Carchemishさんの脳内ギアがシフトしたらまぁそのときは任意でツッコミなり返信をしてもらえたら幸いかもしれませんが、別に強制ではないですし、僕はまぁ返信は無いだろうなという前提でいますんで、返信が無い事に関しては全然オッケーですし慣れっこなんて全然大丈夫です。


Carchemishさんのタイプというとアレなんですが、学問なり知識全般に向かう態度というのは人それぞれですし、僕は僕なりにCarchemishさんの我が家を建てる感じというのは分からなくもないです。それはなんというか器用/不器用の問題ではなくて、それこそタイプ別といいますか、人間の種類の違いなんだと思います。ちなみに僕も家の外に位置するものに対するゴミみたいな扱いは、Carchemishさんのような、農耕民族が自分たちの田畑やコミュニティを守るという感覚とはだいぶ違うのですが、自分なりの処世術として身につけたというか、まぁ編み出した感じです、というのは、単純に言ってしまえばくだらない人間達やとるに足らない人々と付き合わないということで、自分のリソースを守るということです。まぁつまりは労力とか時間とかですね。機会費用というとあれですが、人間というのは誰でもリソースは限られているわけで、その分を意味の無いものやくだらないものに費やすのは本当に勿体ないことなわけですね。なので僕は自分のリソース確保のために徹底的な取捨選択をするわけです。


恐らく僕もCarchemishさんも心暖かいというか人徳がある人間なんだと思いますが、その一方で凄まじく残酷で冷徹な面があるということだと思うんですが、これがADDやアスペルガー的な症状に依拠したものなのかはともかくとして、その感覚は凄く分かると思います。僕もそういう意味で凄く自分勝手です。例えるならまさしくCarchemishさんが人間関係や物事や学問に対しても農耕的で、全てにおいて農耕的な反応を示すわけですが、僕は狩猟的で、ハイパーに色々なものを集めてきて自分のものにするのですが、必要無いものには全くの愛着を示さないし、捨てる事に躊躇しないということなんじゃないかと思います。そういう意味で僕は自分に関係ないというか興味が湧かないものに関しては全く集中できませんし、勉強しようと思っても出来ません。思想というのが資材であるという感覚はありつつも、やはりその根底には知的興奮と言いますか、「そうそうそれなんだよ!」と言ったようなシンパシーがあったりしますし、こういった共感や共鳴のようなものに喜びを覚えるという意味でまぁ哲学者タイプというとあれですけど、まぁ明らかに知識人タイプではないわけですね。学者タイプじゃないというかなんというか。それに比べてCarchemishさんは学者的で知識人的かと思います。お互いお互いが持っていないものを持っている気がしますが、当然のことながらどちらが良いか悪いかって話ではないです。


自閉症的な症状が閉じている感覚をもたらすのは分かるのですが、一方で恐らくまぁロバートのような恐らく相当の自閉症ながらも外界に向けて警告を発するというタイプもいるので、千差万別という感じですが、恐らくロバートには「アメリカ」というもの自体が自分自身の内にあるものなんでそれを必死に守ろうとするのかもしれませんね。同じ自閉症なわけですが、自閉の「自」の部分の区切りが違うというかなんというか。ところで恐らく世界が全て嘘っぱちで・・・というようなデカルト的懐疑心はロバートも僕も持っていると思うわけで、まぁ三者共に共通している厭世観なんじゃないでしょうかね?僕もその感覚は昔からありました。ただ僕の意見ではそれは乗り越えるものではなく、僕らのような人間の諸感覚の一つなのであって、それを前提にやっていくしかないんじゃないか?という気がします。つまりは普通の人が普通に考えるようなことが僕らにとっては普通ではないという話なだけで、その当たり前の前提を普通という基準に照らし合わせたり、自分が違うから変えなきゃいけないといったような動機で変える必要はないんじゃないかと思うわけですね。もちろん無理矢理薬で治したりするものでもないと思います。


そういう意味で僕はそれを脳の適応不全とは考えずに脳の特性なんだと思っています。少数ながらもそういった変わった脳の構造をしている人間達がこの世にはいるってことですね。僕はこの適応不全とか脳機能障害といった概念が大嫌いなんですというのは、基本的にこれらはマジョリティの「普通」の人達を軸に考えた基準だからです。僕らのような変わった脳機能を持っている人達もマイノリティの中にいるわけなのに、それを「異常だ」と診断するのがつまりなマジョリティの排他的な観念に立脚した迫害なんだと思うわけです。僕らが当然のことのように僕らの特有の症状を治さなきゃ!と思うのもマジョリティのイデオロギーによるものですね。当たり前のように僕らは僕らの事を異常者だと僕ら自身で決めつけていますが、こういった概念は全て「普通であること」というイデオロギーによって洗脳された所産なわけです。


これは立派なマイノリティに対する人権侵害という迫害ですので、これらに抗うことは、個々がそれにコミットするかはともかくとして、一市民が自分の権利を主張するのと同じ事のように、僕らのような人間達も自分たちの当たり前の権利を主張するべきだと思うわけですね。つまりは変わっているかもしれないけど、建前だけでもいいから普通の人として扱ってくれって話ですね。これは社会全体のマイノリティに対するアクセプタンスという意味で凄く重要な問題だと思っています。性的マイノリティの人達の権利主張というか差別廃止運動と似たようなものですね。ゲイであるということが「異常」なことだと言われるのは、マジョリティのヘテロな人達によるマジョリティによる意見ですよね。だったらゲイの人はヘテロにならないといけないのか?というとそんなことはないわけで、ゲイならゲイでゲイとして生きていく権利があるわけですし、社会もその人がオカマっぽかろうがなんだろうが偏見無しに受け入れないといけないわけです。オカマもADDもアスペルガーも変わっているという意味でなかなか難しい話ではありますが、これは必要なことでしょう。


自律的な改善システムに関してはある程度同意しますが、その改善システムというのも歴史を見れば人々が作り上げてきたダイナミクスなわけで、例えば黒人の人権が一応保証されたのも市民権運動のおかげです。黒人達が何もせずに社会の改善システムに任せた結果、市民権が得られたわけではなく、彼らの過酷な闘争があっての結果なわけですし、それはアメリカの市民革命やフランス革命なんかも同じですね。誰かが動いたのでもたらされた人権なり変化なり改善なわけです。それを僕らが傍観者でいるというわけにはいかないと思うというのは結局、僕らが動かなければいけない主体だからです。つまりは僕らは改善システムの一端を担う歯車なわけで、僕らが動かないと改善システムもワークしないわけですね。まぁこれは僕らに限った話ではなく、市民全体が社会というものを考えた時に、一人一人が善い行いをしなければ全体が善くならないように、社会に組み込まれているアトムであるからには常に運動体である必要があるわけで、僕らという存在そのものは本来的に傍観者足り得ないわけです。まぁ別になんらかの運動にコミットせよ!とアジテートするつもりはありませんが、自律的な改善システムがまるで神の手によって成されるといった考えには大反対なので、かなりそれには同意しかねます。


で、ちなみに僕のADDとかADHDとかアスペルガーの人達に関する能力差の話ですが、彼らの能力を発揮出来る環境作りにコストがかかっても、仮に例えば一万人の中の1がギフテッド教育のようなものによって類まれなる才能や能力を発揮出来るのだとすれば、それは価値があるものだと思っています。というのはマイノリティにアファーマティヴな政策をしろ!というわけではなく、能力主義や機能主義や効率主義というある意味で残酷な観点に立っても、ギフテッド教育や特殊な教育によって開花した天才達の能力のことを考えれば社会的に見ても有益ということなわけです。それこそノーベル賞レベルの人間がそういったシステムから生まれてくる可能性があれば、「普通」の人達の教育か逆にそれ以上に力をいれるべきでしょう。アメリカは恐らくこういったことに自覚的なのでギフテッド教育みたいなのがあるんだと思います。これはマイノリティ政策というよりかはアメリカお得意の合理主義ですね。つまりは合理主義的観点からも特殊なマイノリティ達に与える特殊な教育というのは不可欠なわけです。まぁかといってもアメリカの場合、ギフテッド教育には凄まじい金がかかるので、そういった教育システムの恩恵を授かれる家庭というのは富裕層だけなんですけどね。でもまぁあるだけまだマシって感じがします。


ただなんといいますか、「社会という有機体を自分自身と対比させるのか、それとも自分自身がその有機体の一構成物であると自覚するのか」という差自体がアスペルガーADHDの違いであるかもしれない・・・というのは非常に示唆的ですね。つまりは僕らのこのやり取りすらも徴候的というわけですね。それはやり取りが異様に長文であるということだけではなく、内容すらもがアスペルガーやADDやADHDの特性を表しているというようなことですね。なのでまぁ僕らの違いというのは必然ですし、物事の考え方や捉え方に一定の共通感覚がありながらも、根本的な差異が存在するのもつまりは主体性というよりかは徴候的なものに依存しているということですね。まぁ全てを病理に還元する必要はないんですが、なんというかアルチュセール的だなって思いました。


ところでCarchemishさんが文章そのものには論理的な統合性というようなものを認めつつも、感性的なものがそれを認めず、美的なものに走ってしまったり自分も取り込まれたり自分もそれを行ってしまうというのはまぁある意味で分裂病的というか、僕にもそういう側面があるので分かる気がします。それは僕がCarchemishさんと同じような感覚を持っているというわけではなく、僕にも自分の傾向性に分裂病的な何かを感じる事が多いからです。しかしながらその分裂病的な徴候そのものが主体性を規定していてなおかつそれが分裂病的な傾向性を持ちながらもある種、統合的な役割を果たしているというのは主体そのものが閉じられた缶のようなもので、それはそれ自体で自律しながら独自の変わったダイナミズムを保っているということは、つまりは僕が普段から言っている解放することで保たれるバランスということと同じなんだと思います。


Carchemishさんの言語系で言えば僕の「解放」は「自虐」にあたるでしょう。僕も自分を半ば自虐的に解放しつつ「変わっててもいいじゃん!」って自分を出しまくることである種保たれるバランスというものがあり、といいますか、これ自体がホメオスタシスの安定性を規定するものであり、なおかつそれ自身が暴走することなく抑制の効果も発揮しているということで、つまりはこういったダイナミズムは僕らのような人間にとっての自律という意味で不可欠な要素なんだと思っています。ビューティフル・マインドという映画で主人公のジョン・ナッシュは薬漬けにされることで彼の幻聴や幻覚が無くなりますが、それと同時に独自の能力を失います。しかしながら最終的に彼は彼の徴候そのものを彼自身の特性として受け入れつつ、その一方で彼の天才的な数学者としての能力を発揮しますよね。この彼自身が薬を飲まないということだったり、彼自身が彼自身の諸症状と共に付き合っていくということが、つまりは彼自身の自律であると同時に、彼自身の能力を最大限に発揮出来るということに繋がっているわけで、これを自虐とか解放というタームで説明するかはともかくとして、その症状を受け入れるということがいかに重要なことか?というのが示唆されていると思います。彼自身はずーっと幻覚や幻聴に悩まされ続けていますが、それもような自分の中の要素の一つとして捉えているということですね。薬で強引にその症状を消そうとすると彼の素晴らしい能力も無くなってしまうわけで、まぁ全ての患者が彼のような類まれなる人物ではないので一概に言えないことなわけですが、自分自身を抑圧せずそのものとして解放させながら生きるということで偉大な業績を残した人物の一人としてジョン・ナッシュがいると思うので、つまりは僕が言いたい事はこういうことで、ジョン・ナッシュがどこかにいるのなら、患者/症状の安楽死や患者の排除というのは社会全体で見ても大きな損失であると言いきれるわけです。


僕が思うにジョン・ナッシュにとっての数学も僕にとっての哲学もCarchemishさんにとっての表現としての文章も表象の表出としての芸術という意味では共通しているかと思いますよ。まぁジョン・ナッシュを出してくると恐れ多いことになりますが、徴候的主体にとっての生きるという活動そのもの自体が、自律を伴う表象と表出というダイナミズムによって保たれているわけで、それらの活動によって出てきた何かはほぼ例外なく全てが芸術なんだと思います。まぁそれを芸術と見なすかどうかというのはまぁ第三者の判断なのですが、芸術の本質というのはこういったダイナミズムにあると思います。


ところで切り捨てられる人々が出てくるということに対する諦めですが、それは僕にもありますよ(笑)アリストテレスが言うような、放っておけば野獣かそれ以下の行いぐらいしか出来ない劣った人間達というのは奴隷である他ないと思いますし、そういう人達が底辺の仕事をするのは必然だと思っているわけで、これは奴隷制の容認というよりかは、人間や社会の本質が奴隷制そのものを認めてしまっているということですね。ここでどれだけ道徳やイデオロギーを出してきても、やはり自然の摂理を変える事は出来ませんからね。人間がどう足掻いても環境保護とかを出来ないのと同じ事です。そういう意味でまぁ僕は奴隷制は社会にとって不可欠だと思っているんですよね。むしろ奴隷制があることで救われるというか仕事が出来る人達というのがいるわけで、まぁこういった考え方はリベラルからはほど遠いでしょうけど、僕は全然そんなことどうでもいいと思っています(笑)全ての人間は平等であるなんていう概念は傲慢もいいところです。これっていうのがまぁ擬制としての民主主義を走らせるためのドグマとしてのイデオロギーとしてなら上出来だと思いますが、本当に信じている人達は心底馬鹿だと思います。これじゃあ一生政治的なものに関しての適切な考察が出来ませんね。なのでまぁ僕も本質的にはリベラルではないでしょう。現状の定義でのリベラルであるということは、つまりは本質を見損なうということと同意義なので、僕はリベラル足り得ません。まぁ僕もそういう意味でどちらかと言えば保守主義なんだと思いますよ。まぁラディカルな保守ってことで、まぁ極右なんだと思いますが、まぁ極右と極左の差があんまり無いというのはいつも書いていることなので、ここでは繰り返さないことにします。


で、ナショナリズムADHDアスペルガーを何かの素晴らしいものとして、ただの呼び名というか形骸化されたものとして素晴らしさを主張するというのは古今東西、どこにでもいるアホなので、こればかりはしょうがないと思います。ただ僕は最初からあんまり人々のことを信用してませんし、世の中の8割ぐらいがみんな馬鹿って真剣に思っている人間ですので、僕の意見というのも一部の理解できる人間達に向けて発しているというとアレですが、8割の馬鹿を前提には書いていないんです。そこはさっきのCarchemishさんの切り捨てと同じ構造で、僕はそういったとるに足らない人達のことを最初から切り捨てて色々考えています。それはADHDであれアスペルガーであれ馬鹿は馬鹿なので、パンピーの馬鹿と同じ扱いです。彼らは特別でもなんでもなくただのアホなので、僕が言う素晴らしい才能としてのADHDアスペルガーといったコロラリーに入っていません。Carchemishさんのおっしゃりたいことは本当に分かりますし、100パーセント同意できますが、僕が主張している事の前提に、そういった馬鹿を視野に入れていないということがあるという理解だけしていただきたいと思います。アメリカに来ても大半が馬鹿なんでまぁこの8割馬鹿の法則は普遍的なんでしょう。何も日本に限った事じゃないわけです。ちょっと前までは日本人の大半が馬鹿だと言う言い方をよくしていましたが、これは世界共通のことですね。この8割が人様に迷惑をかけたり社会を悪くしたりするわけです。で、彼らの口癖は「そんな俺等が社会を支えているんだ!」です。僕には負け犬の遠吠えにしか聞こえません。アホらしくて話にもならないっていうかなんというか。


あと最後に抗鬱剤の話ですが、確かに人によって利き方が違うというか、結構有名なアメリカ人で分裂病だった人だったと思うんですけどっていうか鬱とか色々あった人なんですけど、70年代ぐらいに開発されたなんとかっていう抗鬱剤のおかげで、彼の能力に拍車がかかって凄い事になったという話がありました。つまりは抗鬱剤とクリエイティビティなり能率というのがガンガンに上がったりする人達もいるってことですね。中にはCarchemishさんのように欝を悪化させるんじゃないか?と思うような人もいるので、それは千差万別なんでしょう。人の感じ方とか生き方とか体質とか色々なものが組み合わさって薬が作用しているので、一概にまぁ普遍的に効果があるとは言えないんでしょうね。飲まないほうが良い人も多くいるわけですが、僕は薬無しではやっていけないジャンキーなので、一生、薬のお世話になるかと思います。僕の場合、まぁADD的な加速をより早めてくれるのが薬であると同時にまぁ精神的なバランスなんかを保ってくれているのも薬って気がするんですね。まぁ完全に依存しているってことなわけですが、所謂、薬を飲む事で何かの症状が抑えられる事で自分の特性が無くなるというわけではなくて、自分の特性を活かすのに薬は不可欠ってことなんですね。薬が無いと単純に鬱とか被害妄想とか不眠とかがより酷くなるのが目に見えているので、まぁある意味でちゃんとしていることに必要なのが薬って感じですね。まぁ完全に廃人ですね。ある意味では。母親がありえないぐらい忙しい日々の合間を縫って心療内科に行って月一でこんな息子のために日本から薬を定期的に送ってくれているわけです。僕が僕であるということは様々なものに支えられている所産なわけで、僕だけではそれこそ病院に入院するぐらいしか生きていく道がないんですね。こうやって僕が暴走を続けられるのも家族や友達のおかげってわけです。もし僕が今の両親の家に生まれてこなかったら?ということを考えただけで恐ろしくなります。両親がいなければ僕の存在はありえませんからね。それは出生という意味ではなく、今の僕の実存という意味です。


また長くなりましたが、とにかく最初に書いた通り、とりあえずまぁ今日で一段落って感じですね。長々と付き合ってくださってありがとうございました!Carchemishさんから色々と得られるものがあったので、本当に嬉しく思います。所謂「普通」の人達から刺されそうっていうか批判を受けそうな意見が多いのはお互い様ですね(笑)


・・・・ってのが今日のエントリーでした。凄い本音同士のやりとりで本当に楽しかったなぁ。Carchemishさんの脳内に干渉をしすぎてしまったのはちょっとアレだったけども。


PS


他人のブログっつーか文章みたいなのをネットで読んだりすることは滅多に無いんだけど、物凄いお気に入りがあるんで貼っておきます。特に天才についての考察が本当に素晴らしい。


http://www1.ttcn.ne.jp/~NIGIHAYAMI/zakki.htm

Carl Schmitt And Leo Strauss: The Hidden Dialogue

Carl Schmitt And Leo Strauss: The Hidden Dialogue